古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

武士神社

 伊勢崎市境上武士地域は、利根川支流の広瀬川と粕川の合流点北岸に位置し、昭和の初め頃まで大小さまざまな古墳が100余基もあり『武士古墳群』と呼ばれていた。その中には現在墳丘は失われていて「境総合グランド」となっているが、墳丘長127mの巨大前方後円墳である「剛志天神山古墳」も含まれ、この古墳の築造時期は古墳時代後期-終末期の6世紀末-7世紀初頭頃と推定されている。古墳からは犬や猪など有名な埴輪が多数出土し、中には国の重要文化財に指定されて、東京国立博物館に展示されているのもある。
『群馬県佐波郡誌』
 古墳城山の東北方一帶上武士下武士の兩大字に亘りて古墳の散在するものか數十を算ふ之を發掘する時は往古の石棺や人馬の埴輪、直刀、金環、曲玉、管土、碧玉、食器等を發見する里人か天神山と稱して居る瓢形の一大古墳である或は穂積親王の御陵ならむと謂ふ

 それらの古墳も、昭和の初め頃からの開墾や戦後の工業団地造成の採土により、1,500年程前の貴重な遺跡は跡形もなくなっていて、今はなだらかに畑が広がっているのみである。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市境上武士2512
            
・ご祭神 菊理姫命 配祀神十柱
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 不明 
 伊勢崎市境上武士の「武士」という地名由来は、『群馬県佐波郡誌 剛志村』によると「武士は竹石又は武石とも書きたりしを頼朝の臣安達景盛上野の守護たりし時此の地に於て武を練りたるに因り武士と改めたりと、慶長年間上下の二ヶ村に分れた」とあり、元々は「竹石」「武石」という地名からの転訛であったようだ。因みに「武士」と書いて「たけし」と読む。
        
                   武士神社正面
 境保泉勝山神社から東方向に進行し、粕川に架かる「粕川橋」を越え500m程先の十字路を左折、そのまま北上すると丁字路に達するのだが、正面には「上武士会議所」が、左手には「上武士体育館」があり、その二つの建物に挟まれた奥に武士神社は鎮座している。
        
              溶岩塚の上にある「日露戦没之碑」
『日本歴史地名大系』 「上武士村」の解説
保泉村の東に位置し、平坦地ではあるが緩やかな丘陵地帯もあり、明治の頃まで古墳の多い村であった。村の西方を粕川が南流し、南方を広瀬川が東流する。古くは東南に接する下武士村と一村で武士村と称したが、慶長年間(一五九六〜一六一五)二村に分れたという(佐波郡誌)。「長楽寺永禄日記」永禄八年(一五六五)正月二〇日条に上武士とみえる。寛永二年(一六二五)「新田郡武士村」内一八六石余が野々山新兵衛尉に、「武士郷」二〇〇石が加藤権右衛門に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では高二九〇石、畑方のみ、旗本野々山領。
        
                    拝 殿
『群馬県佐波郡誌 剛志村』
 村社 武士神社
 祭神菊理姫命 配祀神十柱 大字上武士に在り昔時元明天皇の御宇穂積親王御東征の際御駐輩ましましたる址に創建したもので白山神社と稱した元亀二年那波宗俊北條氏と戦ふや此の地に城を築き報賽奉幣して戦勝を祈りたりと明治十年村社に列し四十一年新に社を造營し諸神を合祀して武士神社と改稱した同四十五年神饌幣帛料供進神社に指定された
 創建は和銅年間(708715年)と云われ、祭神は菊理姫命。はじめは白山大明神と呼ばれ、村の広瀬川畔にあったという。その後元亀2年(1571 那波宗俊が小田原北条氏と戦うときに、同社に戦勝を祈願した。明治初年同社境内には御嶽・三峯・八幡・秋葉・水神宮が祭られている。明治41年(19083 白山大明神を今の地に移設して武士神社として、村内諸社を合祀したという。
 
