古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

福田熊野神社

三匹獅子舞(さんびきししまい)は、関東地方を中心とした東日本に広く分布する一人立ちの三人一組からなる獅子舞であり、一人立三匹獅子舞、三頭獅子舞などと言うこともある。篠笛とささらが伴奏につき、獅子は腹にくくりつけた太鼓を打ちながら舞う。中には、天狗・河童・猿・太夫・神主・仲立といった道化役がいるものもある。
 地域の神社の祭礼として、五穀豊穣、防災、雨乞いなどの祈願や感謝のために行われるものが多い。地元の人たちは「獅子」、「獅子舞」、「ささら獅子舞」、あるいは単に「ささら」などと呼んでいたりする。正月にみる獅子舞や神楽での一般的な獅子舞、いわゆる古代に外来からの影響を祖とする伎楽系(神楽系)の獅子舞とは系統を異にする中世・近世に発達した風流系の獅子舞である。
 市街部の多くの氏子に支えられた神社の祭礼とは違い、「村祭り」的な小規模な祭礼に行われるものがほとんどで、地元氏子以外には認知度も低く、後継者難は深刻である。古来、伝承者を農家の長男に限定しているところが多く、これは本来は、その土地を離れる心配のない者を選び、伝承を安定させる目的があったものとされている。しかし現代においてもこの条件を頑なに守り、舞が絶えてしまったところも多い。反対にそのような条件にこだわらず、地元の小中学校の児童生徒にまで教えているところもある。(*Wikipedia参照)
            
                    ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田1734
                    ・ご祭神 速玉男命 伊弉冉命 事解男命
                    ・社 挌 旧指定村社
                    ・例祭等 例祭 415日 天王様 715日 秋祭り 717
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0782891,139.3483419,18z?hl=ja&entry=ttu
 福田熊野神社は埼玉県道173号ときがわ熊谷線を東松山方向に進み、福田交差点にて一旦県道に沿って進む道路を南下し、最初のT字路を右折、そのまま道なりに進路をとると正面左側に福田熊野神社の鳥居が見えてくる。
 駐車場は鳥居の横に駐車できるスペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
            
                                                   福田熊野神社正面

                              鳥居を過ぎてから石段を登る先に拝殿が見えてくる。(写真左・右)
            
                              階段を上り終えると左側に案内板がある
 熊野神社  滑川町大字福田(下福田)
 祭神 速玉男命 伊邪那岐命 事解男命
 由緒
 当社は紀伊国牟婁郡に鎮座する熊野速玉神社の分社として祀られたと伝えられるが創建の時代 は明らかでない。新編武蔵風土記稿によれば当熊野社は天台宗普光寺持と記載され、同寺は資料から見てその開山は鎌倉時代に遡り、室町後期までは下福田地域で寺耺を司る寺と推察されることや、境内に樹齢五百年を越えると見られる杉の大樹が繁茂していたことから、当社の創建は室町以前と推察される。明治四年三月村社となり、昭和八年指定村社に昇格した。
 祭事
 例祭 四月十五日  夏祭 七月十五日
 秋祭 十月十七日  大祓 十二月三十日
 獅子舞奉納
 毎年七月十五日と十月十七日に氏子により熊野神社前の庭でささら獅子舞が行われる
 平成二十三年十二月吉日   滑川町観光協会 滑川町教育委員会
                                                            案内板より引用

            
                                               拝 殿
 熊野神社  滑川町福田一七三四
 当社が鎮座する福田は、滑川支流の中堀川の開析谷の低地と丘陵部に位置し、隣地に接する大沼のほか、大小多くの沼地が点在する。祭神は、伊弉冉命・事解男命・速玉男命の三柱で、熊野三所権現像が内陣に奉安されている。この像は、付近の分山から切り出された石材によって作られており、宮本倭蔵と称する石工の銘がある。倭蔵は、越後国から寛政期(一七八九-一八〇一)ごろに当村に移住して来た人だといわれている。
 当社は、紀伊国に鎮座する熊野三社を勧請して奉祀したというが、その年代は不詳である。したがって、推定するしかないのであるが、『風土記稿』によれば、当社はかつて地内にあった天台宗普光寺が別当寺であると記載されており、また、同寺の開山賢意の寂年が貞享元年(一六八四)となっていることから、恐らくは、このころに当社も地域の鎮守として勧請されたのであろう。なお、古老の話では、その創建は室町期以前にさかのぼるとしており、当社本殿近くの樹齢五百年の杉がそれを物語っているという。
 明治初年の神仏分離により普光寺の管理下を離れた当社は、明治四年に村社となった。大正二年三月には、地内の伊勢・八雲・稲荷の三社を合祀した。
                                                       「埼玉の神社」より引用
                
