古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

糠田氷川神社

埼玉県では平成20年『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の報告書を提出している。この報告書は、平成 20 年度の彩の川研究会が実施した『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』の結果をとりまとめたものである。
「鎮守の森」は、その土地本来の樹木によるふるさとの森であり、地域の守護神 を祀った社寺林である。埼玉県東部や荒川沿川の低平な洪水氾濫地帯では、私的な 水防災施設としての「水塚」に対して、「鎮守の森」は公的な水防災拠点としての 機能を有していたのではないか考えられる。
 戦後の高度経済成長に伴う人口集中による都市化の中で、「鎮守の森」は激減の一途を辿った。埼玉県内における過去の分布、現存地について調査し、その機能を検証して、保存と復元再生策を研究することにより、地域の水防災拠点の構築ならびに環境の整備に資することを目的に、本調査研究を実施するものであった。
 鴻巣市糠田地区の糠田氷川神社は荒川左岸の低地に鎮座している。村の鎮守として、またご先祖様の御霊を慰め、おまつり(お祭り)する社として、また同時に「鎮守の森」として地域の方々の水防拠点の位置づけを担う社としての一面も持ち合わせていた。
        
              ・所在地 埼玉県鴻巣市糠田1342
              ・ご祭神 須佐之男命 稲田姫命
              ・社 格 旧糠田村鎮守・旧村社
              ・例祭等 春の中祭 2月下旬の日曜日 風祭り4月第一日曜日
                   夏大祭 71415日 秋の中祭 11月下旬の日曜日
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0636834,139.4843825,17z?hl=ja&entry=ttu  
 糠田氷川神社は埼玉県道76号鴻巣川島線を南下し糠田橋方向に進む。陸橋手前の十字路を右折し、その後荒川左岸方面に向かうと氷川神社入口に到着する。位置的には糠田運動場多目的グランドの西側に鎮座している。
 駐車スペースは鳥居前に数台分確保されているが、舗装されていないので、足場は悪い。駐車する際には凸凹面には注意が必要だ。
        
               入り口付近にある社号標、案内板等
 
     
社号標 但し平成27年4月撮影     「鴻巣市氷川神社社叢ふるさとの森」案内板
        
            長い参道の途中・右側の社叢内にある浅間神社
             
                 長い参道先に鳥居あり
        
                     拝 殿
         
                境内に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒   鴻巣市糠田一三四二
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の糠田は、荒川左岸の低地に位置し、その地内には、かつて「糠田の渡し」と呼ばれる荒川の渡し場があった。対岸の比企郡須戸野谷新田(現吉見町)と結ぶこの渡し場は、糠田河岸という河岸場でもあり、熊谷の久下から下って来た船の、最初の休み場であった。
この糠田の鎮守である当社は、朝日山と呼ばれる台地上に祀られ、須佐之男命と稲田姫命の二柱を祭神とする。そのため、本殿は二間社の流造りとなっており、内陣には「氷川大明神御宝前 享保三年(一七一八)戌二月吉日」の銘のある金幣が納められている。なお、当社の境内は、昭和五十五年に県から「ふるさとの森」に選定された美しい社叢に包まれており、社殿はこの森の中央にある。
 当社の由緒については、『風土記稿』糠田村の項に「氷川社 村民の持 文禄の頃(一五九二‐九六)まで小社なりしが寛永年中(一六二四‐四四)村の鎮守として造営すと云」と記されている。この記述と、境内が地元の旧家の河野権兵衛が代々住居を構えた「権兵衛屋敷」に近い所にあることから、当社の創建には河野家が深くかかわっていたと推測できる。現在の本殿は、享保三年(一七一八)に建立されたもので、平成五年には市の有形文化財に指定された。ちなみに、この本殿の四周には精緻な彫刻が施されているが、数年前にその一部が心無い輩に盗まれてしまったことが惜しまれる(中略)
                                      案内板より引用
             
