古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

袋神社


        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市袋248
              
・ご祭神 稲田姫命
              
・社 格 旧袋村鎮守 旧村社
              
・例 祭 神武祭 43日 大祓 620日頃 12月 夏祭り 715日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0995013,139.4676917,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を北鴻巣方向に進み、埼玉県道307号福田鴻巣線が合流する「袋」交差点を左折する。この交差点付近には、県道沿いにショッピングモールや家電センターもあり、途中経路として最適な場所だ。交差点を左折後、道なりに300m進むと左側に袋神社が見えてくる。
 周辺は住宅街が並ぶ一角に鎮座する社。鳥居の先には駐車スペースもあり、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                    袋神社正面
 この地周辺を確認すると、袋神社の西側で、国道17号の東側に国道に沿うように元荒川の旧河道跡が残っている。昭和初期に行なわれた元荒川・支派川改修事業で、元荒川の蛇行区間を直した祭に残ったものという。現在旧河道の跡は、水辺公園として整備されている。
 袋地域は元荒川が北へ流れを変える部分の西側に位置し、地名は元荒川が大きく蛇行して袋状になっていることに由来するという。また周辺地域には「前砂」「砂山」という地名もあり、旧荒川の氾濫等で土砂を堆積された地形が地名になったことが伺え、どちらにしても河川に関連した地名由来であることは間違いなかろう。
 
          袋神社参道             参道途中には石祠群が並んで鎮座
                          左から天満天神 塞神 雷神 宇賀神
            
                    
袋神社碑
         袋神社碑      從三位勲一等男爵澁澤榮一篆額
        秩父之山嶢突兀崒然矗峙於莽蒼之中刀根之水渺瀰回縈汪焉奔注

        于廣野之間斯山斯水襟帯流峙闢成曠區曰武蔵野我下忍邨大字袋其
        一聨邑也古荒川之水還流為境形若括囊故名云居民素樸勤業奉公敬
        神四鄰嚮為規範郷内素有女體伊奈利諏訪天神雷氷川六祠歳時伏蠟
        敬祀奉誠明治四十五年官命合祀諸祠於女體神社大正二年改稱袋神
               社為一郷之珹隍越二年大正四年秋  天皇舉登極之大典郷人感誠
        醵資興工新構祠宇至五年二月工畢矣今試賽斯祠仰望秩嶺之矗峙乎
        天際俯覩刀水之貫流于曠野崇髙之氣勁正之節自生孤髙介特之風範
               顧日露之役壮丁従軍老弱報效闔郷一致使我閭閻永與山川媲美者咸
        敬神奉公斯倚也傳曰國之大事在祀與戒是此之謂歟銘曰(以下略)
               石碑文より引用
        
                     拝 殿
        
                                   袋神社 御由緒
 袋神社 御由緒 吹上町袋二四八
 □御縁起(歴史)
当地は元荒川が北へ流れを変える部分の西側に位置する。地名は元荒川が大きく蛇行して袋状になっていることに由来する。村の開発の年代は明らかでないが、慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』には一村として載る。また『元禄郷帳』には当村とは別に袋新田が見え、元禄十五年(一七〇二)以前に当村から分村したことがわかる。
 当社は、元は女体社と称していた。その創建の年代は明らかでないが、境内にある最も古い石造物は「奉寄進石燈籠 宝永五戊子年(一七〇八)十月日施主村中」と刻まれる社前の灯籠である。『風土記稿』袋村の項を見ると、村内の神社について「女体社 村の鎮守なり、祭神は稲田姫命、西福寺持、末社辨天〇諏訪社〇稲荷社〇雷雷社〇天神社 以上五社西福寺持」と記されている。これら各社の別当であった西福寺は、当社の南西五〇〇Mほどの所に堂を構える真言宗の寺院で、女体山阿弥陀院と号する。寺伝によれば、天正年間(一五七三-九二)のころ、指田三郎左衛門の地所に墓地を設け、その中に阿弥陀堂を建立した。
 その後、慶長十八年(一六二ニ)法印秀海の求めに応じて、その地に不動明王を本尊とする本堂を建立した。
 神仏分離を経て当社は明治五年に村社となり、同四十五年には字道上の諏訪神社、字前屋敷の伊奈利神社と氷川神社、字台の雷神社と天神社の計五社の無格社を合祀し、大正二年に社号を袋神社と改めた。
 □御祭神と御神徳
 ・稲田姫命…五穀豊穣、縁結び、家内安全
                                      案内板より引用

 袋神社のご祭神は稲田姫命という。正式名は櫛名田比売で、別名として奇稲田姫、稲田媛、眞髪觸奇稲田媛、久志伊奈太美等与麻奴良比売命との記載もある。櫛名田比売(くしなだひめ)は、日本神話に登場する女神であり、高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオが、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われている大山津見神の子である足摩霊(アシナヅチ)・手摩霊(テナヅチ)の夫婦と、最後に残った娘である櫛名田比売と出会う。夫婦の話によると、もうじき最後に残った末娘の櫛名田比売も食われてしまう時期なのだという。哀れに思うと同時に、愛しくなったスサノオは、櫛名田比売との結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出た。スサノオの素性を知らないアシナヅチとテナヅチは訝しむが、彼がアマテラスの弟と知ると喜んでこれを承諾し、櫛名田比売をスサノオに差し出す。その後スサノオによりその身を変形させられ、小さな櫛になり、スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦い退治する。
       
