古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

笠幡鏡神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡282
             ・ご祭神 猿田彦命 大山祇命 菅原道真公
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭(春祈祷) 415日 
                  秋祭(お九日) 
1015
 笠幡箱根神社から一旦南下、JR川越線の踏切を越えてすぐ右手に「川越警察署笠幡交番」がある十字路を左折する。埼玉県道15号川越日高線に合流後、暫く東行し、南小畔川に架かる田中橋を過ぎて1㎞程進んだ「霞が関小学校(東)」交差点を左折する。道なりに暫く進むと、南小畔川に架かる庚申橋が見えるので、その手前の十字路を右折して直進すると、正面やや右側に笠幡鏡神社の石製の鳥居が見えてくる。
        
                  笠幡鏡神社正面
 当社の具体的な創建時期は不明であるが、当地を開発したある村人が、一個の古びた鏡を発掘し、その裏に「猿田」の文字が読み取れたため、それを御神体として祀ったことに始まる。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 鏡宮 承應二年七月勧請の棟札あり、神職伊藤長門吉田家の配下、
『入間郡誌』
 猿田彦大神を祭る。 勧請年日不明なれど、承応二年七月造営の棟札 あり。 又延宝五年三月二日造立の棟札あり。 元禄四年八月修復の棟札ありて、当処の産土神たれば、明治五年村社に列せらる。
 古老の伝説によれば、昔土人あり土地開墾の際鏡面一を掘出したるを以て、之を見れば其裏面に金質朽ち錆びたれどもかすかに猿田の文字見えたり。 依て鏡を神宝とし、社号を鏡宮と称へしが、古鏡は承応造営の時紛失せりと。
今の社殿は慶応二年の造営にて、旧地より移せるもの也。
 
  綺麗に手入れされている参道、及び境内    境内の一角には案内板も掲示されている。
        
                                      拝 殿
      南小畔川のすぐ東側に位置している為か、石段上に社殿は鎮座している。
 鏡神社(みょうじんさま) 川越市笠幡282(笠幡字後大町)
 当社の創建は不詳であるが、かなり古くから信仰されていたことは、社蔵の承応二年の棟札により明らかである。棟札はそのほか延宝五年・元禄四年・宝永五年・宝暦八年・万延元年・明治八年のものを蔵する。古来、笠幡の伊藤家が祀職に預かり、承応の棟札にも「禰宜伊藤刑部」と見える。
 鏡神社という社名は古老の伝えに、昔土地開拓の折に鏡一面を発掘し、その鏡の裏面に「猿田」と字が彫ってあったのでこの鏡(承応のころ紛失したという)を奉斎して「鏡宮」としたという。祭神は、猿田彦命・大山祇命・菅原道真公である。
 古くは笠幡大町の神明地(現社地より五〇〇メートル南方)に鎮座していたが、明治初年に大室家の山林であった現在地を境内として移した。この理由は不明であり、旧地は現在、学校の敷地となっている。
『明細帳』には、境内神社として「神明宮祭神伊勢大御神、由緒不明」とあるが、現在はなく、本殿に合祀してしまったとも伝える。氏子は神明地にあった当時は神明様と呼んでいて、鏡宮ではなかったというが、『風土記稿』には「鏡宮」と載り、伊藤家の裁許状には「尾崎明神鏡宮両社」と記すことから社名に変遷のあったことがうかがわれる。古来当初の産土であったことから、明治五年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                          拝殿上部に掲げてある扁額
  拝殿は坂戸市の厚川大家神社のように、正面が見開き状態で、特徴的な構造をしている。 
        
                     本 殿
 氏子区域は笠幡の大町地区で、氏子戸数は『明細帳』によれば二四戸であるが、現在はかなり多くなった。当地は畑作を中心とする農業地帯であるが、近年、川越線の開通により、交通の便がよくなり、急速に宅地の造成が進められている。  
 鏡神社はお産の神様であるといわれ、古来この地域ではお産で亡くなった者がいないのは、鏡神社のお陰であるといわれている。昔は婦人が願を掛けるためか、中剃りの長い髪の毛が神社の拝殿に沢山結んで奉納されていたという。
        