       拝殿に掲げてある奉納額               本 殿
        
           本殿左側奥に祀られている庚申・石祠・石碑等
            左から庚申供養塔・石祠・猿田彦大神・石祠
          石碑(三笠山大神 御嶽山大神 八海山大神)・石祠
 
  本殿奥に祀られている石碑・石祠等          甲子大国神の並びに祀られている  
 御嶽・庚申・甲子大国神等が祭られている     庚申・弁財天・観音様・子大権現等
        
                   境内の一風景
『境町の民俗HP 上武士村』によると、当地の集落中央武士神社周辺一帯を「四寺屋敷」と呼ばれ、神社をこの地に移す前まで四つの寺庵があったといわれている。行人塚もここにあるといわれているが所在を確認できてはいない。この地に武士神社が移転したのは明治四一年で、境内に御嶽教の記念碑数基があり、下武士地域と共に御嶽教信仰は盛んな地域であるという。


参考資料「群馬県佐波郡誌」「境町の民俗日本歴史地名大系」「境町の史跡と景観 写真集HP」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」等
  

拍手[0回]


境保泉勝山神社


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境保泉346
             
・ご祭神 速須佐之男命
             
・社 格 旧村社
             
・上野国神名帳 佐位郡 従四位穂積明神
 伊勢崎市保泉地域は、南千木町地域の南側にあり、広瀬川と粕川の両河川が合流する付近に位置する平坦な地である。途中までの経路は馬見塚町飯玉神社を参照。群馬県道142号綿貫篠塚線を1.5㎞程東行した先の丁字路を左折、その後広瀬川に架かる「豊東橋」を越える。周囲一面田畑風景の続く長閑な道路を北上すると、進行方向正面に境保泉勝山神社の社叢林が見えてくる。
        
                 
境保泉勝山神社正面
『日本歴史地名大系』 「保泉村」の解説
 粕川右岸、上武士村の西に位置し、平坦地。広瀬川が南方を東流。和銅年間(七〇八―七一五)穂積親王が東征のとき村に駐在したことにちなみ、穂積村と名付け、のちに改字したと伝える(佐波郡誌)。「松陰私語」に戦場として「穂積」「穂積原」とみえる。寛永二年(一六二五)「勢田郡穂積村」内一三石余が野々山新兵衛尉に与えられた(記録御用所本古文書)。
『群馬県佐波郡誌』
 村社 勝山神社
 祭神速須佐之男命 配祀神七柱 大字保泉に在り往昔元明天皇和銅年間、穂積親王當國統治の爲此の地に御駐在あらせられし時常に天照大神戔素男命の二神を尊崇すること厚きに依り鄕民謀りて其の址に祠宇を建設し勝山大明神と稱したのである本國帳に佐位從四位穂積明神とあるは即ち之てあらう明治十年村社に列した其の他の祭神は明治四十年合祀したものである。氏子百二十戸
『境町の民俗HP』保泉村の概要
 往昔穂積親王の統べ給う地とし、その陵墓ありというが明らかでない。天正年間穂積を保泉とし江戸時代松平、新見、杉山氏の三給地、村高三六二石余。
        
          一の鳥居を過ぎた先にある
唐金(からかね)の鳥居
 保泉地域には、「優れたものが二つあり、四九郎先生(鈴木広川)に唐金の鳥居」という唄が歌われていて、この「唐金の鳥居」が勝山神社の鳥居である。勝山神社の鳥居は、「唐金」つまり『銅』で出来ていて、江戸時代の中期1769(明和6)年5月、鋳物の産地野州佐野の鋳物師崎山五左衛門によって造られ、村の有志によって奉納されたという。
 
