古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

原馬室愛宕神社及び馬室埴輪窯跡

 鴻巣市には「馬馬室」「滝馬室」という「馬室」を共有する変わった地名が存在する。「馬室」と書いて「まむろ」と読むが、如何にも古代から存在しそうな由緒ある地名である。この地域の北方にも律令時代由来の雰囲気が漂う「糠田」地名があるが、地名というのは遺跡と共に、文献以上の地域の歴史を知るうえで貴重な資料となる場合もあり、また地形上の特徴を持つ性質もあり、災害にちなんだ名前をつけることによって、後世に危険を伝えようとしてきたといわれている場合もある。つまり地名にはその土地の地理などの歴史が集約されていると言ってもよいと筆者は考える。

 ところで「馬室」という地名は、室町期‐戦国期に見える「馬室郷」の遺称地で、その郷名は『埼玉県地名誌』によれば、古墳の石室を示す「むろ」から生じたという。
 別説では「馬室」は古くは「間室、真室、麻室」とも書いたが、室町時代に馬室に変わった。馬室の地名には、「戦国時代に武士から馬を盗まれないように隠していた穴に由来する」という地名伝説があるが、府会で「馬村」に由来すると言う。このあたりには古代から中世にかけて牧があったという。
 
「馬室」地域は律令制度以前の古墳時代前期からから埴輪製造拠点として早くから開発されていた地域の一つであることは「馬室埴輪窯跡」の発掘によって確かであり、製造するため多くの職人を抱え、定住場所を与え、製造した埴輪等を河川等交通ルートを確立して売りさばく「管理者」的な人物も存在していたであろう。
 今では初春の「ポピー祭り」や秋に開催される「こうのす花火大会」でのみ地域住民で賑わう鴻巣市の西南端部の長閑な地帯であるが、この「馬室」地域で大量の埴輪が製作された1,600年前には、馬室の登り窯から盛んに煙が立ち、人々が盛んに行き交っていたのであろう。そういう意味において歴史好きな筆者にとってはロマンあふれる場所でもある
「馬室埴輪窯跡」の東南約300mの北本市との境界近くに古墳らしき高台があり、その頂上に原馬室愛宕神社は鎮座している。
        
              ・所在地 埼玉県鴻巣市原馬室2825
              ・ご祭神 軻遇突智命 天照大神 素盞嗚尊
              ・社 格 旧原馬室村鎮守 旧村社
              ・例 祭 春祈祷祭 423日 灯明祭 723日 
                   夏例大祭 
724日 冬至祭 12月冬至
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0417884,139.5122043,17z?hl=ja&entry=ttu
 原馬室愛宕神社は鴻巣市西南側に位置する原馬室地域の南部に鎮座する。途中までの経路は小松原神社を参照。一旦西方向に戻り、埼玉県道57号さいたま鴻巣線に合流、150m程南下し、2番目の信号を右斜め方向に進む。暫く道なりに進路をとり、「鴻巣市 あたご公民館」を通り過ぎると「なのはな通り」の十字路に達するが、そこは直進する。一度は右方向に曲がるが、道路上は直進方向なので、そのまま進み、最初の十字路を左折するとすぐY字路の合流部となり、その前方右側に原馬室愛宕神社の社叢が見えてくる。
 愛宕神社境内には「愛宕自治会館」の他にも保育園もあり、平日は園児さんが境内を遊び場としているようだ。幸い参拝日は日曜日だったため、可愛い園児さんから怪しまれないで参拝できるのは幸運だった。愛宕自治会館の一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                原馬室愛宕神社 参道正面
       
