古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小松原神社


        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市小松1-10-18
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧原馬室村枝郷小松原鎮守 旧無各社
              
・例 祭 初午祭 3月初午 大祓 630日・1230日 
                   例祭 
721日
        地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0427205,139.5205937,18z?hl=ja&entry=ttu  
 上谷氷川神社から一旦軟化をして17号国道「深井」交差点を直進。旧中山道付近から左カーブ状に道は曲がっていくが、そのまま進む。その後踏切を越えて、右側にコンビニエンスストア、歯科病院が見えた先の十字路を左折すると、小松原神社が左手に見えてくる。
 社の入口には鳥居があり、その左手には案内板が設置され、並びには駐車スペースも確保されており、そこに車を止めてから産廃を行った。
 
  鳥居の左側にある社号標柱と社の案内板        小松原神社 正面

 この小松原神社周辺は、以前は鬱蒼とした森の中に鎮座する社だったのだろう。しかし近年の一戸建て住宅や団地等が造成され、昔とは環境が大きく変わりつつあるような印象を強く受けた。
        
                  小松原神社 案内板
 小松原神社 御由緒 鴻巣市小松一‐一〇‐一八
 □ 御縁起(歴史)
 当社の鎮座する小松原は、古くは小松原村と称する一つの村であったが、後に原馬室村の枝郷となり、更に明治四年に原馬室村に合併してその大字になった。この小松原の地内には、上・中・下の三つの組があり、上では愛宕社、中では稲荷社、下では別の稲荷社と、各々組ごとに鎮守とする神社を祀ってきた。
 こうした状況は長い間変わらなかったが、「境内編入願」によれば、明治二年の地租改正の際、政府の達しに従い、中組の稲荷社に上組の愛宕社と下組の稲荷社を合祀し、社名を小松原神社と改称の上、小松原村の村社としたという。明治四年に小松原と原馬室の両村が合併した後も、旧小松原村の人々は小松原神社を鎮守として祀り続けていたが、当時の村吏の誤解により、社格は無格社となった。『郡村誌』原馬室村の項に「小松社平社(中略)村の東にあり迦具土命を祭る祭日七月廿一日」とあるのは、その当時の状況を表すものである。
 村社の社格は、当時の社掌千葉松彦や総代が努力したにもかかわらず回復することはできなかったが、明治二十九年には拝殿を再建し、同三十七年には境内両脇の土地三九五坪を境内に編入して環境を整備するなど、かつての村社としての威厳を保つべく努力が続けられた。なお『明細帳』では、右の書類とやや異なり、明治六年に、字松原の愛宕社を中組の稲荷社に合祀して小松原神社と改称したとある。
 □ 御祭神と御神徳
 ・倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板から引用
        
                                   神明系の鳥居
 
         広々とした境内            参道右手には社務所だろうか。
        
                     拝 殿
       
               拝殿右側手前に聳え立つご神木
 
  社殿手前で左側に鎮座する境内社・天神社        社殿手前で右側に鎮座する境内社・雷電社

 境内社である天神社・雷電社は、元々は受法院(現小松原大日堂)境内に祀られてもので、明治維新後の神仏分離に際して当地へ遷座し祀られたという。


 小松原地域は『新編武蔵風土記稿』によると、「原馬室村枝郷」として記載され、地形的に原馬室の東方に接していて、正保年間(164448)に江戸幕府が諸大名に命じて国単位で作らせた国絵図である「正保国絵図」では「小松原村」と載せ、元禄10年(1697年)から開始された「元禄国絵図(風土記稿では元禄郷帳)」には「原馬室村の内小松原村」と記していて、時代と共に小松原村の立ち位置が変化している。そもそもこの村自体が小さかったのも原因だったのだろう。風土記稿では「東西三町、南北五町程、民家は三十六」と記されている。
「町」は尺貫法での長さ(距離)または面積の単位である。長さの単位では「丁」とも書き、条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に63寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200 m11町と定めた[2]。したがって1町は約109 m1 kmは約9.17町となる。
 対して面積の場合「町歩」と区別して表現するので、「風土記稿」の表記から、「町」は長さの表記方法で「東西三百町=330m、南北五町=550m」程になり、現在の鴻巣市小松地区の南北を半分くらいにした程度、小松原神社を中心にした小さな地域だったのだろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
 

