古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

安養寺八幡神社


               
             
・所在地 埼玉県鴻巣市安養寺126
             
・ご祭神 誉田別命 息長足姫命
             
・社 格 旧安養寺村鎮守 旧村社 
             
・例 祭 祈年祭並びに勧学祭 220日 例祭 914日 
                  
新嘗祭 1124
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.073495,139.5184691,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号バイパスを鴻巣方向へと進み、17号との合流地点である「箕田」交差点の手前にある「箕田(北)」交差点を左折する。通称「フラワー通り」と言われる道路を東方向に直進する。この道路は元荒川の南側にある通りで、街道の両側には生産者のハウスが並んでいて、ハウスの前には生産者の名前を表示する案内板が設置されている。因みに鴻巣市は全国的にも有数な花の産地である。
 話は戻って17号バイパス「箕田(北)」交差点からこのフラワー通りを東行する事3㎞程で、埼玉県道32号鴻巣羽生線と交わる信号のあるT字路にて終了するが、そこを左折する。すぐ先には元荒川が南北方向に流れ、そこに架かる「三谷橋」を越えて次の「安養寺(中)」交差点を右折、埼玉県道77号行田蓮田線合流後200m進んだ十字路を右折すると正面に安養寺八幡神社の鳥居が見えてくる。
 社の西側に隣接して安養寺自治会集会所があり、そこの正面玄関前に駐車スペースが僅かにあるので、そこに停めてから参拝を行った。
               
                              
安養寺八幡神社正面
 一の鳥居は進行道路に対して正面に見えるのだが、道路は鳥居付近で西側に折れ曲がり、境内の参道は当初は真っ直ぐ進むが、すぐに突き当たりとなり、そこを左方向に曲がる。
すると正面に二の鳥居、そこから続く高台の頂に社殿が鎮座する特異な配置となっている。
 後日確認するとこの社殿は西向きとなっている。元荒川方向に向いているか、それともある地域に対して身構えているのだろうか。
               
                     左方向に曲がる参道付近にある案内板
 八幡神社 御由緒 鴻巣市安養寺一二六
 □御縁起(歴史)
 安養寺の地名はかつて当地にあった寺の名に由来するという。神奈川県立金沢文庫蔵の「求聞持秘口決」の奥書には、天福二年(一二三四)二月十二日「武州忍保安養寺」で書写したとある。
『埼玉県伝説集成』によれば、安養寺の八幡様と市ノ縄の八幡様とは元荒川と挟んで東西に祀られていて、昔この両八幡様が互いに争った。安養寺の八幡様は白旗を押し立てて攻めたのに対し、市ノ縄の八幡様は大松の枝を振りかざして立ち向かい、荒川を挟んで激戦が展開されたが、安養寺の八幡様は、市ノ縄の八幡様の大松の葉で目を刺されて負傷し、ついに敗れた。それからは、安養寺の八幡様は松の木を恨み、かつ恐れて、境内には松の木を植えなかった。一方、市ノ縄の八幡様には松の木が亭々とそびえ茂った。安養寺の八幡様の前の田を「白幡田圃」と呼ぶのは、この戦いにちなんでいると伝えられている。
 当社の創建年代は明らかでないが、社蔵の『神社財産登録台帳』には「木像壱躰 奉竒進八幡御尊躰元禄十丁丑年(一六九七)十一月廾八日」との記載が見える。また『風土記稿』安養寺村の項には「八幡社 村の鎮守なり、良覚院持」とある。別当の良覚院は愛宕山と号する本山派修験で、開山の仲海が寛永六年(一六二九)に寂したという。神仏分離で廃寺となった模様で、その寺名さえも忘れられている。
 明治六年に村社となった。
 □御祭神
 ・
誉田別命 息長足姫命
                                      案内板より引用
               