 道路沿いに入口があり、その左側には社号標柱(写真左)、右側には埼玉県指定文化財である「原馬室の獅子舞棒術」の標柱(同右)が立っている。鳥居は参道の途中に立っている。
 埼玉県指定無形民俗文化財  原馬室の獅子舞  
 昭和五十四年三月二十七日指定
 原馬室の獅子舞は、家内安全、悪液退散、五穀豊穣を願って神前に奉納される民俗芸能で、竹を細く割って作った「ささら」をすり合わせて踊る獅子舞と棒術が組み合わされる。
 獅子舞は、天承二年(一五七四)にこの地を訪れた田楽師の山田右京助と橋本市左衛門の二人が伝えたといわれる。現在は年中行事となっていて、七月の『祈祷』と八月の『祭典』が奉納されている。(中略)
「棒術」は、宮本武蔵の二刀流、佐々木厳流(小次郎)の龍高流、柳生十兵衛で有名な新陰流の三流派の型を模したといわれる。演技には「四方固め」から「虎走り」まで三十の型があり、木刀あるいは六尺棒、時には真剣を使って、迫力のある演技が素朴に、時には滑稽に演じられる。
「獅子舞」は法眼獅子(男獅子)、中獅子(女獅子)、後獅子(男獅子)の三頭と花笠、笛方、歌方で構成され、五穀豊穣、天下泰平を祈願して奉納されるが、場所(舞庭)によって演目が異なる。
 舞には『野辺の道行』『深山のまどい』『弥生の遊山』『女獅子かくし』『岩戸の曙』などの演題が付けられていて、全体が筋立てのある演劇的な構成となっている。とりわけ『女獅子かくし』は中獅子をめぐって法眼獅子と後獅子が激しく争う筋立てとなっていて、早い調子の曲と動きの早い舞は勇壮で迫力があり、獅子舞のなかでも最大の見せ場となっている。
 この原馬室の獅子舞の技術を保存し、後世に伝えることを目的として原馬室獅子舞棒術保存会が昭和五十一年四月に結成された。保存会では『祈祷』『祭典』の実施・保存と後継者の育成などにあたっている。
                               原馬室観音堂の案内板より引用
        
                               原馬室愛宕神社 両部鳥居
 
   参道に並んで設置されている「力石」     石段手前左側にある「愛宕社改築碑」
 
  「愛宕社改築碑」左並びには境内社・天神社  参道を挟んで右側にある「保護地区指定標識」
        
                                     拝 殿
                   石段上に鎮座。古墳とも言われているが、詳細は不明。
 
    拝殿上部に掲げられている扁額       案内板は拝殿の壁と床に置いてあった。
愛宕神社 御由緒  鴻巣市原馬室二八二五
御縁起(歴史)
二年(一一〇五)の創立と伝えられる当社は、原馬室の鎮守として祀られてきた神社である。その由緒は、江戸時代初期に、別当妙楽寺の法印日誉が写した「原馬室愛宕神社愛宕山記」に、次のように語られている。
当社は、勝軍地蔵尊を祀るがゆえに、愛宕山と称する。武蔵小掾藤井元国は、常に勝軍地蔵の教化を願い、その霊地を訪ねていたが、ある夕、馬室郷を過ぎると、遥かに火の光が見えたので、その庵に泊めてもらうことにした。この庵主は老尼であったが、「汝は久しく勝軍地蔵を信ずるゆえ、今、姿を現すのだ」と言い、地蔵に身を変え、光明を広野に放ち、十界平等印と令法久住印とを元国に授けた。元国は、その後、長二年三月に山城国(現京都府)愛宕山を拝し、その神霊を彼の勝軍地蔵が出現した地に社殿を造営して祀った。更に、正慶二年(一三三三)に新田義貞が挙兵した際には、その臣の世良田利長が社頭に利剣を納めて戦勝を祈願し、貞和四年(一三四八)には武蔵権大目となった藤井行久が社殿を修め、神田を寄進した。
右の由緒のような経緯をたどり、当社は現在のような形を整え、地元原馬室の人々から村の鎮守として信仰されるようになった。『風土記稿』原馬室村の項に「愛宕社 村内の鎮守なり、妙楽寺の持」と記されているのは、そうした状況を記したものである。
御祭神と御神徳
・軻遇突智命…防火防災、商売繁盛
・天照大神  ・素盞嗚尊
                                      案内板より引用
       
