古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新田大根神社


           
            
・所在地 群馬県太田市新田大根町407
            
・ご祭神 宇迦之御魂神
            
・社 格 旧大根村鎮守 旧村社
            
・例祭等 春祭 43日 秋祭(大祭) 1118
                *参拝日 2023726
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3168428,139.2795175,16z?hl=ja&entry=ttu

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占めている。因みに「大根」と書いて「おおね」と読む。この大根という地名由来としては、中世・新田庄に属していた頃は「嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「あふねの郷 田三町二反四十五たい 畠八反 在家一う」、西迎(さいごう)寺(現長野県下水内郡豊田村)の延慶三年(一三一〇)四月二〇日の阿弥陀仏像背銘には「上野国新田庄青根郷 大檀那義季・見阿」とあり、当時は「青根」「あふね」「相根」等表記されていたようだ。
 また「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一八日条に記す宇治川の合戦で負傷した上野武士の一人に青根三郎の名がみえる。
        
 新田上江田勝神社の東側に群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通っているが、「やすらぎ団地」交差点を左折し、上記県道沿いを暫く北上する。1.5㎞程先の丁字路を左折すると進行方向左手に「ほたるの里公園」が見えるが、その公園を直進した400m程先に新田大根神社の境内が見えてくる。
       
           拝殿前に真っ直ぐに伸びる欅のご神木(写真左・右)
        
              境内に設置されているご神木の案内板
 大根神社の大欅の由来
 大根神社の大欅は神社本殿に向かって左前に在り、樹齢は定かではないが、古老の口述に依ると、三十年以前にこの大欅を買いつけに来た業者の説によれば、当時でも推定三百年は経過しているとのことであった。
 現在、根回り八・五メートル、目通り五・五メートル、主幹は真っ直ぐに伸び、太い枝は三、四本であったが、一本は落雷によって落下したしたものの樹勢は益々旺盛で、春の芽吹きの頃、幹に耳をつけると大量の水を吸い上げる音が聴きとれるとの言い伝えもあります。
 大根神社は、大根、大の六〇〇戸の住民の守り本尊としての氏神であり、その社の御神木である 大欅は戦時中、大欅の長寿に肖りたいとの思いから、召集され戦地に赴く兵士が秘かに欅の皮を剥がし、軍服に忍ばせて出征したとの話題も伝えられています。
 平成十七年 三月 新田町観光協会
                                       案内板より引用
        
                     拝 殿
 
  境内に並んで設置されている「
皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」(写真左)と、「大根神社改築記念碑」(同右)。皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」記念碑によるこの社の由来としては、創立は不詳ではあるが、創建は古く秋葉様又は稲荷神社と称して、新田公一族である綿打太郎為氏以下氏義氏頼等の崇敬厚いお宮であると伝えられ、新田氏衰退後も大根村の鎮守様として地域の住民を始め多くの人々の崇敬をうけてきたという。
 明治四十一年十月二十六日、許可を得て本社境内の末社秋葉社及び字矢太神の無格社、矢神社、字一丁畑無格社雷電神社同境内末社稲荷神社、諏訪神社、字大宮村社、赤城神社を合併して村社大根神社と改称した。
 大正四年八月二十四日更に許可を得て同村大字大上ノ町村社赤城神社、境内末社秋葉社、大山祇社を合併して大根、大、両地区の鎮守となる。
 大正七年十月十八日(明治三十九年勅令第九十六号)神饌幣帛料供進神社として指定されている。

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占める。その扇端部の標高60mの地点を中心として多くの湧水が見られ、矢太神水源(やだいじんすいげん)は、これらの中でも最も豊富な水量を誇っている。
 現在、周辺は「ほたるの里公園」として整備されており、公園北西側に湧水点が、またこの湧水点の南側には東西15m、南北80mの沼(矢太神沼)がある。
 湧水点では湧水が砂を舞い上げる自噴現象を観察することができ、この地点には「ニホンカワモズク」という、貴重な紅藻類が生息している。これはかつてこの地が海であった時代に陸に閉じ込められたものが、次第に環境に適応して現在の姿になったと考えられていろという。
 仁安3年(1168)の「新田義重置文」(長楽寺文書、国重文)は、「空閑の郷十九郷」を頼王御前(世良田義季)の母に譲ることが書かれた古文書で、新田荘が開発された様子を知ることができる。ここには「上江田・下江田・田中・小角・出塚・粕川・多古宇(高尾)」などの郷名が書かれている。これらの郷は石田川水系に立地していることから、新田荘の開発に石田川の水が利用されたことが分かる。矢太神水源は石田川の源流であり、新田荘の開発に湧水地の水が利用されたことを証明する貴重な史跡である。
 矢太神水源は平成12111日国の指定史跡[遺跡地]に指定されている。


参考資料「
日本歴史地名大系」「太田市公式HP」「おおた観光サイト」「境内案内板・碑文」等
 

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