古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

関新田稲荷神社

 荼枳尼天(だきにてん)とは、元々は仏教の神である。「荼枳尼」という名は梵語のダーキニー (ākinī) を音訳したものである。また、荼吉尼天、吒枳尼天とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。荼枳尼“天”とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典では“天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される。
 ダーキニーはもともと集団や種族を指す名であるが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになった。日本では「稲荷信仰」と混同されて習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表される。狐の精とされ、稲荷権現、飯綱権現と同一視される。また辰狐王菩薩とも尊称される。剣、宝珠、稲束、鎌などを持物とする。
        
           ・所在地 埼玉県鴻巣市関新田4431
           ・ご祭神 倉稲魂命
           ・社 格 旧関新田村鎮守
           ・例祭等 
三月初午 お獅子様 515日 八坂祭(天王祭) 714
                
例祭 94日 新嘗祭 1129
 鴻巣市関新田地域は、元川里町の通称「川里中央通り」沿いに形成され、南は川里中央公園、北は見沼代用水(星川)を境となす南北に長い長閑な田園地域である。嘗ては北根村と一村と成していたようだが、江戸期の正保から元禄時期に分かれたようである。関新田の地名由来としては、村北部境に星川の堰があるので慶安3年(1650)に堰(せき)新田と命名し、のち関新田になったという。
 この地域内には「花久の里」という観光スポットがあるのだが、「川里中央通り」からこの施設に向かう入口には看板が設置されていて、その反対側の道を進むと、その突当たり地点に関新田稲荷神社が見えてくる。
 社の正面附近には適当な駐車場所はないため、一旦迂回してから背後に回り込み、社と「関新田集落センター」の間に適度な駐車スペースが確保されているので、一時的に駐車し、その後参拝を行う。
        
                
「花久の里」入口正面
 「花久の里」「川里中央通り」の東側に、関新田稲荷神社はその道路の西側に鎮座している
        
                 
関新田稲荷神社正面
『日本歴史地名大系 』「関新田村」の解説
 南東は新井村、東は見沼代用水(星川)を限り、北西は野通(やどおり)川流域の低湿地。集落は同用水右岸の自然堤防上に立地する。村内に新井村の飛地がある。もとは北西の北根村のうちで、村の北に星川の堰があるので慶安三年(一六五〇)に堰(せき)新田と命名し、のち関新田になったという(郡村誌)。当村以下六村は忍領のうち(風土記稿)。元禄郷帳に村名がみえ、高四一八石余。   
        
                    神楽殿
 神楽殿には神輿二基(子供神輿・大人神輿)が奉安されている。
 八坂祭は、合祀前は中宿の八坂社の祭礼であったが、合祀により神輿は当地に移り、昭和30年頃まで77日に子供神輿が、14日に大人神輿が練られた。その後、各戸からもらう賽銭を子供たちが仕切りで分配させることが好ましくないとして、子供神輿は一時中止されたが、近年復活している。なお、大人神楽は担ぎ手不足のため小型トラックに載せられている。
 また、94日の例祭は「稲荷様の灯篭」とも呼ばれ、境内には数多くの灯篭が飾られていた。戦前までは、広田のオイバナ(湯立て神楽)が来て神楽殿で奏したが、戦後は素人演芸、近年ではカラオケ大会が好評であるとの事だ。
        
                 すっきりとした境内               
 
  拝殿手前の参道左側に設置されている      参道を対象に案内板の反対側にある
  「
関新田稲荷神社 由緒書」の案内板        「関新田稲荷神社改築記念碑」
        
