古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

箕田氷川八幡神社

 氷川八幡神社は、箕田八幡神社と通称し、渡辺綱(源綱)が、永延2年(988)当地に八幡宮を勧請して創建したという。この渡辺綱(源綱)は坂田公時、平貞道,平季武と共に源頼光(満仲の子)の四天王に挙げられ武勇談が多い人物で、特に大江山の酒呑童子退治の伝説は有名で武勇談が多いが、伝説的な要素もまた多いこともまた確かだ。
 この氷川八幡神社の北側には渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったといい、また鴻巣市八幡田は、氷川八幡神社の神田だったという。また境内には、宝暦9年(1759)建立の箕田碑が残されている。明治時代に入り、字龍泉寺の八幡社(浅間社か?)、箕田氷川神社を合併、郷社に列格している。
所在地   埼玉県鴻巣市箕田2041
御祭神   誉田別命
社  挌   旧郷社 旧箕田郷鎮守
例  祭   旧暦8月14日 例大祭

       
 箕田氷川八幡神社は、県道271号線と365線が交差する宮前交差点を北鴻巣駅方面へ進み、すぐ箕田小学校が左手にある。 その先に箕田郵便局があり、その北側に鎮座する。
 鴻巣宿の北に位置する箕田郷(旧箕田村周辺、現・鴻巣市箕田地区)は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏の発祥地と伝えられる。箕田の氷川八幡神社は、古くは綱八幡とも称し、羅生門の鬼退治で活躍した「頼光四天王」の1人である渡辺綱を祀るといわれている。
 武蔵守となって下向した綱の先々代・源仕(わたなべ-の-つがう)が当地に居を定め、先代・源融( -あづる)の時代になって「箕田源氏」を名乗った。
 境内にある「箕田碑」は宝暦9年(1759年)の建立で、箕田源氏の由緒と武蔵武士の本源地であることが記されている。箕田の近隣には清和源氏の祖である源経基の居館跡もある。氷川八幡神社に近接の宝持寺は、渡辺綱が父・源宛と祖父・源仕の追善のために建てた古刹と伝えられる。
                                                 
               
 
    鳥居の左隣にある社号標                   氷川八幡神社参道正面
  
 鳥居の参道や社号標のとなりにある氷川八幡神社の案内板(写真左)と鴻巣市の歴史の掲示板(同右)

氷川八幡社と箕田源氏
 氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、字龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。
 八幡社は源仕が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮座したものであり、字八幡田は源仕の孫、渡辺綱が八幡社の為に奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだといわれる。
 ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源仕、源宛、渡辺綱三代が、この地を拠点として活発な活動を展開した土地であった。
・ 源仕
 源仕は嵯峨天皇の第八皇子 河原左大臣源融(嵯峨天皇の祖)の孫で、寛平3年(891)に生まれ、武勇の誉れが高く、長じて武蔵国箕田庄に居を構え、自らを箕田源氏と称し、土地を開墾し、家の子郎党を養い、知勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平・天慶の乱に功を立てて従五位上武蔵守となった。天慶5年(942)没、享年52歳であった。
・ 源宛
 源宛は仕の子で弓馬の道にすぐれ、天慶の乱に際しては仕に従い、西国におもむき武功を立てたが天暦7年(953)21歳の若さで逝った。今昔物語には宛の武勇を物語る平良文との戦いが逸話として残されている。
・ 渡辺綱
 渡辺綱は源宛の長子として天暦7年(953)箕田に生まれた。幼少にして両親を失ったが、従母である多田満仲の娘に引き取られ、摂津国渡辺庄で養育されたので渡辺姓を名乗った。綱は幼少より勇名をはせ、長じては源頼光に属して世に頼光四天王の一人と称された。後に丹後守に任ぜられたが、万寿2年(1025)2月15日、73歳にて逝った。八幡社右手奥の宝持寺には綱の位牌が残されている。法名を『美源院殿大総英綱大禅定門』という。また、次のような辞世の句が伝えられている。
  世を経ても わけこし草の 中かりあらば あとをたつねよ むさしの のはら
・ 箕田館跡
 これら源家三代の住居は氷川八幡社北辺にあったと伝えられ、その地を殿山と称し、付近にはサンシ塚と呼ばれる古墳が存在しているが、館跡の面影をとどめるものはない。
                                                       案内板より引用

             
                             拝    殿
 拝殿の手前、右側には「箕田碑」と呼ばれる箕田源氏の由来を記した碑「箕田碑」がある。裏には安永7(1778)年に刻まれた碑文があり、また碑文には渡辺綱の辞世もあるという。
 
                        鴻巣市指定金石文 箕田碑
 箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
 箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778年)に刻まれた和文草体の碑文である。
 初めに渡辺綱の辞世
  世を経ても わけこし草のゆかりあらば
    あとをたづねよ むさしのはら
 