                                 社殿からの一風景

 神社とは別に村の行事として「二百十日のお日待」を91日に行ったという。これは、回り番が事前に宿を決めて、雨風が荒れず、順調に収穫できるようにと祈願の意を込めて飲み食いする行事であり、このような行事のお触れを出すのは神社の年行事担当の役目で、日が決まると手分けをして触れ歩いたので、大変だったとの事だ。
 このように氏子の日々は鏡神社と密着した生活が延々と営まれていたのであろう



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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笠幡箱根神社

 古代より箱根山は、山岳信仰の一大霊場であり、『筥根山縁起并序(はこねさんのえんぎならびにじょ)』(1191年成立)によると、孝昭天皇の時代に聖占が駒ケ岳において神山を神体山として祀って以来、神山を遥拝できる駒ケ岳の山頂を磐境として祭祀が行われていた。因みに、地名「箱根」は古くは「函根」と記したが、同じく「箱根山」は函根山と記し、函嶺(かんれい)ともいったようだ。
 天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、神仏習合の魁として活躍し、神と仏を結ぶ聖僧(しょうそう)である『万巻上人』が箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山し、神山や駒ケ岳で3年間修行して、三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得し、夢の中の神託により、箱根権現を祀る社殿(現・箱根神社)を建立したという。神仏習合の流れの中で、箱根権現への信仰は東密の影響を大きく受け、多くの修験者が箱根山に入山して関東の修験霊場として栄え、鎌倉時代には、源頼朝の篤い崇敬を受け、鶴岡八幡宮に次いで関東武士の信仰を集め、鎌倉幕府歴代将軍による当社への参詣は幕府の恒例行事となり、当社は「関東守護」「関東鎮守」といわれ、鎌倉幕府の祈願所として尊崇された。その後、執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えたという。
 江戸時代には、箱根の関所が置かれて東海道が整備されると、東部交通の要(道中安全の守護神)に位置する箱根権現は、庶民信仰の聖地と共に一層篤い信仰を受けるようになった。
 その後、明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、関東総鎮守箱根大権現は箱根神社へと改称され現在に至っている。
 川越市笠幡地域には、その「箱根」を冠した小さな社が静かに鎮座している。

        
             
・所在地 埼玉県川越市笠幡4431
             
・ご祭神 天津彦火火出見尊
             
・社 格 旧笠幡村倉ヶ谷戸鎮守
             
・例祭等 天王祭 715日 お日待 1014
 川越市の西側にある笠幡地域。この「笠幡」の地域名は、嘗て「陸奥国齋藤文書」に正慶二年(1333)「武蔵国高麗郡賀作波多村」と記載されていて、かなり古くからあった地名であったようだ。この地域中央部やや東側で、小畔川右岸の自然堤防上に笠幡箱根神社は静かに鎮座していて、JR川越線笠幡駅からでも北東方向で直線距離にして500m程しかない。
 駅周辺には住宅地や学校・病院等が建ち並ぶのだが、駅から北側に流れる小畔川付近は、一面長閑な田園風景が広がっていて、住宅街と昔ながらの風景が共存する地域ともいえよう。
        
                  笠幡箱根神社正面
 笠幡箱根神社の創建年代等は不詳であるが、倉ヶ谷戸地区を開拓した発知(ほっち)氏の先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えられ、慶安年間(1648-1652)に再興したという。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 舊家者啓次郎 
 發智を氏とす、先祖は六郎次郎と稱して、永正の頃より代々この村の里正たり、古器舊記等も傳へしに、文化年中火災にかゝりて烏有となれり、
 高倉村高倉寺燈籠(*もとは笠幡村発知家にあったという)
「発地氏曩祖曰、植田太郎源公光・仕鎌倉右府、五世孫光規・弘安八年十一月有武功、北条貞時賞賜以信濃国佐久郡発知之郷因称発知太郎、後更発地。正安年間有故来于此地、世為里正。光規二十四世之孫為光正性直而淳朴産益優富有田畝山林三百余町、明治六年区長兼戸長。明治十一年発地庄平光正建」
        