     参道の左側に一列に並ぶ石灯籠       石灯籠に並列し祭られている石祠四基
        
                    拝 殿
        
                 拝殿向拝部等の彫刻
    向拝部の奥には木製の由緒書きがある(但し薄すぎて読みとれない場所は○)
 村社 勝山神社
 當社ハ往昔元明天皇ノ御宇和銅年間大政官事一品穂積親王此ノ地二御駐○生マセシコトアリ親王常二○○大神竝素盞鳴命ノ二神ヲ尊信シテ守護神トナセリ御○○○○○ノ跡二社宇ヲ創建ス上野国神名帳二佐位郡○四位上穂積明神トアルハ即チ當社ナリ此ノ地○○○ト書キシモ後保泉ノ字ヲ用フルニ至レリ社名モ穂積明神○改メ現在ハ勝山神社ト称ス土民ノ崇敬厚クシテ祭○○ルナシ明治十年村社二列セラル明治四十年○○六日合祀ノ許可ヲ得テ字宮前二五六番二祭祀セル○○○○○八幡宮白山神社(以下解読不能)
元明天皇の御代の和銅年間(708715)、皇子の大政官事一品穂積親王が東征のときに当地に駐連し、皇子が常に尊崇していた天祖天照大御神と素盞鳴命を奉祀し、東征成就を祈願されたという。その跡に郷民が相談して社殿を造営し、二柱の大神を勝山大明神と崇め祭ったのが、当社の起源とされている。上野国神名帳に「従四位穂積明神」と記されるのが当社であるという。
 拝殿には弥勒寺音次郎の造営といわれ、格天井には江戸時代島村の南画家金井烏洲が描いた絵が飾られている。格天井は45面からなり、各面には花(椿・牡丹など)、鳥(孔雀・雀など)、動物(兎・虎など)、人物(中国故事の太公望など)が描かれていて、作品が描かれてから180年程たった今も、鮮やかな色彩が残されている。

金井烏洲は寛政8(1796)~安政4(1857)。現境島村の金井文八郎(華竹庵万古)の次男に生まれる。江戸時代後期の南宗画家。 烏洲は号で時敏、のちに泰、字は子修また林学、通称左仲太のちに彦兵衛と称した。来遊した春木南湖に就いて画を学び、江戸に出て谷文晁を師友とし、関東南画家の一人として名を成した。上野国白井双林寺、前橋龍海院などの大画面障壁画も製作した。一方学問を好み、詩文もした。
 菅井梅関、篠崎小竹らとも交流があった。嘉永6(1853)日光に避暑、その間に執筆した「無声詩話」の著者としても有名である。最晩年は生家呑山楼に書画三昧の生活を送った。
 安政4(1857)114日、62歳で没した。「赤壁夜遊図」は伊勢崎市重要文化財になっており、「金井烏洲と一族の墓」は群馬県指定史跡になっている。
        
 拝殿奥には張り出した部があり、左右それぞれ注連縄があり、本殿内に合祀されている社のように見える。この写真は拝殿奥左側に祀られている稲荷神社。
 また稲荷神社正面入口の右側には「木組み灯籠」と呼ばれる木製の灯籠が見える。通常灯籠は、石や鉄で作られているが、勝山神社の灯籠は木材を精巧に組合せて作った「木組み灯籠」で、現在12基が残っていて、その側面には見事な彫刻が施されている。この灯籠の作者は、下渕名の宮大工弥勒寺音次郎で、音次郎は彫技に優れ太田の冠稲荷社などの寺社彫刻を沢山手掛けているという。
*弥勒寺音次郎(17961869)は、赤城神社本殿(境平塚)、冠稲荷聖天宮(太田市細谷)などの彫刻を手がけ、息子の音八(18211887)は、父とともにこれらの造営に関わり、茨城県の笠間稲荷神社本殿の造営にも関与した。音次郎の墓は弟子が建立し、正面に法号「棟梁院立太柱宮居士」が刻まれる。その後ろに音八夫妻の墓があり、「霞松院梅翁彫聲居士」とある。
        
