古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新井稲荷神社

『しもつかれ』とは、北関東地方(栃木県全域、茨城県西部、埼玉県東部、千葉県北部、福島県の南奥会津や但馬など各県の一部地域等も)に分布する伝統の郷土料理である。初午(はつうま)の日に作り赤飯と共に稲荷神社に供える行事食で、地域により「しもつかり」「しみつかり」「しみつかれ」「すみつかれ」「すみつかり」とも呼ぶようだ。
 料理方法は、鮭(新巻鮭)の頭・大豆(節分に撒いた残り)・人参・その他の余り物を細切れにし、大根を目の粗い竹製の大根おろし器の「鬼おろし」で粗くすり下ろして酒粕と共に煮込んだ料理で、独特な味や香り、その外見から、好き嫌いが激しく分かれるそうだが、残念ながら筆者はこのような料理を一度も食したことがないので、料理の好みを判別することができない。
「しもつかれを三軒(七軒ともいう)食べ歩くと中気にならない」や「なるべく多くの家のしもつかれを食べると無病息災」など、しもつかれには様々な伝承が伝えられ、現在でも重箱に入れて隣近所でやりとりする風習がある地域もある。
 鴻巣市新井地域では、二月初午に大正期まで各戸で「すみつかれ」を藁苞(わらづと)に入れて社頭に供えに来たという。因みに「初午」とは、2月の最初の午(うま)の日を指し、稲荷神社で豊作や商売繁盛、家内安全などを祈願するお祭りが行われる日でもある。稲荷様が如何に穀物や農業の神として信仰され、更に、一般の方々の日常生活にも深く関わっていたかを示す風習でもあろう。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市新井226
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧新井村鎮守
             
・例祭等 春祭り 318日 天王様 727日 例祭 1014
                  
秋祭り 1128
 境天神社から一旦南下し、「境」交差点を右折し、北西方向に500m程進んだ場所に新井稲荷神社は鎮座する。地図を確認すると、道路を挟んで鴻巣市立共和小学校の向かい側に位置している。
        
                  
新井稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井村」の解説
 境村の北西にあり、見沼代用水(星川)右岸の自然堤防上に位置する。北から西は広く関新田村に接し、同村内に飛地が散在する。弘安一〇年(一二八七)一月二〇日、陸奥国好島(よしま)庄(現福島県いわき市)の伊賀光隆が子の光清に譲与した所領のなかにみえる「荒居」(永仁元年一二月一七日「将軍家政所下文案」飯野八幡宮文書)は当地のことと考えられる。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高一三八石余・畑高九八石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高一五三石余(田方一二町三反余・畑方三町八反余)。
 当社は古くから新井の鎮守として厚く信仰されている。特に養蚕の盛んであった戦前までは、お稲荷様(おとがさま・陶製眷属像)が多数貸し出され、養蚕守護の神として信仰を集めた。当地の養蚕は、春蚕・秋蚕・晩秋蚕の年3回であり、ほぼ全戸が生業の中心としていたという。
        
                    拝殿覆屋
 稲荷神社  川里村新井二四八(新井字本村)
 当地は星川(見沼代用水)右岸に位置し、地内には奈良・平安期の集落遺跡がある。
 当社は、口碑によると岡戸氏の先祖が山城国の伏見稲荷大社から御分霊を頂き当地に祀ったのが始まりであるとされ、岡戸本家は修験者の系統を引くという。更に、当社は同地区に祀る正源寺持ちの観音堂と同年代の建立であるという。また、正源寺は真言宗で山号を稲荷山と称し、開山は元亀元年と伝え、江戸期において当社の別当を務めていた。以上のことを勘案すると、当社の創立は元亀元年以降のことであると思われる。
 本殿の造営は宝永五年で、棟木墨書に「宝永五戊子年北埼玉郡騎西領新井村住人岡戸氏行右衛門吉明奉寄進者也 天下泰平国土安全家内長久諸願成就之所七月廿八日千秋万才楽也 五月中〇七月下旬迠□之□則作者串作村山下長兵衛弟子儀兵衛八右衛門敬白」とある。
 正徳四年に宗源宣旨を受け、正一位稲荷大明神と号している。
 祭神は倉稲魂命で、内陣には三五㎝の茶枳尼天(だきにてん)像を安置している。また、境内社の白山大権現は明和八年に建立したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
      「新井稲荷神社の算額」の碑      境内社・白山大権現
 鴻巣市指定有形文化財 新井稲荷神社の算額
 江戸時代に発達した日本独自の数学を和算という。埼玉郡種足村(現加須市騎西)の開流の都築利治(18341908)を師とした田村金太郎(旧共和村新井)が難しい問題を解いた成果として奉納したもので、川里地域に残る唯一のものである。明治25年(189291日奉納されたものである。平成13328日指定。
 また、境内社・白山大権現は、地域の方々からは、歯痛を直す神であるといわれている。
        
