板倉雷電神社
板倉町の南境には我が国最大の流域面積を誇る利根川が流れ、北境には鉱毒問題で有名な渡良瀬川が流れこんでいる。またかつては板倉沼など大小の池沼が散在した低湿地帯町であり、このため昔から水の恩恵を受けてきた反面、夏の増水期にはしばしば洪水氾濫に苦しめられてきた洪水常習地帯で、水場とも言われてきたという。時の明治政府による渡良瀬川遊水池の設置、戦後の排水施設の整備によつて現在群馬の穀倉になっている。
この地帯は律令時代「邑楽(おはらぎ)郡」という名称で、『和名抄』は「於波良支」と訓じている。この「おはらぎ」は、
(1)「オ(接頭語)・ハラ(原)・ギ(場所を示す接尾語)
(2)「オハ(崖地)・ラ・ギ(ともに場所を示す接尾語)」
の意とする説がある。
所在地 群馬県邑楽郡板倉町板倉2334
御祭神 火雷大神 大雷大神 別雷大神
社 挌 旧郷社
創 建 推古天皇6年(598年)
例 祭 5月1日~5日(雷電大祭)
雷電神社は群馬県板倉町、国道354号から板倉交差点を左折し、群馬県道364号除川板倉線を北上すると右側に板倉町役場が見える。この役場をちょっと北へ進んだところに社は鎮座する。駐車場は神社東側に専用の大きい駐車場がある。但しこの駐車場は本殿の近くのため(駐車場から本殿が丸見え)参拝のルールを重んじる人ならば駐車場から一端南方向に迂回して、なるべく社内に入らず一の鳥居に向かったほうがいいと思うが、初めての参拝のため駐車場から境内に入ってしまい、寿老神が祀られている参道の途中ルートから一の鳥居に戻ることになった。
創建は社伝によると推古天皇6年(598年)で、当時は伊奈良(いなら) の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地に、聖徳太子が神の声を聞き、祠(ほこら)を設けてその神を祀ったものとされている。ただし、これを後世の付会であるとする説もある。
一の鳥居 参道の左右には飲食店が数軒あり、 二の鳥居から見た雷電神社 拝殿
鯰料理を扱っているようだ。
「雷電神社総本宮」と彫られた石碑 二の鳥居に左側にある由来書の看板
雷電神社 御由来
御祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神で、推古天皇6年(598)聖徳太子が天の神の声を聞いて、伊奈良の沼に浮かぶ小島に祠を設け、天の神をお祀りしたのが最初とされています。関東一帯の雷電神社の総本宮で、館林藩主・徳川綱吉公が延宝2年(1674年)に社殿を再建。以来、左三つ巴の紋章に併せ徳川家の三つ葉葵の紋章が使われている。現在の社殿は天保6年(1835年)の造営。左甚五郎10代目名人彫物師・石原常八の華麗な彫刻が装飾されたこの時代にしか見られない名建築である。
由来書より一部掲載
質実・剛健の形容が似合う雷電神社・拝殿
主祭神として火雷大神・大雷大神・別雷大神の三神をまつり、菅原道真公を配祀する。
創建は、聖徳太子の手による、と書いたが、初めて社殿を建てたのは、坂上田村麻呂といわれる。雷の神の化身・雷電童子に窮地を救われたことを謝しての建立であったという。その後、雷や水害の多い土地柄のため、たびたび社殿が損なわれたが、江戸時代になり、のちに五代将軍となる館林藩主・徳川綱吉の崇敬を受けるなどした(その縁で、葵の御紋の使用が許された。現在もその名残りを社伝に見ることができる)。
現在の本社社殿は天保6年の造営、群馬県指定重要文化財である。
豪華絢爛な本殿
古くから雷の被害が多い土地であり、また暴れ川で度々流路を変えた渡良瀬川と利根川との間にあって度々火災や水害に見舞われたが、延宝2年(1674年)、当地を治めていた館林藩の藩主であった徳川綱吉が本社社殿を再建し(社殿に徳川家の三ツ葉葵の紋章を使うことを許された)、後に彼が長じて徳川幕府の第5代将軍となるに及んで、次第に繁栄するようになった。現在の本社社殿は天保6年(1835年)、奥社社殿は慶応4年(1868年)の造営である。本社社殿には左甚五郎から10代目の石原常八の作とされる彫刻が廻らされている。
明治時代には郷社に列せられ、第二次世界大戦後に宗教法人化された。今日では雷除けはもとより、氷嵐除けや豊作祈願、厄除けや安全、特に電気関係をはじめとする諸工事の安全の神として名高い。また、毎年大型連休中の例祭や、春の蝋梅(ろうばい)および椿が美しい神社としても名高い。例祭以外にも主に企業関係者による安全祈願や商売繁盛の祈祷の依頼が多く、5月中旬から初秋までの雷雨の季節を中心に頻繁に行われているという。
境内は広大で、境内の中に雷電沼がある。古代、万葉集の東歌に「かみつけの いならのぬまの おおいぐさ よそにみしよは いまこそ まされ」と詠まれ雷電沼のほとりにはこの東歌を刻んだ碑がある。雷電沼からは龍駒・龍馬が飛び出したとも、あるいは龍が棲むとも伝えられ、日照りのときに雨乞いを行い、参拝者が身を清める沼でもあった。
「雷電沼」の由来の案内板
○上つ毛野いならの沼の大ゐ草、よそに見しよは、今こそ益され 万葉集巻14-3417 作 者未詳
本殿の裏手には、室町時代建立の群馬県最古の神社建築である奥宮が鎮座している。
奥宮(おくみや・写真左、右)群馬県指定重要文化財
祭神は伊邪那美大神の祀られていて、家内円満・子授け・安産・縁結びなどを叶える女神とされている。
末社・八幡宮稲荷神社 国指定重要文化財
商売繁盛・五穀豊穣・子育て・武運長久
室町時代の天文16年(1547)、飯野城主(いいのじょうしゅ)篠崎三河守(しのざきみかわのかみ)が造営。全国に7か所あるのみの二間社入母屋造(にけんしゃいりもやづくり)。真横から見る屋根の曲線美が見事で、群馬県内に現存する最古の神社建築だそうだ。祭神は八幡大神(やはたのおおかみ)・稲荷大神(いなりのおおかみ)の2柱。
国指定重要文化財のこの社殿には、御扉が2組あり、その真ん中に一本の柱が立っている。これは、二間社造りと呼ばれ、重文クラスでは全国にも7箇所しかない珍しい造りという。室町時代、天文16年の御造営で、敢えて大いなる御力を封じ込め、やわらかい御恵みを戴こうということらしいが、何が封印されているのだろうか?