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。


 鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。

                                                        
鴻巣市教育委員会
           
                             本    殿 

 箕田源氏3代が活躍した10世紀から11世紀は日本では平安時代中期頃で、この時期は中央政府においては藤原北家の藤原氏忠平流の子孫のみが摂関に就任するという摂関政治の枠組みが確定し、それから以後藤原道長、頼通の全盛期に至る過度期にあたる。
 しかし地方は「平安」という時代には似つかわしくない豪族同士の対立や受領に対する不平が戦いに発展していったいわば内乱状態で、初期の武士が自分たちの地位確立を目指して行った条件闘争が武装蜂起にまで拡大し、武士身分が確立する過程における形成時期にあたっていた。この箕田地域においても事実延喜19年(919)源仕は 武蔵国国守である直向利春(たかむこのとしはる)に反乱をおこし、源苑も当時村岡(熊谷市)に居を構えていた秩父郡の村岡五郎(平良文)との合戦にもなり、双方とも数百人の軍勢で向かい合い、大将どおしの一騎打ちを延々と繰り広げ、とうとう勝負がつかなかったと、今昔物語にも書かれている。
 逆に解釈すると、当時の貴族の大多数は中央の政権は藤原氏北家のみで独占したため、地方に行き、国司として派遣されることしか栄達の道はなく、派遣されても自身や一族の蓄財に走ることしか考えない。当時の記録を見てもかなり酷い搾取だったようだ。このような過酷な徴税や私腹を肥やすことで地方の豪族や農民の不満は高まって、ついに各地で反乱の起こる乱れに乱れた時代だったのだろう。
                    
 箕田源氏はこのような時期に、自国の領土、そして領民を守るという大義のために戦いを続けた。そして領民はその恩を忘れず、この地に箕田地域の守り神として八幡神社として祀ったのではないだろうか。
                                                                                           

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屈巣久伊豆神社

 鴻巣市川里地区は、旧北埼玉郡川里町で、埼玉県の北東部、首都圏から約50kmの高崎線沿線に位置し、南は元荒川を境として鴻巣市と、東は星川(見沼代用水)を隔て騎西町と、西北は行田市と接していた。川里町は、昭和29年に屈巣村、広田村、共和村の3村が合併し、川里村が誕生。平成13年5月1日に町制を施行し、川里町となり、その後平成の大合併により、2005年10月1日に隣接する鴻巣市に編入された。
 屈巣久伊豆神社は旧川里町屈巣地区に鎮座している。屈巣とは変わった地名だ。この屈巣は「くす」と読み、嘗てこの地は久伊豆神社の御祭神である大己貴命、別名大国主命の「大国主命」の二字を取って「国主」と表記していたという口伝がある。ちなみに「国主」と書いてこれも「くす」と読むそうだ。
 折からの雨の中だの参拝だったが(逆に雨だったから良かったのかもしれないが)、不思議と不快な感覚はなく、社叢の静寂の中にも何か触れることのできない神聖さや荘厳さを感じてしまった。そんな雰囲気を漂わせる何かをこの社は持っていた。
所在地   埼玉県鴻巣市屈巣2313-1
御祭神   大己貴命
社  挌   不明
例  祭   10月15日 秋の例祭

       
 屈巣久伊豆神社は埼玉県道32号鴻巣羽生線を鴻巣市から羽生市方向に進み、左側に円通寺観音堂が見える先の交差点手前を左折すると正面にこんもりとした社叢が見えてくる。因みに円通寺観音堂は「大本山円覚寺百観音霊場」の札所42番の由緒ある観音堂で、慶長年間の建立といわれる総ヒノキ造りの堂々たるお堂で、本尊の馬頭観世音菩薩木像などとともに市の文化財に指定されている。
                  
                       円通寺観音堂  県道沿いから撮影 
 このお寺、元々は「観音寺」という独立したお寺で、1690(元禄3)年開創とされる西国三十三観音うつしの「忍領三十三観音(忍新西国観音)霊場」の6番札所になっている。明治維新の廃仏毀釈が影響しているのか、現在は円通寺の飛び地境内にある観音堂としての扱いだそうだ。

                       
                                                    屈巣久伊豆神社参道正面
           
                      鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板
 屈巣久伊豆神社は境内の案内板によると、当地の地名は元来、国主と表記していたという。その昔、村社である久伊豆神社(ひさいず)の榎の大木に鷲が住み着き、村人に色々と悪さをして、迷惑をかけていたそうだ。そこで村人が鷲神社として祀ったところ、それ以降、鷲は巣の中に屈して外に出ることがなかったため屈巣と改められたという。
  