                  
新井稲荷神社遠景
 当社の行事の一つに「天王様」があり、727日に行われる。この祭りでは、古くから行事の一切を子供たちの手に委ねられ、最上級生四名が親方となり運営したという。
 まず、祭りに先立ち親方の指示で下級生が村の重立ちの家を回って歩き、神輿飾りの寄附をもらう。当日、子供が担ぐ神輿が氏子各家の庭先で練られ、各家から賽銭が上がり、全戸回り終えると、親方が賽銭を学年に応じた金額で銘々に分配する。行事の一切が終わると、親方は神輿の四方に下がる提灯をもらって役を引退する。
 この行事は子供たちにとって子供社会の仕来りの中で、おのずから物事に対する秩序や道理を身につける場となっていたが、近年教育上の配慮を理由にPTAが行事進行の中心となってしまったため、子供たちの主体性を損なう結果となっているとの事だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川里地域の指定文化財」
    「Wikipedia」

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境天神社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市境86
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧境村下分鎮守・旧村社
             
・例祭等 天王様 715日 八幡様灯籠 914日 
                  新穀感謝祭 
1123
 旧川里村境地域に鎮座する社である。広田鷺栖神社から埼玉県道313号北根菖蒲線を東行し、1㎞程先にある丁字路を左折する。通称「川里中央通り」と呼ばれるこの道の東側には鴻巣市の花と音楽の館「花久の里」というNPO法人が運営している施設があり、花・物販の事業、食の事業、音楽・芸術の事業や年間のイベントを実施しており、季節別に彩られる庭園は自由に入ることができるなかなか洒落た場所だ。
 この川里中央通りを北上すると、また丁字路となり、そこを右折する。見沼代用水(星川)右岸に沿った道路を南東方向に進み、「境」交差点を左折すると、用水に架かる境橋の手前に境天神社は鎮座している。
        
        見沼代用水(星川)付近の様子。社は写真右手前に鎮座する。
『日本歴史地名大系』 「境村」の解説
 東は見沼代用水(星川)を隔てて上会下(かみえげ)村、集落は同用水右岸の自然堤防上に立地している。村域西方には同村の広い飛地がある。騎西領のうち(風土記稿)。田園簿によれば田高二六七石余・畑高一三三石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳によると高三八四石余(田方三〇町九反余・畑方九町六反余)、新田高二二七石余(田方一七町余・畑方七町六反余)。化政期には旗本林・藤堂二家の相給で(風土記稿)、幕末まで両家領として続いたと考えられる(改革組合取調書など)。
        
                   境天神社正面
 宝暦年間(175164)に創建されたという。当地の福島家に居候していた釈白心庵主が亡くなるに際し、当地には鎮守の神社がないことを憂い、天神を祀るよう遺言したとも、当地を所領としていた旗本藤堂良由が天神を篤く信仰していたことから創建したともいわれている。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1910年(明治43年)の神社合祀により、周辺の9社が合祀されたという。
 