                       左側に曲がると正面に二の鳥居が見えてくる。
             桜は今が満開。社には桜が良く似合う。
 
         二の鳥居             二の鳥居の先に設置されている
                         「八幡神社の算額(絵馬)」の案内板
 鴻巣市指定有形文化財(絵画) 昭和五十一年三月一日指定
 八幡神社の算額(絵馬) 
 算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
 八幡神社の算額は、大正四年に安養寺村の中村新蔵が奉納した。
 和算は、中国の影響を受けて我が国独特の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合いその解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。 参考:大正四年(一九一五)
                                      案内板より引用
               
                            古墳墳頂に鎮座する社殿
 〇八幡神社古墳(はちまんじんじゃこふん)
 ・所在地 鴻巣市安養寺126 八幡神社
 ・墳形 円墳。 東西45 南北23 高さ2.3m。
 ・埋葬主体部および周濠 未調査
 ・築造年代 6世紀初頭  出土品 
形象埴輪片、土師器、付近から鶏形埴輪

 45mの円墳と推定されているが、この数値が正しいとすれば県内の円墳としては上位20位以内に入る規模であり、鴻巣市明用地域にある明用三島神社古墳(前方後円墳・50m程)とやや同程度となる。
 荒川は「暴れ川」のごとく常に乱流を繰り返すため、古墳建造当時の流域等推し量ることは難しいが、現在の地形から推測しても、この古墳の埋葬者も元荒川水運を活用して蓄えた権力者だったのではなかろうか。
               
                                     拝 殿
 社自体かなり老朽化が進んでいるのだろうか。所々に「筋交い」で補強されている。この「筋交い」とは、柱と柱の間に斜めに入れて建築物や足場の構造を補強する部材である。構造体の耐震性を強める効果があり、地震や暴風などの水平力を受けたときに平行四辺形にひしゃげるように変形してしまう。そこで、対角線状に筋交いを加えて三角形の構造を作り、変形を防止する効果がある。

 ところで案内板には「安養寺の八幡様と市ノ縄の八幡様とは元荒川を挟んで東西に祀られていて、やはり嘗てこの両八幡様が互いに争った。安養寺の八幡様は白幡を押し立てて攻めたのに対し、市ノ縄の八幡様は大松の枝を振りかざして立ち向かい、荒川を挟んで激戦が展開されたが、安養寺の八幡様は、市ノ縄の八幡様の大松の葉で目を刺されて負傷し、ついに破れた。それからは、安養寺の八幡様は松の木を恨み、かつ恐れて、境内には松の木を植えなかった」と記載されている。
 不思議なことに、その
伝説と全く同じ内容の事が、熊谷市にも伝わっている。
 熊谷市旧妻沼町の聖天様は伝承・伝説では松嫌いで有名な寺院だ。その昔、聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻しにあったという理由で、とても毛嫌いしている。ゆえに、妻沼十二郷の人たちは松を忌んでいるという。正月に門松を立てることはないし、松の木を植えない家もある。現在では伝承自体以前程でないにしろ聖天様の松嫌いは、その集落に住むほとんどの人が知っているだろう。
 妻沼の聖天様は、松平伊豆守と知恵比べをして負けたことから松嫌いになったともいい、または群馬県太田市の呑龍様との喧嘩中に、聖天様は松葉で目をつつかれたという。
                
                 古墳墳頂付近からの風景

 安養寺八幡神社の社殿は「西向き」と書いた。元荒川方向に向いていると言えそうだが、この社殿の方向を元荒川を延長すると、丁度「市ノ縄」地域となる。


 人々から厚く信仰される神仏でも、不思議と人間くさい一面が伝承・伝説では語られている。呑龍様を詣でたあとに聖天様へ行っても、ご利益はないとまことしやかに信じられているところをみても、慈悲深い仏とはいえ、喧嘩をすることもあるかと感慨深いエピソードであるが、この伝承・伝説にはもっと深い何かが隠されているようにも見える。勝手な推測ではあるが。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」「国際日本文化研究センターHP」 
    「境内案内板」等