                    拝 殿
 稲荷神社  川里村関新田四四三(関新田字中宿)
 当地は星川(見沼代用水)右岸に位置する。元は北根村のうちで新田村と称していたが、村の北に星川の堰があったことから堰新田と命名し、後に関新田に改めたという。
 当社は、山城国紀伊郡に鎮座している稲荷神社(伏見稲荷)の分祀と伝え、正徳三年四月五日に神祇管領ト部兼敬から正一位の宗源宣旨を受けている。なお、内陣にはこの時の正一位稲荷明神幣帛を祀る。また、嘉永二年三月には、神祇管領長上家公文所(ト部)から神号、大明神の宗源宣旨を受けている。
 明治四二年八月三一日に、本社境内社榛名社・子之社・千勝社、字山王の日枝社、字中宿の八坂神社、字愛宕の愛宕社を合祀している。
 なお、合祀された
山王社・愛宕社は、江戸期の別当を禅宗放光山長松寺が務めていた。
 社殿は、
大正一二年の関東大震災により幣殿全壊、拝殿半壊の被害を受けたが、翌一三年に修工となり、現在に至っている。
 本殿は一間社流造りで、内陣に
荼枳尼天(だきにてん)像を安置する。現在、境内社には、山王社・弁財天・稲荷神社・天満天神宮・
千勝社・権現社・宝登山神社・浅間社及び社名不明の石祠一社が祭られている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿 
 当社では、515日(戦前では野上がりの511日)には騎西町の玉敷神社からお獅子様を借り、村の悪魔祓いが行われる。お獅子様は、まず稲荷神社の神前に備えてから村回りを始める。毎戸を回る順序は決まっていて、その順序を変えると流行病があると言い伝えられている。古くは「アララーイ」の掛け声と共に家の縁側から土足で入り、家族を祓って玄関から出た。特に養蚕が全盛のころは、家に土足で入るとその年は蚕がよくできるといわれたというが、現在は玄関で祓うだけになっているという。
        
                社殿から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

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新井稲荷神社

『しもつかれ』とは、北関東地方(栃木県全域、茨城県西部、埼玉県東部、千葉県北部、福島県の南奥会津や但馬など各県の一部地域等も)に分布する伝統の郷土料理である。初午(はつうま)の日に作り赤飯と共に稲荷神社に供える行事食で、地域により「しもつかり」「しみつかり」「しみつかれ」「すみつかれ」「すみつかり」とも呼ぶようだ。
 料理方法は、鮭(新巻鮭)の頭・大豆(節分に撒いた残り)・人参・その他の余り物を細切れにし、大根を目の粗い竹製の大根おろし器の「鬼おろし」で粗くすり下ろして酒粕と共に煮込んだ料理で、独特な味や香り、その外見から、好き嫌いが激しく分かれるそうだが、残念ながら筆者はこのような料理を一度も食したことがないので、料理の好みを判別することができない。
「しもつかれを三軒(七軒ともいう)食べ歩くと中気にならない」や「なるべく多くの家のしもつかれを食べると無病息災」など、しもつかれには様々な伝承が伝えられ、現在でも重箱に入れて隣近所でやりとりする風習がある地域もある。
 鴻巣市新井地域では、二月初午に大正期まで各戸で「すみつかれ」を藁苞(わらづと)に入れて社頭に供えに来たという。因みに「初午」とは、2月の最初の午(うま)の日を指し、稲荷神社で豊作や商売繁盛、家内安全などを祈願するお祭りが行われる日でもある。稲荷様が如何に穀物や農業の神として信仰され、更に、一般の方々の日常生活にも深く関わっていたかを示す風習でもあろう。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市新井226
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧新井村鎮守
             
・例祭等 春祭り 318日 天王様 727日 例祭 1014
                  
秋祭り 1128
 境天神社から一旦南下し、「境」交差点を右折し、北西方向に500m程進んだ場所に新井稲荷神社は鎮座する。地図を確認すると、道路を挟んで鴻巣市立共和小学校の向かい側に位置している。
        