 鳥居の右側に祀られている愛宕社・弁天社     鳥居の左側には、伊勢参宮記念碑や
      庚申塔も二基ある。               庚申塔も建つ。
       
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 埼玉郡騎西領境村』
 八幡社 村内上分の鎭守なり、〇久伊豆社 〇神明社 〇稻荷社 以上四社、善勝寺持、
 〇天神社 村内下分の鎮守なり、〇熊野社 〇天王社 〇辨天社 以上村持
 善勝寺 禅宗臨済派、日出安村保寧寺末、東光山と號す。本尊釈迦。立像にて長三尺許、
弘法 の作と云。開山清庵祖銀文祿
48月示寂。 觀音堂。 鐘楼、延享5年の鐘をかく


 天神社  川里村境八六(境字台)
 当社の鎮座する境地区は星川(見沼代用水) の右岸に位置する。古くは境村を二分して上分・下分と私称し、上分の鎮守は八幡社、下分の鎮守は天神社であった。
 当社の創立は、社記に「当社は今古老の口碑に伝て日ふ宝暦年間福島家に釈白心庵主なる者あり該宅地内に勧請ありしが該庵主回向をなし本村に於て寂するに際し遺言して日く本村下分に鎮守なきを以て之を祭れと茲に於いて祭れり以て挙村民之を鎮守とし崇敬せり」とある。また『明細帳』に「素ヨリ当村鎮守ニシテ去ル宝暦年中旧地頭藤堂肥後守良由朝臣深ク信仰セラレケルヲ以テ社殿再建アリ、明治五年村社ニ申立済、明治四十三年二月二十三日同村大字同字同無格社熊野社字同無格社稲荷社字上手無格社神明社字同無格社厳島社字同無格社八坂社字台無格社厳島社字同無格社愛宕社字前無格社八幡社字同無格社久伊豆社ヲ合併ス」とある。
 字前の八幡社は上分の鎮守であったために、合祀後は、覆屋内に天神社・八幡社の二社が並べて祀られ、それぞれ三五センチメートルの「天保十二辛己歳八月吉日之彩色口」と記す天神座像と二三センチメートルの八幡大明神像を安置する。また天神社の社殿前面には、随身像が置かれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 当社の行事に7月15日に行われる「天王様」があり、夕方から大人神輿が地域内を練る。神輿は拝殿から担ぎ出され、まず総代の家に寄ってから主要道路を練り、その後村境二カ所をでも練った。昭和28年頃までは上・下の両耕地にそれぞれ子供神輿があり、子供たちの自主性に任さられ練られていたという。氏子から配られる賽銭も上級生が中心となって各人に配布されていて、子供たちにとっては重要な人格形成の場ともなっていた。ところがこの様子を見た当地の教育者の一人が、教育上強く遺憾の意を表明したため即座に中止となり、神輿を取り壊してしまった。その後、神輿行事は復活されていないという。
        
                  境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鴻巣市観光協会HP
    「Wikipedia
       

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石田藤宮神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市石田783
             ・ご祭神 天児屋根命 藤原鎌足公
             ・社 格 旧石田、石田本郷、菅間、谷中各村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 筒粥神事 115日 春祭り 489
                  夏祭り 71415日 秋祭り 101415
 山田八幡神社から東西に通じる道路を500m程東行すると、埼玉県道12号川越栗橋線に交わる信号のある十字路に達するので、そこを右折する。その後150m程で左折すると、すぐ左手に「石田防災倉庫」が見え、その奥に石田藤宮神社の鳥居が見えてくる。
 交通量の比較的多い県道から一本外れた静かな場所に鎮座しているからか、境内一帯物寂しさも漂う雰囲気を醸し出しているが、当社に奉納される「筒がゆの神事」「石田の獅子舞」は川越市無形民俗文化財に指定されていて、また、旧石田・石田本郷・菅間・谷中の4村の総鎮守社でもある事からも、豊かな社叢林に囲まれた古い歴史と格式を持ち合わせている社なのであろう。
        