                   境内の様子
        
                    拝殿覆屋 
 箱根神社(ごんげんどう)  川越市笠幡四四三一(笠幡字倉ヶ谷戸)
 当社の創立は口碑によると、この笠幡の倉ヶ谷戸地区を開拓したという発知氏の遠い先祖が、相模の箱根神社を勧請したと伝えている。『風土記稿』には「箱根権現」とあり、別当が修験大泉院であったことがわかる。古くから当社の通称は権現堂で更に老朽化した権現堂と箱根神社が並立していることから、一所、別個の社が混同視されていたのかもしれない。『明細帳』には「当社勧請年暦詳ナラサレドモ慶安年中頃発地庄平ノ祖先再興ナリ」と記してある。
 祭神は天津彦火火出見尊である。境内社は『明細帳』に「八坂神社 祭神素盞鳴尊、天保年中勧請明治十六年六月再興、琴平神社 大物主命、文政年中勧請明治十四年三月再建、稲荷神社 倉稲魂命、発地庄平の先祖某が祭る、蚕守神社 宇気母智命」と四社を載せるが、各社殿が老朽化したため、昭和五五年に本社を改築した際、本殿覆屋内に合祀した。同時に三峰社・御嶽社も合祀している。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神輿が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
 境内にある草葺きの権現堂は、倉ヶ谷戸地区の公民館が完成するまでは地区の寄り合いや祭日の直会の会場に使っていた。また、末社八坂社の神興が安置されていた。現在は使用されることもなく朽ちるに任せてある建物であるが、明らかに堂宇であり、権現堂の通称が当社を指すのも興味深いものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 嘗て境内にあったとされる権現堂は既に取り壊されていて、駐車スペースとなっているようだ。また「埼玉の神社」に載せられている別当・大泉院は『風土記稿」によると「本山修驗、郡中篠井村觀音堂配下なり、本尊不動を安ず、開山高量應安五年五月化す」と記されていて、修験道一派が開山した寺院ということから、箱根権現との関連性は十分に頷けられよう。
 
  拝殿に掲げてある「箱根神社」の扁額          本殿覆屋内に合祀されている社あり

   本殿に合祀されている社は、御嶽社・三峰社・養蚕社・八坂社・稲荷社・琴平社。
        
               境内にある「廻国供養塔」等
 供養塔の並びには、嘗て「蚕影社」が祀れれていたのだが、今はないようだ。この地域は、昭和30年代まで氏子のほとんどは養蚕に従事していて、毎年10月2日に蚕影社の祭りがあったが、養蚕農家の減少により、廃されたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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北阿賀野稲荷神社

 稲荷神社  深谷市北阿賀野一(北阿賀野字西廓)
『風土記稿』によると、上野国藤岡城主蘆田右衛門大夫康真がこの辺りを領していたころに開発した地であるという。蘆田右衛門大夫は、徳川氏の入国後に当地北側に接する横瀬の地を領しているところから、当地の開発も入国後のことと考えられる。その後、正保から元禄(一六四四〜一七〇四)にかけて、北阿賀野と南阿賀野に分村したと伝えている。
 旧家の橋本正次家の伝えによれば、同家は河内国橋本庄からこの地に移り開発を行い、この時氏神として祀られたのが当社で、その後戸数が増すにつれ、村の鎮守として崇敬されるようになったという。
『風土記稿』は、地内の寺社について「稲荷社 村の鎮守なり、村持、天神社 宝暦十三年(一七六三)の建立なり、同じ持。阿弥陀堂 同じ持」と載せている。これに見える天神社(現菅原神社)は、当社の東側に隣接していた社であったが、明治四十三年に当社の境内社となった。また、阿弥陀堂は、当社北側の橋本家の墓地に移されていたが、昭和二十五年ごろに取り壊された。なお、阿弥陀堂と並んで、古くは寺院もあったと伝えるが、今はその寺名さえも忘れ去られている。あるいは、当社にかかわる寺院であったかもしれない。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県深谷市北阿賀野1
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧北阿賀野村鎮守 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り(天神祭) 225日 例祭 410
                  