                  
新井稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井村」の解説
 境村の北西にあり、見沼代用水(星川)右岸の自然堤防上に位置する。北から西は広く関新田村に接し、同村内に飛地が散在する。弘安一〇年(一二八七)一月二〇日、陸奥国好島(よしま)庄(現福島県いわき市)の伊賀光隆が子の光清に譲与した所領のなかにみえる「荒居」(永仁元年一二月一七日「将軍家政所下文案」飯野八幡宮文書)は当地のことと考えられる。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高一三八石余・畑高九八石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高一五三石余(田方一二町三反余・畑方三町八反余)。
 当社は古くから新井の鎮守として厚く信仰されている。特に養蚕の盛んであった戦前までは、お稲荷様(おとがさま・陶製眷属像)が多数貸し出され、養蚕守護の神として信仰を集めた。当地の養蚕は、春蚕・秋蚕・晩秋蚕の年3回であり、ほぼ全戸が生業の中心としていたという。
        
                    拝殿覆屋
 稲荷神社  川里村新井二四八(新井字本村)
 当地は星川(見沼代用水)右岸に位置し、地内には奈良・平安期の集落遺跡がある。
 当社は、口碑によると岡戸氏の先祖が山城国の伏見稲荷大社から御分霊を頂き当地に祀ったのが始まりであるとされ、岡戸本家は修験者の系統を引くという。更に、当社は同地区に祀る正源寺持ちの観音堂と同年代の建立であるという。また、正源寺は真言宗で山号を稲荷山と称し、開山は元亀元年と伝え、江戸期において当社の別当を務めていた。以上のことを勘案すると、当社の創立は元亀元年以降のことであると思われる。
 本殿の造営は宝永五年で、棟木墨書に「宝永五戊子年北埼玉郡騎西領新井村住人岡戸氏行右衛門吉明奉寄進者也 天下泰平国土安全家内長久諸願成就之所七月廿八日千秋万才楽也 五月中〇七月下旬迠□之□則作者串作村山下長兵衛弟子儀兵衛八右衛門敬白」とある。
 正徳四年に宗源宣旨を受け、正一位稲荷大明神と号している。
 祭神は倉稲魂命で、内陣には三五㎝の茶枳尼天(だきにてん)像を安置している。また、境内社の白山大権現は明和八年に建立したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
      「新井稲荷神社の算額」の碑      境内社・白山大権現
 鴻巣市指定有形文化財 新井稲荷神社の算額
 江戸時代に発達した日本独自の数学を和算という。埼玉郡種足村(現加須市騎西)の開流の都築利治(18341908)を師とした田村金太郎(旧共和村新井)が難しい問題を解いた成果として奉納したもので、川里地域に残る唯一のものである。明治25年(189291日奉納されたものである。平成13328日指定。
 また、境内社・白山大権現は、地域の方々からは、歯痛を直す神であるといわれている。
        
                  
新井稲荷神社遠景
 当社の行事の一つに「天王様」があり、727日に行われる。この祭りでは、古くから行事の一切を子供たちの手に委ねられ、最上級生四名が親方となり運営したという。
 まず、祭りに先立ち親方の指示で下級生が村の重立ちの家を回って歩き、神輿飾りの寄附をもらう。当日、子供が担ぐ神輿が氏子各家の庭先で練られ、各家から賽銭が上がり、全戸回り終えると、親方が賽銭を学年に応じた金額で銘々に分配する。行事の一切が終わると、親方は神輿の四方に下がる提灯をもらって役を引退する。
 この行事は子供たちにとって子供社会の仕来りの中で、おのずから物事に対する秩序や道理を身につける場となっていたが、近年教育上の配慮を理由にPTAが行事進行の中心となってしまったため、子供たちの主体性を損なう結果となっているとの事だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川里地域の指定文化財」
    「Wikipedia」

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境天神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市境86
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧境村下分鎮守・旧村社
             