                   拝殿左側脇に聳え立つ巨木。
 ご神木かどうかは不明だが、どのような場所にでもこのように逞しく成長する巨木の迫力に思わずシャッターを切ってしまった。 
        
                     石段の手前右側に鎮座する境内社・琴平社と稲荷社


馬室埴輪窯跡】

        
                        ・所在地 埼玉県鴻巣市原馬室
             ・形 態 埴輪窯跡
             ・時 期 古墳時代中期~後期(5世紀後半~6世紀末)
             ・指 定 埼玉県指定史跡 
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0359341,139.5087811,19z?hl=ja&entry=ttu
 原馬室愛宕神社より南西方向300m程の近郊にあり、荒川を望む台地の西端部斜面に築かれた登り窯跡である。これまでの調査から、最大 10  13 基の窯で構成されていると考えられている。
 出土した埴輪は
 6 世紀後半を中心とするが、世紀の特徴を持つ埴輪も僅かに出土しており、操業は 5 世紀後半まで遡る可能性がある。これは市内の生出塚埴輪窯跡よりも操業が早くなり、埼玉県内でも最も古い事例とされる。
 キャンプ場の脇に埋設保存され、その位置と形が分かるように色を付けられた窯と説明板が整備されている。
       
 入口に設置されている「埼玉県指定史跡 埴輪窯跡 昭和九年三月三十一日指定 鴻巣市教育委員会」の標柱(写真左)と、「史蹟 馬室村埴輪窯址」の石碑(同右)。
        
                                 馬室埴輪窯跡 景観
        
                                       案内板
埼玉県指定史跡    
馬室埴輪窯跡  時代 古墳時代後期
古墳に埴輪を立て並べる風習は、古墳文化の中心地であった関西地方で生まれ、46世紀の約300年間にわたって北海道を除く全国各地で盛んに行われました。
埴輪には、円筒形、人物形、動物形、家形などたくさんの種類がありますが、その焼き方には大きく二つの方法があります。一つは、地面に浅い穴を掘って焚き火のように焼く野焼きで、日本では縄文土器が出現して以来の伝統的な技法です。もう一つは、馬室窯跡のように台地の斜面などを利用し、本格的なのぼり窯で焼く方法です。後者は5世紀の中頃に、朝鮮半島からわが国に伝わった新しい技術で、それが埴輪生産に導入されたものです。この窯を使って焼く方法は、一度に多量の良質な埴輪を焼くにはとても有効で、6世紀台に入ると関東地方でも広く普及しました。
馬室埴輪窯跡は、昭和7年に初めて正式な発掘調査が行われ、古墳時代の埴輪生産の様子を知る上でとても貴重であることから、昭和9年に県指定史跡に指定されています。
現在までに、保存地区周辺には10基以上の埴輪窯跡が確認され、台地上には埴輪工人(製作者)たちの集落も発見されています。このことから、工人集団のくらしを知る上でも大変重要な遺跡です。
ここで生産された埴輪は、箕田古墳群をはじめとして、荒川流域の古墳へ運ばれていたものと考えられていますが、埴輪を焼いていた期間は5世紀後半~6世紀末までの約120年間であったものと思われます。 平成43月  埼玉県教育委員会・鴻巣市教育委員会
                                      案内板より引用
        
           コンクリートで固めてある部分(V字型)が嘗ての窯跡という。
        
                         馬室埴輪窯跡から荒川左岸土手を望む。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉県地名誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」

拍手[1回]


小松原神社


        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市小松1-10-18
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧原馬室村枝郷小松原鎮守 旧無各社
              
・例 祭 初午祭 3月初午 大祓 630日・1230日 
                   例祭 
721日
        地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0427205,139.5205937,18z?hl=ja&entry=ttu  
 上谷氷川神社から一旦軟化をして17号国道「深井」交差点を直進。旧中山道付近から左カーブ状に道は曲がっていくが、そのまま進む。その後踏切を越えて、右側にコンビニエンスストア、歯科病院が見えた先の十字路を左折すると、小松原神社が左手に見えてくる。
 社の入口には鳥居があり、その左手には案内板が設置され、並びには駐車スペースも確保されており、そこに車を止めてから産廃を行った。
 