                  石田藤宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「石田村」の解説
 府川村の南東、入間川右岸の低地に立地。北方石田本郷村と谷中村の間に一一町余の飛地があった(郡村誌)。小田原衆所領役帳に諸足軽衆の富嶋某の所領のうちとして「河越筋石田」とみえる。検地は慶安元年(一六四八)に実施されたという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高三五六石余・畑高一一一石余、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高四六九石余、反別田三四町七反余・畑一三町九反余、ほかに開発分高二七石余(反別田二町余・畑八反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高四四六石余・外高二三石余、名主二名。
『日本歴史地名大系』 「菅間村」の解説
 石田村の北、入間川右岸低地に立地。同川を隔てて対岸は比企郡釘無(くぎなし)村(現川島町)。戦国期府川郷の代官を勤めた竹谷氏が当地に居住、古くは下府川と称したという(芳野村郷土誌稿)。慶長一二年(一六〇七)の河越領菅間郷地詰帳(同書)では反別田四一町余・畑二二町三反余・屋敷一町六反余。このほか慶安元年(一六四八)にも検地が実施された(風土記稿)。
『日本歴史地名大系』 「谷中村」の解説
 石田村の東、入間川古川の右岸の低地に立地。小田原衆所領役帳に江戸衆の富永弥四郎の所領として「廿五貫文 川越谷中」とみえる。戦国期府川郷代官に任じられていた大野氏が村内に居住したという(芳野村郷土誌稿)。慶安元年(一六四八)の検地帳では名請人三三名、うち屋敷持二七。二町―一町所持八 名、一町―五反所持六名、五反以下一五名(川越市史)。
               
                石田藤宮神社 社号標柱           
 不思議と石田藤宮神社は石田地域の最北端に鎮座している。当初はその位置関係が理解できなかったが、嘗て石田・石田本郷・菅間・谷中の4村の鎮守社であることを考慮すれば、その地域内を総括できるこの地は絶好な位置関係といえよう。
        
                                            長い参道の先に社殿が鎮座している
 当社の創建年代は不明である。口伝によれば、かつて当地には藤の大木があり、神がその藤を愛でて下界に降臨したことから、神社を創建したという。「大正寺」が別当寺であった。大正寺は天台宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により周辺の14社が合祀された。しかし、これらの合祀された14社のうち2社は、1952年(昭和27年)に復祀されている。
        
        参道右側に倉庫のような建物が見えるが、これは山車庫である。
        
                      拝 殿
『新編武蔵風土記稿 石田村』
 藤宮社 祭神詳ならず、神體は秘して人の見ることを許さず、本地佛彌陀・藥師の二軀を安ず、當村及び石田本郷・菅間・谷中の村々、古へは府川村の八幡社を鎭守とせしが、何の頃にや當社を勸請して、今は此四村の鎭守となせり、村内大正寺の持なり、末社 辨天社 天王社
 神明社 前と同じ持、
 大正寺 天台宗、仙波中院の門徒なり、光明山遍照院と號す、本尊阿彌陀を安ぜり、
 藥師堂
 大日堂
 地藏堂 以上二宇大正寺の持、

 藤宮神社  川越市石田七八三(石田字清蔵町)
 当地は口碑によると、往古、藤の大木があり毎年一丈もの花房を付けていた。ある時、この藤の花を神が愛でてそろりそろりとこの木を伝わり降りてきた。以来、村人は社を建て藤宮と名付け祀ったという。また、村人は豊かに下がる藤の花を稲の実りに見立て古くから作神として信仰したとも伝えている。
『風土記稿』によると、この藤宮は藤宮社と記され「祭神詳ならず神体は秘して人の見ることを許さず、本地仏は阿弥陀、薬師の二体を安ず」とあるが、現在の祭神は、天児屋根命・藤原鎌足公である。
 別当は、天台宗大正寺で神仏分離まで当社を管理していたが、その後、廃寺となった。大正寺跡は現在、社殿向かって右側のゲートボール場である。
 神仏分離直後の祀職については、明治三年の社蔵銅鈴に「奉納藤宮社ムサシノクニ入間郡 石田 菅間 谷中 石田本郷 右産土中 神主府川胤代」と刻まれている。
 明治五年に当社は、石田・谷中・菅間・石田本郷の四カ村の鎮守であることから村社となり、同四一年には四カ村に祀る一四社が合祀される。その内、石田本郷の稲荷社、同境内社の天満神社は、昭和二七年に旧氏子の要望により旧地に戻され、氏子より離れた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                   境内社・稲荷神社
              稲荷神社の奥には広い空間があり、今は児童公園となっているが、
                           嘗ては別当大正寺があったという

