古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本町吹上神社

『新編武蔵風土記稿』では吹上村に関して以下の説明がある。

「吹上村は江戸よりの行程十四里。郷名(箕田郷・箕田庄)と検地(慶長十二年伊奈備前守・延宝五年山岡十兵衛)は前村(前砂村)に同じ。広さは東西十六町、南北十町ばかり。東は前砂・明用の二村で、南は大蘆村、西は榎戸村、北は元荒川を隔て埼玉郡鎌塚・下忍の二村である。村内に中仙道の往還が通り、鴻巣・熊谷二宿の間の宿場になっている。又多摩郡八王子あたりから下野国日光山への往還も通っている。戸数百戸余、多くは街道の左右に並び建っている」

 上記のように吹上町は、嘗て日本の埼玉県北足立郡にあった町で、『風土記稿』の記述のように、中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・忍(現・行田市)に向かう日光脇往還の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地として繁栄した。2005年(平成17年)101日、北埼玉郡川里町とともに鴻巣市に編入された。
「吹上」の地名由来として、古くから諸説があり、確定的なものは無い。当地の上空で東京湾から吹いてくる海風と、北部山脈の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられたとの説があるものの、あくまで一学説である。
 この「吹上村」の鎮守様的な存在として本町に所在する社が通称「山王様」こと、吹上神社である。
               
             
・所在地 埼玉県鴻巣市吹上本町4-14
             ・ご祭神 大山咋命
             ・社 格 旧吹上村上分鎮守 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 2月下旬の日曜日 夏祭り 72223
                  例祭 
915 新嘗祭 1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1056572,139.4498252,17z?hl=ja&entry=ttu
 吹上本町はJR吹上駅を中心に東西に延びた地域であり、吹上神社はその西側に位置し旧中山道沿いに鎮座する社である。JR吹上駅から駅前通りと北上して一番目の「吹上駅前」交差点を左折、旧中山道で現埼玉県道307号福田鴻巣線を西行する。250m程進んだ「吹上本町」交差点を左折し、昔ながらの商店街のような町波を見ながら暫く進むとJR高崎線の路線が見えてくるがその手前右側に吹上神社が見える。
 因みに吹上駅の裏道から地図アプリ等で行くと非常に近いのだが、道が狭く順路が説明しづらいので、今回は一般道を利用しての案内となった。
 昔ながらの街道故か、境内は東西に長いようだが、中央にある鳥居には車止めがあり、また周辺には専用駐車場はない。吹上駅の駅前通りを北上して右側にあるコンビニエンスストアで買い物をした後に、参拝を行う。
               
                                   本町吹上神社正面
               
              鳥居の右側で道路沿いにある案内板
吹上神社
御祭神
大山咋命  別名山末之大主神と言い、 比叡山に座す建國に功労のあった神
倉稲魂命  食物を主宰する神
素盞鳴尊  神性勇猛な又災厄祓除の神
大物主命  大國主命の和魂称を奉る御名
菅原道真公 学問の神
由緒
当日技社は宝暦六年七月火災により焼失す、その後再建年月不詳
明治六年四月村社に列せらる
同四十年四月十六日大字中耕地稲荷社同境内社八坂社、字下耕地氷川社同境内社琴平荘天神社の五社を合祀す
当社は近江國大津市坂本の日吉大社 (山王社)より神霊を分かち奉待して参りましたが、明治四十年右五社を合せ吹上神社と改称す
                                      案内板より引用


 吹上神社の主祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)である。この神は日本神話に登場する神で、大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の間の子。『古事記』、『先代旧事本紀』「地祇本紀」では大山咋神と表記し、『古事記』では別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と伝える。
 名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。
『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。「日枝山」には日吉大社が、松尾には松尾大社があり、共に大山咋神を祀っている。
 大山咋神の別名は山王(さんのう)という。これは中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に倣ったもので、比叡山には、本来山の全域において、大山咋神の他にも多数の神が祀られていたが、その後天台宗が興した神道の一派を山王神道といい、後に天海が山王一実神道と改めた。戦国時代初期、太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
               