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下谷氷川神社

 鴻巣市内に残る豊かな緑は、生き物の生産場所となるほか、レクリエーション活動の場や災害時のオープンスペースなど、市民生活に安らぎと潤いを与え、都市の安全性を確保、向上させる等、様々な効果が期待されている。
 市では「鴻巣市緑化推進条例」を基に、市内の身近な緑を守り育むため、保護地区として、愛宕神社(原馬室地内)、赤城神社(赤城地内)、小松原神社(小松1丁目地内)、城山(大間地内)の4 か所(1.85ha)が指定されていると共に、保護樹木として寺社境内地のものを中心に保全に努めている。この制度は、良好な環境を保っている緑地や巨木、希少な樹木を指定し、所有者に適正な管理を行う努力義務をお願いするもので、保全のための奨励金を市から交付しているという。
 下谷氷川神社境内の「シイ」の木も保護樹木として指定されている巨木であり、社にとっては大切なご神木でもある。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市下谷484
             ・ご祭神 素盞嗚尊
             ・社 格 旧南下谷村・中下谷村・北下谷村鎮守 旧村社
             ・例 祭 元旦祭 11日 春祈祷 44日 天王様 714日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0536689,139.539303,16z?hl=ja&entry=ttu
 上谷氷川神社から一旦北東方向に進路をとり、T字路を右折する。道なりに500m程進むと変則的な3つ又の交差点に到着する。交差点左側手前にはコンビニエンスもあり、そこが目印となる。そこの真ん中の道を進み、200m程過ぎると左側に下谷氷川神社が道路に沿うように鎮座している。上谷氷川神社から1㎞もないほど至近距離に位置する。
 鳥居や社号標石碑がある正面の北側に専用駐車場があり、そこの一鶴に車を停めてから参拝を行った。
        
                             下谷氷川神社正面
 
 比較的長い参道を進む。両側には朱色の灯篭が並び、奉納者名の記載されている(写真左・右)。神社の案内板によると、かつては参道の両側は杉の大木が並び立っていたようだが、昭和41年(1966)の台風でほとんどが倒れてしまったという。代わりに灯篭を並べたとの事だ。
        
                            参道沿いに設置されている案内板
 氷川神社 御由緒 鴻巣市下谷四八四
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の下谷は、『鴻巣宿深井家譜』に「六郎次郎景高下谷にて戦死」と見え、かつて地内にあった熊野社の天正十一年(一五八三)の鰐口の銘にも「武州上足立下谷宮」と彫られていたように、戦国期には既に開発され、一村をなしていたと思われる。その後、元禄年間(一六八八-一七〇四)までに北下谷村・中下谷村・南下谷村の三か村に分かれ、明治四年に再度合併して一村になった。
 この下谷全体の鎮守として祀られてきた神社が当社であり、『風土記稿』南下谷村・中下谷村・北下谷村の項には「氷川社 南下谷にあり、三村の鎮守なり」と記されている。当社の境内は、実際には北下谷の地内にあるため、この『風土記稿』の記事の中の「南下谷」は、「北下谷」の誤りではないかと思われる。
 一方、『明細帳』によれば、当社は宝永七年(一七一〇)に再建され、明治六年村社に列せられたことや、同八年一月五日に焼失したが同年五月二日に再建されたこと、明治四十年に西中曾根の村社氷川社など六社を合祀したことなどがわかる。その後は、昭和二十八年に拝殿と本殿覆屋が新築された。更に昭和四十一年には、台風で参道の両側に並び立っていた杉の大木のほとんどが倒れてしまったが、後に植樹が進められ、現在は立派な杜となっている。
 □御祭神と御神徳
 ・素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
       
                       社殿右側奥に聳え立つご神木。鴻巣市指定保護樹木。
 
社殿右側に鎮座する境内社・日枝神社(山王様) 社殿左側に鎮座する境内社・八雲神社(天王様)
        
                                    趣のある境内。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等   

  

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上谷氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市上谷2258
             