                 社殿の右側にある御神木
     袋神社のご神木であり、同時に「鴻巣市保護樹林」に指定されている銀杏の木

 名前は通常、『日本書紀』の記述のように「奇し稲田(くしいなだ)姫」すなわち霊妙な稲田の女神と解釈される。 原文中では「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)にその童女(をとめ)を取り成して~」とあり、櫛名田比売自身が変身させられて櫛になったと解釈できることから「クシになったヒメ→クシナダヒメ」という言葉遊びであるという説もある。さらに、櫛の字を宛てることから櫛名田比売は櫛を挿した巫女であると解釈し、ヤマタノオロチを川の神として、元々は川の神に仕える巫女であったとする説もある。
 もうひとつは、父母がそれぞれ手摩霊・足摩霊と「手足を撫でる」意味を持つ事から「撫でるよ
うに大事に育てられた姫」との解釈もあり、倭撫子(やまとなでしこ)の語源とされる。

 古事記、日本書紀共に記されているこの素戔嗚尊と櫛名田比売の物語は、天つ神と国つ神の結婚が、やがて日本を作った大国主尊の誕生に繋がるということを伝えたかったと考えられる。そしてその基盤こそが古くからの稲作儀礼であったことを強調するための物語といえるのではなかろうか。

       
              
社殿の左側で道路沿いにある御神木
     こちらも袋神社のご神木であり、同時に「鴻巣市保護樹林」に指定されている銀杏の木

  日本各地の多くの神社では、稲田の神として信仰を集めており、日本各地の神社で祀られている。そのほとんどが、全国にある氷川神社がその代表であるように、夫のスサノオや子孫(又は子)の大国主などと共に祀られているケースが多く、櫛名田比売を主祭神として単独で祀る社は少ない。
 鴻巣市袋地域に鎮座する袋神社は嘗て「女体社」と称していた。奇しくも埼玉県さいたま市緑区にある「氷川女體神社」と同じ名称であり、ご祭神も共に稲田姫命(櫛名田比売の別名)が祀られている。
 袋神社の持ち寺だった西福寺の山号は、「女体山」である。女体とは古代からの信仰であり、船霊を祀る場合が多いともいう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」


拍手[1回]


小谷日枝神社

 鴻巣市小谷地域は、荒川中流域の左岸に位置し、標高は16m18m弱と沖積低地に属している。周囲は一面田園風景が広がり、荒川土手上にはサイクリングや散歩、ウォーキングを楽しむ姿が多くみられる。
 当地域の南側を流れる荒川は、江戸時代前は現在の元荒川の流れが主流だった。江戸時代に入り、関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、現在の元荒川を流下していた河道を、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なったもので、「荒川の西遷」と呼ばれている。
 荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた反面、時に起こる大水はこの地域を直撃して堤防決壊を繰り返す。「吹上町史」等に記録された被害だけでも「安永9年(1780)」「万延元年(1860)」等度々水害に遭った。旧吹上町の地形は、市街地の北側より、南方向へ行くにつれ標高が緩やかに低くなるため、当地域は水害をまともに受け、水が引くにも時間がかかり、低湿地状態が長時間続くことになる。
「吹上町史」による地名由来として、「元禄年間までは『小屋』と書いたのも見えるが、低湿地を意味する『谷』のほうが適切であろう」と記載があるのも当然頷けるものだ。
 このように水害の被害が多発する小谷地域であり、当時の生活は当然苦しかっただろうと想像できるが、実はこの地区だけでも「市指定文化財」は「仁治三年双方式板碑」「小谷城跡」「小谷ささら獅子舞」の3つあり、更に2022217日「日枝神社本殿」も市の文化財に指定されている。文化財は人々が守り伝えてきた証でもあり、小谷に住んでいた先祖の方々が、苦労しながらも当地域の文化を大切にしていたことを如実に証明している生き証人でもあろう。
        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市小谷1505
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧小谷村鎮守 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 2月中旬頃 大祭 72425日 
                   
新穀感謝祭 1123日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0813999,139.4663012,16z?hl=ja&entry=ttu
 小谷地域は旧吹上町南部に位置する。「新編武蔵風土記稿 小谷村条」では「東は箕田村、南は糠田村及び横見郡今泉村にて荒川を境とす、西も又川を隔て、同郡一ツ木・地頭方の二村に至り、北は当郡(箕田郡)大芦・三町免・明用・前砂・中井の五村に接せり」と記載され、比較的広い地域であるが、地域の半分である荒川左岸一帯は土手で区切られており、土手から東側に住居が点在している。その地域中央付近に小谷日枝神社は静かに佇んでいる。
 地形を確認すると一ツ木荒神社のほぼ北方にあり、直線方向で1.5㎞くらいしか離れていないが、間に荒川が横たわっており、残念ながら直に通ずる道路はない。
 一旦明秋神社まで戻り、埼玉県道
76号鴻巣川島線に合流して北上し、糠田橋を越えて、「関東工業自動車学校」前の斜めに抜ける道を左方向に進み、「上武水路」に達した後は水路に沿ってまた北上する。イタリアンレストランを越えた次のT字路を左折し、西方向に500m程進むと小谷日枝神社の社叢林が見えてくる。
        