     本殿奥に祀られている石祠群。一番左側には天手長男大神が祭られている。
        
                 社の北側に建つ鳥居
  北側鳥居の近くには「金井烏洲天井絵」と書かれた案内標柱があったが撮影しなかった。

 庚申塔の建立は、江戸時代初期(寛永期以降)頃から日本国中で広く行われるようになったという。仏教では、庚申の本尊は青面金剛、神道では猿田彦神とされた。また、庚申塔は街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあったという。
 但し明治期になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて、街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進められた。この社のように残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転させられたりするケースも多い(写真左・右)。
 
   境内東側にも設置されている鳥居     東側鳥居の近くにある金毘羅大権現の石碑
        
                 境保泉勝山神社遠景


参考資料「群馬県佐波郡誌境町の民俗HP」日本歴史地名大系伊勢崎市HP
        「
ウィキペディア(Wikipedia)」「境内由緒案内板」等
    

拍手[0回]


千本木神社

 
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市南千木町22801
             
・ご祭神 五十猛命
             
・社 格 旧茂呂村下茂呂鎮守 旧村社
             
・例祭等 秋祭り(千本木龍頭神舞) 10月第2土日曜日
 伊勢崎市南千木町地域は境伊与久地域の西側にあり、広瀬川とその支流である粕川の合流地の逆デルタ上にある起伏の少ないなだらかな平坦な地である。それでも上流側である北から南への傾斜はあるようで、千本木神社が鎮座する地域北側端部は平均標高55m程であるが、南下するほどその標高は徐々に低くなり、南側境の保泉地域付近では47m程となる。
        
                  
千本木神社正面
 途中までの経路は美茂呂町飯福神社を参照。群馬県道295号境島村今泉線を南下し、伊勢崎市立茂呂小学校を過ぎた丁字路を左折、住宅が建ち並ぶ生活道路を500m程進むと右手に千本木神社が見えてくる。
 駐車場は無く、境内への乗り入れは禁止という看板があるので、正面にある鳥居のすぐ右手にある「南北千木町屋台囃子」の屋台庫の近くに駐車してから参拝を開始した。
        
                  広々とした境内
『日本歴史地名大系』 「茂呂村」の解説
 広瀬川左岸洪積台地と同右岸沖積低地に位置。北は今泉村、東は伊与久村・保泉村(現佐波郡境町)、南から西は佐位・那波郡界で、那波郡馬見塚(まみづか)村・山王道村。中世には淵名庄に属し、師・毛呂とも記された。享徳の乱当初の享徳四年(一四五五)三月二四日、岩松持国は師に陣を移し、足利成氏と連絡している(同年三月二六日「足利成氏書状写」正木文書)。同年閏四月八日、持国は北一揆の秋間氏が知行していた師郷を給付するよう成氏に申請し、承認されている(「岩松持国闕所注文写」正木文書)。また同一七年一〇月八日には広瀬川を挟んで毛呂島(もろじま)・綱取原(つなとりはら)の合戦が行われている(同年一〇月一五日「足利成氏感状写」秋田県立図書館蔵)。毛呂島は小字で残る。「松陰私語」によると、岩松家純が長楽寺(現新田郡尾島町)の松陰軒に預けようとした「新地之寺社」のなかに「淵名庄内師郷之上之目」とある。
        
                                        拝 殿
           
             正面鳥居付近に設置されている標柱(写真左・同右)
 正面鳥居付近に設置されている標柱によれば、
社のご祭神は五十猛命で、永禄三年(1560)に上杉謙信(この当時はまだ長尾景虎)が厩橋城(前橋城)攻めの折に、こちらに立ち寄り戦勝祈願をしたと伝えられているようだ。
        