・ご祭神 素盞嗚尊
             
・社 格 旧上谷村鎮守 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 218日 例大祭 415日 新嘗祭 1123日
                  
大祓 1229
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0565811,139.5355908,18z?hl=ja&entry=ttu
 上谷氷川神社は国道17号線を北本市街地方向に進み、「深井」交差点を左折。700m程道なりに進むと、道路沿い左側に上谷氷川神社の社叢が見えてくる。
 正面参道の南側には適当な駐車スペースも確保されている。その一角に車を停めてから参拝を行った。
        
                             道路沿いに鎮座する
上谷氷川神社
        
                 東南方向に鎮座する社。静かな空間が辺りを包み込むようだ。
        
 参道右側には力石が3個あり、そのうち2個には奉納年、重量等が彫られている。また簡単な案内板もある(写真左)。
左側の石  「奉納宮石 四十三メ日 元禄九子年上谷村〇〇〇」
真ん中の石「奉納御宝前 元禄十四年正月吉祥日 三十四貫目上谷村」
銘 力石
奉納
元禄 9年(1696年) 重量43貫(161.25㎏)
元禄14年(1701年) 重量34貫(127.5㎏)
・徳川5代将軍綱吉の頃
・昔の人達はこのような石で力だめしをしたそうです。                   案内板より引用
        
                                 上谷氷川神社 案内板
氷川神社  御由緒 鴻巣市上谷二二五八
御縁起(歴史)
上谷の地内の北の方の小名を竜灯と呼び、その由来を『風土記稿』は次のように載せる。古くはこの辺りに大きな沼があり、年久しく竜が棲んで、光を放ち、田畑を荒らすなどして耕地の妨げをしていた。天正のころ(一五七三-九二)岩槻の浪人立川石見守という強勇の者が、この竜を退治したことから村民は喜び、それにちなんで小名を竜灯と名付け、後にこの沼を埋めて水田を開いた。彼の石見守は、村の旧家弥七の先祖であるという。ちなみに、地内にあった真言宗宝性院(明治初年廃寺)の開基は、この立川石見守であると伝えている。
当社は上谷の鎮守として祀られており、創建の年代は明らかでないが、村の開発が進められる中で勧請されたものであろう。本殿に奉安する神鏡には享保二十一年(一七三六)の銘が見える。また、『風土記稿』上谷村の項には「氷川社 村の鎮守なり、末社 天神社 稲荷社 別当千寿院 本山派修験にて南下谷村大行院の配下なり、本尊不動を安ず」とある。
神仏分離後、当社は明治六年に村社となり、同四十年に字西ケ谷の厳島社、字上川面の稲荷社、字郡田の須賀社の三社の無格社を合祀した。このうち厳島社は当地と下谷・宮内の旧三か村の村境にあった池の傍らに祀っていた社である。また、稲荷社は、大雨による荒川の度重なる氾濫を憂えた天台宗台蔵院(明治初年廃寺)の開祖傳法上人が風雨順時と五穀成就の守護神として祀ったと伝える。
□御祭神と御神徳
素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用

        
                                         拝 殿
       
             拝殿前に聳え立つ銀杏のご神木。鴻巣市の保護樹林に指定されている。
 参拝時は1月の真冬故に葉も全て落ち、厳しい風雪に耐えるが如く、幹や枝のみの姿しか拝見できなかったが、新緑の季節ともなれば葉が大木を覆うようにびっしりと茂るのだろう。巨木、老木に属しているだろうが、それでも木の生命力の強さを感じずにはいられない。
 
 社殿の左側奥に鎮座する境内社。詳細不明。         社殿奥には石祠1基。湯殿山大権現。

     
 鴻巣七騎という、武蔵国足立郡の鴻巣郷周辺に土着した家臣団の中に立川石見守という人物がいる。岩付太田氏に仕え小田原征伐の後に当地に土着したものと考えられるが、記録を失い詳細は定かではないという。
 それでも新編武蔵風土記稿上谷村条には「旧家弥七、立川を氏とす。石見守が子孫なりと云ふ。立川は武蔵七党の内、西党駄所宗時の子に立川宗恒見えたり。子孫宮内少輔照重は小田原北条に仕へ、天正の乱に滅亡せしものにて、多摩郡柴崎村普済寺境内は此の照重が塁跡なりと、彼寺の伝へにのこれり。思ふに石見守は照重の一族にして、岩槻の城主太田氏の旗下に属し、天正の乱に没落して当村に土着せしものなるべけれど、家系を伝えざれば定かなることは知べからず」と見え、この一族の本来の本拠地は多摩郡立川郷柴崎村(現東京都立川市)であったようだ。
        