 
        小谷日枝神社正面         一の鳥居には「日枝神社」の社号額あり。
    一の鳥居と二の鳥居が近距離に立つ。
        
                                小谷ささら獅子舞の案内板
 鴻巣市指定無形民俗文化財  昭和四十年十一月十七日指定
 小谷ささら獅子舞
 主として五穀豊穣の祈願、悪疫退散の神事として各地で行われる獅子舞は、平安時代には宮廷や寺社で行われ、室町時代になって民間に広まった。
 それ以後はそれぞれの時代ごとの庶民の願望や土地ごとの気風などを反映させながら発展をとげていった。
 竹を細く割って作った「ささら」をすり合わせて踊る小谷のささら獅子舞は、三百年ほど前から伝えられてきたが起源は不詳である。
 豊作を神に感謝するとともに無病息災、家内安全を願って毎年十月中旬に日枝神社に獅子舞や棒術、刀術、槍術が奉納される。獅子踊りに入る前の様々な所作、寸劇、掛け声等はよくその型を伝えており、貴重な民俗芸能である。
 また、関東地方の獅子舞はほとんどが三頭で舞うが、この獅子舞は五頭であることが特徴である。      平成二十四年二月 鴻巣市教育委員会
                                      案内板より引用
 関東で風流の獅子というと3頭が多いが、こちらの獅子は5頭。昔は7頭で舞っていたというが、水害で2頭が流されてしまったと言われている。
        
                    境内の様子
      沖積低地に鎮座するためか、社殿には高台が造られ、周りは石で補強されている。
             
      参道左側には、江戸時代の俳人である加舎白雄の歌碑がある(写真左側の石碑)
 加舎白雄(かや しらお)は上田藩士加舎家の二男として江戸深川に生まれた。(元文3820日(1738103日)‐寛政3913日(17911010日))
 俳人として松尾芭蕉の真価を認め、芭蕉こそが俳譜の大成者であり、これからの俳譜は芭蕉風(蕉風)でなければならないことを主張、実践した人物である。
 今日「俳句=芭蕉」という小学生でも知る常識を、広く一般に定着させたのが白雄であったということである。
 実際に白雄の行動は、東奔西走し、広く全国各地に及び、芭蕉の歩いた土地はほとんど訪れているといい、その際にこの吹上の当地域にも訪れて詠んだと推測されている。

                              咲きしより冬野を超てとひし梅


        
                     拝 殿
 毎年のことなのか、兎年ということで拝殿の正面の壁には兎の絵が飾られている。鎮守社としての地域の方々との強い繋がりを感じると共に、印刷物でないほのかな人間の温かみを感じる絵柄だ。
        
                           拝殿手前に設置されている案内板
 日枝神社 御由緒 吹上町小谷一五〇五
 □御縁起(歴史)
 小谷は、荒川と元荒川の間の低地帯に位置する村で、古くは箕田村の一部であったという。その地内には、忍城主成田氏の家臣の小宮山内膳の居域と伝えられる小谷城跡があり、その近辺には、「城山」「小城沼」「元屋敷」「仕置場」たど、城に関係した地名が見られる。
 この小谷の鎮守として祀られてきた神社が当社であり、元来は山王社と称していたが、神仏分離によって明治初年に日枝神社と改めたが、氏子の間では今でも「山王様」と呼ばれている。『風土記稿』小谷村の項には「山王社 村の鎮守なり、稲荷社 天王社 雷電社 稲荷社」と載り、寺院との関連は記されていないが、恐らくは当社のすぐ西にある金乗寺が祭祀にかかわっていたと思われる。
 寛永六年(一六二九)に荒川の瀬替えがあるまでは、幾度も洪水に見舞われてきたためか、当社の創建に関する資料は現存しない。内陣に「正一位山王宮」と刻まれた金幣が安置されているところから、江戸時代には、正一位の神階を受けたものと思われるが、残念ながら、その時期は不明である。また、この金幣と共に、「正一位雷電宮」と刻んだ金幣も安置されているが、これは明治四十年に字上新田から合祀された雷電社のもので、この年、字堤根の阿夫利社と字八丁免の衢ノ神社も当社に合祀された。なお、当社は、小谷城跡から見て東北の方角にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との見方もできる。
 □御祭神と御神徳
 ・大山咋命…五穀豊穣、健康良運
                                      案内板より引用
 