  鳥居の左側にある社号標柱と社の案内板        小松原神社 正面

 この小松原神社周辺は、以前は鬱蒼とした森の中に鎮座する社だったのだろう。しかし近年の一戸建て住宅や団地等が造成され、昔とは環境が大きく変わりつつあるような印象を強く受けた。
        
                  小松原神社 案内板
 小松原神社 御由緒 鴻巣市小松一‐一〇‐一八
 □ 御縁起(歴史)
 当社の鎮座する小松原は、古くは小松原村と称する一つの村であったが、後に原馬室村の枝郷となり、更に明治四年に原馬室村に合併してその大字になった。この小松原の地内には、上・中・下の三つの組があり、上では愛宕社、中では稲荷社、下では別の稲荷社と、各々組ごとに鎮守とする神社を祀ってきた。
 こうした状況は長い間変わらなかったが、「境内編入願」によれば、明治二年の地租改正の際、政府の達しに従い、中組の稲荷社に上組の愛宕社と下組の稲荷社を合祀し、社名を小松原神社と改称の上、小松原村の村社としたという。明治四年に小松原と原馬室の両村が合併した後も、旧小松原村の人々は小松原神社を鎮守として祀り続けていたが、当時の村吏の誤解により、社格は無格社となった。『郡村誌』原馬室村の項に「小松社平社(中略)村の東にあり迦具土命を祭る祭日七月廿一日」とあるのは、その当時の状況を表すものである。
 村社の社格は、当時の社掌千葉松彦や総代が努力したにもかかわらず回復することはできなかったが、明治二十九年には拝殿を再建し、同三十七年には境内両脇の土地三九五坪を境内に編入して環境を整備するなど、かつての村社としての威厳を保つべく努力が続けられた。なお『明細帳』では、右の書類とやや異なり、明治六年に、字松原の愛宕社を中組の稲荷社に合祀して小松原神社と改称したとある。
 □ 御祭神と御神徳
 ・倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板から引用
        
                                   神明系の鳥居
 
         広々とした境内            参道右手には社務所だろうか。
        
                     拝 殿
       
               拝殿右側手前に聳え立つご神木
 
  社殿手前で左側に鎮座する境内社・天神社        社殿手前で右側に鎮座する境内社・雷電社

 境内社である天神社・雷電社は、元々は受法院(現小松原大日堂)境内に祀られてもので、明治維新後の神仏分離に際して当地へ遷座し祀られたという。


 小松原地域は『新編武蔵風土記稿』によると、「原馬室村枝郷」として記載され、地形的に原馬室の東方に接していて、正保年間(164448)に江戸幕府が諸大名に命じて国単位で作らせた国絵図である「正保国絵図」では「小松原村」と載せ、元禄10年(1697年)から開始された「元禄国絵図(風土記稿では元禄郷帳)」には「原馬室村の内小松原村」と記していて、時代と共に小松原村の立ち位置が変化している。そもそもこの村自体が小さかったのも原因だったのだろう。風土記稿では「東西三町、南北五町程、民家は三十六」と記されている。
「町」は尺貫法での長さ(距離)または面積の単位である。長さの単位では「丁」とも書き、条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に63寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200 m11町と定めた[2]。したがって1町は約109 m1 kmは約9.17町となる。
 対して面積の場合「町歩」と区別して表現するので、「風土記稿」の表記から、「町」は長さの表記方法で「東西三百町=330m、南北五町=550m」程になり、現在の鴻巣市小松地区の南北を半分くらいにした程度、小松原神社を中心にした小さな地域だったのだろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
 

拍手[1回]