                社殿右側奥にある庚申塔等
 ところで上谷に龍燈という小字がある。ここに大きな沼があり農民を困らせる龍が棲んでおり、天正の頃に岩槻の浪人立川石見守が退治し、村人はこれを悦んで龍燈と名づけ、沼を干拓し水田としたという伝承・伝説が風土記稿上谷村条を通して今でも伝わっている。
        
                              拝殿から参道正面風景を撮影
 立川氏は、12世紀武蔵国内に成立した中小武士団である武蔵七党の流れをくみ、戦国時代に太田氏の旗下となったが、岩付落城で没落、上谷村に土着したことが「風土記稿上谷村条」に記されている。このような、竜退治の話は、全国各地に伝わるが、いずれも「荒ぶるものを()」を鎮めた英雄伝説と結びついたものである。
 それを元荒川の洪水によって村民は苦しめられてきたが、それを竜に置き換え、その竜を退治した。即ち、治水対策に尽力したことが縁となって、上谷にすみ着き、村の草創期において、大きな役割を担ったことが想像できよう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
           

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常光神社

 神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進神社とは、地方財政から祭祀などのためのお金が支出されていた神社のことである。
 明治
40年(1907年)、府県郷を始め、村社(指定神社以上)が例祭に地方公共団体の神饌幣帛料の供進を受けられ、大正3年(1914年)4月からは追加事項として祈年祭・新嘗祭にも神饌幣帛料の供進を受けることがそれぞれ認められ、神饌幣帛料供進社と称された。神饌幣帛料供進共進神社、神饌幣帛料供進指定神社、あるいは社格と併せ指定県社、指定村社等の表現も為される。明治時代から終戦に至るまで続けられていた。
 常光神社は
大正2年(1913)神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。
        
            ・所在地 埼玉県鴻巣市常光933
            ・ご祭神 素戔嗚尊
            ・社 格 旧上・下常光村鎮守 旧村社  
            ・例 祭 祈年祭 218日 例大祭 43日 新嘗祭 1123日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0482791,139.5548736,16z?hl=ja&entry=ttu
 常光神社は鴻巣市南部、常光地区中央部に鎮座している。途中までの経路は笠原久伊豆神社を参照。埼玉県道311号蓮田鴻巣線「笠原郵便局」交差点を直進し、600m程進んだT字路を右折、T字路左側角には「中斉集会所」があり、その先には元荒川が流れ、「中斉橋」を通り過ぎる。そのうち「上谷総合公園」の駐車場を左手に見ながら上越新幹線の高架橋手前まで直進し、その交差点を左折する。高架橋に沿って南東方向に1.2㎞程進むと、正面方向に常光神社の社叢全景が見えてきて、その右側には長めの参道と鳥居が見えてくる。
 
鳥居前面は高架橋に面した道路の為、駐車場はないが、社の手前に高架橋沿いから左方向に曲がる道があり、一旦社の南側に移動すると、適当な駐車スペースがあり、そこの一角に車を停める。
 正式な参拝を行いたいならば、そこから南側の鳥居方向に戻ってから改めて参拝を行うしかない。
        