                    
                               拝   殿
           
                                本   殿
 前述の屈巣久伊豆神社の案内板によると、『明細帳』には「本社々殿ハ宝亀元年(770)九月の建立ニテ今ヲ距ル千有余年爾後数回再建ノ事記アル棟板等今二存在セリ、而シテ又土俗ノ口碑二前玉神社ノ一社ナリト伝ウ、蓋シ本社久伊豆神社祭神大己貴命ハ大国主命二シテ古へ村名ヲ国主村(今ハ屈巣村ト云ウ)ト唱へシハ即チ大国主ノ二字ヲ村名二呼ヒシ二原因セシナラン、以上土俗ノ口碑ト当事存在セル棟木ノ年号トニ依レハ古へ前玉神社二座ス其一ヲ祭リシモノ二テ式内ノ神社タルコト明ナリ(中略)と記載されている。

 境内社は社殿の奥に鎮座している。明治42年に16社が合祀されたという。

  また神社の西側で銀杏の大木の付近には、『従是北忍領』と刻まれた安永九年(1780)建立の忍領境界石がある。
  
 鴻巣市指定有形文化財
     忍領境界石標 昭和53年3月9日指定

 この石標は、忍藩が他領分との境界争いが起こらないよう安永9年(1780)に屈巣村(現川里村屈巣)と安養寺(現鴻巣市安養寺内)との境に建てたものである。忍藩内に16本建てられたものの一つである。明治の廃藩置県後、一時個人所有になったが、その後久伊豆神社に寄附されたもので、川里の歴史を語る貴重な資料である。
 「従是北忍領」と彫られている。
    高さ133cm 幅30cm 小松石
    平成7年7月
                                                        川里村教育委員会

 ところでこの久伊豆神社が鎮座している「屈巣=クス」という地域名から筆者はある古代の名称を思い起こす。つまり「国栖」だ。
くず (国栖、国巣)   
1 古代、大和の吉野川上流の山地にあったという村落。また、その住民。宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌を奏した。くずびと。
2  古代、常陸(ひたち)国茨城郡に住んでいた先住民。つちくも。やつかはぎ。「―、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)」〈常陸風土記〉

 
 本来国巣は、古事記の記載では吉野の山岳土着民であり、特に奈良・平安時代には天皇即位の大嘗祭などで食事を献上し、歌や笛を披露した。実際吉野には今も「国栖(くず)」の地名がある。古事記・日本書紀には、神武東征時、「尾が生えている」国巣の先祖が現れ、天皇を歓迎している記述があるが、どうやらこの山岳土着民は鉱山の坑道で働く人々のようで、天皇家が彼らを「国巣」や「土蜘蛛」、「穴居民」と蔑称したものであり、侮蔑名ではあるが決して逆賊ではなく、ましてや討伐の対象ではないのだ。
 ところが常陸風土記ではその土着民は征伐、討伐の対象と変化する。一例を紹介しよう。

『常陸国風土記』
 
行方郡(なめかたのこおり)・当麻(たぎま)郷

  倭武(ヤマトタケル)天皇が巡行して、この郷を通られたとき、佐伯(さへき)の鳥日子という者があった。天皇の命令に逆らったため、すぐに殺された。
 行方郡・芸都(きつ)里
  昔、芸都里に国栖(くず)の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘賣(きつひめ)という二人がいた。その寸津毘古は天皇の命令に背き、教化に従わず、無礼であった。そこで、御剣を抜いて、すぐに斬り殺された。寸津毘賣は恐れおのき、白旗を掲げてお迎えして拝んだ。天皇は哀れに思って恵みを垂れ、住むことをお許しになった。
 小城郡(おきのこおり)
  昔、この村に土蜘蛛(つちぐも)がいて、小城(城壁)を造って隠れ、天皇の命令に従わなかった。日本武尊が巡行なさった時、ことごとく誅罰した。

 ところで国栖(くす)は別名・国樔(くず)・佐伯(さへき)・八束脛(やつかはぎ)・隼人(はやと)と言われいずれも土蜘蛛であり穴居民を意味しており、土蜘蛛の分布地と丹生(ニュウ)・砂金・砂鉄など鉱山資源の産地が合致する。不思議と荒川は、砂鉄の含有率が50%を超す日本一の砂鉄の採れる川であり、荒川の流域では古代から製鉄関係の遺跡が多く見つかっている。元荒川も同様だ。江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていたからだ。鴻巣市屈巣地区は元荒川左岸に位置し,砂鉄に関係する鍛冶集団の伝承が屈巣地域周辺にも残っており、国栖との関係が大いに連想される。
 鴻巣市は。「コウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もあるが、屈巣久伊豆神社を調べるとこの国栖の名称「くす、くず」が「鴻巣」の語源ともなったともいえるのではないか、と最近ふと推測した次第だが詳細は現時点では不明だ。


 