下谷氷川神社

 鴻巣市内に残る豊かな緑は、生き物の生産場所となるほか、レクリエーション活動の場や災害時のオープンスペースなど、市民生活に安らぎと潤いを与え、都市の安全性を確保、向上させる等、様々な効果が期待されている。
 市では「鴻巣市緑化推進条例」を基に、市内の身近な緑を守り育むため、保護地区として、愛宕神社(原馬室地内)、赤城神社(赤城地内)、小松原神社(小松1丁目地内)、城山(大間地内)の4 か所(1.85ha)が指定されていると共に、保護樹木として寺社境内地のものを中心に保全に努めている。この制度は、良好な環境を保っている緑地や巨木、希少な樹木を指定し、所有者に適正な管理を行う努力義務をお願いするもので、保全のための奨励金を市から交付しているという。
 下谷氷川神社境内の「シイ」の木も保護樹木として指定されている巨木であり、社にとっては大切なご神木でもある。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市下谷484
             ・ご祭神 素盞嗚尊
             ・社 格 旧南下谷村・中下谷村・北下谷村鎮守 旧村社
             ・例 祭 元旦祭 11日 春祈祷 44日 天王様 714日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0536689,139.539303,16z?hl=ja&entry=ttu
 上谷氷川神社から一旦北東方向に進路をとり、T字路を右折する。道なりに500m程進むと変則的な3つ又の交差点に到着する。交差点左側手前にはコンビニエンスもあり、そこが目印となる。そこの真ん中の道を進み、200m程過ぎると左側に下谷氷川神社が道路に沿うように鎮座している。上谷氷川神社から1㎞もないほど至近距離に位置する。
 鳥居や社号標石碑がある正面の北側に専用駐車場があり、そこの一鶴に車を停めてから参拝を行った。
        
                             下谷氷川神社正面
 
 比較的長い参道を進む。両側には朱色の灯篭が並び、奉納者名の記載されている(写真左・右)。神社の案内板によると、かつては参道の両側は杉の大木が並び立っていたようだが、昭和41年(1966)の台風でほとんどが倒れてしまったという。代わりに灯篭を並べたとの事だ。
        
                            参道沿いに設置されている案内板
 氷川神社 御由緒 鴻巣市下谷四八四
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の下谷は、『鴻巣宿深井家譜』に「六郎次郎景高下谷にて戦死」と見え、かつて地内にあった熊野社の天正十一年(一五八三)の鰐口の銘にも「武州上足立下谷宮」と彫られていたように、戦国期には既に開発され、一村をなしていたと思われる。その後、元禄年間(一六八八-一七〇四)までに北下谷村・中下谷村・南下谷村の三か村に分かれ、明治四年に再度合併して一村になった。
 この下谷全体の鎮守として祀られてきた神社が当社であり、『風土記稿』南下谷村・中下谷村・北下谷村の項には「氷川社 南下谷にあり、三村の鎮守なり」と記されている。当社の境内は、実際には北下谷の地内にあるため、この『風土記稿』の記事の中の「南下谷」は、「北下谷」の誤りではないかと思われる。
 一方、『明細帳』によれば、当社は宝永七年(一七一〇)に再建され、明治六年村社に列せられたことや、同八年一月五日に焼失したが同年五月二日に再建されたこと、明治四十年に西中曾根の村社氷川社など六社を合祀したことなどがわかる。その後は、昭和二十八年に拝殿と本殿覆屋が新築された。更に昭和四十一年には、台風で参道の両側に並び立っていた杉の大木のほとんどが倒れてしまったが、後に植樹が進められ、現在は立派な杜となっている。
 □御祭神と御神徳
 ・素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
       
                       社殿右側奥に聳え立つご神木。鴻巣市指定保護樹木。
 
社殿右側に鎮座する境内社・日枝神社(山王様) 社殿左側に鎮座する境内社・八雲神社(天王様)
        
                                    趣のある境内。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等   

  

拍手[1回]


上谷氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市上谷2258
             
・ご祭神 素盞嗚尊
             
・社 格 旧上谷村鎮守 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 218日 例大祭 415日 新嘗祭 1123日
                  
大祓 1229
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0565811,139.5355908,18z?hl=ja&entry=ttu
 上谷氷川神社は国道17号線を北本市街地方向に進み、「深井」交差点を左折。700m程道なりに進むと、道路沿い左側に上谷氷川神社の社叢が見えてくる。
 正面参道の南側には適当な駐車スペースも確保されている。その一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                             道路沿いに鎮座する
上谷氷川神社
        