・例祭等 天王様 715日 八幡様灯籠 914日 
                  新穀感謝祭 
1123
 旧川里村境地域に鎮座する社である。広田鷺栖神社から埼玉県道313号北根菖蒲線を東行し、1㎞程先にある丁字路を左折する。通称「川里中央通り」と呼ばれるこの道の東側には鴻巣市の花と音楽の館「花久の里」というNPO法人が運営している施設があり、花・物販の事業、食の事業、音楽・芸術の事業や年間のイベントを実施しており、季節別に彩られる庭園は自由に入ることができるなかなか洒落た場所だ。
 この川里中央通りを北上すると、また丁字路となり、そこを右折する。見沼代用水(星川)右岸に沿った道路を南東方向に進み、「境」交差点を左折すると、用水に架かる境橋の手前に境天神社は鎮座している。
        
        見沼代用水(星川)付近の様子。社は写真右手前に鎮座する。
『日本歴史地名大系』 「境村」の解説
 東は見沼代用水(星川)を隔てて上会下(かみえげ)村、集落は同用水右岸の自然堤防上に立地している。村域西方には同村の広い飛地がある。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高二六七石余・畑高一三三石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高二二七石余(田方一七町余・畑方七町六反余)。化政期には旗本林・藤堂二家の相給で(風土記稿)、幕末まで両家領として続いたと考えられる(改革組合取調書など)。
        
                   境天神社正面
 宝暦年間(175164)に創建されたという。当地の福島家に居候していた釈白心庵主が亡くなるに際し、当地には鎮守の神社がないことを憂い、天神を祀るよう遺言したとも、当地を所領としていた旗本藤堂良由が天神を篤く信仰していたことから創建したともいわれている。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1910年(明治43年)の神社合祀により、周辺の9社が合祀されたという。
 

 鳥居の右側に祀られている愛宕社・弁天社     鳥居の左側には、伊勢参宮記念碑や
      庚申塔も二基ある。               庚申塔も建つ。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 埼玉郡騎西領境村』
 八幡社 村内上分の鎭守なり、〇久伊豆社 〇神明社 〇稻荷社 以上四社、善勝寺持、
 〇天神社 村内下分の鎮守なり、〇熊野社 〇天王社 〇辨天社 以上村持
 善勝寺 禅宗臨済派、日出安村保寧寺末、東光山と號す。本尊釈迦。立像にて長三尺許、
弘法 の作と云。開山清庵祖銀文祿
48月示寂。 觀音堂。 鐘楼、延享5年の鐘をかく


 天神社  川里村境八六(境字台)
 当社の鎮座する境地区は星川(見沼代用水) の右岸に位置する。古くは境村を二分して上分・下分と私称し、上分の鎮守は八幡社、下分の鎮守は天神社であった。
 当社の創立は、社記に「当社は今古老の口碑に伝て日ふ宝暦年間福島家に釈白心庵主なる者あり該宅地内に勧請ありしが該庵主回向をなし本村に於て寂するに際し遺言して日く本村下分に鎮守なきを以て之を祭れと茲に於いて祭れり以て挙村民之を鎮守とし崇敬せり」とある。また『明細帳』に「素ヨリ当村鎮守ニシテ去ル宝暦年中旧地頭藤堂肥後守良由朝臣深ク信仰セラレケルヲ以テ社殿再建アリ、明治五年村社ニ申立済、明治四十三年二月二十三日同村大字同字同無格社熊野社字同無格社稲荷社字上手無格社神明社字同無格社厳島社字同無格社八坂社字台無格社厳島社字同無格社愛宕社字前無格社八幡社字同無格社久伊豆社ヲ合併ス」とある。
 字前の八幡社は上分の鎮守であったために、合祀後は、覆屋内に天神社・八幡社の二社が並べて祀られ、それぞれ三五センチメートルの「天保十二辛己歳八月吉日之彩色口」と記す天神座像と二三センチメートルの八幡大明神像を安置する。また天神社の社殿前面には、随身像が置かれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 当社の行事に7月15日に行われる「天王様」があり、夕方から大人神輿が地域内を練る。神輿は拝殿から担ぎ出され、まず総代の家に寄ってから主要道路を練り、その後村境二カ所をでも練った。昭和28年頃までは上・下の両耕地にそれぞれ子供神輿があり、子供たちの自主性に任さられ練られていたという。氏子から配られる賽銭も上級生が中心となって各人に配布されていて、子供たちにとっては重要な人格形成の場ともなっていた。ところがこの様子を見た当地の教育者の一人が、教育上強く遺憾の意を表明したため即座に中止となり、神輿を取り壊してしまった。その後、神輿行事は復活されていないという。
        
