古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

倉賀野神社(1)

 倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する古来より交通の要地である。この倉賀野という地名由来は、「穀倉地帯・物流拠点としての性格を反映した地名」という説明が現在もっとも一般的のようだが、学術的には「有力説の一つ」とみなすのが妥当という。
 歴史を辿ると、『吾妻鏡』にその名が見える「武蔵七党」の支流である「藤原姓児玉党倉賀野氏」が,鎌倉時代に移住し、当地に城砦を構え、在地名を苗字としたのがその起源とされている。
『埼玉苗字辞典』
武蔵七党系図「有三郎別当大夫経行(平児玉)―秩父平四郎行高―倉賀野三郎高俊―太郎兵衛尉秀行―太郎左衛門尉行澄―行泰(弟三郎左衛門尉光行、後閑三郎政行)―平太左衛門尉頼行(弟三郎俊行)。高俊の弟四郎高義―八郎公行」
 この倉賀野三郎高俊が倉賀野氏の祖と比定され、14世紀末(南北朝期)にその子孫が倉賀野城を築城し、以後、倉賀野氏は同城を本拠として室町時代、戦国時代を生き抜くことになる。戦国期には城主の倉賀野行政が関東管領の上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546)の河越夜戦で戦死した。その後、上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びたため、倉賀野城は倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡、福田加賀守、富田伊勢守、須田大隈守、田沼庄衛門をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。
 永禄4年(1561)に甲斐国の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田氏に与するなど内部分裂もあり、永禄8年(1565)に落城、倉賀野尚行も上杉謙信を頼って越後に逃れる。
 その後、元亀元年(1570)、武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗る。天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、倉賀野秀景は滝川一益に従ったが、本能寺の変の後は北条氏直に仕え、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐において、秀景は後北条氏武将として小田原城に籠城し、結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。
 当社は、建長5年(1253)武蔵七党の児玉党の余流、倉賀野三郎高俊が社殿を造営。倉賀野氏の氏神としてこの地に修復・造営が重ねられ、江戸時代は近隣七ケ郷の総鎮守となる。旧社名は飯玉大明神。明治10年(1877)に大國魂神社と改称し、明治43年(1910)に近隣神社合祀を経て倉賀野神社となる。
        
             
・所在地 群馬県高崎市倉賀野町1263
             ・ご祭神 大國魂大神
             
・社 格 旧上中居・下中居・下之城等十二か郷総鎮守
             ・例祭等 春季例大祭 4月19日 秋季例大祭 10月19日 他
 かつての「中山道倉賀野宿」であった付近を東西に通る群馬県道121号和田多中倉賀野線を西行し、「上町」交差点の先にある丁字路を左折し暫く南行すると、進行方向右手に倉賀野神社の正面鳥居が見えてくる。因みに旧中山道から曲がる路地には「鎮守倉賀野神社」の社号標柱も建っているので目印として分かりやすい。
        
                 倉賀野神社正面鳥居
 高崎市南部、旧中山道の倉賀野宿であった地域に位置している。地図を確認すると、社の北側には東西に旧中山道が走り、西側には古墳群があり、南側には倉賀野中学校や倉賀野城跡があり、その先に烏川が東流している。
 倉賀野一帯は古く「宮原の庄」と呼ばれたが、大国魂社(飯玉社)鎮座の地の意であるという。またこの地は古くから開発が進んだ地域であったようで、この地は一大古墳地帯で、昭和十年の古墳調査によれば、後述の浅間山・大鶴卷・小鶴卷等の大前方後円墳を含む大小二〇七基もの古墳が、わずか一平方キロの内に密集しているのである。相当古くから政治権力が存し、開発が進められたであろうことは想像できよう。
『慶応四年文書』によれば、江戸時代には「飯玉社」と呼ばれ、近郷きっての名社であり、江戸時代を通じて、上中居・下中居・下之城・矢中・中里・栗崎・台新田・佐野・下和田・和田多中・上大類及び倉賀野の計十二か郷の総鎮守であったという。
 