        
        境内に設置されている「筒がゆの神事」「石田の獅子舞」の案内板
 筒がゆの神事(川越市指定無形民俗文化財)
 毎年一月十五日の早朝に行われる。一年の作柄と天候を占う正月の行事である。大釜に小豆一合・米一升・水一斗の割合で入れて煮、その中に十八本のヨシヅツを束ねたものを入れる。先端に団子をはさんだカユカキボウでかき回してヨシヅツを取り出し、それぞれのヨシヅツに入った米粒の数を数える。それらは大麦・小麦・大豆・小豆・大角豆・早稲・中手・晩稲・あわ・ひえ・木綿・芋・菜・大根・そば・雨・風・日の出来不出来を表わしている。
 ヨシヅツを取り出した後の小豆粥は、食べると虫歯ができないと言われ、参加者にふるまわれる。
 昭和四十七年二月八日指定
 石田の獅子舞(川越市指定無形民俗文化財)
 四月第二日曜日(昔は四月八日)、七月十四日、十月十四日に行われる。獅子は大獅子・小獅子・女獅子の三頭で、山の神(ハイオイ)一人、ササラッコ四人で、提灯持ちとホラ貝吹きが付く。それに笛方と歌方数名が加わる。曲目は入端・岡崎・女獅子隠し・出端などで、農作物を干すような動作で舞うことから「干し物獅子」とも呼ばれている。舞の途中で「誉め言葉」「返し言葉」のやり取りが行われるのも特徴である。
 平成十六年三月二十四日指定

 また、当社所蔵の算額は、市の指定文化財で明治四年一二月に奉納されている。これは氏子の谷中住人大野旭山によるものである。大野旭山は名を大野佐吉といい、最上流算術指南として川越城主松平斉典に仕えた。また、川越藩の宮沢熊五郎一利からも学び、川島領新川堀の河川工事などに大きな功績を残したという。
 川越市指定有形文化財 書跡・典籍・古文書  石田藤宮神社の算額
 昭和四十七年二月八日指定
        
                   静かに佇む社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 
 

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山田八幡神社

 氏子の口碑によれば『八幡様は、日本武尊が東国平定の時に剣を祀ったのが始まりと伝え、昔、境内より出土した73㎝程の鉄剣を社宝としている。このころは八幡様とは呼ばずに、単に神様といっていたが、後醍醐天皇の時に宗良親王が都から逃げ延びて来られ、京都の岩清水八幡宮を合祀してから八幡様になったと伝えている。
 また、かつてこの地は武蔵野の真中であり、辺り一面広い原っぱで、当社社家は「原摂津」と称し、摂津より隠棲、志を垂れるとして、地名を「志垂」としたという。そしてこの八幡様を守る神主さんは、この地の様子から「原」と名乗ったといわれ、天長年間(824834)摂津に大洪水ありし時使者を遣ったとの口碑あり、原家はその頃の移住と考えられている』という。
 当社は今でもこの地域で一番古い神社といわれ、厚い信仰を集めている。
        
            ・所在地 埼玉県川越市山田340
            ・ご祭神 誉田別尊
            ・社 格 旧志垂、府川村鎮守・旧村社
            ・例祭等 元朝祭 春祭り 420日 例大祭 914日 
                 新穀感謝祭 
125
        