                  境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鴻巣市観光協会HP
    「Wikipedia
       

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北新宿山神社

 日本列島は海洋に囲まれながら,陸地の面積の大部分が山地によって占められている。その山地は水の源であるほか,植物,動物,鉱物などの生活資源となるものを豊富に提供し,その恩恵によって多くの人々が独自の文化を生み出してきた。反面,山は出水,風雪,雷電による災害の原因をつくり出し,ときには火山の噴火にともなって人間生活を根底から破壊しつくすこともある。山は人間に対して,正と負との両面の働きかけをすることにより,恩頼と畏怖の観念を同時に併存させた神秘的な存在であった。
 日本の民間信仰における山神は一般に〈山の神〉と称されるが、山神・山祇(やまがみ/やまつみ)とも言い、やまつみの場合は国津神としての性格を表す祇を充てるという。実際の神の名称は地域により異なるが、その総称は「山の神」「山神」でほぼ共通している。農民は田の神と結びつけて考え,山で働く人々は山を司る神と考えるなど,その内容は種々ある。
               
              
・所在地 埼玉県鴻巣市北新宿920
              
・ご祭神 大山祇命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 春祭り 415日、例祭 817日、秋祭り 1015
                   
大祓 12月下旬
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1098436,139.4391832,18z?hl=ja&entry=ttu
 北新宿山神社はJR高崎線と国道17号線に挟まれた、旧吹上町内北新宿地域に鎮座(鴻巣市北新宿920)していて、地図等で確認すると「鴻巣市北新宿生涯学習センター」の南側に位置している。以前は広い畑地が広がっていたのだろうが、周囲は住宅団地が立ち並んで急速に市街化が進んでいる。
 この神社は「山神社」との名称通り、以前は深い森林に囲まれて鎮座していたと推測されるが、現在は木々等伐り払われ、住宅地の中にポツンと鎮座している印象が強い。
               
                              北新宿山神社正面
                
                                 鳥居から拝殿を望む。
「山の神」「山神」に関して農民は田の神と結びつけて考え,山で働く人々は山を司る神と考えるなど,その内容は様々なケースがある。箇条書きで説明する。

山そのものの姿態および山をめぐる自然現象に神秘性を感じて,それを神霊の力なり意志の現れとして神聖視する山岳信仰上の山霊。高山、秀峰に固有の神で世界的に分布するが、日本では火山系、神奈備 (かんなび) 系、水分 (みくまり) 系と山容によって分離される。
人間が山に働きかけて、その体験から信仰対象となった山の神。春に芽を出し秋に実を結び、永遠に山の幸を授けてくれるものを山の大地母神と考えた。多くは女神として信仰する。日本で山の神を女神、姥 (うば) 神、夫婦神とするのもそれである。
狩猟民の信仰する山の神。山を領有する神とされ、日本では山の神に狩猟を許可されたという伝説をもつ狩猟集団がある。
平地農民の信仰する山の神。古代より山を死者の霊の休まるところとし、死者の霊が時を経るにつれて祖先神となり、山頂にしずまって子孫を守護するとする信仰で、日本に特徴的に認められる。農耕の開始される春に山から迎えた山の神は田の神となって五穀の生育を見守り、収穫後には再び田から山へ帰って山の神となるとされる。そのほか、山の神信仰には山で生産に従事する炭焼き、きこり、木地屋、鉱山業者などの奉じる神があり、複雑な信仰内容を伝えている。