           社殿の左側に祀られている境内社。詳細は不明。
 ご祭神である五十猛神(イタケルノミコト)は、日本神話に登場する神で、神祇は国津神。イザナギ・イザナミの子であるスサノオの子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメ(大屋津姫命、枛津姫命)は妹。また、イザナギ・イザナミの子大屋毘古神(禍津日神と同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされることもある。
 父である素戔嗚尊が追放された後、共に新羅に渡る。新羅には樹木の種を植えず、日本に持ち帰り、筑紫から大八洲(日本列島)の各地に播き、国土を豊かな森に変えたと伝えられていて、この功績から「有功の神(いさおしのかみ)」とも称されている。「五十猛」という名称から猛々しいイメージが強い神ではあるが、その神格は至って環境に優しい「林業」の神である。
また、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もある。
 五十猛命は、父である素戔嗚尊が体毛から作った杉や檜などの樹木の種を、妹神の大屋津姫命、抓津姫命と共に日本全国に植え広めたとされている。この神話は、日本列島の文明的・文化的な発展を象徴し、自然と共生する日本文化の根幹を体現していると考えられている。
        
           本殿左側に溶岩塚と共に祀られている石祠と灯籠
            その塚上に建つ「明治丗七八年戰役紀念碑」 
        
              本殿右側に祀られている石祠三基
 
  正面鳥居の右隣にある「南北千木町屋台囃子」の屋台庫(写真左)と案内板(同右)
 伊勢崎市指定重要無形民俗文化財
 南北千木町屋台囃子
 平成二十五年三月二十六日指定
 南北千木町の屋台囃子は、伊勢崎市域をはじめ、群馬県から埼玉県北部地域に広く分布する参手鼓(さんてこ)と呼ばれる演目を基本とする祭り囃子である。この屋台囃子は、旧茂呂村の下茂呂と呼ばれる地域の有志が伝承してきたもので、現在は南北千木町屋台囃子保存会を組織している。
 演奏道具は、附太鼓3、大胴1、鉦2、笛1で構成される。演目は、参手鼓、武州囃子、大間昇殿、昇殿、神田丸、籠丸、鎌倉の7曲を伝承している。
 参手鼓の演目では、古くから振付で撥(ばち)を回し、特に両手の撥を回すのは、茂呂地区では、南北千木町だけである。
 七月の茂呂地区納涼祭、八月のいせさきまつり、九月の飯福神社秋祭り、十月の千本木神社秋祭りで演じており、世良田八坂神社の祇園祭(太田市)にも参加し演奏している。
 屋台は嘉永四年(一八五一)に制作されたものを所有している。
 平成二十六年十月 伊勢崎市教育委員会                    案内板より引用
        
                                   境内の様子
 茂呂の各地区に伝わる屋台囃子は、旧茂呂村の各組ごとに伝承されてきたもので、正式に指定を受けているのは、「茂呂町一丁目屋台囃子」「茂呂町二丁目屋台囃子」「南北千木町屋台囃子」「美茂呂町屋台囃子」「茂呂南町屋台囃子」を総称して市指定重要無形民俗文化財となっている。
 参手鼓は古くから伝承されてきた曲で、武州囃子は一時伝承が途絶えたが、録音や長老からの聞き取りで再現し、現在に至っている。大間昇殿と昇殿は伝承が途絶えたため、山王町から伝授され、神田丸は山王町から伝授された美茂呂町から伝授を受けている。このほか鎌倉は平成6年に馬見塚中町から、籠丸は平成12年に前橋市駒形上町から伝授を受けたように、伝承も一旦途絶えると、再興するのにも時間と労力がかかるのだと痛切に感じた次第だ。



参考資料「
日本歴史地名大系」「伊勢崎市HP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等

拍手[0回]


金山町御嶽神社

 
        