      拝殿に掲げてある社号額        拝殿正面には新聞記事が掲示されている。
「国宝の聖天堂そっくり 眠る本殿に彫刻 同じ大工の制作か」
 鴻巣市小谷(こや)の日枝(ひえ)神社の覆い屋の中に、国宝の妻沼聖天山(熊谷市)の聖天堂にそっくりな本殿が眠っている。本殿を保護する覆い屋は長年"開かずの間"になっていたが、昨年氏子が掃除した際、本殿に聖天堂と同様の彫刻が四方に施されているのを見つけた。研究者は、聖天堂の建築に携わった大工や彫刻師との関わりを指摘している。
(中略)昨年5月に神社の総代が交代し、8月に総代長の佃三郎さん(71)や総代の吉田豊さん(71)らが、宮司の立ち合いで覆い屋の中を片付けた。すると、彩色が施された彫刻で本殿の四方が飾られていることが分かった。正面に竜、側面や背面に布袋や大黒、七福神などの彫刻。すごろく遊びの彫刻は妻沼の聖天堂とモチーフが共通している。氏子の依頼で現地を訪れた、ものつくり大学技能工芸学部建設学科の横山晋一教授は「屋根の形式も聖天堂の奥殿と同じ」と指摘する。
(中略)
門前で父の代から酒店を営む吉田さんは、神社への思いがひときわ強い。「この時代に総代になったことに使命感を感じる。(本殿を守ることが)達成できるように力を120パーセント振り絞りたい」と話している。
                        拝殿新聞切り抜き 「埼玉新聞」記事から引用
 
          拝殿前の両脇に並んで設置されている石灯篭、石碑等。
 
社殿の右側に鎮座する境内社・石祠。詳細不明。     社殿左側に鎮座する合祀社
                      左より三峰神社・稲荷神社・天満天神社・白山神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「広報こうのす 令和44月号」
    「大人の地域再発見誌 こうのす」「Wikipedia」「境内案内板」 

拍手[1回]


大間大野神社

 嵯峨源氏渡辺氏は摂津国西成郡渡辺里(大阪市東区渡辺町)より発生した一族であり、武蔵国足立郡箕田郷(鴻巣市)に移住して箕田源氏と称したと云う。嵯峨天皇の皇子である左大臣・源融(みなもと とおる)を遠祖とし、融の孫・源仕(みなもと つこう)の頃に武蔵守となって武蔵国足立郡箕田(現在の埼玉県鴻巣市北部)に赴任した。仕は同地に土着し、地名の箕田(みた)を苗字として武家(軍事貴族)となったという。
 箕田仕の子が箕田宛(みなもと あつる 号箕田源次)で、「今昔物語」で平良文(村岡五郎)との騎乗の弓矢による一騎打ちを行ったという説話で有名な武将だが、無位のまま21歳の若さで没したという。源宛の子・源綱(みなもと つな)は、出生したときは父が他界したために、摂津国川辺郡多田(現在の兵庫県川西市)で清和源氏の祖となった源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の猶子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現在の大阪府大阪市中央区)に居住し、それまでの源姓から渡辺綱と称し、渡辺氏の祖となる。
 渡辺綱の後裔とされる摂津渡辺氏は、摂津国西成郡渡辺津(現在の大阪市中央区)という旧淀川河口辺の港湾地域を本拠地として一族が集住したために、「渡辺党」と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与して瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に、摂津国住吉の浜(住之江の浜、大阪湾)で行われる天皇の清めの儀式(八十島祭)に従事すると共に、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したという。
        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市大間2-11-29
              ・ご祭神 大己貴命
              ・社 格 旧大間村鎮守 旧村社
              ・例 祭 鯉祭 21日 祈念祭 218日 例大祭 918日 
                   新嘗祭 1123日 大祓 12月吉日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0639906,139.4960803,16z?hl=ja&entry=ttu
 大間大野神社は鴻巣市大間地区に鎮座している。途中までの経路は鴻神社を参照。鴻神社からは「こうのとり通り」を高崎線高架橋を通り過ぎてから「大間4丁目」交差点を右折。その後300m程進み、右側にコンビニエンスストアのある信号のある十字路を左折する。
 周囲は住宅とビルの立ち並ぶ道路となり、交通量も多く、対向車両や自転車、徒歩での方々の往来にも気を付けながら200m程進むと「氷川山・大野神社」の看板が進行方向正面右側に見えてきて、そこを右折すると大間大野神社の鳥居、及び参道が見えてくる。
 駐車スペースは参道に沿って左側に数台分確保されており、そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                              大間大野神社 一の鳥居
 鴻巣市大間鎮座の社。今は住宅街の真ん中にひっそりと佇むこじんまりとした神社。元は氷川神社であり明治時代に大間地内の五社を合祀、北長野地内の四社を合祀。大間、中野地区の字を使い、大野神社と定めた。
 驚く程、住宅街にあり、参道の両脇には家やマンションが立ち並んでいて、その中を抜けるように境内が広がり、その先に拝殿、本殿等が鎮座している。
 

   参道右側に提示されている案内板。     住宅街の間をすり抜けるように参道が通る。
 大野神社記
 当社は元来氷川神社で祭神は須佐之男命・大國主命(大巳貴命)の二神でありました。
 第六十一代朱雀天皇(九二三~九五二)の御宇天慶元年正月箕田源氏の祖と傳えられる源の仕が造立した宮であります。
 鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました。
 当時は梅本坊別当後本習院となり慶安五年(一六五二年)、享保六年(一七二一年)、天保九年(一八三八年)と社殿の改修が行われたと伝えられております。
 明治六年四月村社、明治八年拝殿建立、明治三十七年九月五日境内(現二千五百坪)が社地となりました。
 明治四十年五月八日大間地内の無格社「天満社、浅間社、稲荷社、諏訪社」を合祀、大間の()と中野の()をとって大野神社と社名を定め、明治四十一年四月記念の合祀祭が行われました。
 明治四十四年一月七日神饌幣帛供進社に指定。
 平成五年九月拝殿改築奥宮修繕 完。
 大野神社古記
                                      案内板より引用