大祓式 731日及び1230日 秋祭り 1115
 伊勢大神社から一旦東行すること850m程、埼玉県道355号中瀬普済寺線と交わる十字路を右折する。同県道に合流し、700m程南下すと、近代日本経済の父と言われた「渋沢栄一翁」の歴史的資源の複合利用等を目的として整備された「青淵公園」に達するのだが、その手前の路地を右折し600m程進むと、北阿賀野稲荷神社の参道入口が右手に見えてくる。
        
                 
北阿賀野稲荷神社正面
         
入口左側には、「可堂桃井先生碑」と表記された標柱も建っている。

『日本歴史地名大系』「北阿賀野村」の解説
 利根川右岸の自然堤防上に位置し、東は血洗島村、南は清水川を境に南阿賀野村。本庄領に所属(風土記稿)。初め阿賀野村の内で、元禄(一六八八〜一七〇四)以前に当村と南阿賀野村に分村したとされる。田園簿にみえる阿賀野村旗本稲垣・依田・室賀の三家領分がのちの当村となり、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳に二村みえる阿賀野村のうち、依田領九三石余が当村にあたる。
『新編武蔵風土記稿 南阿賀野村』
 當村元は北阿賀野村と一村にして、後南北に分れり、されど正保の改にはなを一村にして、元祿の者には二村に見えたれば、分村の年代も推て知べし、
『新編武蔵風土記稿 北阿賀野村』
 蘆田右衛門大夫康眞此邊を領せし頃、領主へ聞え上て開發すと伝傳ふ、陸田のみの地なり、
 稻荷社 村の鎭守なり、村持、
 天神社 寶暦十三年の建立なり、同じ持、 阿彌陀堂 持同じ、
        
                
北阿賀野稲荷神社の鳥居
  この社の住所は「深谷市北阿賀野1」。この地域の中心に位置している社なのであろう。
           旧渋沢栄一邸「中の家」の近くに鎮座する神社
        
    境内に入ってすぐ左手に設置されている「稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑」
        
                    拝 殿
 稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑               
 深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
 旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
 境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
 又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
 當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
 この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
 誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
 茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
 
平成二十七年六月吉日
 北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
 同          氏子一同
                                     改築記念碑文より引用

        
               子爵澁澤榮一謹書「稲荷神社」
       社殿は新しくされたようで、天井の画も色とりどりで艶やかである。
 嘗て当社の覆屋内に設けられた棚には、おびただしい数の陶製の白狐が並べられている。これらは、当社が養蚕守護の神として信仰を集めた当時の名残であるという。
 養蚕が盛んであったのは昭和25年頃までで、毎年225日の春祭りには、養蚕倍盛を願う参詣者が多数訪れた。参詣者は、米の粉でこしらえた繭玉を供えて祈願し、神前に上げられた白狐の中から雌雄一対を借りて帰った。この白狐は自宅の神棚に1年間祀っておき、翌年の春祭りのお礼参りに「倍返し」と称して雌雄二対にして返すのが例であった。ちなみに、白狐の雌雄は髭の有無で見分ける。
 また、当社は古くから五穀豊穣の神としての信仰がある。氏子の生業が養蚕から蔬菜類の栽培に変わってきた近年は、作物の盗難を防ぐために、白狐を借りて行き、箱に納めて畑の一隅に置いておく信仰が生じている。
 
    社殿左側奥に祀られている境内社          社殿右側奥にある庚申塔等
         菅原神社(天神社)       写真にはないが、一番右側には青面金剛があり