                                         本  殿
        
         鴻巣市指定文化財(建造物) 平成五年十月一日指定  氷川神社本殿一宇
 氷川神社は、かつては朝日山と呼ばれ須佐之男命・櫛稲田姫命が祀られている。創建年代は、はっきりしていないが現在でも地区の人々の崇敬を集めている。
文禄年間(一五九二~一五九六)までは社も小さかったようであるが、寛永年間(一六二四~一六四四)になって村の鎮守となり、規模も大きくなったようである。明治六年には当時の田間宮村の村社となった。
 本殿は二間社流造破風・軒唐破風付き、板葺本殿で、尾垂木に龍と鳳凰を配している。
本殿を飾る彫刻類は美術的・工芸的にも優れているうえに保存状態も良い。棟札は一八世紀はじめの享保三年である。近世の社殿としては埼玉県内でも比較的古い時期の建築であり、しかも建築年代がはっきりとわかる例として貴重である。しかし、全体の作りは一八世紀後半の社殿建築様式となっており、後世に一部改築された可能性がある。(中略)
                                      案内板より引用
 埼玉県土の東部平野部を占める低平地は、「埼玉平野」とよばれ、古代より利根川をはじめ荒川や渡良瀬川の氾濫によって形成された。徳川家康の関東への移封以降埼玉平野の開発が本格的に進むにつれ、利根川等幹川の治水・利水が施された。近世の埼玉平野は、徳川幕府や親藩の穀倉として基盤を築かれたが、現代の先進的な土木技術とは違い、数多くの洪水が沃土を侵害したことが書簡・文面からも読み取れる。
 どの時代もそうだが、洪水災害等の氾濫が居住地を襲ったとき、住民は当然水より高い場所に避難する。埼玉平野は広大な低地であり、住民が生活する集落は、自然堤防などの微高地が大部分である。その微高地の中でも僅かに高い場所に寺社が建っていることが多い。所謂神社ならば「鎮守の森」である。同じく寺院の場合も山号をもつように、山に立地しているものが多い。 微高地の集落が氾濫による浸水に襲われた時、より高い寺社の地に避難したのは、自然の成り行きと考えられる。このような大水から、鎮守の森などに避難する行動は、当時の民衆の習慣・慣例となって各地に言伝えられているのではないだろうか。
 

      土手側に鎮座する八坂社          拝殿手前でやはり土手側に神楽殿 
  その他境内には社殿奥に大國社・琴平社・天神社・八幡宮・稲荷社等が祀っている。

『水防災拠点としての「鎮守の森」に関する調査研究』報告書では、この広域な埼玉平野で大水から逃れる手段として、このような実績などについて、言伝えや記録の調査を行なったもので、大水害の記録は現代も同様であるが、近世文書においても洪水の被害状況や、被災箇所の普請のほか、年貢の減免申請など関係文書は多数みることができるという。
 糠田氷川神社もその避難場所として、史料として残されている。
 ○明治43811
 ・十一日午後七時北足立郡田間宮村大字糠田堤外の家屋は床上浸水百七十八戸、同村大字登戸床上同八戸、同大間道三戸、同中野は床上浸水二十四戸に及びたるを以て、老幼婦女等は東光寺、大間の氷川神社境内に避難したり、‥‥
(概況)
 ・明治43年は、晩霜や降雹などの異常気象が相次ぎ田植時には異常乾燥とも云うべき日照 りが続き、このため水喧嘩が各地で起こったと云われる。関東地方では、7月下旬から雨が 降り続き、8月に入ると1日から前線や低気圧が停滞して連日大雨となり、また台風の接近 により暴風雨となった。この降雨は8月16日まで続いた。
(糠田地域の状況等)
 ・8月8日早朝から引続き暴風雨のため荒川の水位は上昇し続けていた。 10日夕方には水位が堤防法面半ば以上に達した。馬踏12尺の内中央より崩壊法先田面へ押 出地下より漏水が始まり土俵羽口工、竹砲工及び五徳工等施工した。 本箇所の応急工事は、崩壊長78間(約140M)におよび、土俵羽口工として空俵7200俵、 莚273枚、唐竹5550本等の資材は3日間で全て取揃えた。また、作業員は、1日平均656名が 昼夜兼行就業を続行し、7日間で竣功させた。
 ○昭和22年(1947915日 カスリーン台風
 ・本宮田間宮小学校、氷川神社々務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、九月十五日夜半より九月廿一日まで一週間、収容延人員 1,023人を算するに及んだ。
(概況)
 ・荒川の氾濫に備え、9月15日午前8時30分消防団全員、更に各戸1名宛の奉仕員で防水班を編成、準備態勢を整えた。 その後、荒川の水位は刻々と上昇し越水の危険が迫ったので、全村民男子総動員を指令 した。また、隣町村消防団員、鴻巣町警察署員併せて103名が応援にかけつけた。 午後5時10分溢水する堤防口から徐々に決潰が始まった。出動人員1663名必死の水防も空 しく、午後5時40分頃樋管堤防(渡内)が一大音響と共 に破堤した。さらに、午後6時30 分頃他の樋管堤防(行人)も破堤した。奔流は、大海の怒濤の如く耕地に浸入、民家も次々 と水没していった。(被害者の避難所設置)
 ・田間宮小学校、氷川神社社務所、放光寺の三箇所を指定して応急設備を施し、9月15日か ら同月21日まで1週間、延べ人員1023人を収容した。 当村内非浸水地帯秋元酒造工場外五箇所に、消防団員、婦人会主体に、炊出しを開始し、 一日平均1397名に対し、16日から4日間給食に努力した。 (この間の食糧は、米25俵、コッペパン15000個であった) 