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榎戸伊奈利神社


        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市榎戸1127
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧榎戸村鎮守 旧村社
              
・例 祭 春祭り3月中旬 芋っ葉灯籠71718日 新嘗祭 1128
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1059743,139.4435886,19z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を旧吹上町市街地方向に進み、「鎌塚(北)」交差点を右折、埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に合流後500m程先の「榛名陸橋(北)」交差点を右折する。元荒川を越える手前で陸橋から左方向に分離する道路を進み、突き当たりを右折。JR高崎線に沿うような道路を350m程進み、踏切のある十字路を過ぎた最初のT字路を右折すると右側に「榎戸集会所」が見え、その東側隣に榎戸伊奈利神社が住宅街の中に隠れるように鎮座している。
 
榎戸集会所の駐車スペースの一角をお借りしてから、参拝を開始する。
        
           南北に伸びる参道、その先には朱色の鳥居あり。
 榎戸地域は旧吹上町の北西部に位置し、東西は500m程、南北800m程の細長い形で形成されており、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めている。榎戸伊奈利神社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座しており、昭和二十年代に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていた。また境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいるが、嘗て民家は全くなく、楢の林が当社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所であったという。
        
                               
榎戸伊奈利神社 正面鳥居
        
                     拝 殿
        
               拝殿の左側に設置されている案内板
伊奈利神社  御由緒 吹上町榎戸一-一
□御縁起(歴史)
町の北西部に位置する榎戸は、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めている。当社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座しており、昭和二十年代に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていた。また、境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいるが、かつては民家は全くなく、楢の林、が当社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所であった。
この榎戸で最も力を持っていた家が、「榎戸の殿様」と称されていた横田家で、かつては当社の祭事の経費の半分は同家が負担していた。横田家は、一三代ほど続いた後、昭和二十年代半ばに絶えてしまったが、当社の参道の脇には同家の墓所があり、町指定文化財になっている。ちなみに『風土記稿』榎戸村の項にも、同家は「旧家半十郎」として載り、「降奥国会津郡」から寛永十一年(一六三四)に当地に来て土着したと記されている。
当社の由緒については、『風土記稿』に「稲荷社 村内の鎮守とす、弁財天社 天満宮」と載る程度で、創建についての詳しい事情は知られていない。しかし、右記のような状況から考えると、社殿の建立や境内の整備についても、横田家が大きくかかわっていたと思われる。また、『風土記稿』には別当についての記載がないが、立地から見て、当社に隣接していた宝性寺が祭祀に関与していた可能性が高い。
□御祭神と御神徳
・倉稲魂命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用

「新編武蔵風土記稿足立郡榎戸村条」には「旧家半十郎、村民にて眼療を業とせり、氏を横田と云ふ。古は陸奥国会津郡の民なりしが、寛永十一年、当所に来りて土着せり。其の家系を閲するに、山内五郎左衛門尉俊綱が後胤にて、俊綱より六代横田兵部大輔俊治、はじめて横田を氏とす。其の子刑部大輔頼俊は又山内を称せり。此の人より六代越中守俊泰の次男を横田左馬助光弘と云ふ。これ半十郎が祖先なり。それより、左馬助長房、左馬助光房、丹波守隆房、安芸、兵庫、善九郎など連綿と記したれど、事跡、年代等すべて詳ならず。たゞ善九郎は天正十八年に流浪せし由見ゆれど、何れに仕へしかは載せず。それより後はすべて伝を失へり。又祖先の持ちしものとて槍一筋を蔵す」と記されている。
        
                 境内社・天神社と辨天社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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大芦氷川神社