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鴻巣生出塚神社

 鴻巣市は歴史的に見ても大変興味が尽きない市であり地域である。この市名の由来はコウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もあり、どちらにしてもかなり古くから時の政府から認知された場所であったようだ。
 またこの地域は元荒川を挟んで笠原地区と正対する地域に生出塚古墳群が展開しており、生出塚、新屋敷、両支群の発掘調査により95基の古墳が確認され、未発見の古墳跡を含めると100基を越す元荒川右岸最大の古墳群と想定される。
 さらにこの生出塚古墳群は東日本最大であり、日本国内でも屈指の埴輪生産遺跡でもある生出塚遺跡をともなう古墳群で40基の窯跡や2基の埴輪工房跡が確認されており、埴輪生産は5世紀末から6世紀末まで継続されたものと推定され、丁度近隣の埼玉古墳群が築造された時期と合致し、両者の深い関連性が伺える。
 穿った意見を言わせてもらえば、この生出塚遺跡で造られた埴輪等を埼玉の津で各地に流通させていたことを知っていた埼玉古墳群の王者がこの地を領有し、交易等で得た膨大の富を背景に強大化してこの古墳群を築造させることができたのではないかと勝手に想像を膨らませてしまった。
 鴻巣市天神に鎮座する生出塚神社には埼玉古墳群と関連性の深いある人物が由来記に記されていている。この生出塚という不思議な地名の歴史はかなり古く、奥ゆかしいものだと参拝中考えさせられた。

所在地  埼玉県鴻巣市天神1-6-14
御祭神  菅原道真(?)
社  挌  旧村社 旧生出塚村鎮守
例  祭  不明

       
 生出塚神社は国道17号線を鴻巣市街地に進み、天神2丁目交差点を右折し、ガソリンスタンドのあるY字路の右側を進む。この道は変則的な十字路にぶつかりそこを右折し、17号線に合流する手前で左側にこの社は鎮座している。位置的には大体県立鴻巣女子高校の北隣にあると思えばいいと思う。
           
                         生出塚神社参道から撮影
 
             
                 社殿の手前で右側にある生出塚神社改修記念碑

生 出 塚 神 社 由 来
 当社は、もとの生出塚村の鎮守として信仰されてきた神社である。創建の時期は不明で、元来は天満宮と称し、菅原道真公を祀ってきたが、明治四十年(1907年)に社号を生出塚神社と改めた。

生出塚(おいねづか)という地名の由来は定かではないが、日本書紀安閑天皇元年(534年)に記述のある武蔵国造の乱において当地の豪族笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と争った同族の、笠原小杵(かさはらのおきね)と関わりのあることが推測される。この小杵を葬った古墳がこのあたりにあり、小杵塚(おきねづか)と称していたのが、いつの頃よりか「おいねづか」となり、現在の「生出塚」という字をあてるようになったのではないか。当社にまつわる古文書類がなく、その由来を確かめることもできないが、古墳の上に社を祀る事例は各地にあり、このことからすると、この小杵塚が削られて畑地になった後に社が残り、その社が後に天満宮となったのではないだろうか。
この近辺からは埴輪窯跡や、その他多くの遺跡も発見されており、古代からこの地域の人々の生活の場であったことがわかるが、当社も、古くからこの地域の人々に崇敬されてきた社であったのではないたと思われる。
 平成十七年四月吉日 宮司 伊藤千廣
          
                             拝   殿
          
                             本   殿
 この生出塚神社の場所は鴻巣市天神という地区で文字通りこの社の元の御祭神である菅原道真縁の地名なのだろう。しかし別の場所に生出塚地区は実際に存在していてその場所は中山道を渡り天神4丁目の先にある。この地域は上記に紹介した生出塚古墳群生出塚埴輪窯跡群が存在し、まさに古代遺跡の宝庫の地がそこにはある。さらに東から北へ進むと上谷総合公園の東が笠原の地であり、埼玉県道38号加須鴻巣線を北上するとすぐ左側に笠原久伊豆神社が鎮座している。
          
                  生出塚神社、手水舎から社務所方向を撮影
 生出塚神社は元天満宮と称していたと境内の「生出塚神社改築記念碑」に記された「生出塚神社由来」には記述されている。この天満宮は本来ならば大宰府に配流されて不遇の死を遂げた菅原道真の怨霊を鎮める為に建てられた社だが、反逆者の汚名を被って殺された笠原小杵の怨霊を鎮める為に、地元の人々が本来の御祭神である笠原小杵の名前を伏せ、敢えて菅原道真に換えて天満宮を祀ったとすると奇妙に話の辻褄が合うし、この生出塚=小杵塚説はなかなか面白い説であると思う。この推測は飛躍しすぎ、穿ち過ぎだろうか。

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笠原久伊豆神社

  元荒川は延長61Km、流域面積216Km2の中川水系の一級河川。埼玉県熊谷市佐谷田を管理起点とし、おおむね南東へ向かって流れ、行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市を経由して、最後は越谷市中島で中川の右岸へ合流する。この元荒川は山地水源を持たない河川であり、かつての元荒川は荒川扇状地の湧水を水源としていたが、次第に水源は枯渇し、現在の源流はポンプで汲み上げた地下水(人工水源)である。
 久伊豆神社は不思議とこの元荒川流域を中心に分布する神社で、逆を言うとそれ以外の地にはほとんど建てられていない。興味深いことに、荒川の主流(元荒川~備前堤~綾瀬川)は、神社分布の境界線にもなっていて、左岸側に久伊豆神社、右岸側には氷川神社が分布している。不思議な事項であり、このような意味において大変興味のある社である。
 鴻巣市笠原地区にもこの久伊豆神社が存在する。もちろん元荒川流域左岸だ。