 上記の報告書では、過去の出水の際多くの「鎮守の森」が緊急の避難地、また助け合いの拠点 として大きな役割を果たしたことなどを明らかにしている。当面は、関係行政機関に寄贈し役立てていただくとともに、さらに目的に沿って研究を深め、図書館、出前講座等多くの方に役立つ方策を検討し、河川への深い関心をもっていただく契機としたいと結んでいる。
       
                         参道の両脇に聳え立つ巨木群(写真左・右)
               悠久の歴史を感じ、同時に参拝中も厳かな気持ちにさせて頂いた。
        
 氷川神社の社叢林はケヤキ、カシ、イチョウ、スギ、ヒノキなどで構成され神秘的な雰囲気を持つ。0.74haが埼玉県の[ふるさとの森]に指定されている。

 ほぼ解説の中心は「水害」に対しての鎮守の森の効果のみ述べてしまうことが大半であったので、ここで鎮座している「糠田」の地名に関しても考察したい。
 この「糠田」という地名の由来に関して、当初は「額田」が関係しているのではないかと考えた。日本書紀・神功皇后四十七年条に「千熊長彦を新羅に遣す。千熊長彦は、分明しく其の姓を知らざる人なり。一に云わく、武蔵国の人。今は是額田部槻本首等が始祖なりといふ」との記述がある。ここで出現している「千熊長彦」は『日本書紀』に伝わる古代日本の人物。 神功皇后(第14代仲哀天皇皇后)の時に対百済・新羅外交にあたったとされる人物で、一説に武蔵国の人物で額田部槻本首(つきもとのおびと)らの祖とされている。この額田部槻本首は摂津国西成郡槻本郷(大阪市淀川区)が根拠地であるようで、その後日本武尊に従い関東へ移ったようだ。
近江国御上神社神主三上祝系図に「天照大御神―天津彦根命(天降而居出雲国意宇郡屋代郷、後遷近江国蒲生郡彦根神社)―天御影命(又、天目一箇命)―意富伊我都命―彦伊賀都命(神武天皇世、居蒲生郡於馬見丘奉斎神社)―天夷沙比止命(和泉国川枯首祖)―川枯彦命(近江国甲賀郡川枯神社)―坂戸毘古命(孝元天皇世、奉斎三上神)―国忍富命―筑箪命(崇神天皇世、筑波国造)―忍凝見命(垂仁天皇世、為大湯坐部)―建許呂命(日本武尊東征時随従)―大布日意弥命(為須恵国造)―千熊長彦(額田部槻本首祖)」
 この系図には天照大御神から天津神系の天津彦根命〜千熊長彦までの流れを記しているが、この系図をざっくりと解説すると、天津彦根命の子である天目一箇命は製鉄・鍛冶神で、筑紫国、播磨国、伊勢国等に登場する神で、その子孫が和泉国⇒近江国と東方面に移動し、日本武尊東征時に随従し、筑波国に到着。須恵国は天平勝宝五年文書に上総国須恵郡額田部郷と記載され、和名抄に上総国周准郡額田郷・湯坐郷(千葉県君津市糠田、湯江)と見えることから、千葉県に移動していることが分かる。因みにこの系図に記されている神々は全て鍛冶に関係していることは、「湯坐部」「湯江」の地名からも明らかで、湯坐(ゆえ)とは、金属が熱に熔けた状態を湯という、鉄をドロドロに熔かす工人を湯坐部といったという。ということは須恵国も同様に火事に関連した名称で、陶(すえ)を製造する氏族の居住地だったとも考えられる。
 千熊長彦の祖先である天御影命(又、天目一箇命)は『古語拾遺』によると筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、天太玉命と同一神とも言われている。天太玉命の孫である天富命が阿波の斎部を率いて東に赴き、安房・下総・上総国の基をつくったとされている。