                 東南方向に鎮座する社。静かな空間が辺りを包み込むようだ。
        
 参道右側には力石が3個あり、そのうち2個には奉納年、重量等が彫られている。また簡単な案内板もある(写真左)。
左側の石  「奉納宮石 四十三メ日 元禄九子年上谷村〇〇〇」
真ん中の石「奉納御宝前 元禄十四年正月吉祥日 三十四貫目上谷村」
銘 力石
奉納
元禄 9年(1696年) 重量43貫(161.25㎏)
元禄14年(1701年) 重量34貫(127.5㎏)
・徳川5代将軍綱吉の頃
・昔の人達はこのような石で力だめしをしたそうです。                   案内板より引用
        
                                 上谷氷川神社 案内板
氷川神社  御由緒 鴻巣市上谷二二五八
御縁起(歴史)
上谷の地内の北の方の小名を竜灯と呼び、その由来を『風土記稿』は次のように載せる。古くはこの辺りに大きな沼があり、年久しく竜が棲んで、光を放ち、田畑を荒らすなどして耕地の妨げをしていた。天正のころ(一五七三-九二)岩槻の浪人立川石見守という強勇の者が、この竜を退治したことから村民は喜び、それにちなんで小名を竜灯と名付け、後にこの沼を埋めて水田を開いた。彼の石見守は、村の旧家弥七の先祖であるという。ちなみに、地内にあった真言宗宝性院(明治初年廃寺)の開基は、この立川石見守であると伝えている。
当社は上谷の鎮守として祀られており、創建の年代は明らかでないが、村の開発が進められる中で勧請されたものであろう。本殿に奉安する神鏡には享保二十一年(一七三六)の銘が見える。また、『風土記稿』上谷村の項には「氷川社 村の鎮守なり、末社 天神社 稲荷社 別当千寿院 本山派修験にて南下谷村大行院の配下なり、本尊不動を安ず」とある。
神仏分離後、当社は明治六年に村社となり、同四十年に字西ケ谷の厳島社、字上川面の稲荷社、字郡田の須賀社の三社の無格社を合祀した。このうち厳島社は当地と下谷・宮内の旧三か村の村境にあった池の傍らに祀っていた社である。また、稲荷社は、大雨による荒川の度重なる氾濫を憂えた天台宗台蔵院(明治初年廃寺)の開祖傳法上人が風雨順時と五穀成就の守護神として祀ったと伝える。
□御祭神と御神徳
素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用

        
                                         拝 殿
       
             拝殿前に聳え立つ銀杏のご神木。鴻巣市の保護樹林に指定されている。
 参拝時は1月の真冬故に葉も全て落ち、厳しい風雪に耐えるが如く、幹や枝のみの姿しか拝見できなかったが、新緑の季節ともなれば葉が大木を覆うようにびっしりと茂るのだろう。巨木、老木に属しているだろうが、それでも木の生命力の強さを感じずにはいられない。
 
 社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。         社殿奥には石祠1基。湯殿山大権現。

     
 鴻巣七騎という、武蔵国足立郡の鴻巣郷周辺に土着した家臣団の中に立川石見守という人物がいる。岩付太田氏に仕え小田原征伐の後に当地に土着したものと考えられるが、記録を失い詳細は定かではないという。
 それでも新編武蔵風土記稿上谷村条には「旧家弥七、立川を氏とす。石見守が子孫なりと云ふ。立川は武蔵七党の内、西党駄所宗時の子に立川宗恒見えたり。子孫宮内少輔照重は小田原北条に仕へ、天正の乱に滅亡せしものにて、多摩郡柴崎村普済寺境内は此の照重が塁跡なりと、彼寺の伝へにのこれり。思ふに石見守は照重の一族にして、岩槻の城主太田氏の旗下に属し、天正の乱に没落して当村に土着せしものなるべけれど、家系を伝えざれば定かなることは知べからず」と見え、この一族の本来の本拠地は多摩郡立川郷柴崎村(現東京都立川市)であったようだ。
        