        北山田八幡神社から東方向に400m程に鎮座する山田八幡神社
                道路沿いにある社の立看板
        
                  山田八幡神社正面
『日本歴史地名大系 』「府川村」の解説
 高畑村の南、入間川右岸の低地に立地。府河とも書く。永禄八年(一五六五)一二月一八日の梶原政景書状(三戸文書)に「河こへのしやうふかわのかう」とみえ、「としやう」(三戸駿河守妻)は父より譲られた府川郷などを甥の政景(太田道誉の子)から安堵されている。天正五年(一五七七)に竹谷源七郎と大野縫殿助からの隠田摘発の訴により府川郷の検地が実施された。田一四町五反余(分銭七二貫余)・畠二四町二反余(分銭四〇貫余)で、給免分を引いた定納分を永楽銭で換算すると永四六貫三五三文となる。このうち検地による増分二九貫余のうちから訴えた二名に賞として五貫文を与え、かつ両名を代官職に任じ、以後年貢として四一貫余を毎年岩付いわつき城(現岩槻市)へ納入するよう命じている(同年五月二六日「北条家印判状」大野文書、同日「北条家検地書出」竹谷文書)。
『日本歴史地名大系 』「志垂(しだれ)村」の解説
 向小久保村の北、入間川と赤間川に挟まれた低平地に立地。田園簿に村名がみえ、田高一四三石余・畑高六四石余、川越藩領(幕末に至る)。検地は慶安元年(一六四八)に実施され、検地帳写(川越市史)によれば名請人二五名、うち屋敷持二〇。五町―三町所持が二名、三町―二町所持二名、二町―一町所持五名、三反以下の者一二名がいた。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二一六石余、反別田一四町六反余・畑六町九反余、ほかに開発分高一二石余(反別田八反余・畑四反余)がある。
 
  社の入口付近に設置されている案内板     参道左側に祀られている境内社・御嶽社
 山田八幡神社本殿 付元禄十年棟札一枚
 市指定・建造物
 山田八幡神社は、かつては志垂・宿粒・網代・谷中・石田・同本郷・菅間・向小久保・比企郡角泉・府川の十ヶ村の鎮守でしたが、江戸時代中期には、府川村と志垂村の鎮守となったといいます。
 本殿は中規模の一間社流造で、屋根はこけら葺です。全体にわたり造りは堅実で、地方色を感じさせません。装飾は蟇股・虹梁・木鼻の絵様程度で格調の高さを感じます。造営年代は棟札により元禄十年(一六九七)と判明します。また、宝暦十三年(一七六三)に板書きされた造営記録が残されています。これによれば、元禄八年正月に普請初があり、宝暦十三年にかけて屋根葺替、御宮塗替、境内の整備などの修理を行っています。修理は地元府川村や高沢町の人などが願主、川越町中店持衆二十三軒からも寄進を集めており、かなり広い信仰圏をもっていた様子がうかがえます。保守的、伝統的な造りと意匠をもった本格的な建築であり、棟札によって造営年代も判明し、川越の江戸中期を代表する神社本殿といえます(以下略)。                          
                                      案内板より引用
        
              綺麗に整えられている参道・境内
『新編武蔵風土記稿 府川村』
 八幡社 祭神は譽田別命なり、神體は束帶銅像長一寸、鎭座の年代詳ならず、社傳に康永三年再興ありし由を云、又土人のに昔はいと全盛なる社にして、近鄕志垂・宿粒・網代・谷中・同本鄕・菅真・向小久保・比企郡角泉・當村總て十村の鎭守なりしが、中古各村に鎭守を勸請せしより、今は唯當村と志垂村の二村鎭守とせりと云、又前に出せる天正五年の文書に、神田二貫文と載たり、其頃社領もありしこと知るべし、
 末社 天神社 稻荷社
 神職原攝津 吉田家の配下なり、
 第六天社 神明社 以上二社、村内の修驗吉祥院持、
 白山社 神職原攝津持、