所在地  埼玉県鴻巣市笠原1755
御祭神  不明
社  挌  延喜式内社、旧村社
例  祭  不明
      
 笠原久伊豆神社は鴻巣市街地の東端に位置する。埼玉県警察運転免許センターを最初の目印にして、まず免許センター前交差点を右折し、最初の信号であるひばり野交差点を左折し道なりに直進する。上越新幹線の高架橋をくぐった先の郷地橋交差点を右折すると埼玉県道77号行田蓮田線となり、車で約5分位走ると笠原郵便局交差点となり、左折すると左側にこの社が見えてくる。ちなみに道路を挟んだ反対側には久伊豆神社の別当寺であった東光寺がある。
 駐車場は、久伊豆神社の社号標を過ぎると民家があり、その先に駐車スペースがあるので、そこに停め参拝を行った。

              
                村社 久伊豆神社の社号標。斜めに傾いている。その先に神明系の鳥居がある。
       
                  一の鳥居。この鳥居を過ぎると直角に曲がり、その正面に二の鳥居がある。
         
                                  二の鳥居前から撮影。その先に社殿が存在する。
 
 久伊豆神社の鎮座地は埼玉県内の、綾瀬川左岸(東岸)を中心に集中的に分布している。これはちょうど氷川神社勢力圏と香取神社勢力圏とに挟まれたエリアであり、こうした「棲み分け」を武蔵七党、特に野与党・私市党の勢力範囲と関連づける説もあるようだ。
         

                         参道左側にある神楽殿
 
 神楽殿の南隣に鎮座する境内社、由緒不明。   社殿の奥にある境内社等。こちらも由緒不明だ。
          近くに力石がある。
                     
                                                             拝   殿
                       
 
                            本   殿
 
ところで笠原久伊豆神社は延喜式式内社の一で、さいたま市浦和区上木崎に鎮座する足立神社や同市北区宮原町に鎮座する賀茂神社と共に武蔵国足立神社の論社とされている。延喜式神名帳成立時点での足立郡の群域がどこまでだったかは細かいところまでは不明だが、この笠原地方は埼玉郡に所属していたはずだし、そうするとその時点で足立郡の式内社にはそもそも該当しないのではないかと思われるが、一応論社ということなので紹介した。
 久伊豆神社は現代風にいうと、特定地域密着型の社である。鴻巣の久伊豆社はこの笠原の他に郷地にも存在するし、近隣では旧川里町屈巣地区、また北根地区にも鎮座している。久伊豆社は笠原地区のみではなく、狭い区域に少なからず存在している。その中で笠原久伊豆神社を延喜式内社の一論社として比定する絶対的根拠がどこにあったのだろうか。

最後に笠原久伊豆神社の鎮座する地、「笠原」について「埼玉苗字辞典」では以下の記載がある。

笠原 カサハラ 弁韓(後の迦耶)の蓋(かさ)族居住地を笠原と云う。原は城(都)の意味で、非農民の職業集団居住地を云う。カサ条参照。大和国高市郡の飛鳥川上流に栢森村(今の明日香村)があり、迦耶人の居住地で飛鳥川を別名迦耶川とも称す。此地の飛鳥衣縫は、雄略記に「漢織、呉織、衣縫、是飛鳥衣縫部、伊勢衣縫部の先也」と見ゆ。迦耶は安耶(あや)国とも称し、漢人、呉人は迦耶出身なり。漢(あや)及び呉(くれ)条参照。武蔵国埼玉郡栢間郷笠原村鴻巣市)は是等迦耶人の居住地である。安耶ノ国渡来人は安部族にて、武蔵国造家及び埼玉古墳の被葬者は安部族笠原氏の首領である。アベ条参照。和名抄に埼玉郡笠原郷を加佐波良と註す。此地は百間村(宮代町)一帯にあった古代笠原沼にて、幸魂沼(埼玉沼)の一なり。今の笠原小学校及び東武動物公園の附近で、其の岸辺に式内社宮目神社(百間村姫宮神社)がある。近村の爪田ヶ谷村、蓮谷村、久米原村、須賀村、中村等に小名笠原あり。百間東村西光院条に「当院は行基の草創にて安部清明開基せり。昔は法相宗の大刹なり、末寺門徒塔中二十七ヶ寺あり、本尊薬師を安す」と。有名なる安部清明は附会にて、薬師を守本尊とする鍛冶集団の古代安部族の草創である。隣村の葛飾郡下高野村杉戸町)龍燈山伝燈記に「武総国界に一大入江有り、而して是を幸魂真間入江と申す。景行天皇御宇、倭建命、東国御下向の時、此入江御渡有り、御一島山に着く。和銅三年下総国住人孔王部堅・一家五十口を引連れ此の島に移り住す。神亀三年行基菩薩・道俗弟子数人を伴いて武州百間郷佐加狭井浦より大島郷に於て錫を給ふ」と見ゆ。古代は江戸湾より笠原沼に至り、宮代町逆井で上陸して大島郷(杉戸町)に着いた。また、男衾郡竹沢郷笠原村小川町)あり、正保年間より比企郡に属す。正倉院天平六年宝物に武蔵国男衾郡カリ倉郷笠原里と見ゆ。古代蓋族の居住地にて当村に笠原氏多く存す。また、小名では入間郡荻原村字笠原、二本木村字笠原、高麗郡鯨井村字笠原、秩父郡上小鹿野村字笠原あり。此氏は武蔵国北部に多く存す。