  正面鳥居のすぐ左手には「常夜灯、王垣と倉賀野宿」の案内板と、市指定文化財である
        「
倉賀野神社本殿」の標柱が設置されている(写真左・右)
 常夜灯、王垣と倉賀野宿
 中町下町境にある太鼓橋は享和二年(一八〇二)宿内の旅籠屋、飯盛女たちが二百両も出し合って石橋にかけ替えたものである。
 その飯盛女たちの信仰を集めたのが横町の三光寺稲荷(=冠稲荷)であるが、社寺廃合令により明治四十二年(一九〇八)倉賀野神社に合併された。
 社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られて行き常夜灯と玉垣は、倉賀野神社と養報寺に移されて残っている。
 天保時(一八三〇~一八四三)倉賀野宿は旅籠屋が三十二軒もあり、高崎宿の十五軒を上回るにぎわいを見せていた。
 本社前の常夜灯は文久三年(一八六三)「三国屋つね」が寄進したもの、玉垣にも「金沢屋内りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やず、ふじ」「新屋奈美」など数多く刻まれている。
また元紺屋町の「糀屋藤治郎」田町の「桐屋三右衛門」ほか高崎宿の名ある商家、職人も見える。
 倉賀野河岸と共に宿場の繁栄を支えてきた旅籠屋、飯盛女たちの深い信仰とやるせない哀歓を物語る貴重な石造文化財である。
(狂歌)「乗りこころよさそふにこそ見ゆるなれ馬のくらがのしゅくのめしもり」
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十返舎一九-                                案内板より引用 
        
           古い歴史を感じさせてくれる雰囲気が漂う境内
 現在の本殿は元治元年(一八六四)に、拝殿は明治八年(一八七五)に再建されたものだが、建築の細部にわたる彫刻は美事なものである。境内には多くの境内末社の外、明治の神社合併により、横町の冠稲荷、南町の白山社、田子屋の八坂社、田屋町の大杉社等の諸社が合祠されている。また境内南西隅にある北向道祖神は文化二年(一八〇五)の建立で、現在でも香煙絶えることなく尊信を集めている。明治の合併以後同社を倉賀野神社と改称された。
        
                  趣のある手水舎
        
           一の鳥居を過ぎて参道左側脇にある「
神饌田」
 日本国はかつて「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」と称され、お米は古来より、日本人にとって大切な穀物であり、『日本書紀』の天孫降臨の場面で、三大神勅の一つである「斎庭〈ゆにわ〉の稲穂の神勅」にも記されている。この神勅は、天照大御神が高天原で召されている神聖な田の稲穂を我が御子に与えようという内容で、稲作と神道に深いつながりあることを伝えている。
 神饌田(しんせんでん)とは、「神田」「宮田」「御供田」ともいい、神に属し祭祀に供せられる稲を作る田の事。当社では、6月下旬に御田植祭、10月中旬に抜穂祭(ぬいぼさい)が行われている。
        
                    拝 殿
 
拝殿上部にある飯玉大明神・倉賀野神社の扁額  扁額の左側には由緒等記された奉納板あり
                   
                     拝殿前に設置されている「飯玉縁起」の案内板
 飯玉縁起
 光仁天皇(七七一-七八〇)の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれ帝から目代の職をたまわるようになった。ところが兄たちは八郎を夜討にして、鳥琢池の岩屋に押しこめた。
 三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
 やがて、小幡権守宗岡が海津姫が贄番に当たる年、十六歳の海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。頭を振り尾をたたく大蛇にむかい、一心に観世音菩薩の称名、琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。烏川の辺りへ移り、「我が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。これが「飯玉縁起」のあらすじである。
 この話は、十四世紀半ばに編さんされた神仏習合を説く縁起物語集『神道集』巻八所載「上野国那波八郎大明神事」によく似通っているので有名である。「飯玉縁起」一巻は、江戸時代初期の寛文十二年(一六七二)すでに存在していたとされる伝来の社宝であり、唱導文芸『神道集』の研究にとっても欠かせない貴重な資料である。
 そして、今でも拝殿正面の向拝に、宗光が琴をかなでる彫刻が、見られるのは興味深い。社殿の彫刻が、祀る神の伝承縁起を物語っているということ自体が、全く珍しいからである。-(彫師は北村喜代松・石川兼次郎)-
 なお、この「飯玉縁起」は「神道大系」(神社篇二十五)に収載されている。
                                       案内板より引用