        
                                     二の鳥居
        
 住宅街をすり抜けるように参道が続いたが、二の鳥居を過ぎると社独特の風情ある境内が広がる。
 
     境内前で右手に見える手水舎          境内左側にある神楽殿
        
                                        拝 殿
 境内から拝殿までの間に2段の石段がある。思うに鎮座している場所は大間地域でもやや高台を選んで建立したのであろう。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額             拝殿向拝下彫刻  
 題字の周りに飾られたのマークが可らしい。   龍と鳳凰の彫刻が精密で凝っている。
        
                                      案内板
 大野神社 御由緒 鴻巣市大間三一二
 □御由緒(歴史)
『風土記稿』大間村の項に「氷川社 村の鎮守なり、別当を本習院と云(以下略)」と載るように、当社は元来は氷川神社と称していた。それを大野神社と改称したのは、明治四十年七月十八日のことで、同日に大字北中野字津門の村社津門社を合祀したことに伴うものであった。この氷川神社の由緒については、別当本習院の後裔で、神仏分離後は復飾して神職に転じた吉田家が所蔵する社記「大間氷川大明神縁起」に詳しく、その要点をまとめると次のようになる。
 当社は、天慶元年(九三八)に、嵯峨天皇の末流の渡部仕が大己貴命の託宣によってこの地に社を造営したことに始まるもので、長元三年(一〇三〇)には源頼義が平忠常の謀反を鎮めるために戦いを何度も挑んだが勝利を得られなかったため、当社に獅子頭を掛けて願成ることを祈ったという。また、神力によって、天永元年(一一一〇)に沼(現在の逆川)に沈んでいた阿弥陀像を引き揚げ、正嘉年中(一二五七-五九)の干ばつには雨を降らせ、延元二年(一三三七)には疫病を退散させるなど霊験あらたかであったが戦乱によって荒廃した。
 社記の記述はここまでであるが、その後、村の再興と共に神社も再建されたようであり、『明細帳』には天保年中(一八三〇-四四)及び明治十一年に再建され、明治六年に村社になった旨が記されている。更に、平成五年には社殿が老朽化したため、再建が行われた。
 □御祭神と御神徳
・大己貴命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用

 
 社殿左側に鎮座する境内社2社。詳細不明。    境内社内部を撮影。2社の間にある石祠は
                            正一位稲荷と冨士浅間神社。
 
 境内社2社の並びにある石祠群と屋根付き母屋の境内社(写真左)。石祠は左から「不明、八幡宮、八幡宮」と読める。右側に鎮座する母屋付きの境内社(同右)は、扁額らしい額はあるが、薄すぎて解読は不可能。但し本殿奥に鎮座している所から推測すると、旧本殿の可能性も否めない。
       
                 社殿右奥に聳え立つご神木
 大間大野神社は、天慶元年(938)に、嵯峨源氏流の渡部仕が大己貴命の託宣によって当地に氷川社を造営したという。
 時代は平安中期で、武士の勃興期と言われる時代。桓武平氏出身の平将門やその一族である平貞盛、俵藤太と呼ばれた藤原秀郷、清和源氏の祖といわれる源経基といった英雄、豪傑が活躍し、躍動していたこの関東で、同じ空気を吸っていたであろう嵯峨箕田源氏流の源(渡辺)仕という新たな人物がここで登場し、この社の創建に関わっていたとは、何とも神妙な面持ちでの参拝となった。
 と同時に今では埼玉の”嵐神社”としてファンの間では有名となった大野神社。勿論嵐のリーダーの大野智さんの名字が入った神社だから。嵐は2020年末で一旦活動休止となったが、まだまだ聖地として多くのファンが訪れる場所となっているようだ。
 久喜市鷲宮神社が「らき☆すた」の聖地で一躍有名になっているが、この大間大野神社にも同様な現象が今もなお続くのはいかにも日本人らしいといえるだろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」「大野神社公式HP」
    「境内案内板」


拍手[1回]


滝馬室氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市滝馬室1151
             ・ご祭神 素戔嗚
             ・社 格 旧瀧馬室村鎮守 旧村社
             ・例 祭 的祭り 112日 風祭り41日 祈年祭 55日
                  天王様 71415日 夏越大祓 728日 例祭 95日
                  新嘗祭 1123日 越年大祓 1228日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0500013,139.5026985,18z?hl=ja&entry=ttu
 原馬室野宮神社から西方向に進路を取り、「なのはな通り」に合流する。「なのはな通り」を北上し、「鴻巣市 中学校給食センター」の十字路を左折し、細い道路を荒川河川敷沿いまで進み、そこから「御成橋」方向に350m程北上すると社の鳥居が見えてくる。周囲は草地と畑。実は、ポビー祭りやコスモス祭り会場でもあるので、細いながらも意外と舗装路もあるので車でも行ける。
 実のところ「なのはな通り」を
500m程北上すると、滝馬室氷川神社の社号標柱に到着するのだが、そこは社の裏口であり、社の正面入口は荒川の河岸段丘に向いた西側にある。

