古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小敷田春日神社

 行田市の埼玉古墳群の西方、4.6㎞程隔てたところに「小敷田」という地域がある。ここは荒川左岸新扇状地の末端に位置し、旧荒川の氾濫原(はんらんげん)として水田に適した低湿の地である。この地の自然堤防上には、弥生期から奈良期にいたる集落遺構(小敷田遺跡)が存在し条里跡も見られ、早くから人々が住みつき開発の鍬を振ったことを伝えている。地域の平均標高は22m程。昭和五八年(一九八三)より発掘調査を実施。弥生時代中期、古墳時代前・後期、飛鳥・奈良・平安時代にわたる複合遺跡。調査範囲に四本の河川跡が横断し、堆積土中から多量の木器が出土した。
 弥生時代中期の遺構は竪穴住居跡・方形周溝墓・土壙からなる。竪穴住居跡は17軒が発掘され、河川跡両岸部自然堤防上に散在する。形態は隅丸方形を呈し4本柱穴のものと、小型で112本柱穴のものがある。うち1軒から広葉樹を用いた柱根4本が出土した。方形周溝墓は2地点に分れ計4基が発掘された。1地点は三基連接し、短期間に連続して構築されたと考えられる。形態は長方形を呈し四隅陸橋である。方台部からは埋葬主体は発見されなかったが、うち1基の溝底から壺5・甕1が出土している。
        
              
・所在地 埼玉県行田市小敷田1
              
・ご祭神 武甕槌神 斎主神 天児屋根命 姫大神
              
・社 格 旧村社 旧小敷田村鎮守
              
・例祭等 大祭 821
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1422646,139.4264567,17z?entry=ttu

 菅谷八幡神社正面鳥居の前の道路を一旦北上し、忍川を渡ったすぐ先の道路を右折、河川沿いに800m程東行すると小敷田春日神社に到着することができる。
 社の東側に隣接している観音堂の前には車が数台駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                  小敷田春日神社正面
 小敷田春日神社は忍川左岸に鎮座し、丁度川に向かって祀られているような配置。現在の住所は「行田市小敷田1」と嘗ての旧小敷田村鎮守社として、昔から今に至るまでこの社はこの地域の正に中心に位置し、地域の方々も大切に祀られているのであろう。社の創建年代や由緒については不詳だが、江戸時代には小敷田村の鎮守となっていたという。明治41年に字稲荷木の伊奈利社、字嘉寿賀町神明屋敷の神明社を合祀した。また境内には、境内忍第7番巡礼札所と掲げられた旧施無畏寺(旧普門寺)観音堂が遺されている。
               
               道路沿いに設置されている社号標柱
          此処には「供進指定村社春日神社」と表記されている。
       
                   小敷田春日神社 朱色が鮮やかな一の鳥居
     赤色の鳥居も良いが、こうやってみると朱色もまた社のコントラストに合う。
 
   一の鳥居のすぐ先にある石製の二の鳥居    二の鳥居の左側には塞神・庚申塚群が並ぶ。
 
  塞神・庚申塚群の並びに鎮座する境内社    境内社の隣には「御嶽神社」が鎮座する。

 社は決して広大な敷地にあるわけでないが、限られた境内をうまく利用して、境内社や庚申塚等配置させている。この器用さは日本人独特の感性なのだろう。
        
                     拝 殿
 改築造営由緒紀
 埼玉県神社庁の発行した神社誌録に明記されている春日神社は小敷田の氏神様であり天児屋根命を御祭神となし古来より永々として神事が継承され神はこの地域に居住するすべての人達を氏子となし、人は自からの守護神として崇敬しているところであります。
 当地は旧池上村の新田といい伝えられ湧水に恵まれた水田地帯で小敷田の地名は、律令期国司、郡司、などに職田として支給された語源からの由来があり最近の遺跡発堀調査によると古墳後期から平安期にかけての集落遺跡や条理制遺構、特に日本最古の米と評されているものをはじめ当時の生活用具等かず多く出土し行田市博物館に保存されている。しかし当社の創建について名だたるものは未だ見当らないものの境内の手水鉢に元録六癸酉年九月の年記が刻まれ奉納されているものを見ても既に三〇〇余年を経過し祖々代々の敬神の深さに感銘を覚える次第であります。
 近時に於ては大正十四年十月より六ヶ月を要して草葺屋根を御拝の改築に合せて拝殿と共に銅葺屋根となし近隣に類なき大工事を施行され、続いて昭和五十二年には本社覆屋藁葺を茅葺に葺替え古美の伝統を継続したのであります。
 時移りて明治、大正、昭和、平成と四代に亘る年号の中に生れ育った者の人生観や時代観はそれぞれによって変ろうとも、協調一致特段のご賛助を得た金参阡万円余の資金調達は碑表に御芳名を刻し感謝の誠を尽した次第であります。
 お蔭様にて神社御拝、拝殿ともに昔日の風格を失う事なく本社奥殿の損傷も完修し奈良春日大社造り屋根の造作にも意を用い併せて覆屋の構造も同様に配し近代建築の構図を適応して完成し更に境内地の環境整備を実施する為往古の大小樹林を伐採し榧、槙、紅葉、銀杏等特別な大木を残置して御神木となし、なるべく広い子供広場の造成に配意したのであり、境内には伊奈利社、神明社、三峰社が合祀され、ほかに由緒不詳ながら御嶽神社と塞神社も祀られているが、特に旧小字島合にあった真言宗普門寺が廃寺になり本当の正観音を移した観音堂も数次に及び修復を行ってたものの神佛一体の崇敬心から堂屋改修工事も同時施行となり損傷ただならぬ正観音像を特別寄進を得て仏具専門工師により原像に復元され忍七番巡礼札所の面目を一新した、前述の神明社、三峰社ともに荒廃、手水鉢覆屋、御影石鳥居、神社幟旗、各社前幔幕、社前吊灯篭及び観音堂内灯篭堂前鰐口等は特別寄進により新規造営され加えて神職には本絹装束を贈呈しかくして一三〇五平方米の境内地も時代に即した風情を社前榊一対の植込寄進を得て春の目覚を告げる櫻、皐、椿等闊葉、針葉樹を現代風に配して景観を整えたのであります。
 今茲に建国紀元二千六百五十年祭の到来と平成明仁天皇の御大典を慶祝し併せて本事業の完成にご尽力いただいたる各位に萬腔の敬意と感謝を捧げ記念碑を建立して後世に伝えるものであります。(以下略)
                                      境内碑文より引用
 