 日本神話では大山祇神などが山の神として登場し、また、比叡山・松尾山の大山咋神、白山の白山比咩神など、特定の山に結びついた山の神もある。
 
       境内社・多度神社            同じく境内社・神明社
 境内社である多度神社の御祭神は「天津彦根命」と「天津真一根命」であるという。「天津彦根命」は理解できるが、「天津真一根命」は一致する神が見当たらない。もしかすると『古語拾遺』や『新撰姓氏録』等では「天津彦根命」の子供である「天目一箇神」ではなかろうか。
「天目一箇神」は製鉄・鍛冶を司る神でもあり、神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされていて、この神が祀られているという事は、嘗てこの地域は製鉄・鍛冶がおこなわれていた地域だったかもしれない。
                
                          拝殿が鎮座する高台の下にある案内板
 山神社  御由緒 鴻巣市北新宿九二〇
 □御縁起(歴史)
 当地は元荒川の左岸に位置し、自然堤防上に集落がある。古くは埼玉郡忍領大井村に含まれ、正徳二年(一七一二)同村は太井(現熊谷市)、門井・棚田(現行田市)、新宿の四か村に分村して「大井四か村」と称し、それぞれに名主が置かれたという。しかし、その分村は忍藩による私的なもので、『風土記稿』には大井村一村として載せ、村内の小名に大井・門井・新宿・棚田として記されている。明治十二年に同じ北埼玉郡内に同名村(現蓮田市南新宿)があったため、新宿村を北新宿村と改称した。
 当社の創建年代は明らかでないが、先の『風土記稿』には徳円寺持の山神社として見え、江戸期は真言宗徳円寺(現門井一丁目)が別当であったことがわかる。また、口碑によれば、当社は今よりも北西に八〇〇メートルほど離れた盛り土(現在の「山の神公園」の一角)に鎮座していたが、明治三十九年に現在地に遷座したという。
『明細帳』には「創立ノ縁由年月等不詳ナリ、社格ニ至テハ往古ヨリ鎮守ト称シ来リシカ明治六年四月中村社ニ申立済、明治四十一年十二月十四日同村同大字字屋敷通無格社神明社ヲ合祀ス」と記されている。ただし、「お伊勢様」と呼ばれる神明社は、その後も元地に祠が残されていたが、昭和二十年代に至り、合祀して神様は空っぽなので」との理由から祠は当社境内に移された。
 □御祭神と御神徳
 ・大山祇命…五穀豊穣、病気平癒
                                      案内板より引用
 ご祭神である大山祇命(おおやまつみのかみ)は、日本神話に登場する神で、『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、他に大山積神、大山罪神とも表記される。 別名 和多志大神、酒解神。分類上「国津神」と呼ばれている。
 神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となり、全国の大山祇神社(山積神社/大山積神社/大山津見神社含む)の他、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られている。
 山神社は全国に3,000社程あり、大山祇神社(愛媛県今治市大三島)の分社や、その地方の山神を大山祇神として崇めた神社が含まれる。比較的小規模な神社が多く、ごく小規模な神社や境内社といった形で祀られる例が多い。

 残念ながら案内板には「山神」と北新宿地域との直接的に関連する文面はないため、勧請した経緯は分からない。
                        
                                         拝 殿
 
 拝殿に掲げてある扁額「山神大明神」と表記  拝殿左側には「浅間大神」と刻まれた石碑あり

拝殿には奉納された額が飾られている。真ん中の奉納額の絵が綺麗で描写が趣がある。
 
        



参考資料「新編武蔵風土記稿」「世界大百科事典 2版」「ブリタニカ国際大百科事典」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」