           鳥居の左側には「吹上神社 御由緒」の案内板もあり。
 吹上神社 御由緒 吹上町本町四-一四-二六
 □御縁起(歴史)
 吹上は、北足立郡の最北端に位置し、その地名については、風で砂が吹き上げるところから生じたものとの説がある。古くからの集落は中山道に沿って続いており、江戸時代には中山道の熊谷・鴻巣の両宿間の立場が置かれ、更にその地内で中山道と日光脇往還が交わることから、交通の要衝として繁栄した。
『風土記稿』吹上村の項には「山王社 村内上分の鎮守とす、東曜寺持」「氷川社 小名遠所の鎮守なり、持宝院持」「稲荷社 下宿の鎮守なり、東曜寺持」と、鎮守が三社記されている。このように、江戸時代にあっては、村内を三分し、各々で鎮守を祀っていたが、最も規模が大きかったことから社格制定に際しては日枝社(神仏分離により山王社が改称)が村社となり、他の二社は無格社にとどまった。更に、政府の合祀政策によって明治四十年四月十六日付で、氷川社と稲荷社は日枝社に合祀され、これに伴い、日枝社は村名を採って吹上神社と改称した。年配の人が当社を「山王様」と呼ぶのはこうした経緯によるものである。
 ちなみに、氷川社の跡地は本町二丁目の遠所橋のすぐ南に、稲荷社の跡地は鎌塚二丁目の新宿橋のたもとの所にあり、いずれも祠が建てられている。また、日枝社については、『明細帳』に「宝暦六年(一七五六)七月火災焼失す其後創立年月不詳」との記録が載る。
 □御祭神と御神徳
 ・大山咋命…五穀豊穣、健康良運
                                      案内板より引用
               
            鳥居を過ぎると正面に吹上神社の拝殿が見える。
            拝殿を中央にして左側には社務所、右側には神輿殿が配置されている。

 境内は決して規模は大きくないが、玉砂利が敷き詰められ、また開放感のある社。掃除がゆきとどいているようで、清々しい雰囲気に包まれ、参拝も気持ちよく行うことができた。
 参拝当日は筆者の他にはだれも参拝客はいない静かな社だが、年越しや夏祭り等の季節の節目には、しめ縄や幟(のぼり)が飾られ、盛大に地域の祭りが開催されている。
 というのも、以前筆者は数十年前にこの吹上に居住していて、元荒川の桜や吹上神社の夏祭りを直に見てきている。また数年前までは仕事の関係で夏祭りに何度となく出かけていたり、元荒川の桜見物は毎年家族の年中行事となっている。季節等の行事に参加し、楽しみを謳歌できることはやはり人生には必要だ。
               
                     拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額            境内西側にある石碑群

 石碑群は左から三猿庚申塔、冨士浅間大神、不動明王・金毘羅大権現・愛染明王、冨士浅間大神。並びの後ろのある石像もあるが名称は不明。


 戻る途中元荒川に立ち寄り、桜の花見をしばし行った。『新編武蔵風土記稿』にも元荒川に関しての記載がある。

「元荒川 村の西北の方を流る、川幅十三間許、此の川にさが橋と称する橋あり、此の橋いかなるゆへにや、川の中央に塚の如くなる土台を築きて、それへ此方より長さ三間の石橋を架し、台より対岸へは土橋を架せり、これをもて当郡と埼玉郡との境とすといへり、さが橋はさかい橋と云転語なるべし」

                                  
元荒川沿いの桜並木                   
  正面に新編武蔵風土記稿に記載されている「さが橋」今では「新佐賀橋」が架かっている。
                      
                    新佐賀橋の案内板。土木遺産に認定されている。

 自宅への帰路途中、熊谷堤の桜も見物した。こちらも満開で、お客も平日にも関わらず大勢いた。
                         


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「こうのす広場HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」


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