 旧吹上町大芦地域は、元荒川と荒川に挟まれた低地に位置し、集落は旧河道の自然堤防上にある。『新編武蔵風土記稿』において、「村の広さは、東西十二町餘、南北十五町、東は明用、南は荒川を限り対岸横見郡上砂村、大里郡小八ッ林・玉作の三村界ひ、西も大里郡久下村にて、北は榎戸・吹上の二村なり」と記述され、東西1.3㎞程、南北1.6㎞程のやや縦長の地域である。南側は荒川が境となっているが、一部現在の「大芦橋」付近が突出部となっていて、嘗て当地南西の荒川には大芦河岸があり、古くから日光脇往還の渡船場としても栄えたという。
 昭和30年頃に洪水対策の為、太い鋼管パイル製の橋脚を持つ木製桁の冠水橋が完成するまで橋はなく、八王子千人同心道(日光脇往還)に属する「大芦の渡し」と呼ばれる官設の渡船で対岸を結んでいて、渡船場には1803年(享和3年)頃開設された「大芦の河岸」が併設され、大正時代には渡船場の川上側に仮橋が架設されていた。
 荒川はこの橋付近を扇端とする扇状地形である「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも呼ばれる)が形成されていて、橋より下流側は縦断勾配1/1000以下の緩やかな流れとなる。河川敷は左岸(鴻巣市側)に広くとられていて、その広い河川敷を活用した農地の他、運動場や軽飛行機の発着場等のレクリエーション施設がある。毎年秋には左岸堤防(荒川花街道)や河川敷でコスモス祭りが行われ、開花期は行楽客で賑わう。春季はコスモスが植えられていた場所にポピーの花を見ることもできていて、左岸土手上にある「コスモスアリーナ ふきあげ」ではその時期になると盛大なイベントが開催され、コロナ禍以外の年では多くの客で賑わっている。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市大芦1031
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧大芦村鎮守 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 3月上旬 お獅子様 71日 夏祭り 71819
                  秋祭り 1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0986363,139.4448734,17z?hl=ja&entry=ttu
 大芦氷川神社はJR高崎線吹上駅から直線距離で700m程、南西方向の住宅街に囲まれた中にひっそりと鎮座している。JR吹上駅(南口)からのルートでは、駅前ロータリーから駅南口通りを南下、最初の交差点を右折し、埼玉県道307号福田鴻巣線との交点で左折し、県道合流後は荒川・大橋橋方向に進む。「富士電機」の敷地を通り過ぎてから2番目の十字路を左折し、道幅の狭い道を直進すると、T字路にぶつかるが、その左側に大芦氷川神社が鎮座している。県道から左折後、道幅の狭い道を通る時には、対向車量や徒歩の方々には注意しながら、安全に進むように心がけてもらいたい。
 適当な駐車場はないので、通行に支障にない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始する。
        
                           大芦氷川神社正面
 
       一の鳥居の先には、          一の鳥居の先に設置されている
  参道に対して横切るように一般道が通る。           
案内板

 大芦氷川神社 御由緒 鴻巣市大芦一〇三一
 □御緣起(歷史)
 当地は元荒川と荒川に挟まれた低地に位置し、集落は旧河道の自然堤防上にある。また、かって当地南西の荒川には大芦河岸があり、古くから日光脇往還の渡船場としても栄えた。村の開発の年代は明らかでないが、慶長十ニ年(一六〇七)十月の「足立郡箕田村内大芦村御検地水帳」(堀ロ家文書)が残る。
 当社は大芦村の鎮守として祀られてきた社で、『風土記稿』大蘆村の項には「氷川社 医王寺の持、稲荷社」とある。江戸期に別当であった医王寺は真言宗の寺院で、開山賢秀の没年は明らかでないが、ニ世の僧秀栄は貞享三年(一六八六)に没したという。
当社は『明細帳』によると、明治六年に村社となり、同ニ十八年に本殿を再建し、同四十年には字田向の雷電社、字土橋の稲荷社とその境内社八坂社、字三人野の稲荷社・諏訪社、字新在家の蠶養社・雷電社・神明社、字永川の電電社・大天白社・神明社、字台の浅間社、字中内出の塞神社の計十三社を合祀した。ただし、新在家の雷電社と中内出の塞神社は今も祠がそのまま残されている。
 なお、社蔵の算額は嘉永三年(一八五〇)四月に関流の小林要吉郎勝栄一門が奉納したもので、一門は広く大芦、明用、今泉、吹上、和名、登戸、多門寺、箕輪などの各村にわたる四六人で、算法上達祈願を込めたもの である。
 □御祭神と御神徳
 ・素戔嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
        