一 古代阿部族笠原氏 埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘に「辛亥年七月中記、上祖名意富比垝、(中略)、其児名加差披余」とあり。オオヒコは阿部族を率いた代々の首領名である。其の子孫カサハヨは笠族の名を冠している。



二 武蔵国造族笠原直 笠原・笠間・風間等の笠族を支配管掌し笠原直を名乗る。物部族を支配するものを物部直と云う。古代氏族系譜集成に「兄多毛比命(武蔵国造、奉祭氷川神)―荒田比乃宿祢―宇志足尼―筑麻古―蚊手―加志―波留古―使主(武蔵国造、笠原直)―兄麻呂(物部直)、波留古の弟碓古―小杵(従兄使主と争ふ)」と見ゆ。日本書紀・安閑天皇元年閏十二月条に「武蔵国造笠原直使主、同族小杵と、国造を相争ひて年を経て決し難し。小杵は性阻にして逆あり。心高うして順なし。密かに就て援を上毛野君小熊に求めて、使主を殺さんと謀る。使主覚りて走出で京に詣りて状を申す。朝廷臨断、使主を以て国造と為し、小杵を誅す。国造使主悚憙(おそれよろこび)、懐にみちて、黙し巳む事能わず謹んで国家の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を置き奉る」と見ゆ。また、大里郡神社誌・相上村大里町)吉見神社条に「末社に東宮社、天神社あり。東宮社は祭神建夷鳥命の子建豫斯味命(吉見命)にして牟刺国造の始祖なり。又天神社は天穂日命・建夷鳥命を祭神とす。吉見郷は建豫斯味命・伊豆毛国より入間郡に遷り坐す故に吉見と云ふ。和銅六年五月奉勅・外従三位下牟刺国造笠原豊庭と宝物あり」と見ゆ。宝物は後世の造立であろう。



 「埼玉苗字辞典」によると「笠原」姓の源流は朝鮮半島の弁韓国の中の「蓋(かさ)族」より来るらしい。この弁韓国は弁辰ともいい、紀元前2世紀から4世紀にかけて存在していた三韓(馬韓、辰韓)の一つである。領域は馬韓の東側で、辰韓の南、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域と推測されている。この蓋族が古代日本に移住し姓も「笠、上、賀佐、風」と称した。

 この笠原という姓は日本国で30,000人、姓名ランキングで327位という。関東地方に圧倒的に多く、次いで新潟、長野の上信越地方、そして興味深いところで大阪、岡山県も比較的多数存在している。

   埼玉県   およそ8,600人     静岡県  およそ1,800人
   東京都   およそ7,800人     大阪府  およそ2,300人
   千葉県   およそ2,900人     岡山県  およそ2,800人
   群馬県   およそ3,300人
   神奈川県 およそ6,000人
   新潟県   およそ6,500人
   長野県   およそ3,600人
   愛知県   およそ1,800人

 「笠原」姓の他同族と言われている「風間」姓は全体的に多くは存在しない姓名ではあるが(全国ランキング714位、28,000人ほど)、やはり関東、甲信越地域に多くみられ、静岡県以西はあまり多くない。

   埼玉県   およそ3,200人           新潟県 およそ5,200人
   東京都   およそ4,300人     静岡県 およそ1,800人
   神奈川県 およそ2,600人     長野県 およそ1,400人

 この笠原姓は東日本地方に圧倒的に多く存在する中、岡山、大阪地方にも多くいることは着目に値することだ。岡山県には金工鍛冶の技術を持つ吉備氏系の笠氏の存在があり、新撰姓氏録では笠臣国造として孝霊天皇の皇子・稚武彦命の後裔氏族つぃて登場する。

