古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

甘粕神社

        
             ・所在地 埼玉県美里町甘粕634
             ・ご祭神 大雷命、少彦名命
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 新年祭 415日 例祭 1015日 新嘗祭 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.162802,139.1814671,17z?hl=ja&entry=ttu
 甘粕神社は、国道140号バイパス秩父往還線を小前田駅方向に進み、「花園局」交差点を右折。その後小前田駅を見ながら道なりに進み、埼玉県道175号小前田児玉線を用土駅から美里町方向に暫く直進する。その後「野中」交差点を右折するとその道は埼玉県道31号本庄寄居線と変わり、天神川を越えた最初のT字路を左折すると右側に甘粕神社が鎮座する社叢と鳥居が見えてくる。
 甘粕神社が鎮座する地は東西を丘陵に挟まれた低地から一段高い場所に位置していて、社殿は東向きである。
 社の北側隣には社務所らしい建物があり、そこの駐車スペースに車を停めて参拝を行った。
                              
                   甘粕神社社号標
        
             道を隔てて東側には神橋(神宛橋)がある。
               社塔と社号標も同じ場所に屹立する。
        
                    正面鳥居
 神社周辺は綺麗に掃除が行き渡っていて、氏子様等の日頃の気遣いを感じられた。晴天の日差しの中、日々春に近づくのが体を通じて感じられ、気持ちの良い参拝となった。
 
      鳥居右側にある社の案内板         案内板の隣には石碑もあり     
        
〇甘粕神社   鎮座地 美里町大字甘粕六三四番地
 由緒

 当地は、武蔵七党の猪俣党の流れを汲む甘糟氏の本貫地とされ、猪俣党系図によると猪俣忠基の子家基が甘糟七郎と称している。「吾妻鏡」によると、元暦元年(一一八四)に甘糟野次広忠(家基の子)は、平家追討のため源頼朝から所領の万雑事を免除されている。地内には「堀の内」と呼ばれる甘粕氏館跡があり、その水城の一部が残存している。
『風土記稿』によれば、往時の甘粕村の鎮守は諏訪社で、当社の祭事は真言宗多宝寺が行っていた。因みに「児玉郡誌」によれば、諏訪社は享保二十一年(一七三六)に正一位の神階を拝受し、その際の宗源宣旨が存在したという。
 明治元年の神仏分離令により、当社は多宝寺を離れて村社となった。明治四〇年には、字向田に鎮座した雀神社を本殿に合祀したのをはじめ、村内の諏訪神社、神明神社、稲荷神社、白山神社、天神社を境内社として移転し、これを幾に社号を甘粕神社と改称した。
                                       案内板より引用
        
                                  
石段上に社殿が見える。   
        
                     拝 殿

   
      拝殿に掲げている扁額           拝殿と本殿の位置に注目 
 低地から一段高い台地上に鎮座しているが、その奥行きは広くない。故に社殿・境内社等横並びに配置されていて、本殿部一部岩盤をくり抜いて削平しているのが分かる。
 この地に社を鎮座してからの年月で、土砂の崩落等もあったであろう。本殿基礎部分土砂崩れにより埋没している部分もある。
 
 社殿左側に並列して鎮座する境内社 琴平神社・天神社・諏訪神社・神明神社・白山神社の合祀社(写真左)。その左側に2基の石祠を挟んで、同じく境内社 稲荷神社が鎮座している(写真右)。
            
社殿右側には
「遙拝所」の石碑があり、その奥には紙垂等は見られないが、御神木らしき大木が聳え立つ。
 
 遙拝所の石碑左隣に鎮座する境内社 八坂神社  遙拝所の石碑に右側にポツンとある石祠
        
               高台にある社殿から鳥居方向を撮影

 猪俣党は、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団。武蔵七党の一つで、小野篁の末裔を称す横山党と同族であり、主に猪俣氏を名乗った。 猪俣党は、児玉郡美里に河匂、木部、古郡、甘糟、深谷に荏原、人見、横瀬、本庄に滝瀬、花園に御前田、寄居に藤田、尾園、男衾、岡部に岡部という広がりを見せた。
 『新編武蔵風土記稿』によれば、猪俣村は「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。
 甘粕氏は
甘糟・天粕とも書く。武蔵七党猪俣党の河勾野大夫政基の弟(古郡八郎の兄)家基が甘糟七郎と称して甘糟氏の祖となり、甘糟野次広忠が当地に館を構えたと伝えられる。

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