(2)に続く。


参考資料「
群馬県近世寺社総合調査報告書-歴史的建造物を中心に-神社編HP」
    「
群馬県歴史の道調査報告書11:中山道HP」「橿原神宮HP」「倉賀野神社HP」
    
「埼玉苗字辞典」「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等

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井戸八幡宮

 倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する交通の要地で、倉賀野城は烏川左岸の河岸段丘上に立地する東西800㍍・南北400㍍を城域としていた。
 この城は、武州児玉党の秩父平四郎行高の男、三郎高俊に始まる。治承.文治の頃(1180年代)この地に居館を構えた高俊は、倉賀野氏を称した。高俊から三代の孫太郎行泰の時(一五世紀初頭)烏川の涯端に新城が築かれ、以後旗本一六騎に盛り立てられて戦国乱世を生き抜いて来た。その間、関東管領山内上杉氏•箕輪長野氏. 甲州武田氏•信長の重臣滝川一益•小田原北条氏等に属し、わずか三千石足らずの小城を支えてきたが、天正18年(1590年)小田原北条氏滅亡と運命を共にし廃城となった。典型的な戦国の城としてその役目を全うしたと言える。現在は城跡の面影は全くなく一面の住宅地であり、わずかに、旧城本丸跡南側が、町内の歴史愛好家グループ(雁会と称す)の手により城址公園として整備されているという。
 井戸八幡宮は、倉賀野城三の郭跡の古井戸から、一夜にして水が噴き出し八幡大神が現れたのを起源と伝えられている。
        
             
・所在地 群馬県高崎市倉賀野町1437
             
・ご祭神 八幡大神
             ・社 格 不明
             
・例祭等 例祭 8月23日 
 倉賀野諏訪神社から一旦南下し、群馬県道121号和田多中倉賀野線に戻り、同県道を西行する。その後「倉賀野駅入口」交差点の手前の丁字路を左折し南下、烏川の土手に達する手前の路地を右に曲がると、正面に「井戸八幡宮の縁の井戸」と呼ばれる覆屋、その先に井戸八幡宮の鳥居が見えてくる。

         参道右脇には覆屋が建ち、中には神輿が安置されていて(写真左)
             その案内板も設置されている(同右)
 
 井戸八幡宮縁の井戸と大神輿
 覆堂の中にある井戸が、正面に建つ八幡宮の俗称「井戸八幡宮縁の井戸」です。
 八幡宮は、倉賀野城三の郭跡の古井戸から、一夜にして水が噴き出し八幡大神が現れたのを起源と伝えられます。創建は正保三年(一六四六)で、代々の高崎藩主が篤く崇敬し、宮元である田屋町の住民が誇りを持って守ってきました。
 現在井戸枠の上には江戸中期頃に造られた立派な神輿が安置されています。この神興は特別の祝祭時に出御する宮神興で、平成十七年九月、倉賀野神社造営七五〇年大祭の時に社殿前に出御されました。
 その際は、倉賀野神社の「天明神興」(制作年の天明に因んで呼ばれる)の渡御を迎え、天明神興と共に並んで安置されました。
                                       案内板より引用
        
                   井戸八幡宮正面
 井戸八幡宮は、古く倉賀野氏の守護神、八幡大神を城内三ノ丸に祠ったことに始まるらしい。天正18年(1590)、小田原北条氏滅亡と共に倉賀野城が廃されると、対岸の木部の住人田口石見守(木部十騎の内)がこの地に移り住み、手蹟・剣術指南を業としていた。正保3年(1646)田口氏持ちの畑の辺の古井戸から八幡神像が出現、高崎城主安藤対馬守の尊信を得て社殿が建立され「井戸八幡」と称した。発見者田口氏は神主に任ぜられた、と伝説は言う。
 明治の神社合併からものがれ、田口氏一族はじめ田屋町の氏子により尊崇維持されてきた社。
 