笠臣国造
笠臣国造(笠国造)とは笠臣国(現・岡山県西部~広島県東部、笠岡市中心)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代、元より笠臣国の領主をしていた鴨別命(かもわけのみこと)の8世孫である笠三枚臣(かさみひらのおみ)を国造に定めたことに始まるとされる。鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の皇子・稚武彦命(わかたけひこのみこと)の後裔氏族であり、笠臣は鴨別命の後裔氏族として書かれている。また日本書紀には鴨別命が熊襲征伐の勲功により応神天皇より波区芸県主に封じられたとされているが、波区芸(はぐき)がどこかは不明である。  

 大阪府に関しても笠原氏に関して面白い事項がある。笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀った、とされる。 笠縫邑は大嘗祭、豊明節会の起源に関係する大事な土地との説もある。
 この笠縫邑は大阪市東成区深江南に鎮座する深江稲荷神社には、付近の深江は笠縫氏の居住地で、大和の笠縫邑から移住してきた、との伝承がある。万葉歌人高市黒人(たけちのくろと)が「四極山(しはつやま) うち越え見れば笠縫の島 漕ぎ隠る 棚無し小舟」と詠んだ様に、古代には、笠縫島といわれた。笠縫島は、現在の深江から東大阪市足代にかけて、入江に浮かんだ島であった。笠の材料の確保のため、笠縫氏は島に住んだと思われるが、もともと大和の笠縫邑も、同じような低湿地か、島状の土地だったのではないかとも推測される。 現在も大嘗祭に使用する笠は、この深江から天皇家へ献上されている。また、深江は、皇祖の御神鏡に関係する鋳物師とも関係が深い土地とのことである。
  


 さて日本全国見てもこの「笠原」姓は非常に少なく、現代人の私にとっても正直インパクトのない印象は拭えない。それなのに日本書紀にはハッキリと関東の片田舎の事件の一首謀者「笠原直使主」と明記していた事実は、ある意味面白い考察を提示してくれた。
 この「笠原」姓は確かに東日本地域には多く存在しているが、その大多数は西から移住した民族ではないだろうか。その中継所として「吉備地方」、「大阪府」が存在し、その中継所にも少なからず永住者が存在し、その地域における「笠氏伝承」となったのではないかと考えられる。その中継所も神話の宝庫である「吉備」や、皇祖の御神鏡に関係する鋳物師とも関係が深い土地である大阪の「深江」など、古代倭国神話形成における重要な地域だからこそ天皇家は「笠原」姓を忘れなかったのではないか、と推測する。

 また笠縫邑に関してはいくつか面白い考察もあり、別項を設けて述べたいと思う。


*補足   
 笠原久伊豆神社の接している道路は現在県道38号加須鴻巣線といい、かつての騎西道であり、別名、御成道とも称されていた。名前が示すとおり、徳川家康が鷹狩のさいに通った(とされる)道で、鷹狩で騎西方面に向かうために、家康が新たに作らせた街道である。                平成26年3月22日

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鴻神社

 鴻巣市(こうのすし)は、埼玉県の東部中央、大宮台地の北端に位置する人口約12万の市である。都心から50キロ圏内にあたる場所に位置し、市の中央には旧中山道が通っており、それを挟むように、国道17号線とJR高崎線が通っている。市の西側には荒川が南流し、川を境に吉見町、東は騎西町、菖蒲町、北は行田市、川里村、南に桶川市、北本市と接していて、昭和30年代以降は住宅地の拡大や工場の誘致、バイパスの開通などにより、都市化が急激に進んでいる。
 鴻巣の地名は古来からのものらしい。「コウ(高)・ノ・ス(洲)」で「高台の砂地」の意とする説や、日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もある。

 
古代から近世までの鴻巣市域は主に武蔵国足立郡に属し、一部の地域は埼玉郡、大里郡に属していた。日本書紀によると504年、安閑天皇より笠原直使主が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原郷(現在の加須市種足から笠原、久喜市菖蒲町付近)に拠点を持ったとされる。笠原から元荒川の上流10キロほど離れた埼玉郡埼玉(現在の行田市埼玉)にある埼玉古墳群は同時代の古墳であり、何の基盤の無い当地に突如として、関西地方に匹敵する中型古墳群が現れた事、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に彫られたヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラと読める事から、笠原を本拠としたといわれる武蔵国国造の笠原氏の古墳ではないかという説があるが、あまりにも少ない資料や出土品などから推定された仮説であることを忘れてはならない。
 また元荒川を挟んで笠原地区と正対する地域に生出塚古墳群が展開しており、生出塚、新屋敷、両支群の発掘調査により95基の古墳が確認され、未発見の古墳跡を含めると100基を越す元荒川右岸最大の古墳群と想定される

 当社は、子授け・安産祈願の社としても有名で、当社の「木曽檜樹魂塊(きそひのきじゅこんかい)」は、子授け・子育て・安産のご神体とされている。

所在地   埼玉県鴻巣市本宮町1-9
主祭神   素盞鳴尊  嵐/暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神
        速玉之男命 唾液の誓約力が速く玉の光のごとき霊力をもつ男性
        賀茂別雷神 雷神
社  格    旧村社 鴻巣宿鎮守
例  祭    10月14日


