古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

坂戸八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市山田町585
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧片柳新田村鎮守 旧村社
              
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9585773,139.3998195,18z?entry=ttu

 国道407号線を坂戸市街地方向に進み、「坂戸陸橋」交差点を右折し、その後コンビニエンスのある丁字路を右折すると、すぐ正面左側に坂戸八幡神社の鳥居が見えてくる。
 
鳥居の左隣には参拝者専用駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                街中に鎮座する坂戸八幡神社
『日本歴史地名大系』 「片柳新田」の解説
片柳村の南にあり、西は坂戸村。享保期(一七一六―三六)代官川崎平右衛門の計画で片柳村民によって開墾された。名主役は片柳村名主が兼帯した(風土記稿)。開墾後は幕府領。明和九年(一七七二)検地が行われている。化政期の家数二〇(同書)。文政四年(一八二一)の小前名寄帳(関口家文書)によると高四四石余・反別三五町一反余
新編武蔵風土記稿 片柳新田村条』
片柳新田は元原野にして東西十町餘、南北も大抵同じ程の地なるを、享保年中川崎平右衛門計ひにて、片柳村の民新開して一村と成り」  
        
                             こじんまりと纏まっている境内
 坂戸八幡神社は、江戸時代・享保年中に新田開発された片柳新田の鎮守として八幡社と号して建立、別当は片柳村の日蓮宗休臺寺が務めた。明治5年には村社となったが、昭和15年旧陸軍による坂戸飛行場建設のため、当地へ遷座したという。
        
                     拝 殿
 八幡神社 坂戸市坂戸八一八
 当社の鎮座する片柳新田は、越辺川右岸の台地上に位置する。地内には縄文から平安期にかけての遺跡が確認されており、古くから人が居住した地域であると思われる。しかし、村が成立し、行政的に一村をなしたのは江戸期の新田開発からで、それまでは原野であった。これを開いたのが川崎平右衛門を中心とする片柳村の人たちであったため、片柳新田の名が付けられた。
このことから当社の創立は享保のころと考えられ、村人が鎮守として社を建立したものであろう。また、新田開発の地であることから作神としての信仰もあったといわれる。
 祭神は、誉田別尊で、内陣に騎乗の八幡大明神像を安置している。
 別当は神仏分離まで片柳村の日蓮宗休臺寺が務め、明治五年には長く村鎮守であったことから村社となった。
 下って太平洋戦争開戦の前年である昭和一五年二月五日には、当社は政府の政策により、社殿の移転を余儀なくされた。これは坂戸飛行場建設のためで、当時、境内地約六反を一千五百円で買収された。このため現在の神社地を坂戸市本町に住む井上とよから譲り受け、氏子二〇戸は移転のために勤労奉仕をした。村人たちは長く祭りを続けた社の敷地から戦闘機が舞いあがるのをみて、武運長久を祈ったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿左側奥に祀られている境内社・山王神社    
拝殿右側奥に祀られている境内社・稲荷神社

 坂戸八幡神社は江戸時代の享保年間に新田開発された新しい村の鎮守様として創建、社の管理は江戸時代を通じて片柳村鎮守・片柳飯盛神社と共に「片柳村の日蓮宗休臺寺」が務めたという。

 休臺寺は戦国乱世も真っただ中の天正8年(1580)に長柳山妙慶寺として開山された古刹であり、江戸時代に横田次郎兵衛述松(のぶとし)という人物が中興開基したという。
「日蓮宗、房州小湊誕生寺の末、正覺山と號す、本尊三寶祖師を安ず、開山日慶天正八年八月十三日示寂、中興開基横田次郎兵衛延寶七年正月廿三日卒す、法名正覺院一乗日臺居士と云」
 ところで横田次郎兵衛の先祖は、武田二十四将にも名を連ねた猛将横田(備中)高松である。
『寛政呈譜』
「横田備中守高松(武田信玄につかへ、天文十五年信濃国戸石合戦討死す)―十郎兵衛綱松(信玄・勝頼につかへ、天正三年長篠の役に戦死)―甚右衛門尹松(武田家没落後、天正十年家康に仕へ、武蔵国高麗、比企、入間郡等五千石知行、寛永十二年死す、法名道本)―次郎兵衛述松(法名日台、入間郡片柳村日蓮宗休台寺に葬る、のち代々葬地とす)―由松(法名日松)―清松(法名日翁)―準松(九千五百石、法名日能)―以松(法名日通)。家紋、四目結、釘抜、矢羽車」
        
                          街中にありながら静かに佇むお社

 横田高松(たかとし)は、戦国時代の武将で甲斐武田氏の家臣。武田の五名臣の一人として有名な人物である。武田信虎、晴信(信玄)2代に仕え、信虎の代では足軽大将、信玄の代では敵の動きを察知し、戦術を先読みする軍師的な重鎮であったようだ。しかし天文1999日(1550年)に信濃村上氏の拠点である砥石城攻略の際、先鋒として参加するが、戦局は不利となって殿で退却中、追撃を受け戦死した。享年64歳。後に当主信玄は「武偏者なら横田や原美濃のようになれ」と話していたという。
 共に信玄の重鎮であった原虎胤の長男・康景(綱松)は高松の婿養子となってその跡を継ぐ。
武田信玄の没後は勝頼に仕えたが、天正
3年(1575年)521日、長篠の戦いで戦死した。享年51。
 横田氏は康景(綱松)の子・尹松の時に江戸幕府の旗本となり、5000石を領し、述松、由松(側衆・従五位下備中守)、栄松と続き、準松(のりとし、側衆・従五位下筑後守)の時、加増され9500石を領し、旗本最高位となっている。


参考資料「寛政呈譜」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」 
    「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島デジタル郷土資料Wikipedia」等



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