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本町吹上神社

『新編武蔵風土記稿』では吹上村に関して以下の説明がある。
「吹上村は江戸よりの行程十四里。郷名(箕田郷・箕田庄)と検地(慶長十二年伊奈備前守・延宝五年山岡十兵衛)は前村(前砂村)に同じ。広さは東西十六町、南北十町ばかり。東は前砂・明用の二村で、南は大蘆村、西は榎戸村、北は元荒川を隔て埼玉郡鎌塚・下忍の二村である。村内に中仙道の往還が通り、鴻巣・熊谷二宿の間の宿場になっている。又多摩郡八王子あたりから下野国日光山への往還も通っている。戸数百戸余、多くは街道の左右に並び建っている」
 上記のように吹上町は、嘗て日本の埼玉県北足立郡にあった町で、『風土記稿』の記述のように、中山道の熊谷宿・鴻巣宿間があまりにも遠距離であったため、ちょうど中間地点に位置していた吹上村が非公式の休憩所である間の宿として発展し始め、それがまた、城下町・忍(現・行田市)に向かう日光脇往還の設置に当たっては正式な宿場の一つ・吹上宿として認められることとなり、重要な中継地として繁栄した。2005年(平成17年)101日、北埼玉郡川里町とともに鴻巣市に編入された。
「吹上」の地名由来として、古くから諸説があり、確定的なものは無い。当地の上空で東京湾から吹いてくる海風と、北部山脈の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられたとの説があるものの、あくまで一学説である。
 この「吹上村」の鎮守様的な存在として本町に所在する社が通称「山王様」こと、吹上神社である。
                
             
・所在地 埼玉県鴻巣市吹上本町4-14
             ・ご祭神 大山咋命
             ・社 格 旧吹上村上分鎮守 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 2月下旬の日曜日 夏祭り 72223
                  例祭 
915 新嘗祭 1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1056572,139.4498252,17z?hl=ja&entry=ttu
 吹上本町はJR吹上駅を中心に東西に延びた地域であり、吹上神社はその西側に位置し旧中山道沿いに鎮座する社である。JR吹上駅から駅前通りと北上して一番目の「吹上駅前」交差点を左折、旧中山道で現埼玉県道307号福田鴻巣線を西行する。250m程進んだ「吹上本町」交差点を左折し、昔ながらの商店街のような町波を見ながら暫く進むとJR高崎線の路線が見えてくるがその手前右側に吹上神社が見える。
 因みに吹上駅の裏道から地図アプリ等で行くと非常に近いのだが、道が狭く順路が説明しづらいので、今回は一般道を利用しての案内となった。
 昔ながらの街道故か、境内は東西に長いようだが、中央にある鳥居には車止めがあり、また周辺には専用駐車場はない。吹上駅の駅前通りを北上して右側にあるコンビニエンスストアで買い物をした後に、参拝を行う。
               
                                  本町吹上神社正面
               
              鳥居の右側で道路沿いにある案内板
吹上神社
御祭神
大山咋命  別名山末之大主神と言い、 比叡山に座す建國に功労のあった神
倉稲魂命  食物を主宰する神
素盞鳴尊  神性勇猛な又災厄祓除の神
大物主命  大國主命の和魂称を奉る御名
菅原道真公 学問の神
由緒
当日技社は宝暦六年七月火災により焼失す、その後再建年月不詳
明治六年四月村社に列せらる
同四十年四月十六日大字中耕地稲荷社同境内社八坂社、字下耕地氷川社同境内社琴平荘天神社の五社を合祀す
当社は近江國大津市坂本の日吉大社 (山王社)より神霊を分かち奉待して参りましたが、明治四十年右五社を合せ吹上神社と改称す
                                      案内板より引用

 吹上神社の主祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)である。この神は日本神話に登場する神で、大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の間の子。『古事記』『先代旧事本紀』『地祇本紀』では大山咋神と表記し、『古事記』では別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と伝える。
 名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。
『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。「日枝山」には日吉大社が、松尾には松尾大社があり、共に大山咋神を祀っている。
 大山咋神の別名は山王(さんのう)という。これは中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に倣ったもので、比叡山には、本来山の全域において、大山咋神の他にも多数の神が祀られていたが、その後天台宗が興した神道の一派を山王神道といい、後に天海が山王一実神道と改めた。戦国時代初期、太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
               