             参道左側には
震災記念碑、表忠塔、戦利兵器奉納碑等が並ぶ。
 写真左側の震災記念碑は昭和6921日に発生した西埼玉地震に関する碑。 真ん中の日露戦争の表忠碑の上には 戦利品と思われる砲弾が立った状態で飾られている。右側の石碑は日露戦争での戦利兵器奉納ノ記。
  
             
     清掃等行き届いた清潔感ある参道         参道左手には「大芦氷川神社の算額」案内板あり

 鴻巣市指定有形文化財(絵画) 昭和三十四年一月十六日指定
 大芦氷川神社の算額
 算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
 この算額は、当初に住む関流(関孝和の流派)の和算家小林要吉郎勝栄一門が嘉永三年四月に、算法上達祈願のためにこの大芦氷川社に奉納した。
 大芦・明用・今泉・吹上・和名・登戸・多門寺・箕輪等の各村にわたる一門四六人の連名となっている。
 和算は、中国の影響を受けて我が国独得の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。
 しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合い、その解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。
 参考:嘉永三年(一八五〇) 鴻巣市教育委員会
                                      案内板より引用
 
       二の鳥居前にある手水舎              二の鳥居
        
                     拝 殿
 鴻巣市内には、地域毎に継承される伝統行事として、「獅子舞」や「棒術」が現代まで継承されている。原馬室獅子舞・棒術は、埼玉県無形民俗文化財に指定されているが、この他にも、大芦、小谷、広田、登戸地区にも獅子舞が伝承されている。
【大芦ささら獅子舞】
・昭和3841日無形民俗文化財指定(市指定56) 
太鼓、笛、ささらなどの伴奏で舞・踊る獅子舞は多くその伝承を明らかにせず、大芦の場合も300年程前、東吉見辺りより伝授したとされる。村内の斎藤家を家元としつつ、村の寺社の祭りと共に発展し、村人の無病息災と五穀豊穣、さらに国家安泰を祈りながら、今日まで受け継がれてきたとされる。
登録団体:大芦ささら獅子舞保存会
                             「鴻巣市公式HP」による記述を引用
        
                                   本 殿 
 
   社殿左側に鎮座する境内社・稲荷社。    社殿右側に鎮座する境内社・これも稲荷社。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鴻巣市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」
       

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前砂氷川社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市前砂656
             
・ご祭神 素戔嗚尊 稲田姫尊
             
・社 格 旧前砂村鎮守 旧村社
             
・例 祭 春祭り 224日 例大祭 79日 秋祭り 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0948433,139.4606188,17z?hl=ja&entry=ttu
 前砂氷川社は旧吹上町の市街地から東側端部に位置し、一面田園風景が広がる中に静かに鎮座する、正に地域の「鎮守様」である。JR吹上駅(南口)からのルートでは、駅前ロータリーから駅南口通りを南下し、最初の交差点を左折、「花みずき通り」を線路に沿って東方向に進む。その後コスモス通りと交わる十字路を直進、その後旧中山道である埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に路線名は変更となるが、そのまま道なりに直進すると、吹上町南部の地域道である「富士見通り」に合流する「前砂」交差点に到着する。この交差点を右折し、荒川の土手方向に進み、2本目の十字路を左折し、突き当たりを再度左折すると前砂氷川社の鳥居がある場所に到着できる。
 