 
 御嶽社の先に祀られている境内社・白山社    白山社の先に鎮座する境内社・稲荷社
虫歯に悩む子供がウヅキの箸を奉納したという。
        
                    神楽殿
        
                    拝 殿
 八幡神社  川越市山田一四八(府川字向田町・志垂字宮下)
 当社の創建は、社記に「往古源三位頼政卿ノ奉祀セシ由俗ノ口碑ニ伝ヘリ本社ニ古器円形ノ鉄燈龍一個現存ス表面源三位頼政奉之、承安元年辛夘トアリ、其他白木椀八個アリ、文明三辛夘年三月中神主原市太夫宅舎火災ニ罹リシ時記録等灰燼ニ属セシト云フ、其後慶安元年子八月十七日松平伊豆守領主タリシ時社地二畝十七歩八幡免地先縄ヨリ除ヶ中田壱反四畝弐拾歩右同断先縄ヨリ除ヶ、屋敷壱反七畝二十六歩八幡社神主藤兵衛先ヨリ除ケトアリ三口合三反五畝三歩右ハ河越領ノ内志垂村御検地帳ニ記載アリ、往昔志垂・府川・宿粒・向小久保・石田・菅間・谷中・石田本郷・高畑・角泉ノ十ヶ村ノ鎮守タリ」とある。
 承安元年銘の鉄灯籠(高さ二五センチメートル)は現存し、また白木供椀は七個保存されている。
『風土記稿』府川村の項に「八幡社 祭神は誉田別命なり、神体は束帯銅像長一寸、鎮座の年代詳ならず、社伝に康永三年再興ありし由を云、又土人の説に昔はいと全盛なる社にして、近郷志垂・宿粒・網代・谷中・石田・同本郷・菅間・向小久保・比企郡角泉・当村総て十村の鎮守なりしが、中古各村に鎮守を勧請せしより、今は唯当村と志垂村の二村鎮守とせりと云(後略)」と載せる。
 現在、元禄一〇年二月の棟札と宝暦一三年に板書きされた造営記録が社蔵されている。板書には「御宮立替元禄八亥正月普請初メ願主綾部甚左衛門、御宮ぬ里替絵具細色土台石宝暦十三年未二月十三日普請初メ、御宮廻はめ板寄進川越町中西村店持衆廿三軒ニ勧化寄進、御宮前かうし戸寄進、御宮やねかや大門石橋寄進願主苻川村小沢権左衛門、御宮内ぬ里替細色願主高沢町小沢傅八願主苻川村山下清左衛門、宝暦十三年未四月十八日」とあり、今日の本殿である。
 内陣内壁は、極彩色で鳳凰に竹(笹)が描かれ、騎乗八幡神像(一〇センチメートル)及び阿弥陀三尊(三センチメートルから五センチメートル)が安置されている。
 拝殿に掲げる算額(市指定文化財)は当地の戸田新三郎高常の門人の上げたもので、三つの問題と解答を示し、六三名の門人名がある。
 明治五年に村社となり、同二八年社殿を修築し、同三四年府川の第六天社・同白山神社を合祀した。次いで明治四一年には府川の神明神社を合祀した。
 合祀した神社について、『風土記稿』に「第六天社神明社、以上二社、村内の修験吉祥院持」とあり、また白山社については「白山社 神職摂津守持」と載せている。
 祀職である原家はシマビラキとも呼ばれ、当地の草分けであり、伝えに摂津より先祖が当地に来て隠棲し、地名を志を垂れるとして志垂としたという。天長年間河内摂津に大洪水があった時に、お見舞の使者を送った口碑が残り、このころの移住であろうか。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
              社殿の奥に祀られている末社・金鶏神社