 因みに「御成橋」の橋長は804.8mであるが、鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の川幅は2,537mあり、日本一と認定されている。というのも荒川自体の川幅は数十メートル程度だが、国土交通省は河川敷を含めた堤防間を「川幅」と定めているからだ。御成橋のたもとと吉見町の堤防に「川幅日本一の標」が建てられている。
        
         荒川を望む河岸段丘の上に鎮座する古社・滝馬室氷川神社
 社の東側「なのはな通り」からの進路では住宅地に佇む神社という印象だが、西側正面から望むと、第一印象として、祭り時期以外、全く人気のない寂しさも感じられる。但しその何とも言えない社周辺一帯の静寂な雰囲気が、一種荘厳さを醸し出しているようにも感じるから不思議だ。
        
                  神明系の一の鳥居
      社の鳥居と参道が川側にあるのが何か意味を持つのか非常に気になる配置。
 延暦年間(782805)坂上田村麻呂が悪龍退治をしたとの伝承もあるが、昔から暴れ川で有名である荒川を「悪龍」に例えて、荒川自体を神と崇めながら、時に起こる天災に対して、社を鎮座することにより神の怒りを鎮めようとしたのだろうか。
        
                         一の鳥居の先で左側にある「御手洗の地」
 
参道の左側には小川の清流の音が聞こえる。赤い鳥居の前に立派な石積みの階段の水場があり、斜面側の注水口から湧水が流れ落ちている。「御手洗の地」といい、更に滝となって水路に注ぎ、当地一帯の耕地を潤している。思うに大宮台地の北端部断面から湧いているのだろう。この滝が村名の由来「滝馬室」になったといわれており、古くから当地の重要な水源であったことが推測される。恐らく、いつのころからか当地に住み着いた人々が、湧き出る水の恵みを称えてその傍らに当社を祀ったものと思われる。ちなみに馬室は、この辺りは古墳が多く、古墳の石室を示す「むろ」から生じたといわれている。
        
                                                朱を基調とした両部形式の二の鳥居
        
                         荒川の河岸段丘を利用してつくられた石段。
            よく見ると石段の両脇にある狛犬は狼型である。
 
    石段の左側で斜面上にある不動明王(写真左)と紙垂の巻かれた石柱(同右)。
       後日調べてみると、この石祠は「弁財天」の祠であるという。
        
                     石段を登った先には段丘面が開け、境内が広がる。
        
                    境内の右側に設置されている「滝馬室的祭」の案内板
 鴻巣市指定無形民俗文化財 滝馬室的祭  昭和四十五年三月十日指定
 滝馬室の氷川神社に的祭(まといさい。まとうさいともいう)の神事が伝えられている。    延暦年間(七八二~八〇五)征夷大将軍坂上田村麻呂は東北遠征の途中、この地の住民に悪竜(大蛇)退治を依頼されたという。
 田村麻呂に追いつめられた悪竜は滝馬室常勝寺の山林にのがれ、桜の巨木に巻きついたので、田村麻呂は竜の目を射抜いて退治したという。竜の頭は氷川神社境内に、胴体は常勝寺に埋められた。ために常勝寺は竜蔵山と山号が付され、桜は蛇桜と呼ばれるようになった。
 的祭はこの口伝にちなんだ五穀豊穣の祈願祭であり、一時中断されていたが、貞享年間(一六八〇年代)島田常勝という人が復興し、氷川神社の祭礼として現在まで伝えられている。昔は、衣服に関しても直衣を着用するなど格調高く、儀式も厳しく、関係者は心身を清めてそれぞれに奉仕したようであるが、今はその点ゆるやかになっているのは時勢によるところである。
 的祭は例年一月十二日に執行されている。神事は氏神に祝詞を奏上した後、地元の十二歳になる子供たちが、葦の網代に蛇の目を描いた的をめがけて矢を射た後、氏子一同神饌物を食し豊作を祈願して終了となる。平成二十八年六月
                                      案内板より引用

        
                                       拝 殿
 
    拝殿左側に鎮座する境内社・須賀神社。     須賀神社の奥にある石碑、菩薩様等。
       
 境内社・須賀神社の左隣に聳え立つご神木ともいえる巨木。その根元には「金剛山」と彫られた石祠もあり。
        
              拝殿右側には案内板が設置されている。
氷川神社 御由緒  鴻巣市滝馬室一一五〇‐二
御縁起(歴史)
滝馬室は、隣の原馬室と共に、室町期‐戦国期に見える「馬室郷」の遺称地で、その郷名は『埼玉県地名誌』によれば、古墳の石室を示す「むろ」から生じたという。元禄年間(一六八八‐一七〇四)までに分村したらしく、『元禄郷帳』に滝馬室村と見える。
 当社は荒川低地を望む台地上に鎮座している。老樹に囲まれた境内の一角からは清水が湧き出し、「御手洗の地」となっており、更に滝となって水路に注ぎ、当地一帯の耕地を潤している。この滝が村名の由来になったといわれており、古くから当地の重要な水源であったことが推測される。恐らく、いつのころからか当地に住み着いた人々が、湧き出る水の恵みを称えてその傍らに当社を祀ったものと思われる。また、伝説によれば「延暦年間(七八二‐八〇五)坂上田村麻呂が東征の途次、農作物を荒らす大蛇を退治して、頭を当社に、胴体を地内の常勝寺に、尾は吉見町の岩殿観音に埋めた」とあり、当社と常勝寺のかかわりもうかがわせる。常勝寺は開山開基共に不詳であるが、境内には文永七年(一二七〇)「為種法入道也」などの古碑が残されており、古い時期の草創と思われる。
往時の別当は、当社隣地にあった真言宗吉祥寺で、常勝寺の末寺で竜泉山と号し、開山光瓊が天正十一年(一五八三)に寂している。
当社は寛延二年(一七四九)に神祇管領卜部兼雄から幣帛を受けた。
御祭神と御神徳
・素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
 