社の東側隣には「前砂町内会館」があり、そこの駐車場の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                                 
前砂氷川社正面
 鴻巣市「前砂」地域は元荒川右岸の自然堤防上に位置している。北側は元荒川の旧河道跡地を公園化した「水辺公園」がその境となり、東側においてJR高崎線以北では元荒川が、西側から南側にかけては荒川(現在は元荒川)の嘗ての流路跡を改修した「足立北部排水路」がその地域境となっている。およそ南北約1.7㎞、東西で長くても約900mのややひょうたん型を変形した地域であり、河川、またはその河川跡を利用した排水路がその四方の境を形成する地域である。

 この地域は北部と南部では地域の特徴が異なり、北部、特に旧中山道である埼玉県道365号線以北では、住宅地や商業施設・工場が多くあるのに対して、県道から離れた南部は農村地帯であり、一面の田園風景が広がる。また荒川の土手もすぐ南側に目視できる長閑な場所でもある。 
   寛文九年(1669)銘が刻まれている鳥居          参 道
        
         参道の両側にある石灯篭の右手前に設置されている案内板。
 氷川社 御由緒 吹上町前砂六五六
 □御縁起(歴史)
 当地は元荒川右岸の自然堤防上に位置する。慶長十二年(一六〇七)には「足立郡箕田内前砂村御検地水帳」(江原家文書)が作成されており、村の開発は江戸時代以前にさかのぼると思われる。
当社の創建は詳らかではないが、境内には「江原又左衛門惣氏子」と刻まれた寛文九年(一六六九)の石鳥居があり、このころ既に前砂村の鎮守であったことが知られる。恐らく、当社は村の開発と前後して当地に勧請されたと思われる。ちなみに、江原又左衛門は当村の名主を累代務めた家柄で、現在の江尻家がその後裔に当たるという。
『風土記稿』前砂村の項には「氷川社 村の鎮守なり、宝蔵院持、 末社 神明熊野天神合社 稲荷客人諏訪合社」と記されている。また、宝蔵院は、同蓄によると、真言宗箕田村(現鴻巣市)の龍珠院の末寺で、氷川山と号したという。開基・開山などは不詳であるが、当社の北一〇〇メートルほどの所にあるその跡地(明治四年に廃寺)には観音堂や元禄八年(一六九五)をはじめとする法印墓石八基などがある。
 当社は、明治初年に別当の宝蔵院から離れ、明治六年に村社となった。祭神は素戔嗚尊と稲田姫尊の二柱である。また、当社の祭神は、白が嫌いなので氏子内に白塗りの壁もないし、白い鶏を飼ってもいけなかったという。
 □御祭神
 ・素戔嗚尊・稲田姫尊
                                      案内板より引用


 行田史譚に「前砂村、寛永年中(16241644)名主江原又左衛門、享保六年(1722)名主江原又左衛門、天保元年名主江原又左衛門」。氷川社延宝六年(1678)御神燈に江原又左衛門」と記載があり、案内板での石川家が前砂氷川社の創建に関わっているのも疑いないようにも思える。
        
                     拝 殿
 
 社殿左側に鎮座する境内社・天神神明熊野合殿。      社殿右側に祀られている境内社・合殿。
                       「新編武蔵風土記稿」に書かれている「稲荷
                            客人諏訪合社」であろうか。
 
         馬頭観音と稲荷大明神、塞神                 境内社・三峰神社
 

 前砂地域は明用地域に鎮座する三嶋神社の西側に隣接する。嘗て荒川は瀬替え以前、元荒川と繋がっていた時期があり、その時期が56世紀にあたり、この明用三島神社古墳は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い見解もある。
        
                 拝殿から参道方向を撮影。参道の先には荒川の土手が広がる。

 最近の調査では元荒川が吹上町市街地の東南方面、前砂地域から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し(現在の足立北部排水路)、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その流路跡は自然堤防も伴ったのだろうが、不思議と現在も道路として一部改修されている。