                               
常光神社 孤高な一の鳥居
     社の周辺には畑風景が広がる。常光地域は「梨」の名産地でも有名である。
       
            一の鳥居の右側にある社号標石碑       参道二の鳥居を望む。
        
                    二の鳥居
      二の鳥居の左側には「村社 氷川神社」と記されている社号標柱が立つ。 
 二の鳥居の左側には庚申塔・青面金剛等が並ぶ。   二の鳥居の左側に設置された案内板
 常光神社 御由緒  鴻巣市常光九三三 
 □ 御縁起(歷史)
 常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむとの伝えがある。
 当社は、この常光の鎮守として祀られてきた社で、元来は「氷川社」と称していたが、当時の村長の発案により、昭和ニ十六年七月ニ十五日付で、村名を採って「常光神社」と社号を改めた。 しかし、氏子の間では、今でも通称として当社を「永川様」と呼ぶ入が少なくない。
 常光村は、江戸時代の初期には一旦、上・下のニつに分かれ、明治七年に再度合併したが、上・下両村の村境は交錯してはっきりと分けることのできない状況であった。『風土記稿』も「○上常光村○下常光村」として一項に扱っており、当社については「永川社 村の鎮守なり、社内に寛永ニ年(一六二五)の棟札をかく、其文に本願主大旦那河野五郎左衛門・同七郎兵衛・同庄右衛門云々、末に永禄十ニ年己巳年(一五六九)年迄百廿六年に至るとあり、是をもて推せば文安元年(一四四四)に及べり、さあらんには旧き勧請なること知るべけれど、外に証とすべきものはなし、西福寺の持なり」と載せている。
 神仏分離の後は、西福寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。更に、大正ニ年十月には、幣殿・拝殿を新築するとともに覆屋を改築し、翌月には神饌幣帛供進神社の指定を受けた。
 □御祭神と御神徳
素盞嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
       
                  二の鳥居を過ぎてすぐ左手に聳え立つご神木
 
 ご神木の並びに鎮座する境内社・八雲神社    参道右側、八雲神社の向かいにある神楽殿
               
                                     拝 殿
「常光」の地名由来を調べると以下の2通りの解釈となるようである。
①案内板にも記載されている「常光は、古くは「常香」とも書いたといい、地名の由来についてはその音、源頼朝が鴻巣領別所村に無量寿院を草創したころ、当地及び隣接する花野木村を花香料に付したことにちなむ」と伝えがあり、その「常香」が地名由来となった。
常光は常荒で、荒野を開発するときに、常荒といって、ある年限を定めて税を免除した土地をいう。常光は嘉名(佳字)という。
 *熊谷市には「河原明戸」という地名があるが元々は土地柄の悪い「悪戸」が「明戸」に変更となった故事を思い起こさせる。
 
          本 殿            本殿右奥に鎮座する境内社・詳細不明

 ところで江戸城を築いたことで有名な太田道灌の子孫である資輔が岩付城主になり、岩付太田氏を名乗る際に、北部の抑えとして武蔵国足立郡の鴻巣郷(現・埼玉県鴻巣市、北本市)周辺に土着した家臣団を特に「鴻巣七騎」と呼称した。
 当時周辺の村々では、俗に「鴻巣七騎」 と呼ばれる在地武士が活躍していたといわれている。これらの在地武士たちは、岩付太田氏の配下にあり、それぞれが北本周辺に所領をもっていた。ここでいう鴻巣とは、北本市の東側一帯と桶川市の東部、鴻巣市の南東部を含む、戦国時代に「鴻巣郷」と呼ばれていたあたりに所領を持っていた在地武士(地侍)だったと伝えられている。
                                                   社殿からの風景
「鴻巣七騎」のメンバーは以下の人物という。
大島大炊助(おおしまおおいのすけ)・大膳亮(だいぜんのすけ)【北本市宮内・古市場】
深井対馬守景吉(ふかいつしまのかみかげよし)【北本市深井】
小池長門守(こいけながとのかみ)【鴻巣市鴻巣】
立川石見守(たちかわいわみのかみ)【鴻巣市上谷】
加藤修理亮(かとうしゅりのすけ)【北本市中丸】
河野和泉守(こうのいずみのかみ)【鴻巣市常光】
矢部某(やべなにがし)【鴻巣市下谷】
本木某(もときなにがし)【桶川市加納】

 鴻巣市常光の河野和泉守は、「新編武蔵風土記稿常光村条」において以下の記述がされている。
「旧家七兵衛、河野氏なり。隅切角の内に三の字を紋とす。代々上分の名主を勤む。先祖は五郎左衛門といひ、慶長の頃よりここに土着せしと。古は岩槻太田氏の旗下にて鴻巣七騎の内河野和泉守が裔なりと、五郎左衛門は其子にや。村内氷川社の棟札に河野五郎左衛門の名見えたり、河野氏の来由を書しものを伝へり、何人の書なりや詳ならず」