 氏子区域の北阿賀野は、『新編武蔵風土記稿 北阿賀野村 陸田のみの地なり』に載せられているように、今でも畑作を中心とした農業地帯である。氏子数は四〇戸余りで、これを東廓・西廓・中廓の三つの郭(村組)に分けられている。
 氏子の間には、作物に関する禁忌があった。冨田家では、太平洋戦争のころまで「きゅうり」を作らなかった。その理由は、天正十二年(一五八四)の鉢形北條氏と上野国太田城主由良氏との戦いの際に、由良氏の武将であった冨田家先祖がきゅうり畑で打死したことによると伝える。今井家では、「茄子」を作らなかったが、戦後、伊勢の猿田彦神社から「お砂」を頂いて来て、神棚と氏神に供え、畑に撒いて清めて以後栽培するようになったという。
       
             鳥居のすぐ左側に聳え立つご神木 社殿手前左側にも銀杏のご神木あり

 社のすぐ近くには、「
可堂桃井先生碑」が建っている。この桃井 可堂(もものい かどう、享和388日(1803923日) - 元治元年722日(1864823日))は、日本の江戸時代末期(幕末)の志士、儒学者。通称は儀八。諱は誠。字は中道。可堂は雅号である。
        
 享和3年(1803年)、武蔵国榛沢郡北阿賀野村の百姓福本守道(宗左衛門)の次男として生まれる。隣接する血洗島村で渋沢栄一の大叔父・渋沢仁山が開いた塾で学んだ後、22歳で江戸の東条一堂の門で学び、清河八郎・那珂梧楼とともに「一堂門の三傑」と呼ばれた。のち備前庭瀬藩板倉家の儒臣として召し抱えられる。しかし水戸藩士藤田東湖らとの交流で尊王攘夷思想に共鳴し、改革派の公卿大原重徳に建白書を提出して時勢を説いた。この建白は大原の受け入れるところとならず、失望して庭瀬藩を致仕して、帰郷する。桃井は中瀬村に塾を開き、小田熊太郎や金井国之丞ら尊攘派の志士を育成した。
        
 文久3年(1863年)12月には天朝組を組織し、当時尊王派から忠臣として賞賛されていた新田義貞の子孫である岩松俊純を擁して新田氏ゆかりの者を集め、上野国沼田・赤城山で挙兵して後に横浜の外国人居留地を襲撃しようと企てた。しかし、同志の湯本多門之介や旗印となる岩松らが計画に恐れをなして江戸南町奉行所へ訴え出たために計画が露見。桃井は1215日、川越藩に自首した。江戸に護送され、麻布の福江藩邸預けとなり、幽囚されたが、自ら絶食して死去した。享年62。法名は道義院猛雲至誠居士。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺にある。1912年(大正元年)1119日、贈正五位。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「
埼玉県HP」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「記念碑文」等
 

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伊勢大神社

 古老の話では、当社は伊勢内宮の天照皇大神を祀り、横瀬神社は外宮の豊受大神を祀り、両社は共に格が高いのだという。このため、氏子の当社に寄せる心は厚く、明治末期に当社を横瀬神社に合祀する話が持ち上がった折には、氏子一同で二反歩ほどの土地を社有地として寄進し、これを免れたという経緯がある。当社には、古くは杉の大木があり、『郡村誌』にも「社地中老杉あり」と載り、本田の横瀬神社の社と好一対をなしていた。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市横瀬337
              
・ご祭神 天照皇大神
              
・社 格 旧無格社
              
・例祭等 祈年祭 219日 例祭 410日 
                   新嘗祭 
1115
 群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を埼玉県境付近まで北上し、「上武生産市場」の丁字路を左折する。埼玉県道355号中瀬普済寺線に入り、そこから1.7㎞程進むと、一面田園風景の中、伊勢大神社の社叢林がポツリと見えてくる。
 