 また安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。千熊長彦は武蔵国比企・入間・高麗地方の鍛冶集団額田部一族を統率した首領だった可能性も捨てきれない。

 鴻巣市には生出塚埴輪窯跡と言われる埼玉県鴻巣市にある古墳時代後期の東日本最大級の埴輪生産遺跡があるが、同時期馬室(まむろ)埴輪窯跡も存在している。馬室埴輪窯跡は、鴻巣市南西端、荒川に臨む河岸段丘に作られた古墳時代後期の半地下式無段登窯群遺跡で、10基以上の埴輪窯跡が確認されている。糠田地区はその馬室埴輪窯跡に近い場所でもある為、糠田=額田=千熊長彦と連想してしまうわけだ。
 その一方で、「糠田」の地形を見ると、当時(現在でもそうだが)糠田村は荒川に隣接するだけでなく、地形的にも他の地域に比べ相対的に標高が低く、周辺の村々からの悪水(排水)が集まってくる地区であったようだ。そのため水害(洪水だけでなく、内水による湛水被害を蒙っていた)が多く、恒常的に湛水被害に悩まされていた為、「泥濘の多い場所」の意味で「糠(ぬかる)+田」とつけたのかもしれない。

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下忍愛宕神社

 忍川は延長12Km、流域面積25Km2の中川水系の一級河川。河川管理上の起点は熊谷市平戸にあり、源流にあたる熊谷市中心市街地の区間(一級河川指定区間外)では星川と呼ばれるが、同市市街地北部を流れる星川とは別の川である。この起点である箇所から東へ向かって流れ、行田市の市街地を経由し、秩父鉄道を横断した付近から流路を南へ変え、最後は吹上町袋で元荒川の左岸に合流する。古い時代(中世あるいはそれ以前)には、忍川の流路は乱流していて不定であり、星川の派川だった時代を経て、流路は次第に荒川の派川へと移行していったと思われる。
 戦国時代には、忍城主 成田氏によって星川の水が忍沼(忍城の外堀)へ導水されている。これは新規に水路を開削したのではなく、星川の派川跡を改修したものだと思われる。取水口跡(行田市総合公園の南側、行田市谷郷)には、大樋跡の碑が建てられている。
所在地    埼玉県鴻巣市下忍2842
御祭神    八坂大神
社  挌    不明
例  祭    例祭日7月23・24日

        
 下忍愛宕神社は旧北足立郡吹上町の北東側で、埼玉県道148号騎西鴻巣線と上越新幹線が交差する近くに鎮座している。吹上町は中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・(現・行田市)に向かう千人同心街道の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地として発展したという。
 2005年(平成17年)10月1日に北埼玉郡川里町と共に鴻巣市に編入されて、市域の一部となった。
 
           
                           下忍愛宕神社遠景
 
 下忍愛宕神社の創建年代は不詳。新編武蔵風土記稿には「天神社、明光寺持。愛宕社」と記載され、また近隣の下忍千手院が愛宕山と号し、寛永年間(1624-1643)以前の創建といわれることから、愛宕社は、江戸時代初期以前に鎮座していたものと思われる。
             
                             拝    殿
 
        拝殿の右側にある天神社                    左側には日枝神社
                       
                             本    殿
 この社の最大の特徴は拝殿の奥の本殿が愛宕山古墳、つまり墳頂上にあることだ。愛宕山古墳は、直径20~30m、高さ3m程の古墳時代後期の円墳と推定されているが、出土品などが確認されていないため、塚の可能性もあるという。 墳頂には愛宕神社が祀られていて、周りはコンクリートで固められ墳形は大きく変形していて原形を留めていないように見える。ちなみにこの愛宕山古墳は昭和34年1月16日鴻巣市指定史跡に指定されている。
           
                           愛宕山古墳 案内板
           
 下忍愛宕神社の規模は小さい社ではあるが、本殿が墳頂上にある為、遠目からでも確認できるくらい存在感のある社である。古墳か塚かどうかの議論の余地はあるにしろ、この面白い配置故に見た目にも不思議な余韻を残してくれる、そんな社である。

