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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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世良田八坂神社

 世良田地区は世良田東照宮が有名だが、すぐ近くには八坂神社が鎮座している。距離もそんなに離れていない。
 創建年代は不詳。だが上野国新田祇園牛頭天王縁起によると、貞観十八年(八七六年)丙申に上野新田のほとりに、社を作らば静まるべしと、当所に鎮め奉った。
 新田氏代々の崇敬社。尾張国津島天王社を分霊したともされる。世良田政義の娘と南朝の尹良親王との御子良王(よしたか)君の次男良新(よしちか)が津島天王社神主となり、尹良親王を若宮として祀ったという。
 古くは牛頭天王を祀る新田の天王社と呼ばれていたという。明治期に郷社となり八坂神社と称した。上州三大祇園である「世良田祇園」が有名である。
所在地   群馬県太田市世良田町1497
主祭神   素戔鳴尊 他
社  格   旧郷社  新田総鎮守
創  建   貞観十八年(八七六年)か
例  祭   秋祭 10月15日   世良田祗園 7月第4土、日

           
 世良田八坂神社は太田市の南部、旧尾島町世良田、国道354号線から世良田駅へ向かう県道から一本西に入ったところに鎮座している。大体世良田東照宮から北に1km弱くらいだろうか。駐車場は、鳥居手前に「参拝者用駐車場が」あり、自動車は、5~6台くらいは停められるスペースがある。
           
                       歴史を感じる木製の重厚な両部鳥居
 今回参拝の目的地はあくまでも世良田東照宮で、道すがら近くに八坂神社があることをナビで知ってなにげなく立ち寄ってみた神社だった。しかし古風な鳥居の門構えを見てびっくり、その先の重厚な威厳ある拝殿、その奥の様々な彫刻に飾られた煌びやかな本殿を惚れ惚れしながら見るうちに、ワクワクしている自分がそこにいた。広い境内に配置されるのは神楽殿に神輿舎、額を奉納した舞台の横には芭蕉の句碑があり、さらに杉林の合間に赤城山を望む本殿裏には、どのくらいあるのか検討もできない位の境内社。案内板も多く、丁寧に説明され、見所がたっぷり詰まった侮れない社だ。
           
  鳥居の稚児柱(稚児鳥居)右側には「天王宮」左側には「新田厄除明神」と書かれた木札が付いていた。

       鳥居を過ぎると右側には神楽殿                 神楽殿の奥には額殿

               その奥にある松尾芭蕉の句碑                      芭蕉句碑の案内板
      太田市指定重要文化財[石造文化財]

八坂神社の芭蕉句碑
 この芭蕉句碑は、八坂神社の本殿東側に建てられており、仁井田碓嶺<安永9年(1780)?弘化3年(1846)>の筆によるもので、仁井田碓嶺は上州碓氷郡坂本宿出身の江戸時代の俳人で、当時の俳諧史に名前を残した人物である。碓嶺による芭蕉句碑は県内に4基あるが、文政9年(1826)建立のこの句碑は、最も早い時期のものと言われている。また、「春秋三世碓嶺書」の刻字があるところから、碓嶺が白雄、長翠の後に春秋庵を継いだと見られる貴重な句碑である。

 句碑には、「はせを翁 しはらくは花の色なる月夜かな」が刻まれている。
             
                              拝     殿
八坂神社
 所在地 群馬県太田市世良田町1497
 祭  神 素戔鳴尊 他
 八坂神社の創建は明らかでないが、縁起によれば新田氏代々の崇敬社であり、織田信長も同社を崇拝し社殿を修造したという。また尾張国(愛知県)津島天王社の分霊を移したとも伝える。これは世良田政義の娘と南朝の王子尹良親王との間に出生した良王が、津島天王社の神主となったという故事によるものであろう。
 「永禄日記」(長楽寺蔵)の永禄八年(1565)六月七日の条に、「天王祭ヲイタス」とあり、古くは「牛頭天王」を祀る天王社であった。江戸時代は神宮寺(大正二年普門寺へ合併)が奉仕し、世良田・女塚・境・三ツ木・粕川村など五ヶ村の鎮守であったが、明治初年さらに平塚・村田村・木崎宿などが加わり、二十四ヶ村の郷社とされ、八坂神社と称した。
 当社は、農業・疫病除けの神として広く信仰されている。特に夏祭は「世良田祇園」として知られ、かって十一台の屋台が繰り出して競う祇園ばやしは、夜空にこだまして絢爛幻想の世界を現出し、関東の三大祭の一つに数えられた。近年は交通事情により祭りの規模は縮小されているものの、村人により祭り屋台・囃子が良く保存されており、神輿の渡御などに「世良田祇園」の伝統が受け継がれている。(中略)
 昭和63年3月        太田市教育委員会
                                               世良田八坂神社 案内板より引用
            
                              本     殿
 世良田八坂神社が鎮座する世良田地区は、清和源氏、源義家の三男義国の長男である新田義重の四男義季が世良田郷を譲られ、世良田氏と称したという。(但しこの義季は新田郡得川郷を領有して得川義季と称したとも言われていて、その真偽は定かではない)歴とした名門である。
 鎌倉時代末の争乱が始まると、世良田弥次郎満義は惣領新田義貞に従って鎌倉攻めに参戦し、北条高時以下の北条氏を滅ぼした。その後の満義は南北朝時代の争乱下においても、一族の江田行義(教氏の弟の有氏の子)とともに義貞に従い続き、南朝方として、終始活躍した。

 新田氏は義貞戦死後も日本国中に散らばり、孤軍奮闘したが、北朝足利氏勢力に各個撃破され、新田氏本宗家である新田義宗は正平23年(1386年)上野沼田荘で敗北、そして戦死し、事実上滅亡する。世良田氏も満義の嫡子の政義は、宗良親王の本拠地である信濃国に赴くが、応永31年(1424年)宗良親王の嫡子である伊良親王と共に浪合という地において戦死したという。(伊良親王はこの地にて自害、その子である良王君の子孫が、一説によると尾張国の津島で社家に入って神職として系を伝えたとしている)


  社殿の左側には神興庫があり(写真左)、通常は閉まっているのだが、正月初詣の関係で開いていたのは正直幸運だった。また並びにある社務所の手前には「熊杉」という大きな切り株がある(同右)。樹齢は約700年で世良田八坂神社のシンボル的な神木だったそうだが、今は切り株のみだ。


 社殿の奥には所狭しと多くの境内社が並んで鎮座している。社殿の右側の奥、方角では北側に当るが、そこには小さな鳥居がポツンとあり、そこから並びに弁天社(写真左)、出羽三山社と彫られた石碑(同右)がある。
 
      出羽三山社の隣にある御嶽神社                   猿田彦大神
  
             境内社群                            縁結神

             永寿大明神                          琴平神社                                                                             

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