 氏子区域は、古くは志垂・宿粒・網代・谷中・石田・石田本郷・菅間・向小久保・府川・比企郡角泉の十ヶ村であった。その後、江戸時代中期に各村に鎮守が出来たために、府川と志垂の二村が氏子となる。因みに、比企郡角泉が離れて氏子であったのは、秩父の石黒某なる者が戦に敗れて落ちて来た時、祀職原家の先祖がこの地に匿ったことによるという。
 氏子の中心となる志垂と府川両村の草分け的な存在として、志垂が当社の祀職である「原家」で、府川には「府川五名(ごみょう)」と呼ばれる綾部家・長坂家・島崎家・小林家・深谷家であるという。府川村は現在川越市府川となり、志垂村は川越市北山田・南山田と変遷し現氏子区域である。この地域の氏子は古くから居住している人々であり、今日でも古い行事を残している。
・17日は七草で、各家庭では主人が早朝に畑の菜を採り「唐土の鳥が日本の国に渡らぬ先にととんとん」と刻み、粥に入れて炊く。これを神棚に上げた後、皆で頂く。
・114日は「団子刺し」といい、柳・欅・梅の枝に米の粉で作った団子を刺し氏神様に上げ、家の神棚や主な場所に飾る。同時に粥掻き棒を作り、翌15日の小豆粥を掻き回し、後に苗床の水口に祀る。15日は小正月で、古くは小豆粥でこの年の豊凶や天候を占った家もあったというが、現在は詳しく知り得ない。
・111日は蔵開き。紙垂をつけたもちの木、または榊の枝を持って庭先の畑や植木場・苗間に行き、高まった土に枝を挿して米を撒いた。この日に蔵のある家では仕事始めとして蔵の戸を開く。
・3月初午は屋敷神に色紙で作った幟を立て、赤飯に豆腐・油揚げ・魚・スミツカリを供える。
・33日は女子の節句で草餅を作り、どの家庭でもお祝いする。但し5月の節句はなく、氏神様の祭りに参拝することで替えられた。今日の児童安全祈願祭に変わったものである。
・87日は七夕で蒸し饅頭を作って食べる。十五夜はす饅頭をつくるが、十三夜は行わない。
・1210日は「十日夜(とうかんや)」で、子供は藁鉄砲を作ってもらい、近所の家の周りでこれをたたき、小遣いをもらったものである。
       
               境内に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia
    「山田八幡神社
HP」「境内案内板」等
 

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北山田八幡神社(赤城神社)


        
             
・所在地 埼玉県川越市山田2251
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 旧網代村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春季例祭 414日 秋季例祭 1014日 新嘗祭 125
 石原町愛宕八坂神社近くの「石原町」交差点を川越市神明町方向に進み、埼玉県道12号川越栗橋線に合流後、国道254号線との交点である「宮元町」交差点を左折する。その後、「北部ふれあいセンター」交差点を右折し、450m程北行した後、十字路を左折し、暫く進むと進行方向右手に北山田八幡神社の鳥居が見えてくる。社の東側に隣接して「北山田自治会館」があり、そこから社の境内の一隅に車両を駐車してから参拝を開始する。
        
                 
北山田八幡神社正面
 創建年代は不明、ただ当社が所蔵している厨子には「文禄二癸巳年(1593年)」と記されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。そして「山王社」から「日吉神社」に改称した。1900年(明治33年)、これまで当社は旧別当寺だった「教学院」跡地に住んだ岩田家の邸宅内に位置していたが、村社が個人宅にあるのは不適当ということから、現在地に移転した。
 1909年(明治42年)の神社合祀により周辺の6社が合祀され、その中の福田にあった村社「赤城神社」の社殿を移築し、社名も「赤城神社」に改称した。
        
                    拝 殿
 赤城神社  川越市山田二二五-一(山田字蔦木町)
 口碑によると、当社の創建は「昔、村の太郎左衛門という者が、近江国滋賀郡坂本村から日吉山王権現を勧請したことによる」という。
 当社の旧本殿の内陣に納める山王権現の厨子銘には「奉請日吉山王権現 文禄二癸巳年三月十五日 願主 武蔵国入東郡網代村中右村山王山教学院栄村」とある。
 往時、別当を務めていた教学院は、現在当社の西側にある「ホウエン」あるいは「山王様の家」と呼ばれる岩田家である。
 古くから当社は教学院の邸内に祀られていたが、明治五年に日吉山王社の社号を日吉神社と改めて村社となり、同三三年に村社が個人の屋敷内に祀られていることは問題であるとの意見があり、現在地に移転した。
 明治四二年大字福田の村社赤城神社、字落合の八坂社・頭殿社、字金山の金山社、大字向小久保 の村社八幡神社、大字宿粒の村社八幡神社を合祀した。
 合祀に伴い福田の村社赤城神社社殿を移築し、同時に社号日吉神社を赤城神社と改称の上、従来の日吉神社を当社末社とした。
 昭和三三年福田住民の要請により、赤城神社を返還し社号を八幡神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用 

        
                  境内社・日吉神社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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