    県道から見た伊勢大神社の社叢林       大木に囲まれて社は鎮座している。
 
   入り口付近に建つ庚申塔と二十二夜塔    真っ直ぐの参道は途中から左側に折れる。
       
              鳥居の先には神明系の社殿が建つ。
 伊勢大神社(だいじんぐうさま)  深谷市横瀬三三七(横瀬字伊勢山)
 横瀬の地名は、利根川の瀬に沿った地であったところから生じたといわれる。横瀬郷は古くから知られ、上野国金山城主横瀬信濃守の先祖の出生地で、またその所領であったといい、地内には平安期から鎌倉期にかけての横瀬氏居館跡がある。
 当社は、古くは太神宮と号し、別当は地内の新義真言宗華蔵寺であった。この華蔵寺は、建久五年(一一九四)の創建と伝え、本尊は大日如来である。また、境内には大日堂があり、この堂は横瀬氏の建立と伝えている。
 当社の創建は、この別当華蔵寺の信仰と深くかかわると考えられる。それは鎌倉期成立の『沙石(しゃせき)集』に「内外の両宮は金胎(こんたい)両部の大日とこそ習ひ伝へて侍れ」とあるように、伊勢両宮の大神は大日如来の化現(けげん)したものであると説かれていることによる。
 横瀬には、当社のほかに、かつて聖天宮と号していた鎮守の横瀬神社があり、これが貞享年間(一六八四〜八八)に、横瀬が本田と新田に分離したのに伴い、その鎮座地の関係から、新田の鎮守として祀られるようになったものであろう。ちなみに貞享年間は、各地に悪疫が蔓延して死者が多かったので、神威の著しい伊勢の両宮に祈ると称して伊勢踊りが流行し、伊勢信仰の高まった時期である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 現在、当社の祭典は、219日の祈年祭410日の例祭、1115日の新嘗祭の3回行われている。これは、昭和29年の町村合併に際して、横瀬神社の祭日に合わせたもので、両社の総代と指し番は、まず横瀬神社の祭礼に参加し、続いて当社の祭礼を奉仕する。両社の祭典には、総代と指し番のほかに、自治会長・自警団長・婦人会代表が参列するという。
       
                      境内に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等

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大塚諏訪大神社

 当地を含む深谷市北辺部は、諏訪神社が多い所である。これら諏訪神社は、いずれも信州諏訪神社の分祀と考えられる。同社の分社は全国に見られ、その時期は古代に始まるといわれるが、最も盛んであったのは鎌倉時代であった。これは、源頼朝が石橋山に戦い、甲斐の源氏が頼朝加勢の兵を挙げた時、諏訪の神が源氏勝利の託宣をしたことから、鎌倉幕府、更には鎌倉武士に信仰された結果である。
 当社の創建は、社伝によると正安年間(一二九九〜一三〇二)である。この時期は鎌倉時代の末期で、二〇年ほど前には、中国大陸の元軍が日本に来襲した文永・弘安の役があった。この戦役で、伊勢の風宮(かぜのみや)と信州諏訪神社の神が大風(神風ともいう)を起こして、元軍を全滅させたと信じられた。これは、古代から諏訪の神が、風の神として信仰されていたためである。なお、この風の神信仰は、本来は農業神としてのものであった。
 当地に諏訪神社が多い理由は明らかにできないが、鎌倉武士の発生地であり、鎌倉街道が通っていたことが挙げられよう。しかし、当社の場合は、その創建が鎌倉時代末期であり、鎌倉武士の勧請というよりも、諏訪の風の神としての信仰が一般化してきて、土地の鎮守として祀られたと考えるべきであろう。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県深谷市大塚263
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧大塚村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 410日 秋祭り 1017
 深谷市大塚地域は、小山川左岸の沖積低地にあり、深谷市下手計周辺から南東方向に流れている小山川支流の清水川が合流する地域一帯に位置し、中央部を群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が南北に通っている。民家は県道を中心に点在するに対して、外郭周辺部は田畑が中心に農地が広がっているように、場所によって土地利用される用途がハッキリと分かれている地域でもある。
 途中までの経路は戸森雷電神社を参照。そこから群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上し、1.7㎞程先で小山川を越えた最初の十字路を左折すると、すぐに大塚諏訪神社が見えてくる。
        