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広田鷺栖神社

 広田鷺栖神社は鴻巣市川里地区にあり、旧名広田村と称し、古くから田地として開発されている肥沃な土地であり、現在も白鷺の姿を多く見るところである。埼玉県神社庁発行の「埼玉の神社」によれば白鷺が田に下り稲を荒らしても、農民は決して追い払うことをせず「お鷺様お立ちください」といって去ってもらうという。また、過っても鷺を殺すと口のきけない子供が出来るといわれている。
 コウノトリ伝説で有名な鴻巣市らしい説話だが、このような鷺の伝承、伝説がこの広田鷺栖神社周辺に少なからず存在している。

         
            ・所在地 埼玉県鴻巣市広田3814
            ・ご祭神 日本武尊
            ・社 挌 旧広田村鎮守・旧村社
            ・例祭等 筒粥神事 215日 春日待 415日 秋季例祭 1015日
 広田鷺栖神社は埼玉古墳群の南東方向にあり、県道313号北根菖蒲線に面して鎮座している。地図を見ると良く解るが、不思議とこの鷺栖神社から埼玉古墳群の丁度中間地点には小崎沼があり、何かしらの関連性を伺わせる位置関係にあると思われる。
                
                           広田鷺栖神社正面
 広田鷺栖神社が鎮座する旧川里町周辺は、一昔まではサギ山と言われる集団繁殖地(コロニー)を形成していたらしい。このサギ山は現在でも日本各地にあるが、全国各地に「鷺山」という地名がたくさん残っていることから、かつては現在よりもさらに多くのサギ山があったと考えられている。
 埼玉県内でもこのサギ山は20年前までは14か所あったらしいが、水田転作で田んぼが減ってしまったり、田んぼが近代化することで、サギのエサとなる魚やカエルにとって住みにくい場所に変わってしまったため、サギ類の数は以前よりは少なくなってしまいサギ類の集団繁殖地サギ山も減少傾向にあり、現在では5か所と約3分の1になってしまったという。残念な現実だ。
 
            入口近くに設置されている「広田のささら」の掲示板(写真左・右)
 鴻巣市指定無形民俗文化財
 広田のささら   昭和50年12月15日指定

 広田のささらは、別名「龍頭舞」といい、頭に龍頭をかぶって舞う獅子舞である。
 この獅子舞は、寛永十六年(一六三九)七月二十七日より地区内の諏訪神社で始められたと伝えられている。その後、明治四十二年に諏訪神社が鷺栖神社に合祀されてからは、獅子舞は鷺栖神社の神事として毎年十月  十五日の大祭に、五穀豊穣と悪魔除けを祈願して奉納されている。(中略)               境内案内板より引用
 広田鷺栖神社の氏子区域は旧広田村で300戸程あり、現鴻巣市旧川里村全域の鎮守様である。当所は旧村名の広田が示すように水稲・陸稲の田地が広がる肥沃な地であり、このため、鴻巣市の指定無形民俗文化財である「広田のささら」を始め、多くの農耕関係の行事をよく伝えている所である。 
           
                      境内に建つ朱が鮮やかな二の鳥居                                                       

           
                               拝  殿        
『新編武蔵風土記稿 広田村』
 鷺宮 村の鎭守とす、祭神詳ならず、
 別當金剛院 本山修驗、屈巢村櫻本坊の配下なり、本尊不動を置、

 鷺栖神社  川里村広田三八一四(広田字東)
 当社の創建については、社伝に「昔伊勢の国・能保野(のぼの)を発ちし日本武尊の神霊白鷺の姿となり当地に飛来し翼を休める、当社是により祀る。社殿の造営は明応七年、鷺の宮と号す」とある。
 当地区は旧名広田村と称し、古くから田地として開発されていつ肥沃な土地であり、現在も白鷺の姿を多く見る所である。白鷺が田に下り稲を荒らしても、農民は決して追い払うことはせず、「お鷺様お立ちくだせい」といって去ってもらうという。また、誤っても鷺を殺すと口のきけない子供が出来るといわれている。
 祭神は日本武尊であり、古くは修験金剛院が当社の別当を務めた。明治二年神仏分離により、鷺栖神社と改称する。明治以降、当地の倉川家が神職となり、のちに松岡家がこれに代わって祀職を務めている。
 元禄一四年銘の棟札及び文政三年の修理棟札を有した旧本殿は、昭和四一年の台風により倒壊し、現在の社殿はその後の再建である。
 明治四二年一一月に字本村の榛名神社・諏訪神社、東の久伊豆神社、原の子宮神社、谷畑の天神社、三ヶ谷戸の八幡神社、堤の秋葉神社、六軒の日吉神社の八社を本殿に合祀している。
なお、合祀跡及び旧別当金剛院跡地は小作地としていたが、農地解放により失った。
                                                        「埼玉の神社」より引用