            
・所在地 群馬県太田市金山町4044
            
・ご祭神 国之常立神 大巳貴神 少彦名神
            
・社 格 旧無格社
            
・例祭等 歳旦祭 春祭り 49日 秋祭り 109
                 
冬至星祭り 1222
 
金山城跡本丸に鎮座している社は新田神社だけではなく、御嶽神社・梅若稲荷神社も並列して三座祀られている。御嶽神社は、明治六年(1873)創建であるが、それ以前から石祠として鎮座していた様である。現在の社殿も規模が大きく立派で、旧県社の格式を持つ新田神社より風格を感じる社だ。
 金山は奈良時代には新田(にひた)山、または小新田(をにひた)山と呼ばれ、万葉集にも二首詠まれていて、平安時代から信仰の対象となっていたようだ。
 この「金山」という名称は、古くからこの山に金属や鉱物に関わる信仰があったことを示唆され、山岳信仰や金属神の信仰が根底にあったと考えられる。現に、金山の北東部、菅ノ沢遺跡で須恵器窯跡13基、鉄製炉(タタラ)3基とそれに関連する炭窯や工房跡、および7世紀中頃の古墳3基が見つかっている。山岳信仰である御嶽信仰はかなり前からあった可能性はあろう。
        
           新田神社と並列して祀られている
金山町御嶽神社
        
                    拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額            重厚な趣のある本殿
        
               拝殿前に設置されている案内板
 御嶽神社の由緒
 創立
 新田神社二代社掌青木庫次郎正績が、金山山頂の草むらにあった御嶽神社の銘がある石の祠(ほこら)と、太田市下田島の岩松新田家(県立太田フレックス高校)に祭られていた御嶽大神の社殿を請い受けて、太田市毛里田・東今泉・東金井・韮川・旧太田の信徒数百名と相計り、旧尾州(今の愛知県の西)の城主徳川従一位源慶勝公の援助に依り、明治六年九月本殿を建て同八年十一月 拝殿竣工、同十二年九月 無格社に列せられた。
 祭神
 国乃常立神(くにのとこたちのかみ)
 国の神格化である神・万物の生命活動の源の神
 神徳 国土安穩・出世成功・開運招福
 大己貴神(おおなむちのかみ)
 大国主命で大黒様、またの名を大穴年遅神・蓋原色許男神
 八千矛神・大物主命などともいう。それだけ多様な性格を持ち、霊的な力も強力。大変ハンサムで、野生的で、力強い神。六人もの有名な女神と結婚し、百八十一柱の神をつくった。
 神徳 縁結び・子授け・夫婦和合・五穀豊稷・商売繁盛
 少彦名神(すくなひこなのかみ)
 海の彼方の常世の国から光り輝いて来られた小人神
 一寸法師のルーツ、大国主命と組んで国造りの大事業を成し遂げ性格は明るくユーモラスで、豊かな技術と知線を兼ね備えた神。
 如何なる困難も克服した精神的に強い神
 神徳 医薬・酒・温泉・農業の神・病難を救って安産・育児の守護神
 祭日
 一月一日 歳旦祭
 四月九日 春祭り
 十月九日 秋祭り
 十二月二十二日 冬至星祭り(以下略)                    案内板より引用
 
           本殿左右に祀られている末社・石祠(写真左・右)
       金山町御嶽神社の左側に祀られている
梅若稲荷神社(写真左・右)
 梅若稲荷神社 由緒
 祭神 宇迦之御魂命(須佐之男神と神大市比売の子)
 本宮 京都 伏見稲荷大社
 創立 金山城と同時、本丸の東北隅に八幡宮と共に石の祠に祀られ、明治初年ここに創建された。
 その頃食用の菜と薬用に供された梅が散在し、その咲き方馥郁とした薫りにちなんで梅若稲荷と名付けられた。
 神徳 代表的な食物神で、五穀豊穣 産業興隆 商売繁盛 家内安全 芸能上達など願事は何でも可能。
                                       案内板より引用


参考資料「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
       

拍手[0回]


金山町新田神社


        
            