 我々が普段何気なく使用している道でも、律令時代以前の古代にまでその淵源を遡るものもある。今回の社参拝には直接関係ない事項ではあるが、この地域の歴史の一片を知ることができたことは、大変有意義であったと心からそう思う。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
                             

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鎌塚八幡神社


        
            ・所在地 埼玉県鴻巣市鎌塚428
            ・ご祭神 誉田別命
            ・社 格 旧鎌塚村鎮守 旧村社
            ・例 祭 新年祭 16日 大祓 626日 1226日 例大祭 914
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1110077,139.4521216,18z?hl=ja&entry=ttu
 鴻巣市の鎌塚地域はJR高崎線吹上駅の北側にあり、元荒川を境としてその以北に位置し、国道17号線を越えて上越新幹線までの間が地域として南北の境となる。因みに「新編武蔵風土記稿」では旧吹上町鎌塚地域は、江戸時代「鎌塚村」と云い、東は下忍村、西は大井村、北は持田村、南は元荒川を限て足立郡吹上村と、夫々境を接していたという。
 鎌塚村を「風土記稿」で調べる際には吹上村が属する「足立郡」にはなく、「埼玉郡」内に属するので、調べる際にも地域の歴史を知ることは必要だ。
        
        国道沿いではあるが、道路からやや離れたところにある一の鳥居。
 鎌塚八幡神社は国道17号線の道路沿いで、市街地内に鎮座していて、位置的にはJR吹上駅の真北1㎞程の場所である。国道17号線を吹上市街地方向に進み、「鎌塚」交差点を過ぎて「鎌塚(南)」交差点の手前のT字路を左折、鎌塚集会所の東側に隣接するように境内がある。駐車スペースも集会所周辺にあり、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。

 市街地内にありながら、宝績院という寺院とも接している関係からか、その境内は市街地とは違う空気感が一帯には漂っている。但し近代的な建物が立ち並ぶ中でも、不思議と違和感なく古い寺社が地域に上手く溶け込んでいるところが、いかにも今の日本を象徴していようで、ごく自然と参拝にも厳かな気持ちで臨めた。
        
               
一の鳥居から並んで二の鳥居、三の鳥居が続く。
 
       
                   
三の鳥居を過ぎるとすぐ正面右側に聳え立つご神木
 ご神木の存在は、社殿同様その地の歴史の深さを語る上でも象徴的な存在だ。このような老木・巨木がこの地にある事で、境内の空気感を一瞬にして変化させ得る「装置」ともなっているようにも思える。
            
                  社殿側からご神木を撮影。
 このアングルから見るご神木の威容は、少しは筆者の思いの何割かは理解して頂けるであろうか。
        
                             参道から社殿を望む。
 
 参道左側にある「境内碑」。よく読み取れず。     社の東側に隣接する宝積院。
        
                                     拝 殿
        
                                    案内板
八幡神社 御由緒     鴻巣市鎌塚四二八
□御縁起(歴史)
当社の創建の年代は不明であるが、口伝によれば、鎌塚地内の石川家の先祖の出身地である大阪府羽曳野市の誉田八幡宮を当地の宝積院境内に、地域の氏神として勧請し祀ったことに始まるという。石川家は、江戸期に名主を務めており、宝積院の維持にも深く関与していた。
旧社殿の棟札には、元禄一〇年との記載のあることから、今から三百年以上前に旧社殿は建築されたことになる。
文政十一年(一八二八)の古文書には、「八幡社 村の鎮守なり 宝積院持」との記述がある。
明治初年、当社が宝積院の境内地にあったことから、神仏分離政策の下、当社の御神体は移転を余儀なくされ、一旦、本倉稲荷神社へ遷座され、それまで鎌塚にあった他の四社とともに五社合殿して祀られていた。しかし、その後、時の総代石川茂十郎ら鎌塚村の人々の尽力により、国に上地されていた旧地の払い下げを受け、明治七年再び元の地に戻されて祀られることとなった。
旧社殿は昭和四十一年の台風により倒壊したが、鎌塚地区内外の氏子の協力によって社殿および集会所が昭和四十六年に完成し、遷宮式を盛大に挙行した。
「巫女の舞」は、その社殿再建を記念して、時の町内会長、婦人部有志により、浦安の舞の指導者を招いて、舞いを奉納したのが始まりである。毎年、九月十四日の例大祭において、鎌塚在住の小学四年生の女子児童により、舞が奉納されている。
今日まで、鎌塚地区の住民は、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・無病息災・生涯の幸せを祈願し、祭礼等には、多くの人の輪を広げ、親睦を深めてきた。
□御祭神
・誉田別命(第十五代応神天皇)
                                      案内板より引用