 拝殿上部には「筒粥神事」の進行を記した目録が張られている。
 215日の筒粥は、合祀前東の久伊豆社組の行事であったが、合祀後当社の行事となる。筒粥には、白米一升二合(閏年一升三合)小豆一合二勺(閏年一合三勺)竹又は篠(節なし)長さ一寸二分(閏年一寸三分)二九本が用いられ、神前(拝殿前庭)に竈作りと称し太い生木を三本左義長(サギッチョ)に立て、これを釡にかける。竹筒に粥が入った状態により二九種の作物の出来を占うという。
 
        拝殿上部に掲げてある扁額                       拝殿内部
 
    社殿の左側にある境内社 榛名神社       社殿の奥には弁天・塞神等の石祠が祀られている。
           
                           境内西側にある神楽殿 
              神楽殿の右側並びには幾多の伊勢講記念碑が並んでいる。
            
                                             埼玉県道の南側にある一の鳥居と社号標 
          
 広田鷺栖神社の一の鳥居から西側道路隅に「鴻巣市指定文化財 天然記念物」の指定を受けている『新井家の大榎』の大木・老木ある(写真左)。高さはそれ程ではないが、幹回り等、なかなかの貫禄があり、案内板(同右)によると天正19年に新井家のご先祖がこの地に定住した時点で、既に大木であったというのだから、推定樹齢は430年以上となろう。

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箕田氷川神社、宮前宮登神社

 鴻巣市箕田地区は北足立(大宮)台地と呼ばれる舌状台地の北端部に位置していて、標高16m~18mの微高地の台地に立地し、古くから開けた肥沃な土地であったようだ。鴻巣という地名自体、国府の洲の意で、ここに国府か郡衙 が一時的にせよ、かつてあったのではないか、という説がある。確かに、鴻巣は埼玉古墳群にも近く、 郡衙があった可能性は否定できない。確かにこの地域には箕田古墳群があるように古墳の多い地域として有名であり、郡衙がある、なしという議論の余地はあるにしても、ここに一大集落地が存在していたことは確かなようでである。

所在地    埼玉県鴻巣市箕田1260
御祭神    素盞嗚尊
社挌、例祭  箕田村鎮守だったらしい。その他は不明

       
 箕田氷川神社は箕田氷川八幡神社の北西方向約300mに位置し、今は小さな社が古墳上に鎮座している。県道365号鎌塚鴻巣線と武蔵水路が交わる中宿橋を17号方面に向かい、最初にT字路を右折ししばらく進むと左側に箕田氷川神社が見えてくる。ただ社は本当に小さく、鳥居があるためそこが神社であることを認識できる程度で、鳥居がなければ完全に古墳に見える。
 この社は、氷川八幡神社の境内掲示によると、承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだといわれ、江戸時代には箕田村の鎮守社となっていたが、明治時代以降、氷川八幡神社に合併され、宗教法人としては消滅してしまったという。
 
    道路沿いにある箕田氷川神社の鳥居                古墳上にある本殿
 本跡の南側一帯は箕田館の推定地となっており、それに関連して本墳は武蔵守源仕及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、築城年代からするとこの記述を信用することはできず、おそらく後世に両者が結びついて伝承されたものであろう。

氷川社
 村の鎮守なり。社の後に古塚あり。高さ6・7尺幅12・13間。往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり。これ古へ貴人を埋葬せし古墳なるべしといへり。村持。
 末社
 諏訪社。稲荷社                                (新編武蔵風土記稿掲示より引用)

 

 箕田氷川神社が鎮座するこの「箕田」という地名は、東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国足立郡箕田庄が起源(ルーツ)であるという。また「みた」は東京港区の三田とする説もある。さらに遠いところでは三重県鈴鹿市上箕田町・中箕田・下箕田地域もその候補もあり結論がでていない。埼玉苗字辞典には「ミタ」について以下の記述がある。