                                   福田熊野神社参道から見る下福田地区

 「一人立三匹獅子舞」のような伝統文化はその特別な技術や知識を持つ人々や組織が存在し、表現・伝承していかなければ受け継がれていかない。農山等では、近年の過疎化と高齢化の進行により、貴重な「伝統文化」の担い手消滅の危機にあり、担い手づくりは重要な課題である。担い手不足により一度中止した祭りや後継者の居なくなった技術は、復活が非常に難しくなるという。
 そこで、これまではある世代・組織だけが担っていた技術、地域内に住む人だけが参加していた祭りや行事等、地域社会の合意の上で、参加者のすそ野を広げたり、しきたりを拡大解釈することで、地域活性化の資源に生まれ変わる可能性があり、まず地域社会により価値評価された様々な資源を、これまで担ってきたのは誰なのかを理解し、どのような経緯で変化・発展し、あるいは弱小化しつつあるのか等、現状を見据えた上で、地域の課題に対し地域社会全体で共通認識を持つことが重要となると浅学菲才な若輩者の言とは感じつつも、愚考した次第である。


 

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堀の内羽尾神社

 羽尾神社の祭神の一柱である藤原恒儀は、「藤原」姓を称しているが特定不明は人物である。案内板等ではこの人物は青鳥判官と称し、隣地東松山市の青鳥にある青鳥城蹟の城主で、天長六年(829年)九月二十日に卒した人と伝えられている。新編武蔵風土記稿にはこの藤原恒儀はこの地に在住していた在地豪族であり、卒して後に産土神とした、とも書かれている。
 この藤原恒儀という人物は別名「恒儀様(ゴウギサマ)」と呼ばれ、昔から親しまれ、非常な力持ちで角力、つまり相撲が強かったと伝承もあり、土師氏の始祖野見宿禰を暗に連想させる。

        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町羽尾4806
             ・御祭神 日本武尊 藤原恒儀
             ・社 挌 旧指定村社
             ・例祭等 春祭り 4月吉日 例大祭 10月吉日 秋祭り 10月吉日            
 羽尾神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、滑川消防分署交差点前の信号を右折するとすぐ右側に鎮座している。右折する交差点は大型ショッピングモールが左側にある交差点なので、経路を説明する際には、まず迷うことのない解りやすい社と言える。
 社に隣接してすぐ北側には小さいながらも公園の駐車スペースもあり、身障者用の駐車スペースも設置されている駐車場もあり、そこに停めてから参拝を開始する。
                   
                            参道右側にある社号標
            
                                    参道正面の石鳥居
            
                      鳥居の右側に設置されている案内板          
 羽尾神社由緒
 一 御祭神 倭建命 藤原恒儀
 一 由緒
 当神社は、往古より「恒儀様」と尊称され、町崇敬の産土神社である。 
 また、伝来の古書に「倭建命、天長六(西暦829年)年鎮座」と明記されている。

 また、別の祭神「藤原恒儀」は、青鳥判官と称し、隣地東松山市に在る青鳥城址の城主で、天長六年九月二十日の卒した人と伝えられる。
 後年に至り当社に合祀されたと云う。 
 そして、当社は、藤原恒儀の嫡子恒政と家臣藤原竹連によって創建されたと伝承されている。

 明治四年村社となり、大正五年四月指定村社に昇格した。
                                                            案内板より引用
羽尾村 恒儀
村内の産神なり、土人の話に當社は、青鳥判官藤原恒儀の靈を祀る所なり、恒儀は天長六年九月廿日卒せし人なり、今隣村石橋村の内、字内青鳥と唱ふる地に、恒儀の住せし城蹟といふものあり、享保年中當の神官を附んとて、京都吉田家へ請しに、恒儀は力ある人にて、相撲のことにつき、清原熊鷹と云るものを撲殺せしにより、勅勘の身となりし由、王政玉と云書にも見えたれば、位階は進めがたし、是まで號をつねきと唱へ来れど、この後はこふきと稱すべしといひしよし改號せりと、按に王政玉と云書名うたがはし、又恒儀のことも他の書に所見なければ、つまびらかならず、姑く傳るままを記せり、
                                                              『新編武蔵風土記稿』より引用