 案内板に記載されている「石川家」は、鎌塚地域に長く土着している在地
名主であったようであり、「宝蔵院」嘉永六年供養塔に石川覚三郎、明治二年名主石川茂十郎。明治九年戸長石川茂十郎・文政九年生、副戸長石川新兵衛・嘉永元年生、副戸長石川治郎八の名前がある。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額       拝殿向拝部にもさりげなく彫刻が施されている。
        
          社殿左側に並んで祀られている境内社群。詳細不明。


 鎌塚八幡神社が鎮座する「鎌塚」という地域名も意味深である。「鎌」のつく地名で「鎌倉」が一番有名な所だが、この「鎌倉」は奈良時代から平安時代にかけてみられていて、「万葉集」には「可麻久良」、日本最初の漢和辞典の「和名抄(わみょうしょう)」には「加末久良」と記されている。
「鎌倉」の地名の起こりについては諸説があるが、地形に由来を求める説が有力と思われている。
浸食地形・崩壊地形を示す地形用語で、「鎌(かま)」は「えぐったようながけ地」で、「市街は溺れ谷の埋積低地にのり、周辺に向かって〈やつ・谷〉とか〈やと・谷戸〉と呼ばれる多くの侵食谷の発達が特徴的」であることが鎌倉の由来になっているという説。

 地形以外にも
滋賀県大津市の比叡山(ひえいざん)にも「神倉」、「神庫(かみくら)」が転訛したものとされる鎌倉という地があり、鎌倉にも同様に神庫と呼ばれるものがどこかにあったのではないかという説。
蒲(がま)という植物がいっぱい生えていたからという説、また、鎌倉の近い高座郡が昔は、高倉(たかくら)、または高麗(こま)と呼ばれていたので『こまくら』が転訛した、あるいはアイヌ語に由来する、という説。

その他にも「伝説的な説」として「藤原鎌子」に関連する説等、あるようであるが、どれも実証的な信憑性に欠け、推測・仮説の域にしか達していない。
        
                                   拝殿からの一風景

 鎌塚地域は南側には元荒川、そしてその支流で東側に「前谷落」という河川が合流する地点の西側に位置している。この「前谷落」は行田市・持田地域のかんがい流末と都市排水を源流として、行田市郊外を南下して、吹上町鎌塚地域で元荒川左岸に合流する。「前谷落」の流域一帯は一面の低地であり、都市化は進行してはいるが、まだ氾濫原跡を思わせる地形が少しは残っていて、現在それらは広大な水田となっている。「前谷落」の流域一帯の平均標高は17m程。その西側に位置するJR高崎線上の標高が18m程で、自然堤防上に鎮座している鎌塚八幡神社社殿付近でも19.4m程しかない。南側の元荒川北側で19m程であるため、元荒川周辺より低いのだ。
 この低地(氾濫原跡)は嘗て土地開発が未熟な時代に、忍川の流路が乱流していて不定だった頃の名残りでなないかとの説もあり、その地域に「鎌塚」も含まれている。

「鎌塚」の「鎌」は浸食地形・崩壊地形を示す地形用語で、河川氾濫地域であることを、先祖の方々が後世我々に教えようとして、この名前にしたのかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鎌倉市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」
                

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