三田 ミタ 三は未(み)の佳字にて、未(ひつじ)は渡来人の総称を羊(ひつじ)と云う。田は郡県・村の意味。渡来人羊族の集落を三田、見田、美田、御田、箕田と称す。

 この「羊=ひつじ」の名は物部氏の祖神の名である経津主(ふつぬし)の転という説もあり、渡来人系と一概に決めつけることは危険だ。政略によって物部氏本家は滅び、一部の物部氏は古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。その零落した姿が羊太夫であるとも想像もできるのだが、今のところ詳細は不明だ。


所在地    埼玉県鴻巣市宮前88
御祭神    誉田別命  相殿  聖権現(道主貴神)
社  挌    旧村社
例  祭    不明           
            
 箕田氷川八幡神社から埼玉県道365号鎌塚鴻巣線を東に進み、宮前交差点を右折するとその近郊に宮前宮登神社が鎮座している。この宮登神社は、箕田の八幡神社を分霊し、現在は八幡神社となっているが、江戸時代は聖権現社といった。
 ちなみに新編武蔵風土記稿ではこのような記述をしている。

 聖権現社
 村の鎮守なり。天長年間紀州高野山の僧当所光徳寺を開基せしゆへ、彼聖を崇てかく祀ると云。光徳寺持。末社に弁天庚申の二社あり。
 
            
   鳥居の前にある何となく味のある社号標                参道正面より撮影
 
              拝   殿                            本   殿
                       
                 拝殿から本殿方向を撮影、よく見ると祭神が2柱ある。
               思うに、誉田別命と相殿である聖権現(道主貴神)であろう。
 箕田氷川神社と箕田氷川八幡神社のラインをそのまま南東方向に延長すると宮前宮登神社にぶつかる。偶然なのか宮前宮登神社の参道の先は箕田氷川八幡神社社殿に繋がる。不思議なラインがここにも存在する。

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箕田氷川八幡神社

 氷川八幡神社は、箕田八幡神社と通称し、渡辺綱(源綱)が、永延2年(988)当地に八幡宮を勧請して創建したという。この渡辺綱(源綱)は坂田公時、平貞道,平季武と共に源頼光(満仲の子)の四天王に挙げられ武勇談が多い人物で、特に大江山の酒呑童子退治の伝説は有名で武勇談が多いが、伝説的な要素もまた多いこともまた確かだ。
 この氷川八幡神社の北側には渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったといい、また鴻巣市八幡田は、氷川八幡神社の神田だったという。また境内には、宝暦9年(1759)建立の箕田碑が残されている。明治時代に入り、字龍泉寺の八幡社(浅間社か?)、箕田氷川神社を合併、郷社に列格している。
所在地   埼玉県鴻巣市箕田2041
御祭神   誉田別命
社  挌   旧郷社 旧箕田郷鎮守
例  祭   旧暦8月14日 例大祭

       
 箕田氷川八幡神社は、県道271号線と365線が交差する宮前交差点を北鴻巣駅方面へ進み、すぐ箕田小学校が左手にある。 その先に箕田郵便局があり、その北側に鎮座する。
 鴻巣宿の北に位置する箕田郷(旧箕田村周辺、現・鴻巣市箕田地区)は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏の発祥地と伝えられる。箕田の氷川八幡神社は、古くは綱八幡とも称し、羅生門の鬼退治で活躍した「頼光四天王」の1人である渡辺綱を祀るといわれている。
 武蔵守となって下向した綱の先々代・源仕(わたなべ-の-つがう)が当地に居を定め、先代・源融( -あづる)の時代になって「箕田源氏」を名乗った。
 境内にある「箕田碑」は宝暦9年(1759年)の建立で、箕田源氏の由緒と武蔵武士の本源地であることが記されている。箕田の近隣には清和源氏の祖である源経基の居館跡もある。氷川八幡神社に近接の宝持寺は、渡辺綱が父・源宛と祖父・源仕の追善のために建てた古刹と伝えられる。
                                                 
               
 
    鳥居の左隣にある社号標                   氷川八幡神社参道正面
  
 鳥居の参道や社号標のとなりにある氷川八幡神社の案内板(写真左)と鴻巣市の歴史の掲示板(同右)