             
                                                             羽尾神社 参道
 羽尾神社は比企丘陵の尾根の微高地先端に建てられており、一の鳥居から決して高くはない2つの石段を登ると社殿が見えてくる。この羽尾神社は今でこそ社として鎮座しているが中世には羽尾館、つまり城的機能を持つ館があったのではないかと言われている。、
 現地を訪れると確かに神社背後にわずかに土塁や空堀らしい跡が確認でき、台地先端を掘り切っているように見える。ただはっきりとした明確な遺構とは言えないことも確かで、神社の建立・改築の際に相当手が入っている可能性もある。
             
                                    拝  殿
 
        拝殿の額には「鎮護宮」と書かれている。                  本 殿
 ところで羽尾の「羽」は羽生の地名の由来とと同じく「埴輪」の「埴」、つまり、土師族出身の移住民がこの羽尾地方に住んできたことをこの地名は意味するのではないだろうか。土師氏は土器を製作する集団を土師部といい、ハゼ、ハニシとも称していた。この滑川町を含む比企地方の地名「比企」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀 ...と関係するという説が有力で、この日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通している。暦の精通は、当初は豊漁に通じ、農耕の発展で豊作に通じて、祭事の中心になる。つまり、日置部は、一部をシャーマンに残し、祭事の道具の埴輪や土偶に関わる土師氏になっているという。
            
                                                           社殿からの一風景
 この日置部集団は太陽を祀る祭祀集団であり、測量をする と共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団である。
 6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっており、8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。このことはある高度の技術者集団の移住が考えられる。
                       
 
 また羽尾神社の祭神である藤原恒儀は滑川村誌 民俗編によると、この人物は大麦の穂で目を突いて、片目になってしまったことから、羽尾地区では大麦は禁忌作物であり、また恒儀にまつわる片目の伝承があるという。また武蔵国郡村誌の比企郡羽尾村によれば、羽尾村の琴平社(現在は羽尾神社に合祀か?)の祭神は金山彦命だった。金山彦命は金属精錬との関わりが深い神なので、羽尾地区の片目伝承との関連性が興味深い。
 つまり藤原恒儀はこの地域の古代鍛冶集団の長であった可能性が非常に高いのではなかろうか。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「滑川ふるさと散歩道HP」等
    

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大雷淡州神社、土塩淡州神社

大雷淡洲神社】
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町山田1852
             ・ご祭神 大雷神 息長足日売命
             ・社 挌 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 310日 例祭 728日 秋祭 1016日
                  新嘗祭 1211日 大祓 1225      
 森林公園南口側から県道250号森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を北東へ走って行くと、西側,つまり右側にに大雷淡洲神社の鳥居が見えて来る。社は道路沿いにあり、東側に社殿を向け、その前は比企丘陵の南北に細長い一面ののどかな田園風景が続く。
 上山田に鎮座する淡州神社とは至近距離にある社だ。
            
                                                              大雷淡洲神社正面 
            
                                                           参道の風景          
            
                                              大雷淡洲神社の案内板   

 大雷淡洲神社   滑川村大字山田(下山田)
 祭神  大雷命 息長足日売命
 由緒
 当社は昔この地方がしばしば旱魃に見舞われ凶作が続くので、五穀豊穣を願って雨乞いの神大雷命と三韓鎮定に功績を挙げた神功皇后を祭神として奉祀した神社と伝承される。勧請の年代は資料によれば応永二乙亥(西暦一三九五)年と推察される。寛永二乙丑年に邑の鎮守となり、明治四年三月に村社に列格した。(以下略)
                                                            案内板より引用