 
 拝殿右側に鎮座する境内社・愛宕(?)神社。         社務所だろうか。

 滝馬室氷川神社の社号標柱は境内東側の「なのはな通り」沿いに設置されている。住宅地の中に社は鎮座しているのだが、この社は何かおかしい。というのもこの社の配置は、住宅地に向いていなく、そっぽを向いている。その為当地の方々が参拝をするにしても、裏側ないしは横側からの参拝方法しかないからで、それでも正式な参拝を行うためには、一旦荒川河川敷に迂回しなければならない。
       
      「なのはな通り」に設置されている社号標柱、「滝馬室的祭」の標柱。
 滝馬室氷川神社は「西向き」の社である。「西向き」の社は「南向き、東向き」に比べて決して多いとは言えないが、多少は存在する。
 通常、神社は南か東を向いている。古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていた。
 中には東京都府中市に鎮座している武蔵国総社「大國魂神社」は「北向き」の社であるが、その由来は、永承6年(1051年)に、それまで南向きであった社殿を源頼義が北向きに改め、朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味があった。

 神様も同じように南を向くのが多いようだが、この他、御祭神に関係する方角を向いていたり、太陽の出る方角等各社の由緒によって向きを決めた神社もあるようだ。
        
                  滝馬室氷川神社の写真の中で一番のお気に入りの一枚

 滝馬室氷川神社は「鴻巣市指定無形民俗文化財 滝馬室的祭」神事が当地の五穀豊穣の祈願由来となり、毎年続けられている地元に根付いた行事でもある。
 当社では新年112日に実施される。新年に弓を射る行事は俗にいう【弓射儀礼】といい、全国にあり、現在も継承されている地域が少なくない。馬を走らせながら騎乗した射手が弓を射る流鏑馬は有名だが、多くは射手が立って(あるいは坐して)弓を射る神事が各地の寺社で行われてきた。
 宮中においては、古くから射礼[じゃらい]という祭祀儀礼が行われ、これを由来とする行事が近畿地方の結鎮[ けっちん]や四国地方の百手[ももて]などとして伝承されている。中世西日本の一の宮や地方の中核寺社における弓射儀礼が、宮座の行事として広まるなか、17世紀初めになると関東地方へも伝播したと考えられている。こうした行事は、関東で「オビシャ、弓祭、的祭、弓ぶち、天気祭、日の出祭」等と呼称され、ビシャには歩射、奉射、 武射、備射などの語が充てられている。いずれにしても、行事の本質は単なる弓の儀礼というわけではなく、地域の信仰や祭事などにおいて中心的な役割を担う頭屋の交代という重要な節目にあたり、過ぎし年を送り出して新たな年を迎えるという意味が込められている。あくまで地域の方々の行事に対する協力体制が整っていなければ、長期的に継続できないものである。
 したがって、本来は天地四方に矢を放つことによって空間(場)を浄め、更に特定の的を射抜くことによって、その一定地域において「暮らし」という時間軸の更新を図ってきたのではないかと考えられる。

        
                      西向きの参道と対をなす「狼」型の狛犬

 滝馬室氷川神社は、今でこそ「鴻巣市指定無形民俗文化財 滝馬室的祭」神事が地域の方々の団結力や協力もあり、継続されていて、まさにこの地域にとって「鎮守様」として日々の生活に密着した社として鎮座されている。また延暦年間(782805)坂上田村麻呂の悪龍退治伝説も相まって、淵源の歴史を感じる「重みのある社」としての風格も漂わせている。

 但し参道にある1対の「狼」型の狛犬には、上記の説明では解決できない「別物」の歴史も感じてしまうことも事実である。何度も記載するが、この社は「西向き」の社である。案内板等ではあくまで坂上田村麻呂の悪龍退治から「荒ぶる川」に対しての鎮魂の意味も込めて創建されたような「表歴史」が前面に出ているようだが、この「西向き」にはもっと奥深い信仰対象がその延長線上に存在していたように思えてくる。

 つまり、本来の鎮座意図、目的として、荒川上流部に鎮座する秩父三社(三峰神社・秩父神社・宝登山神社)の「狼信仰」に何かしらの関連性はないか、ということだ。荒川に対して社は向いているよりも、参道が向いているのはその遥か先、奥武蔵や秩父の山々なのではなかろうか。

 参道にある1対の「狼」型の狛犬以外何の根拠もない妄想の類かもしれないことを、あらかじめお断りしておく。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
   

拍手[2回]