 七騎の苗字は鴻巣、北本、桶川市の字に通じる面もあり、その地域の歴史も垣間見ることも出来た。社参拝はその土地の歴史を知ることにもなり、歴史好きな筆者にとって実り多い考察ともなった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」
    「境内案内板」

                     

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明用三島神社

 明用三島神社が鎮座する地域は嘗て吹上町と呼ばれ、日本の埼玉県北足立郡にあった町であり、2005年(平成17年)101日、北埼玉郡川里町とともに鴻巣市に編入され、市域の一部となった。
 中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・忍(現・行田市)に向かう日光脇往還の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地としていっそうの繁栄の契機となった。
「吹上」という地名の由来は古くから諸説があり、確定的なものは無い。当地の上空で東京湾から吹いてくる海風と、北部山脈の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられたとの説があるものの、あくまで一学説である。

        
              ・所在地 埼玉県鴻巣市明用123
              ・ご祭神 事代主命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 夏祭り 714日 秋祭り 1126
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0950104,139.4611698,17z?hl=ja&entry=ttu
 明用三島神社は旧吹上町の住宅地東端にあり、すこし離れると長閑な田園風景が拡がる。国道17号を鴻巣方向に進み、吹上団地入口交差点を右折、踏切を越えてすぐの十字路を左折し、埼玉県道365号線前砂交差点手前の細い十字路を右折すると右側に三島神社の鳥居が見える。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置している。
 バスを利用するのであれば鴻巣市のコミュニティバス(フラワー号)・中仙道コースを吹上駅南口(下り)より出発して、前砂(上)停留場で下車。一旦吹上団地方向に戻り、上記の細い交差点を左折すると神社に到着する。但しこのコミュニティバス・吹上駅南口からの下りコースは3時間ごとに運行されているため、事前に時間帯の確認は必要だ。コミュニティバスには田間宮コースもあり、こちらならば北鴻巣駅南口からの出発で、こちらは1時間30分毎の運行となり、待ち時間は半分となるが、停車口である龍昌寺から前砂交差点方向に10分弱程歩かねばならない。
 駐車スペースは参道内に社務所があり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                                明用三島神社参道
       
         道路沿いに建つ社号標          社号標の先に鳥居が立つ
                        
神額には「三嶌大神」と揮毫されている
 明用三島神社の創建年代等は不詳ながら、明用を(万治31660年に)開発した鶴間氏がかつては祭主を務めてきたと伝えられることから、鶴間氏が当地を開発した際に勧請したのではないかと言われる。江戸期には村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治6年村社に列格、明治40年三丁免三島神社(及び境内社)などを合祀している。
 
  社殿階段左側にある三島神社の由来案内板       社殿手前右側に鎮座する境内
 
                              三丁免三島神社
 三島神社 御由緒  鴻巣市明用一二三
 □御縁起(歴史)
 当地は荒川左岸の低地に位置する。元荒川の自然堤防上に集落があり、その西方の低湿地に水田が広がる。『風土記稿』によると、当村は鶴間氏の開墾した村で、古くは鶴間村と称し、当初は三丁免村も含んでいたが、元禄十二年(一六九九)に分村したという。鶴間家は累代当地の名主を務めた家柄である。
 当社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮まる。この古墳は町内で最大規模の古墳で、全長五五メートル、後円部径三〇メートルの前方後円墳である。石室は破壊されており、拝殿前などに敷石として利用されている緑泥片岩がこの石室の石材と思われる。
 当社は、『明細帳』に「創立不明 同村鶴間弥五右衛門祭主ト古老ノ伝有(以下略)」と載る。恐らく、村の開発に携わった鶴間家により当社は勧請され、以後同家が代々祭主を務めたのであろう。当社は鶴間家から北東二〇〇メートルの位置にあり、同家の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。
 『風土記稿』には、地内の真言宗観音寺が当社の別当であったと記される。同寺は、三島山明星院と号し、箕田村竜珠院の末寺であったが、開基の年代は不詳である。
 明治に入り観音寺の管理下から離れた当社は、明治六年に明用村の村社となり、同二十七年に本殿を改築した。
 その後、明治四十一年八月十六日、三丁免村の村社と合祀になり現在に至る。尚、三丁免の村社には、天満社・八坂社・稲荷社・三峯社・還護社・筧社が祀られていた。
 □御祭神と御神徳 
 ・事代主命・・・商売繁盛、家庭円満、病気平癒
 □御祭日
 ・元旦祭(一月一日)   ・祈年祭(二月第三日曜日)
 ・夏祭り(七月第二土曜日)・秋祭り(十一月二十三日)           案内板より引用
        