                社殿右側奥にある庚申塔等
 ところで上谷に龍燈という小字がある。ここに大きな沼があり農民を困らせる龍が棲んでおり、天正の頃に岩槻の浪人立川石見守が退治し、村人はこれを悦んで龍燈と名づけ、沼を干拓し水田としたという伝承・伝説が風土記稿上谷村条を通して今でも伝わっている。
        
                              拝殿から参道正面風景を撮影
 立川氏は、12世紀武蔵国内に成立した中小武士団である武蔵七党の流れをくみ、戦国時代に太田氏の旗下となったが、岩付落城で没落、上谷村に土着したことが「風土記稿上谷村条」に記されている。このような、竜退治の話は、全国各地に伝わるが、いずれも「荒ぶるものを()」を鎮めた英雄伝説と結びついたものである。
 それを元荒川の洪水によって村民は苦しめられてきたが、それを竜に置き換え、その竜を退治した。即ち、治水対策に尽力したことが縁となって、上谷にすみ着き、村の草創期において、大きな役割を担ったことが想像できよう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
           

拍手[1回]


常光神社

 神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進神社とは、地方財政から祭祀などのためのお金が支出されていた神社のことである。
 明治
40年(1907年)、府県郷を始め、村社(指定神社以上)が例祭に地方公共団体の神饌幣帛料の供進を受けられ、大正3年(1914年)4月からは追加事項として祈年祭・新嘗祭にも神饌幣帛料の供進を受けることがそれぞれ認められ、神饌幣帛料供進社と称された。神饌幣帛料供進共進神社、神饌幣帛料供進指定神社、あるいは社格と併せ指定県社、指定村社等の表現も為される。明治時代から終戦に至るまで続けられていた。
 常光神社は
大正2年(1913)神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。
        
            ・所在地 埼玉県鴻巣市常光933
            ・ご祭神 素戔嗚尊
            ・社 格 旧上・下常光村鎮守 旧村社  
            ・例 祭 祈年祭 218日 例大祭 43日 新嘗祭 1123日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0482791,139.5548736,16z?hl=ja&entry=ttu
 常光神社は鴻巣市南部、常光地区中央部に鎮座している。途中までの経路は笠原久伊豆神社を参照。埼玉県道311号蓮田鴻巣線「笠原郵便局」交差点を直進し、600m程進んだT字路を右折、T字路左側角には「中斉集会所」があり、その先には元荒川が流れ、「中斉橋」を通り過ぎる。そのうち「上谷総合公園」の駐車場を左手に見ながら上越新幹線の高架橋手前まで直進し、その交差点を左折する。高架橋に沿って南東方向に1.2㎞程進むと、正面方向に常光神社の社叢全景が見えてきて、その右側には長めの参道と鳥居が見えてくる。
 
鳥居前面は高架橋に面した道路の為、駐車場はないが、社の手前に高架橋沿いから左方向に曲がる道があり、一旦社の南側に移動すると、適当な駐車スペースがあり、そこの一角に車を停める。
 正式な参拝を行いたいならば、そこから南側の鳥居方向に戻ってから改めて参拝を行うしかない。
        