 地図リンク
 鴻神社は国道17号線を熊谷市から鴻巣市方面に向かい、宮地交差点を右折し、直進し約500m位、道路沿い左側に鎮座している。駐車場は境内に駐車スペースがあり、そこに停めることができる。市街地に鎮座する社で交通の便も良く、また社内は開放感があり、境内は掃除が行き届いていて清潔感もあり、平日であったが参拝客も多かった。



  江戸時代、鴻巣宿の中心にあった氷川社、熊野社、雷電社を明治6年(1873年)に合祀し鴻三社と号したのが始まりである。その後、明治35年(1902年)に、日枝社、東照宮、大花稲荷社、八幡社を合祀して、社号を現在の鴻神社と改めた。当初は市内宮地5丁目にあったが、後に現在地に移転した。なお、旧社地には現在も八幡、稲荷、氷川の三社の祠が残されている。

大本となった三社のうち
・ 氷川社は鴻ノ宮氷川大明神または端ノ宮(はじのみや)と言い鴻巣郷総鎮守として広く崇敬を集めた古社である。また「こうのとり伝説」の由来となっている社でもある。
・ 熊野社は古くは熊野権現と号した古社だが創建は不明である。近隣の豪族の深井対馬守景吉が永禄4年(1561年)に紀州熊野社を参詣して、その社地の霊土と御神燈を持ち帰り、鴻巣宿の熊野社の社殿の下に霊土を埋めたと伝えられている。
・ 雷電社は現在の鴻神社の場所にあり、竹林が多い事から「竹の森雷電社」とも呼ばれた


鴻神社 由来
氷川社
鴻巣宿字本宮390番地(宮地5丁目)
鴻ノ宮氷川大明神あるいは端ノ宮(ハジノミヤ・ハタノミヤ)ともいい、鴻巣郷総鎮守として崇敬された古社であった。氷川社の神額は現在も鴻神社に残されている。
熊野社
鴻巣宿字本宮389番地(宮地1丁目)
熊野権現と称していた古社で氷川明神を端ノ宮と称したのに対し中ノ宮と呼んだ。合祀前は社地3000坪を有し、巨木におおわれた森林であったという。
竹ノ森雷電社
鴻巣宿字東側2283番地(現在地)
雷電社は現在地に鎮座していたもので、「竹ノ森」の名があるように付近には竹林が広く存在し、巨木と竹林によって囲まれた古社であり、天明期には遍照寺(瀧馬室常勝寺末)持となり、鴻巣宿の鎮守として崇敬されていた古社であった。

 現在の鴻神社社地は竹ノ森雷電社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治6年9月24日に社号を鴻三社と定めた。
 明治35年から40年にかけてはさらに鴻巣町内に所在した日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して明治40年4月8日、社号を鴻神社と改めて現在に至っている。
 ここには鴻巣市の文化財に指定されている「香具拾三組御定免」「議定書」「商人講中連名帳並焼印」等貴重な史料が残されている。またここ鴻神社では10月14日の例大祭のほか、ゑんぎ市や酉の市、夏まつりなど様々な行事がおこなわれている。         
                                                   境内掲示板より引用

 
               神楽殿                       「なんじゃもんじゃ」の木
 
             田鴻の宮                         三狐稲荷神社
                 
                      鴻神社の御神体である夫婦銀杏
            
                           鴻神社 旧本殿


鴻巣」という名前の由来は、古代、武蔵(天邪志)国造(むさしくにのみやつこ)である、笠原直使王(かさはらのあたいおみ)が、現在の鴻巣市笠原のあたりに住み、一時この地が武蔵の国府となったことから、「国府の州(こくふのす)」と呼ばれたのが始まりとされ、それが「こふのす」となり、後に「コウノトリ伝説」から「鴻巣」の字をあてはめるようになったと云われているが、事実はどうであったのだろうか。まず漢字から連想してみると、鴻巣の字体は「鴻」+「巣」で本来の地名は「鴻」ではなかったかと推測する。そしてこの「鴻(コウ)」はいわゆる佳字で本来の名は別ではなかったのではないか。埼玉苗字辞典には次のような記述が掲載してあったのでここに紹介する。


河野 コウノ 高野(コウノ)の佳字なり。足立郡鴻巣郷周辺に多く存す。元鴻巣村(北本市本宿)より宿場を移して今の鴻巣宿(鴻巣市)となる。当宿の総鎮守氷川社は鴻ノ宮と称し、今は鴻神社と称す。鴻は高(コウ)の佳字で、古代に高ノ一族の奉斎神であったものを氷川に改称したか。(中略)

 この「鴻巣」という地名の本来の名は「高野(コウノ、タカノ)」であり、「高」一族が古来よりこの地に先住していたという。但し証拠は全くない。地名からの推察に過ぎないが、この鴻巣地方には「河野」姓が非常に多いことをどう説明したらよいのだろうか。


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