                 
         鳥居を過ぎて数段の石段の上に鎮座する二社並列の大雷淡州神社の拝殿。
               ただしどちらがどの社かは何も明記されていないため不明。
                       
                    拝殿の右側に鎮座する境内社・天満天神宮
 大雷淡洲神社 滑川町山田一八五二(山田字山崎)
 当社は大雷神社と淡洲神社の合社で、大雷命と息長足日売命の二柱を祀る。社伝によると、昔この地がしばしば干ばつに見舞われて凶作が続いたため、五穀豊穣を願って水分の神である大雷命と、三韓・熊襲の征伐に功績のあった神功皇后(息長足日売命)を奉斎したことに始まるという。近くにある式内社の伊古乃速御玉比売神社が「郡中の総社」として淡洲明神ともいわれていたことから、同社をこの地に勧請したことが推測される。
 一方、『明細帳』には「勧請年月不詳宝永七年(一七一〇)三月霊代ヲ改メ鎮守タリ明治四年三月村社ニ改ム」とある。これに見える「霊代ヲ改メ鎮守タリ」の記載は、同じ地内にある上山田の淡洲神社が同年代に神祇管領の吉田家から正一位の神位を拝受していることから、これに合わせて当社も神位の拝受を行い、名実共に村の鎮守としての地位を確立したことを表すものであろう。
『風土記稿』は、地内の神社について「淡洲明神社 村の鎮守なり、東光寺持、下二社同じ、雷電社山王社」と載せる。この記述から合社となったのは化政期(一八〇四-三〇)以降のことと考えられる。
 合社後しばらくは二棟の覆屋にそれぞれ本殿が据えられていたが、淡洲神社の方に大雷社を合祀した際に大雷社の本殿は外に移された。現在の社務所はかつての大雷神社の覆屋である。
                                  「埼玉の神社」より引用


【土塩淡州神社】
                       
                 
・所在地 埼玉県比企郡滑川町土塩422
                 ・ご祭神 速御玉比売命
                 ・社 挌 旧土塩村鎮守・旧村社
                 ・例 祭 祈年祭 2月26日 例祭 417日 新嘗祭 10月17日
                 大祓 12月30日    
        
 埼玉県道250号を北方向に進み、山田交差点を左折し、上山田淡州神社を右側に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。突き当たりの福田交差点を右折し、元東松山有料道路を熊谷市方向に進むと土塩Y字路にぶつかるのでそこを左折すると左側に土塩淡州神社が見えてくる。小さく収まっている社という印象。
 専用駐車場はないので、神社を通り過ぎてからすぐ先の交差点に駐車スペースがあったのでそこに停め急ぎ参拝を行った。
             
                                                            土塩淡州神社正面
                        
 淡洲神社   滑川町大字土塩
 祭神 速御玉比売命
 由緒
 当社は神功皇后の三韓鎮定の広徳を仰ぎその神霊を此の地に奉祀したという。
 創始の年代は天明三癸卯(西暦一七八三)年七月三日と記録されており、天児屋根命第五十八代的伝神祇道唯一人 吉川源十郎源従門によって創立されたと伝えられる。
 境内地四○六坪には杉の大樹が聳え神苑に荘厳の気を漂わしている。

 祭事
 元旦祭 一月一日   新年祭 二月二十六日
 例祭  四月十七日  新嘗祭 十月十七日
 大祓  十二月三十日                                             案内板より引用
           
                               拝  殿 
 淡洲神社 滑川町土塩四二二(土塩字南薬王寺)
 当社の鎮座する土塩は、滑川町の最北部にあり、町の北側を東へ流れる和田川に沿った沖積地である。地名は、塩が楔形の谷の奥の意で、当地が開析谷の奥にあることから付されたという。
 当社は、『風土記稿』に「淡洲明神社 村内の鎮守なり、明昌寺持」とあり、江戸期は、真言宗金宝山明照寺が別当であった。
 祭神は、速御玉比売命である。村内に鎮座する式内社伊古乃速御玉比売神社がかつて淡洲明神とも呼ばれていたこと、同社の境内社に琴平神社と天神社があることなど当社との相似点が多い。現在、当地方に淡洲神社(阿和須神社)が六社あり、伊古乃速御玉比売神社を中心にそれを取り囲むように放射状に分布しており、同社がその信仰の核になっていたことをうかがわせる。
『比企郡神社誌』によると、当社は「天明参癸卯年(一七八三)七月参日天児屋根命五拾八代的伝神祇道唯一人吉川源十郎源従門の創立」とある。
 ここにいう吉川源十郎は、吉川神道を創唱した吉川惟足の子孫に当たる。惟足以来、幕府は、吉川家を吉田神道の正統の教義を継承した者とみなし、神道に関する故実の調査などを行う幕府神道方の職に世襲職として任命した。この神道方の吉川家が当社の創建にかかわった経緯については明らかではない。
                                                       「埼玉の神社」より引用          