原馬室野宮神社

 神道における神(かみ)とは、自然現象などの信仰や畏怖の対象であり、古来より「八百万の神」と呼ばれる多くの神が存在すると現代でも考えられていて、例えば山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(かわやがみ)、台所の神様(かまど神)等、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。あまりの多さ故に神々の中には、由緒のある神だが、名前自体の存在さえ知らなかった神も未だにいる。原馬室野宮神社に参拝するまで、恥ずかしながら「野槌命(のづちのかみ)」の名前すら知らなかったのは、正直なところ事実である

Wikipedia」で調べてみると、カヤノヒメは日本神話に登場する草の女神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神であると記している。
 神話上での話では、「神産み」において伊邪那岐命・伊邪那美命の間に生まれた。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、48柱の神を生んだ。
 神名の「カヤ」は萱のことである。萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市原馬室806
             
・ご祭神 野槌命
             
・社 格 旧無各社
             
・例 祭 元旦祭 11日 大祭 91日 大祓 1231日
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0463688,139.5056382,17z?hl=ja&entry=ttu
 原馬室野宮神社は同地区の原馬室愛宕神社から北方向に1㎞程の場所に鎮座する。一旦原馬室愛宕神社を北上し、「なのはな通り」に合流し、更に北上し、「馬室小学校」交差点を左折する。暫く直進し、最初の十字路を右折すると正面に原馬室野宮神社の鳥居が見えてくる。冬時期で午後の参拝の為か、天候は晴れだったが、社周辺、特に鳥居周辺は西日の関係でほの暗く感じた。
 鳥居の右側に適当な駐車スペースがあり、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                                 原馬室野宮神社正面
        
             ほの暗いためだろうか、本来鮮やかな朱の両部鳥居も暗く映っている。
        
             因みに反対側から撮影すると、鮮やかな朱の鳥居であることがわかる。 
 
         趣のある参道            拝殿の手前には案内板もある。
 野宮神社 御由緒  鴻巣市原馬室八〇六
 □ 御縁起(歴史)
 原馬室は、荒川東岸の低地から大宮台地の北西端にかけて位置する農業地域である。江戸時代には足立郡石戸領のうちで、当初は隣接する滝馬室と共に馬室村と称していたが、元禄年間(一六八八‐一七〇四)までに分村し、その地内に原野が多いことから「原」の字を冠したという。こうした鎮座地の地名の由来と、「野宮」という当社の社号との間には、深いかかわりが感じられる。
 当社は、この原馬室の中の谷津という字の氏神として祀られてきた神社であり、『風土記稿』原馬室村の項に「野々宮社 村内稲福院の持」と記されているように、江戸時代には滝馬室村常勝寺の門徒である真言宗の稲荷山稲福寺が別当として管理や祭祀を行っていた。稲福寺は、当社の南隣にあったが、神仏分離によって明治六年に廃寺となった。
 狭山市北入曾の野々宮神社社家の宮崎家や、日高市野々宮の野々宮神社社家の野々宮家には、「神武東征の際、先祖の三兄弟が朝命によって東国に派遣され、一人は入間(北入曾)に、一人は高麗(日高)に、一人は鴻巣に居を構え、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たった」との口碑がある。当社や当地には、これに類する伝承はないが、ここに伝えられる鴻巣の野々宮神社が、当社のことと思われる。
 □ 御祭神と御神徳
 ・野槌命…五穀豊穣、健康増進
                                      案内板より引用

 
     拝殿正面左側に掲げてある扁額       同じく右側には奉納額が掲げられている。
 
埼玉県には、野々宮神社が日高市野々宮と狭山市北入曽、そして野宮神社が鴻巣市原馬室にある。野宮、及び野々宮神社の総本社は京都市右京区嵯峨野にある「野宮神社」といわれている。天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であり、豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる
 天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王(平均12-13歳、最年少2歳、最年長で28歳)の中より新たな斎王が卜定され、宮中の初斎院で1年間、そして嵯峨野の清らかな場所を選び造営された野宮に入り1年間潔斎した後に斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)に向かい伊勢神宮での神事に臨んだという。
 
      社殿左側に鎮座する境内社・天神社      社殿右側には境内社・大黒社が鎮座
        
                         大黒社の奥にある富士塚
         塚上には富士浅間大神、中腹には小御嶽山、麓には庚申塔。
「斎王」としての本来の職分とは直接関係はないが、ご祭神を勧請し「分社」することは「八幡神社」「稲荷神社」「諏訪神社」「氷川神社」等でも行っている。日高市に鎮座する「野々宮神社」は、奈良時代(710年〜794年)に、宮崎を姓となした野々宮神社社家が、朝廷の命を受けて、倭姫命を奉斎し、入間路の警備と七曲井の管理にあたったことに始まるとされている。狭山市の野々宮神社も宮崎家が代々神職を勤めていて、朝廷の命により大日孁貴命と御杖代としての倭姫命の奉斎と入間路の警備及び七曲井の管理に当たったと伝えている。
        
                                拝殿から参道方向を撮影

 ところで原馬室野宮神社の御祭神は「野槌命」で、倭姫命ではない。案内板に記載されている「神武東征の際、先祖の三兄弟が朝命によって東国に派遣され、一人は入間(北入曾)に、一人は高麗(日高)に、一人は鴻巣に居を構え、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たった」との口碑とはどのような口碑であろうか。また神武東征の際に東国に派遣された「三兄弟」は誰であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」

拍手[1回]