          本 殿              社殿奥に祀られている境内社。
                              稲荷社だろうか。

        
 境内には、境内忍第7番巡礼札所と掲げられた旧施無畏寺(旧普門寺)観音堂が遺されている。

新義真言宗、上ノ村一乗院末。
土人云古は施無畏寺と号せしが、何の頃か寺号替れり。此施無畏寺と云は古き寺院にして、今忍の城内に掛し延慶
2
年の古鐘に、武蔵国崎西郡池上郷施無畏寺、冶鋳梵鐘一枚、右当□者、□組奉為関東右大□家御菩提所令建立也と彫り、末に願主正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏敬白と載たるは、則当寺の鐘にして、戦国の頃忍城へ持行陣鐘に用ひしものならんと云。さもあるべし、今はこの寺荒廃して庵室の如くになれり。本尊正観音を安ず
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

『新編武蔵風土記稿』に記されている「正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏」とはどのような人物であろうか。延慶2年は西暦に直すと1309年となり、鎌倉後期の時代である。「関東右大□家」は肝心なところが読めていないが、「関東右大将家」で、恐らく源頼朝のことであろう。(*北武八志には「関東右大将家」と記されている)吾妻鑑に頼朝の一周忌に際して関東に令して、「堂宇を建立して冥福を修せよ」とあるので、この時期の鋳造されたものであろう。
「藤原朝臣道敏」は如何なる人か、どの資料にも載っていないため、知る手掛かりはない。但し「正六位」という官位を持っていて、これは自称ではなく、中央の任命により官位が授けられた人物である。余程地元では有力な豪族であったことは、この官位任命により分かる。また嘗て頼朝の恩顧を受けた人の子孫なのであろう。銘文に「曩祖」とあるから、道敏の祖先が建立したものである。
 加えて「藤原朝臣」と名乗っている所から、この人物は「成田氏」の一族で、しかもその長である可能性が高い。藤原道長とする説と藤原基忠とする説とに分かれるようだが、どちらも藤原北家から出ていることには変わりない。

 ところで時代は下り、元弘の変(1333)で鎌倉幕府が滅亡し建武新政が成立したが、それも新政府の失政が原因で崩壊したのち、成田氏の嫡流は本領成田を没収され庶流に預けられた。この庶流こそ、武蔵七党の一つ丹党の安保氏である。
 安保氏は、安保実員の庶子・信員が成田家資(「成田系図」上での家助)の娘を娶(めと)って成田氏と姻戚関係になっており、信員の孫・行員が祖母を通じて成田氏の所領を継承していた。行員の子・基員は成田氏を名乗り、基員からその子・泰員への継承時には成田氏本領である成田郷も所有している。このため、安保氏庶流の一族が姻戚関係によって没落した御家人成田氏の領地や名跡を継承していったとみられ、成田系図上は鎌倉期から一貫して続いている戦国時代の忍 城主成田氏は、実は安保氏系だと考えられている。
 但し経歴を考慮すれば「藤原氏」を名乗る方が系図的にも見栄えが良いため、始祖を「藤原氏」として面々と続いているように見せたのではなかろうか。
「左衛門尉」という官職名は、日本の律令制下の官職のひとつで、左衛門府の判官であり、六位相当の官職であるのだが、「成田氏」には多く排出されているように見えて、その実は「安保氏系」にも多いことも事実である。

 梵鐘を冶鋳した年代が1309年というのも何か曰くがありそうである。というのも鎌倉時代北条家が滅び、藤原系成田氏の本家が衰退するのが1333年であり、丁度24年前に当たる。
「正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏」は「藤原氏」なのか「安保氏」であるか、微妙な時期であろう。但し最低でもこの時期には「安保氏」の誰かが、成田氏・庶流となっていたことは確かであろう。そうでなければ本流が衰弱して、庶流が継いだ時には、その多くの一族からも認められた地盤がなければ、本流を名乗ることすら出来ないからである。

 長々と綴ってしまったが、本来歴史を探求する際に必要なことは、第一級資料である遺物等をまず中心において、付随的にはより古い書物等を参考にしなければいけない事と思っている。書物等は編集を何度も繰り返すことにより、編集時の新しい発見や、場所名の変遷、地形の変化、編集者当人の偏見等により、変わってしまうことが度々ある。
「藤原朝臣道敏」という人物がどの系図書簡にも登場しないからといって、「系図に載っていない人物はデタラメ」と簡単には言い切れないし、今回梵鐘に刻印された一文字 〃 が、何事にも代え難い第一級資料であり、まさに時間軸が固定された「生きた証人」となりうる貴重な存在と考察する。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本デジタルアーカイブス」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    Wikipedia」「境内碑文」等
  

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