    鳥居の左側に建つ田屋集会所      境内に設置されいる八幡神社 修復記念碑
        
                    拝 殿
 八幡神社 修復記念碑
 御由緒
 正保三丙戌年(一六四六) 田口長右衛門辰政ト云フ者アリ在ル夜夢二霊鳩一番現レ其ノ告グル侭二 辰政行キテ見レバ 三月二十三日 倉賀野城三ノ郭跡二 1夜ニシテ井現 冷水ノミナギリテ光放ツ中二 八幡大神降現シ給フ 神変ノ程言葉二尽クシ難シ 里人井戸八幡ト尊信ス
 時ノ地頭高崎城主安藤右京進藤原重長へ訴へシカバ 信仰ノ余リ古城二ノ廓ヲ転ジテ新タニ社地トシ社殿ヲ健立 辰政ヲ以テ奉仕神主トス 後ノ高崎城主松平右京亮 祈願有リテ連月代参為ラレ在リ 崇敬限リ無カリシト
 又一書二云フ 倉賀野三河守 鶴岡八幡大神ヲ勧請
 寛政元年(一七八九)社殿再建  安政六年(一八五九)社殿再建
 神輿 享和元酉年(一八〇一)八月二十三日御願済三町ヲ始メテ練ル
 明治四十年(一九〇七)大杉神社ヲ合併
 祭日 八月二十三日
                                    修復記念碑文より引用

        
        拝殿に掲示されている神興や山車(舞台)、修復完成時の写真
       
                    本 殿 

  本殿奥に祀られている石祠・庚申塔ら    境内に聳え立つ高崎市指定保存樹木のイチョウ
        
           境内に設置されている「倉賀野河岸」の歌碑
 井戸八幡宮の前を更に50㍍ほど下ると『倉賀野河岸場跡』である。現在はきれいに護岸工事が施され往時を偲ぶよすがもないが、下流に架かる共栄橋下あたりから上流100㍍くらいが河岸場であり、川に沿って船問屋の蔵屋敷が立ち並んでいたのである。倉賀野河岸の歴史は古く、既に元和年間(一六一五-二三)には舟運 が通っていたらしい。
 寛文五年(一六六五)に正式に倉賀野河岸として開場、以後、明治十七年(一八八四)高崎線開通により閉場されるまで
220年の長きにわたって、利根舟運の最上流の大河岸として命脈を保ってきたのであり、倉賀野の発展は、同河岸と中山道の宿駅の機能と相俟って支えられたと言って過言ではないといえよう。



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「境内記念碑文」等

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倉賀野諏訪神社

 金井 秀景(かない ひでかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野国西部の武士団、倉賀野衆の一人である。金井淡路守とも称する。後に倉賀野城主となり、倉賀野淡路守秀景と名乗った。
 金井氏は新田氏一族に属する岩松氏の支流で、岩松時兼の三男・金井長義を祖とする。当初、倉賀野氏の当主・倉賀野行政麾下の倉賀野十六騎の一人として関東管領・上杉憲政に従った。天文15年(1546年)、行政が河越城の戦いで討死すると、他の十六騎と共に病弱であった行政の嫡男・倉賀野為広をよく助け、城を守る。
 天文16年(1547年)の小田井原の戦いでは、籤引きで先鋒に選ばれた為広の名代として上杉氏勢を率い、武田晴信と戦うが、大敗を喫した。その後、為広が死去。倉賀野尚行が跡を継いだ永禄2年(1559年)頃に、金井秀景は一転して武田氏方になり、武田信玄に仕える。永禄8年(1565年)、武田信玄により倉賀野城が落城。孤立した箕輪城も永禄9年(1566年)落城、箕輪城主・長野業盛は自刃し、倉賀野尚行が上杉謙信の許に逃亡した。
 元亀元年(1570年)、秀景が倉賀野城主となり倉賀野氏に改姓し、倉賀野秀景となる。
 天正10年(1582年)3月に織田信長の武田征伐で甲斐武田氏が滅亡した後は、織田氏の武将である滝川一益に伺候する。秀景はこの時武田豊信に出仕を促し、梶原政景を仲介するなど一益の補佐役に位置する立場にあった。 同年6月に本能寺の変で信長が死去し、その後の神流川の戦いでも北条氏直率いる軍勢と戦い奮戦するが、敗れた一益が関東から撤退すると、和田信業らと共に後北条氏の軍門に降る。この時、秀景は一益との別れを惜しみ、真田昌幸らと木曾まで一益を警固している。
 天正18年(1590年)の小田原征伐では北条氏方武将として小田原城に籠城し、早川口の守備についた。小田原城は同年7月5日に落城。秀景は7月27日に没した。死因は不明。
        