  
       社殿左側にある境内社・天神社              こちらの境内社は詳細不明
            
                              境内の一風景





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月輪神社

 関白藤原忠通の子で九条家の粗である九条兼実(くじょうかねざね)は、京都の月輪寺(がつりんじ・つきのわでら)に隠棲していたことから「月輪殿(つきわでん)」と呼ばれていた。その霊が合祀されていると言われているのが月輪神社で、「月輪」の地名もここに由来しているとのことだ。参道や境内には樹齢何百年と思えるくらいの立派な杉が嘗て聳え立っていて、静寂かつ厳かなたたずまいであり、歴史を感じる古社である。
       
            ・所在地 埼玉県比企郡滑川町月輪418
            ・ご祭神 素戔嗚尊・木花開耶姫命・味鋤高彦根神・豊受気媛神
                 月輪兼実公・菅原道真公
            ・社 挌 旧月輪村鎮守・旧指定村社
            ・例祭等 春祭り 415日 例祭 715日 秋祭り 1019
                    新嘗祭 1123       
 月輪神社は埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、森林公園駅入口交差点のY字路を右折し、森林公園北口前の信号をまた右折する。道なりに真っ直ぐ進むと約5分弱で左側に月輪神社の社号標が見えてくる。駐車場は神社の東側隣に集会所があり、そこには駐車スペースが確保されており、そこに停めて参拝を行ったが、そこは神社の拝殿のすぐ横にあり、正面、つまり南側の鳥居から参拝することをモットーとしている筆者にとっては少々遠回りをしなければならないことが不満な点ではあるが。
                         
                         南側にある月輪神社の社号標
 
             社号標の先にある一の鳥居                      自然のままの社殿に通じる参道
       以前は朱塗りの鳥居であった。               境内は鬱蒼とした杉林に覆われている。
                       
                                厳かな雰囲気が漂う境内。すの参道の先に鎮座する拝殿
  なんでもこの社殿の基盤全体が古墳となっているようだ。この森林公園の南側に位置する羽根尾地域から月輪地域にかけては、数多くの遺跡が出土している日本でも有数の遺跡分布地帯で、調査によると、未発掘の埋蔵文化財が、町のほぼ全域に分布しているそうだ。

 東武東上線「つきのわ駅」の北部にある月輪古墳群や月輪遺跡からは、古墳時代の土器や石斧、直刀、さまざまな形の埴輪が数多く出土。東上線以南の地区からは縄文時代早期の土器が見つかり、駅西南部の一帯では旧石器時代の石器も発見されている。
 
     拝殿の「月輪神社」と書かれた扁額                           拝殿前の石段の横には案内板がある。
 月輪神社
 由 緒
 当社は和同二巳酉(西暦七0九)年に大宮氷川神社の神霊を此の地に分社したと鎮守名に記載されており その後建久九戊午年三月、月輪兼実の霊を合祀して氷川大明神と称した。
享保八年九月宗源宣旨により正一位の神位を贈られた 明治維新の際明神号を廃し 氷川神社と称し 明治四十一年三月大字内の五社を当社に合祀して今までの氷川神社号を月輪神社と改称した 明治四年村社となり 大正五年指定村社に昇格した。
                                                             案内板より引用 

                       
                                           本殿覆屋
            
                           社殿手前にある古木跡
「埼玉県の神社」によると、「昔は、杉の古木が林立していたが、伊勢湾台風でその多くが倒れてしまった。この時、社殿の前にあった樹齢六〇〇余年といわれる神木の杉の幹にも亀裂が生じ、危険な状態になったため、氏子一同は涙を呑んで伐採を決意した」と記載されている。この伐採跡がこのご神木なのであろう。