氷川八幡社と箕田源氏
 氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、字龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。
 八幡社は源仕が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮座したものであり、字八幡田は源仕の孫、渡辺綱が八幡社の為に奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだといわれる。
 ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源仕、源宛、渡辺綱三代が、この地を拠点として活発な活動を展開した土地であった。
・ 源仕
 源仕は嵯峨天皇の第八皇子 河原左大臣源融(嵯峨天皇の祖)の孫で、寛平3年(891)に生まれ、武勇の誉れが高く、長じて武蔵国箕田庄に居を構え、自らを箕田源氏と称し、土地を開墾し、家の子郎党を養い、知勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平・天慶の乱に功を立てて従五位上武蔵守となった。天慶5年(942)没、享年52歳であった。
・ 源宛
 源宛は仕の子で弓馬の道にすぐれ、天慶の乱に際しては仕に従い、西国におもむき武功を立てたが天暦7年(953)21歳の若さで逝った。今昔物語には宛の武勇を物語る平良文との戦いが逸話として残されている。
・ 渡辺綱
 渡辺綱は源宛の長子として天暦7年(953)箕田に生まれた。幼少にして両親を失ったが、従母である多田満仲の娘に引き取られ、摂津国渡辺庄で養育されたので渡辺姓を名乗った。綱は幼少より勇名をはせ、長じては源頼光に属して世に頼光四天王の一人と称された。後に丹後守に任ぜられたが、万寿2年(1025)2月15日、73歳にて逝った。八幡社右手奥の宝持寺には綱の位牌が残されている。法名を『美源院殿大総英綱大禅定門』という。また、次のような辞世の句が伝えられている。
  世を経ても わけこし草の 中かりあらば あとをたつねよ むさしの のはら
・ 箕田館跡
 これら源家三代の住居は氷川八幡社北辺にあったと伝えられ、その地を殿山と称し、付近にはサンシ塚と呼ばれる古墳が存在しているが、館跡の面影をとどめるものはない。
                                                       案内板より引用

             
                             拝    殿
 拝殿の手前、右側には「箕田碑」と呼ばれる箕田源氏の由来を記した碑「箕田碑」がある。裏には安永7(1778)年に刻まれた碑文があり、また碑文には渡辺綱の辞世もあるという。
 
                        鴻巣市指定金石文 箕田碑
 箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
 箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778年)に刻まれた和文草体の碑文である。
 初めに渡辺綱の辞世
  世を経ても わけこし草のゆかりあらば
    あとをたづねよ むさしのはら
 
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。


 鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。

                                                        
鴻巣市教育委員会
           
                             本    殿 

 箕田源氏3代が活躍した10世紀から11世紀は日本では平安時代中期頃で、この時期は中央政府においては藤原北家の藤原氏忠平流の子孫のみが摂関に就任するという摂関政治の枠組みが確定し、それから以後藤原道長、頼通の全盛期に至る過度期にあたる。
 しかし地方は「平安」という時代には似つかわしくない豪族同士の対立や受領に対する不平が戦いに発展していったいわば内乱状態で、初期の武士が自分たちの地位確立を目指して行った条件闘争が武装蜂起にまで拡大し、武士身分が確立する過程における形成時期にあたっていた。この箕田地域においても事実延喜19年(919)源仕は 武蔵国国守である直向利春(たかむこのとしはる)に反乱をおこし、源苑も当時村岡(熊谷市)に居を構えていた秩父郡の村岡五郎(平良文)との合戦にもなり、双方とも数百人の軍勢で向かい合い、大将どおしの一騎打ちを延々と繰り広げ、とうとう勝負がつかなかったと、今昔物語にも書かれている。
 逆に解釈すると、当時の貴族の大多数は中央の政権は藤原氏北家のみで独占したため、地方に行き、国司として派遣されることしか栄達の道はなく、派遣されても自身や一族の蓄財に走ることしか考えない。当時の記録を見てもかなり酷い搾取だったようだ。このような過酷な徴税や私腹を肥やすことで地方の豪族や農民の不満は高まって、ついに各地で反乱の起こる乱れに乱れた時代だったのだろう。
                    
 箕田源氏はこのような時期に、自国の領土、そして領民を守るという大義のために戦いを続けた。そして領民はその恩を忘れず、この地に箕田地域の守り神として八幡神社として祀ったのではないだろうか。
                                                                                           

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