             
・所在地 群馬県高崎市倉賀野町1967
             ・ご祭神 建御名方神
             ・社 格 不明
             ・例祭等 例祭 8月26日
 JR八高線北藤岡駅の北側を通る国道17号線に一旦合流し、北西方向(旧倉賀野町方面)に向かう。烏川を越えた「金属工業団地」交差点を左折、かつての日光例幣使街道である群馬県道136号綿貫倉賀野停車場線を西行し、旧倉賀野町市街地に入る。
 その後、1㎞程進んだ「下町」交差点を右折し、道なりに250m程北行すると、閑静な住宅街の中にひっそりと倉賀野諏訪神社は鎮座している。
 社の東側には「下町公民館」が隣接しており、そこの一角の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                  倉賀野諏訪神社入り口
「下町」交差点は、かつて倉賀野宿の東端にあたり、日光例幣使街道と中山道が交わる二つの街道の分岐点、つまり『追分』があり、ここには「是従右江戸道、左日光道」の立派な道標と文化11年(1814)、五料の高砂屋文之助の発願で建てられた大常夜燈がある。この道標. 常夜燈は共に高崎市の文化財に指定されている。
 また、その三角地には「閻魔堂」が建っている。このお堂は内九品寺持ちで、古絵図では「弥陀堂」等と記していて、堂内には阿弥陀仏と閻魔大王を安置されている。八月十六日(盆の十六日)「仁王様」の縁日には善男善女で賑わったそうだ。
        
                  倉賀野諏訪神社正面
 倉賀野は干害に苦しんだ土地であった。高崎との地境粕沢の堰から長野堰用水を引いて灌漑用水としていたが、不足気味であったらしく、水争いの記録が多く伝えられている。
 諏訪神社の東前にある池は古池(今は整地されているようだ)と呼ばれ、倉賀野駅の北東にある新池と並んで貴重な灌漑用溜池であった。古池の造成は近世初頭(一六世紀末か)、新池は天明六(一七八六)年である。両池共今は養鯉に利用されているとの事だ。
  
  鳥居付近に設置されている社の案内板     鳥居右横にある「皇太子殿下行啓記念碑」
        
                    拝 殿
 諏訪神社
 この社は、倉賀野城主金井淡路守が、永禄年間(一五五八〜六九)に信州の諏訪湖畔に建つ諏訪大社から勧請し建立したと言われています。
 ご祭神の建御名方神は、五穀豊饒、開運長寿、風水害除けに御神徳があると信仰されています。八月二十六日の例祭で参詣者に授けられる「茅のカマ」は、全国にあるお諏訪さまでも珍しい「風除け」のお守りです。
 境内社の池鯉鮒(知立)神社は、嘉祥三年(八五〇)慈覚大師(円仁)が旅の途中蝮に噛まれたので知立神社に平癒を祈願したところ、痛みも去り腫れも引いたといいます。この御神徳を敬って、三河国(愛知県)
より池鯉鮒大明神を勧請して祀った石宮です。そのため、「蝮よけ、長虫よけ」の神様として信仰され、参拝することで山野を歩いていても蝮蛇に噛まれないと言われています。
                                       案内板より引用
        
              拝殿の左側には立派な土俵がある。
      8月26日の例祭に、境内で子供の草相撲が奉納されることがあるという。
        
             社殿の奥に境内社・石祠群が祀られている。
 左側には八坂神社、その右隣の石祠群の中右端に池鯉鮒(ちりゅう/知立)神社が祀られている。
 知立神社(ちりゅうじんじゃ/ちりふじんじゃ)は、愛知県知立市西町にある神社で、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では参河国碧海郡に「知立神社」と記載され、式内社に列していて、旧社格は県社。旧称は「池鯉鮒大明神」で、江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられた由緒ある社である。
 社伝では、第12代景行天皇の時に東国平定に赴いた日本武尊が当地で戦勝を祈願し、平定後の帰途に感謝して建国祖神の上記4柱を祀ったのが創建という。
 一方、江戸時代まで当社を氏神として祀っていた永見氏一族の『永見氏家譜』によれば、その出自について饒速日尊後裔で知波屋見命(知波夜命:初代三河国造)十五世孫の三河連貞連が、白鳳2年に天武天皇の勅命により知立神主になったとしている。
 江戸時代に入り、寛文年間(1661-1672)には松平忠房から社領として10石が追加寄進された。江戸時代には主に「池鯉鮒大明神」として知られ、「東海道三社」の1つにも挙げられ、近隣20数か村の産土神として、また蝮除け・長虫除け・雨乞・安産の神として信仰された。特に神札を身につければ蝮蛇に咬まれないとされ、北関東から山陰地方に至る各地に分社が建てられたという。
        
