古社への誘い 神社散策記

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明用三嶋神社古墳

        

三嶋神社古墳(みしまじんじゃこふん)は、埼玉県鴻巣市にある前方後円墳。


・全長55m。 
・後円部直径27m、高さ1.5m。 
・前方部幅15m、高さ1.8m。
 墳頂に三嶋神社が建立され、墳丘は変形を受けている。1875(明治8)に地元民により後円部から横穴式石室が掘り出されたと伝えられ、社殿の前に敷かれた緑泥片岩は石室天井石と思われる。1959年(昭和34年)116日付けで吹上町(当時)指定史跡に指定された。
 1983年(昭和58年)発掘調査が行われ、墳丘や周溝から円筒埴輪、馬形埴輪、人物埴輪が出土した。6世紀後半の築造と考えられる。                   (Wikipediaより引用)
        
  
 拝殿前の階段下右側には石室の石材である  拝殿前の階段下左側には三島神社古墳の案内板 
     緑泥片岩が置かれている
         
鴻巣市指定文化財(史跡) 三島神社古墳             昭和34116日指定
 元荒川と荒川が分流する地点の自然堤防上に位置する市内最大の前方後円墳で、墳丘主軸をほぼ南北に置き、北側が後円部、南側が前方部と考えられる。墳丘はすでに大きく削られ、埋葬施設である横穴式石室は古く破壊されている。石室の石材である緑泥片岩及び凝灰岩質砂岩は、三島神社本殿前の参道及び正面右側に置かれている。
 墳丘の規模は、昭和58年の周溝確認調査によって主軸長約55m、後円部径約3mであることが判明し、墳丘及び周溝中から多量の埴輪片(円筒・馬形)が検出された。
 本古墳の築造年代は横穴式石室、埴輪の特徴から6世紀後半と考えられる。出土した埴輪は、南東6キロメートルに位置する生出塚埴輪窯から供給されたことが明らかになっている。

 平成286月                          鴻巣市教育委員会より引用
         
               
社殿のある前方部から後円部方向に撮影

古墳時代、さきたま古墳群では5世紀後半築造の稲荷山古墳礫槨と粘土槨に舟形木棺が用いられていて、埋葬者と何らかの点で河川、海との関係性があった事が指摘され、また同古墳群内で6世紀後半に築造された将軍山古墳の横穴式石室には、千葉県富津市保田から鋸南町金谷付近で採集された、所謂「房州石」が、遥々120㎞の距離で運ばれている。舟運による交易が行なわれていたと仮定するならば、当然需要と供給の論理が成り立つことは当然であることで、千葉県木更津市金鈴塚古墳の箱式石棺の石材には長瀞付近で採石されたと考えられる緑泥石片岩が供給されていることを考慮すると、当時のさきたま古墳群を築いた首長権力者は荒川や元荒川を介して、房総半島との双方向の水運を長い期間保持していたことが推測される。
 
最近さきたま古墳群の鉄砲山古墳(前方後円墳 主軸長109m)の横穴式石室入口部が調査され、壁体に群馬県・榛名山二ッ岳噴出起源の角閃石安山岩5面削り石の使用が判明し、7式には行田市・八幡山古墳の巨大石室の壁体にも使用されているとの事から、利根川の水運(こちらは利根川支流である会の川等中小河川を使用したか)で上毛野地域とも繋がっていたとも考えられる。

 明用三島神社古墳は元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。低地に古墳を築造したことには特別の事情があったと思われ、そこには埋葬者と荒川との強い関係性を反映するものと考える。

 明用三島神社古墳から南東方向に
8㎞程行くと生出塚埴輪窯跡が存在する。この窯跡は、古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡で、1976年(昭和51年)に埴輪窯跡が確認され、1979年(昭和54年)には埼玉県教育委員会の発掘調査が開始されて、以後、現在まで分布調査や発掘調査が40回以上にわたっておこなわれているが、遺跡内から40基の埴輪窯跡および2基の埴輪工房跡、および、粘土採掘坑1基、工人と思われる人びとの住居跡9軒、土坑1基などを確認していて、出土品は国の重要文化財に指定されている。

 この埴輪窯跡で生産された埴輪の分布では、行田市の埼玉古墳群、坂巻
14号墳はじめ埼玉県内の諸古墳、また、千葉県や東京都、神奈川県など東国とくに南関東各地の古墳から、生出塚埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が出土している所から見ても、埴輪を遠隔地の古墳へ長距離運搬するに際しては、河川や海などの水上交通が重要な役割を担っていたものと考えられる。

 生出塚埴輪窯跡は大宮台地端部北側傾斜面上にあり、これに沿って流れる元荒川までの距離は現在約
1.0㎞であり、
明用三島神社古墳は元荒川と荒川が結合する地点に築造されている。何か関連性はないだろうか。
         
 荒川は瀬替え以前、元荒川と繋がっていた時期があり、それが56世紀であり、この明用三島神社古墳は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い見解もある。

 最近の調査では元荒川が吹上町市街地の東南方面、前砂地区から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その蛇行河跡は自然堤防も伴ったのだろうか、不思議と現在も道路として残っている。

 明用三島神社古墳は横穴式石室の構造から
6世紀後半の築造と推測されているが、もうその頃には、運河的な河川は機能され、そこから上がる財も大きかったのではなかろうか。


 

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