 また案内板にも記載があったが、この月輪地域では、「獅子舞」が例祭に合わせて奉納される。「埼玉県県民生活部文化振興課公式HP」では以下の紹介がされている。
 月輪獅子舞 滑川町指定無形民俗文化財
 月輪神社で毎年7月と10月に五穀豊穣と子孫繁栄、悪魔除けを願い奉納されています。 太鼓には文政9(1826)年の銘があり江戸時代には既に行われていたと思われます。地元の熱意で、昭和57年に復活しました。  
                        
           道路沿いにある社号標のほうが歴史を感じる重みのある標石だと思う。
 

 東松山台地北縁の、嵐山町川島字屋田から滑川町月輪字西荒井にかけて、東西400m、南北800mの範囲に所在する。嵐山町側を「屋田古墳群」、滑川町側を「月輪古墳群」と呼ぶこともある。かつては100基以上の古墳があったと推測されたが、多くの古墳は開墾などにより破壊され、2002年(平成14年)のつきのわ駅開設に伴う区画整理事業の際に発掘調査が行われ、59基の古墳の記録保存がなされた。 現在直径2030mの円墳47基が現存する。
 1969年(昭和44年)101日、埼玉県の重要遺跡に選定された。
Wikipedia」より引用

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阿和須神社

 埼玉県比企郡滑川町には淡州神社、大雷淡州神社等、「あわす」という変わった名称の社が多数存在する。嵐山町太郎丸、滑川町水房、滑川町伊古などに社は鎮座し、総本社の伊古速御玉比売神社は延喜式内社であり、江戸時代には淡洲明神とも称されていた。ちなみに「淡州」と書いて「アワス」と読む。文字通り四国「阿波国」に関係する社である。
 淡洲神社の祭神は速御玉比売命が多いのに対して滑川町水房の社は阿和須神社と表記しているが、大和国添上郡の阿波の神社を勧請したもので祭神は息長足比売命である。

所在地 埼玉県比企郡滑川町水房238-1
御祭神 大鞆和気命 息長足日売命 武内宿称命
社  挌 旧指定村社
例  祭 春祭 4月15日 例祭 10月13日 秋祭 12月18日
        
 阿和須神社は埼玉県道47号深谷東松山線で森林公園方向に進み、滑川町役場北交差点を右折する。県道173号ときがわ熊谷線に移り、道なりに真っ直ぐ約5分くらい進むと、右側に水房集会所が見えるのでそこのT字路を右折ししばらく進むと関越自動車道のトンネルが見えるのでそこを潜るとすぐ左側に阿和須神社が鎮座している。
 駐車スペースは神社の西側に社叢があり、数台停めることは可能。だが駐車場は一の鳥居の逆方向にあるため、一端徒歩にて遠回りして鳥居方向に向かわなければならない。当日(平成25年8月15日)は大変暑い一日で、昼間の参拝は少々堪える。

 不思議と車道の先に社号標と一の鳥居がある。         一の鳥居、先に車道が見える。

 由緒の案内板が二の鳥居の手前、右側にある。          両部鳥居形式の二の鳥居

 阿和須神社 
 滑川町大字水房
 祭神 大鞆和気命 息長足日売命 武内宿称命
 由緒
 当社の本宮は大和国添上郡にある阿波の神社である 垂仁天皇の曾孫三枝の別連の末裔が此の郷を開き後柏江郷の戸主直道継の末裔によって永仁年中(西暦1290年中)字御山の台に三柱の神霊を祀ったと伝えられる 寛永元年に至り祐海法師により現地に遷座し その後寛延2年11月金雄法師および氏子一同にて社殿を再建した 明治6年村社となり大正5年指定村社に昇格した
 祭事 新年祭1月3日 春祭4月15日 例祭10月13日 秋祭12月18日
 平成17年5月吉日  滑川町観光協会  滑川町教育委員会
                                                            案内板より引用
            
                            開放感のある拝殿
            
            
                                 本 殿
 
 こちらの御祭神は大鞆和気命(応神天皇)、気長足日売命(神功皇后)、武内宿弥命の三柱で伊古乃速御玉比売神社と同じだが、洲と阿和須で「あわす」と読み方が同じでも、こちらは大和国添上郡の阿波の神社を勧請したものなので、速御玉姫命とは関係無いようだ。

            境内社 八坂神社                  八坂神社の隣にある境内社 稲荷神社
          
                ゆったりとした静かな時間が流れる。大切にしたいものだ。

        
                                                                

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