           鳥居の左側には「吹上神社 御由緒」の案内板もあり。
 吹上神社 御由緒 吹上町本町四-一四-二六
 □御縁起(歴史)
 吹上は、北足立郡の最北端に位置し、その地名については、風で砂が吹き上げるところから生じたものとの説がある。古くからの集落は中山道に沿って続いており、江戸時代には中山道の熊谷・鴻巣の両宿間の立場が置かれ、更にその地内で中山道と日光脇往還が交わることから、交通の要衝として繁栄した。
『風土記稿』吹上村の項には「山王社 村内上分の鎮守とす、東曜寺持」「氷川社 小名遠所の鎮守なり、持宝院持」「稲荷社 下宿の鎮守なり、東曜寺持」と、鎮守が三社記されている。このように、江戸時代にあっては、村内を三分し、各々で鎮守を祀っていたが、最も規模が大きかったことから社格制定に際しては日枝社(神仏分離により山王社が改称)が村社となり、他の二社は無格社にとどまった。更に、政府の合祀政策によって明治四十年四月十六日付で、氷川社と稲荷社は日枝社に合祀され、これに伴い、日枝社は村名を採って吹上神社と改称した。年配の人が当社を「山王様」と呼ぶのはこうした経緯によるものである。
 ちなみに、氷川社の跡地は本町二丁目の遠所橋のすぐ南に、稲荷社の跡地は鎌塚二丁目の新宿橋のたもとの所にあり、いずれも祠が建てられている。また、日枝社については、『明細帳』に「宝暦六年(一七五六)七月火災焼失す其後創立年月不詳」との記録が載る。
 □御祭神と御神徳
 ・大山咋命…五穀豊穣、健康良運
                                      案内板より引用
               
            鳥居を過ぎると正面に吹上神社の拝殿が見える。
            拝殿を中央にして左側には社務所、右側には神輿殿が配置されている。

 境内は決して規模は大きくないが、玉砂利が敷き詰められ、また開放感のある社。掃除がゆきとどいているようで、清々しい雰囲気に包まれ、参拝も気持ちよく行うことができた。
 参拝当日は筆者の他にはだれも参拝客はいない静かな社だが、年越しや夏祭り等の季節の節目には、しめ縄や幟(のぼり)が飾られ、盛大に地域の祭りが開催されている。
 というのも、以前筆者は数十年前にこの吹上に居住していて、元荒川の桜や吹上神社の夏祭りを直に見てきている。また数年前までは仕事の関係で夏祭りに何度となく出かけていたり、元荒川の桜見物は毎年家族の年中行事となっている。季節等の行事に参加し、楽しみを謳歌できることはやはり人生には必要だ。
               
                    拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額            境内西側にある石碑群
 石碑群は左から三猿庚申塔、冨士浅間大神、不動明王・金毘羅大権現・愛染明王、冨士浅間大神。並びの後ろのある石像もあるが名称は不明。


 戻る途中元荒川に立ち寄り、桜の花見をしばし行った。『新編武蔵風土記稿』にも元荒川に関しての記載がある。
「元荒川 村の西北の方を流る、川幅十三間許、此の川にさが橋と称する橋あり、此の橋いかなるゆへにや、川の中央に塚の如くなる土台を築きて、それへ此方より長さ三間の石橋を架し、台より対岸へは土橋を架せり、これをもて当郡と埼玉郡との境とすといへり、さが橋はさかい橋と云転語なるべし」
        
                                  
元荒川沿いの桜並木                   
  正面に新編武蔵風土記稿に記載されている「さが橋」今では「新佐賀橋」が架かっている。
                      
                    新佐賀橋の案内板。土木遺産に認定されている。

 自宅への帰路途中、熊谷堤の桜も見物した。こちらも満開で、お客も平日にも関わらず大勢いた。
                        


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「こうのす広場HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」


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