・所在地 群馬県太田市金山町4044
            ・ご祭神 新田義貞公
            
・社 格 旧県社
            ・例祭等 元旦祭 建国記念祭 211日 春季例大祭 48
                 秋季例大祭 112
 群馬県太田市金山町にある新田神社は、国指定史跡「金山城跡」を大手虎口から日ノ池を進んだ先の金山の山頂にある新田金山城の実城(本丸)跡に鎮座する社である。新田神社建立の最初の動きはそう古くはなく、明治時代初期の明治6年(1873年)5月、金山山頂の金山城本丸跡に、地元有志の出願により創建の許可が下り、明治8年(1875年)に社殿が創建されたという。
 ご祭神は『太平記』の時代に清和源氏の頭領として、足利尊氏と共に鎌倉幕府を倒した立役者の一人である武将である新田義貞公である。金山城を築城した岩松氏が新田氏の後裔一族であること、また新田義貞がこの地出身であることから、郷土の英雄として祀られた経緯がある。
 金山町新田神社自体が、金山城跡の一角に鎮座していることから、境内には社関連の石碑・案内板等は勿論であるが、金山城に関するものも多く設置されている。
 
  参道の手前に聳え立つ大ケヤキの御神木       金山の大ケヤキの案内板
 太田市指定天然記念物
 金山の大ケヤキ
 ・指定年月日 平成21520
 ・所 在 地 太田市金山町40132
 ケヤキは、落葉高木で東アジアの一部と日本に分布します。日本では本州・四国・九州に分布、暖地(だんち)では丘陵部〜山地、寒冷地では平地まで自生し、高さ2025mの大木となります。
 本樹木は金山山頂にある、樹高17m、目通り周6.79mの大ケヤキです。樹高はそれほど高くはありませんが、目通り周においては県内でも上位に位置し、枝張りも40mを超えます。
 金山山頂の金山城実城域にあり、推定樹齢800年ほどと伝えられる大木で、金山のシンボル的存在です。樹勢が良好で、まとまった幹を持っており樹形も大変趣があります。
 また神社の参道脇にあることから御神木と同様の扱いを受けていたと思われます。
 昭和初期までケヤキの大木は7本あったといわれていますが、現在は1本のみです。推定樹齢800年ほどであるとすれば、金山城の興亡を見てきた歴史の証人ともいえます。
 平成2431
日  太田市教育委員会                     案内板より引用
 
  金山の大ケヤキのすぐ先に石段があり、登り終えた正面に神明系の鳥居が建つ(写真左・右)
        
                    拝 殿
        
                    本 殿
 
     金山町新田神社・謹記               社の趣意書
 謹記
 一 ご祭神 贈正一位左近衛中将源朝臣新田義貞公
 二 ご由緒
 明治六年八月三日 栃木県知事鍋島幹神社創建を許可す
 同十三年四月八日 造営竣功

 昭和九年十二月九日 金城跡全域を文科省より名勝天然記念物として指定された。
 同五十四年五月八日 神社創建百周年記念式典が挙行され高松宮宣仁親王・喜久子妃殿下が参拝された。
 これまでに大正天皇・昭和天皇・秩父宮殿下・高松宮殿下・三笠宮殿下のご参拝を戴いて居ります。

 三 例祭
 一 月 一日 元旦祭 
 二 月十一日 建国記念祭 
 四 月 八日 春季例大祭
 十二月 二日 秋季例大祭
 初志貫徹を祈願して参拝する方が多い(以下略)                案内板より引用 
 
  境内に設置されている金山城主系図     系図の右側にある「史跡 金山城址」の標柱
 
 ご皇室の方々が腰掛けた石が展示されている。   腰掛石の右側にある社の由緒碑等
        
                金山城 天主曲輪の案内板
 天主曲輪
 本城最高位の郭で、戦前、本丸と言われたところである。
 西北の角には、金山城最大の石垣が使用されており、角矢倉形式の大建造物があった。この郭は、金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神である八幡宮が祭られていた。このため、水ノ手郭の貯水池は、「神水」と呼ばれていた。
 廃城後は、新田義貞を祀る新田祠と言う小さな石宮があった。
 構造上の特徴としては、東北の角を削って「ひづみ」を作り、「鬼門除」がある。
 昭和五十五年三月(以下略)                         案内板より引用
        
                   境内の様子
        
           参道を戻るように進むと見えてくる一の鳥居



参考資料「太田市HP「太田観光物産協会HP「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

拍手[0回]