                 
大塚諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』「大塚村」の解説
 小山川左岸の沖積低地に位置し、西は上手計(かみてばか)村、南は内ヶ島村、北は下手計村。岡部領に所属(風土記稿)。地元では「おおづか」とよぶ。永禄一二年(一五六九)九月一日の北条氏邦印判状写(武州文書)によると、鉢形城(現寄居町)城主北条氏邦が吉橋大膳亮に戦功の賞として「十貫文 大塚之内」などを宛行っており、これは当地に比定される。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入国後、旗本安部信勝領(のちの岡部藩領)となり幕末に至る(天明七年「岡部藩領郷村高帳」安倍家文書、改革組合取調書など)。
 
     手入れの行き届いた境内         「
大塚諏訪大神社改築の記」の石碑
氏子区域は、大字大塚であり、「大塚」の名が示すように、地内に古墳後期・奈良期・平安期の大塚遺跡、古墳後期の諏訪神社前古墳がある。大塚地域は農業地域で、昔は麦、現在はネギの生産が多い。総戸数は五五戸であり、全戸氏子である。
        
                 塚上に鎮座する社殿
 大塚諏訪大神社改築の記
 当社の創建は、社伝によると正安年間(一二九九~一三〇二)である。この時期は鎌倉時代の末期で、二十年ほど前には、中国大陸の元軍が日本に来襲した文永弘安の役があった。
 信州諏訪神社の分祀といわれる当社の祭日は、四月十日春祭り、十月十七日秋祭りである。春祭りは。『お花見』とも呼ばれ、氏子一同で祝宴を行っている。秋祭りには、獅子舞が行われる。当社の舞は、天正十五年(一五八七)からと伝えられている。
 氏子区域は、大字大塚である。大塚の名が示すように、地内には古墳後期、奈良期、平安期の大塚遺跡、古墳後期の諏訪神社前古墳があり、深谷市指定二号遺跡となっている。
 地内に、享保四年(一七一九)大塚、村中造立の地蔵尊があり、『子育て地蔵』と呼ばれ、信仰されてきた。この地蔵尊の縁日は、毎月二十四日で団子を供えてお参りする人が今日でもある。耕地整理等に伴い、現在は他地番に安置されている。
 神社社殿の老朽がすすんだため、氏子の総意にもとづき平成十二年度から、十三年間計画で建設資金の積み立てを実施して、平成二十六年に待望の新社殿が完成した。
 平成二十六年九月吉日
  
大塚諏訪大神社建設委員会
                                      石碑文より引用
 
  社殿右側に祀られている境内社・稲荷神社       境内に祀られている石祠群。詳細不明。
        
               境内に一際目立ち聳え立つ巨木

 当社の例祭は、古くは八月二十六日であったらしい。「白川家門人帳」寛政四年(一七九二)に、伯家から当社に対して社号額の染筆を遣わしたとの記事があり、その中に、例祭日八月二十六日の記載がある。各地の諏訪神社の祭りは、八月二十六日から二十八日の間に行われることが多い。これは、信州諏訪神社の古くからの祀り「御射山(みさやま)神事」の日取りに合わせたためであろう。
 秋祭りには獅子舞が行われる。信州諏訪神社は狩猟と関係が深く、獅子頭は鹿の頭に似ている。獅子舞の起源は、寛元年間(一二四三〜四七)、時の鎌倉幕府執権北条時頼の命により角兵衛という者が始めたと説かれる。当社の舞は、天正十五年(一五八七)からと伝えている。
獅子舞は、十月七日の花作り・練習から始まる。当日は、舞い手3人・棒遣い2人・笛方1人・花笠2人・歌1人・ボンゼン1人で行われ、庭は二庭で、前と後ろがあり、終日境内に笛の音が流れるという。
 大塚獅子舞は「無形民俗文化財」として深谷市の指定を受けている。
【指定年月日】  昭和48113
【変更年月日】  平成3113日(記号番号変更) 平成1811
        
          社の入口正面には小山川の土手がすぐ目の前にある。
                   まるで社が身を呈して、北側に住む住民を守るように
                     この地で盾となっているような位置関係である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「深谷市HP」「境内石碑文」等

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