                               
常光神社 孤高な一の鳥居
     社の周辺には畑風景が広がる。常光地域は「梨」の名産地でも有名である。
       
            一の鳥居の右側にある社号標石碑       参道二の鳥居を望む。
        
                    二の鳥居
      二の鳥居の左側には「村社 氷川神社」と記されている社号標柱が立つ。 
 二の鳥居の左側には庚申塔・青面金剛等が並ぶ。   二の鳥居の左側に設置された案内板
 常光神社 御由緒  鴻巣市常光九三三 
 □ 御縁起(歷史)
 常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむとの伝えがある。
 当社は、この常光の鎮守として祀られてきた社で、元来は「氷川社」と称していたが、当時の村長の発案により、昭和ニ十六年七月ニ十五日付で、村名を採って「常光神社」と社号を改めた。 しかし、氏子の間では、今でも通称として当社を「永川様」と呼ぶ入が少なくない。
 常光村は、江戸時代の初期には一旦、上・下のニつに分かれ、明治七年に再度合併したが、上・下両村の村境は交錯してはっきりと分けることのできない状況であった。『風土記稿』も「○上常光村○下常光村」として一項に扱っており、当社については「永川社 村の鎮守なり、社内に寛永ニ年(一六二五)の棟札をかく、其文に本願主大旦那河野五郎左衛門・同七郎兵衛・同庄右衛門云々、末に永禄十ニ年己巳年(一五六九)年迄百廿六年に至るとあり、是をもて推せば文安元年(一四四四)に及べり、さあらんには旧き勧請なること知るべけれど、外に証とすべきものはなし、西福寺の持なり」と載せている。
 神仏分離の後は、西福寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。更に、大正ニ年十月には、幣殿・拝殿を新築するとともに覆屋を改築し、翌月には神饌幣帛供進神社の指定を受けた。
 □御祭神と御神徳
素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
       
                  二の鳥居を過ぎてすぐ左手に聳え立つご神木
 
 ご神木の並びに鎮座する境内社・八雲神社    参道右側、八雲神社の向かいにある神楽殿
               
                                     拝 殿
「常光」の地名由来を調べると以下の2通りの解釈となるようである。
①案内板にも記載されている「常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむ」と伝えがあり、その「常香」が地名由来となった。
常光は常荒で、荒野を開発するときに、常荒といって、ある年限を定めて税を免除した土地をいう。常光は嘉名(佳字)という。
 *熊谷市には「河原明戸」という地名があるが元々は土地柄の悪い「悪戸」が「明戸」に変更となった故事を思い起こさせる。
 
          本 殿            本殿右奥に鎮座する境内社・詳細不明

 ところで江戸城を築いたことで有名な太田道灌の子孫である資輔が岩付城主になり、岩付太田氏を名乗る際に、北部の抑えとして武蔵国足立郡の鴻巣郷(現・埼玉県鴻巣市、北本市)周辺に土着した家臣団を特に「鴻巣七騎」と呼称した。
 当時周辺の村々では、俗に「鴻巣七騎」 と呼ばれる在地武士が活躍していたといわれている。これらの在地武士たちは、岩付太田氏の配下にあり、それぞれが北本周辺に所領をもっていた。ここでいう鴻巣とは、北本市の東側一帯と桶川市の東部、鴻巣市の南東部を含む、戦国時代に「鴻巣郷」と呼ばれていたあたりに所領を持っていた在地武士(地侍)だったと伝えられている。
                                                   社殿からの風景
「鴻巣七騎」のメンバーは以下の人物という。
大島大炊助(おおしまおおいのすけ)・大膳亮(だいぜんのすけ)【北本市宮内・古市場】
深井対馬守景吉(ふかいつしまのかみかげよし)【北本市深井】
小池長門守(こいけながとのかみ)【鴻巣市鴻巣】
立川石見守(たちかわいわみのかみ)【鴻巣市上谷】
加藤修理亮(かとうしゅりのすけ)【北本市中丸】
河野和泉守(こうのいずみのかみ)【鴻巣市常光】
矢部某(やべなにがし)【鴻巣市下谷】
本木某(もときなにがし)【桶川市加納】

 鴻巣市常光の河野和泉守は、「新編武蔵風土記稿常光村条」において以下の記述がされている。
「旧家七兵衛、河野氏なり。隅切角の内に三の字を紋とす。代々上分の名主を勤む。先祖は五郎左衛門といひ、慶長の頃よりここに土着せしと。古は岩槻太田氏の旗下にて鴻巣七騎の内河野和泉守が裔なりと、五郎左衛門は其子にや。村内氷川社の棟札に河野五郎左衛門の名見えたり、河野氏の来由を書しものを伝へり、何人の書なりや詳ならず」


 七騎の苗字は鴻巣、北本、桶川市の字に通じる面もあり、その地域の歴史も垣間見ることも出来た。社参拝はその土地の歴史を知ることにもなり、歴史好きな筆者にとって実り多い考察ともなった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」
    「境内案内板」

                     

拍手[1回]