                  石段の先にある拝殿
 新編武蔵風土記稿による明用三島神社の由緒
 明用村
 明用村は村民鶴間氏の開墾せし所にて、古は鶴間村と稱せしを何の頃よりか今の如く改めし と、又昔は三町免村も當村にこもりて一村なりしといへり、其地は箕田郷に屬し(以下略)
 三島社
 古塚の上に鎮座す、塚の高一丈餘ばかり、六七間にて横に長し、社に向て左の方に長九尺、幅五尺餘の石片面あらはれてあり、昔村民此石を堀出さんとなせしかば、忽ち祟りを蒙むりしとて、其後は恐れて手を觸る者なしと云、按に此塚は古代墳墓にして、顯れし石は全く石と見えたり、おもふに下總國那須郡國造塚の類にして、郡司などいふものゝ葬地なるべし、又近郷箕田村の古塚も是と同じ形なり、
 末社。天王社、稲荷社、天満宮

因みに明用三島神社古墳に関しては後日解説する。

 明用三島神社に参拝中不思議に感じたことがある。本来三島神社のご祭神は「大山祇神」であるはずなのに、この社では「事代主神」という。帰宅後調べてみると次のような結論となった。(引用Wikipedia)
三島神社の総本社は伊予の大山祇神社(大三島神社)と伊豆の三嶋大社であり、全国に400社余り存在し、伊予の大山祇神社を総本社とする大山祇・山祇神社(全国に900社前後)と併せ、「大山祇・三島信仰」と総称されることもある。
 三島大明神の本体はというと、多くの三島神社が大山祇神としている。大山祇神社については、延喜式神名帳でも大山積神社の名で記載されており、祭神が大山祇神であることは確実視される。13世紀の『釈日本紀』に引用される『伊予国風土記』(逸文)にも「御嶋(三島)に座す神は大山積神」という記述がある。三嶋大社についても前述の『東関紀行』や『源平盛衰記』『神道集』のほか、『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』なども大山祇神としている。
 同時に賀茂氏との関係も示唆され、事代主神を祭る三島神社も多い。室町時代の『二十二社本縁』に「伊豆の三島神(現:三嶋大社)は都波八重事代主神で、伊予の三島神(現:大山祇神社)と同じ」という記述がある。三嶋大社は江戸時代以前では主祭神を大山祇神としていたが、明治に国学者の支持を受けたことから主祭神を事代主神に変更し、昭和に再度大山祇神説が浮上すると、大山祇神・事代主神二神同座に改めている。これを受けて、一部の三島神社は事代主神単独、または事代主神を併せて祭っている。
 
        境内社琴平・八坂・天神合殿          境内社道祖神・稲荷社か 
                           これらは社殿の左側に鎮座している。 
    境内社塞神二基・天神・伊奈利・八坂等      境内社三峰神社(三つの石祠) 
       こちらは三嶋神社古墳の後円部から前方部にかけて祭られている石祠群である。

 もう一つ疑問点がある。この明用三島神社は「三島神社古墳」と呼ばれる古墳上に鎮座している。地形上では元荒川と荒川が分流する自然堤防上に位置しているとはいえ、箕田古墳群からもさきたま古墳群からも少々離れている位置にあり、周辺一帯もこれといった特徴のない場所に、ポツンと単独で存在している。55m級の古墳は郡単位の公権力を持ち、尚且つ財力を併せ持つ人物だったにちがいない。
 この古墳の埋葬者はどのような人物だったのだろうか。


 

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