           コンパクトにうまく纏まって配置されている社



参考資料「群馬県歴史の道調査報告書11:中山道」「ニッポン城めぐりHP」「ウィキペディア」
    「境内案内板」等

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森飯玉神社


        
             
・所在地 群馬県藤岡市森139-1
             
・ご祭神 倉稲神 菅原道真公 素戔嗚命 大穴牟遅命 
                  
建御名方命 大日孁命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春季例大祭(獅子舞奉納) 3月15日に近い日曜日
 国道17号線「立石北」交差点を左折し、「第二拾弐踏切」を越え、更に250m程南西方向に進むと、進行方向左手に森飯玉神社の境内に入る事が出来る細い路地があり、そこから社の境内に入る。この場所は境内裏手にあたり、社は丁度背を向けたような配置になっている。境内の反対側である南側には鳥居と社号標柱、そしてその鳥居の先の敷地内には「森公会堂」もある。群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線沿いに鎮座し、「森」という地域名に反して、社の周囲は閑静な住宅街に囲まれている。
        
                  
森飯玉神社正面
       境内は綺麗に整備されていて、社殿も新しい。鳥居の左に見えるのが森公会堂。
『日本歴史地名大系』 「森村」の解説
 立石(たついし)村の西、南は中栗須(なかくりす)村、西は中村に接する。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎が上州で給された地に「五拾貫文 森之内中村郷」があり、同六年に武田信玄との申合せによって「森郷内小林右馬允分」は安保氏に与えられている(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。
 寛文郷帳では幕府領、田方一八四石八斗余・畑方五二四石八斗余、元禄郷帳では前橋藩領。後期の御改革組合村高帳では幕府領と旗本水上領の二給、家数五八。中山道新町宿(現多野郡新町)の助郷高七一一石を勤め(享保九年「新町宿助郷帳」田口文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御用物御継立場に人足三四人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)。
        
                 境内東側にある神興庫
 森地域には、約270年以上の歴史がある「森の獅子舞」が当社の春季例大祭にて奉納されている。「ぐんま地域文化マップHP」によると、この森の獅子舞は、江戸時代中期の1712年3月15日(正徳2年)、当時森村神宮であった塚越大和守正屋は、稲の精霊とされる穀物の神様である「倉稲魂命」を祭神とする神社の建立を時の中御門天皇に申し出て裁許状を下賜され、塚越家の所有地である森村飯玉久保にお宮を安置し、飯玉大明神と命名した。大明神の神前には村民が五穀豊穣と無病息災を祈願する姿が絶えなかったそうである。
 1750年4月、隣村の神明宮の春祭りで神楽や獅子舞を見るにつけ、森村も獅子頭を購入して大明神に奉納しようと気運が高まり、村民が出し合った金子を元に、村役が内山峠を越えて信州佐久から獅子頭を購入し、舞形や笛は和紙に認めていただき、近隣師匠の応援を得て1751年3月15日の大明神の春祭りで獅子舞を奉納したのが始まりである。以来、舞い手はその家の跡継ぎとし、笛吹は各家庭から1名が参加して現代まで伝承され、江戸時代から明治、大正、昭和と受継がれ、本年で265年の歴史を刻むそうだ。
 流派は「稲荷流」で、カンカチ1人、前獅子(雄)1人、中獅子(雌)1人、後獅子(雄)1人の4人構成で舞を行う。舞は全部で27舞あり、獅子頭は当初の物と平成19年に新調した物と2組ある。 全て漆塗りで髪の毛は馬の毛である。
 昭和12年から昭和21年まで時の大戦により休止となっていたが、 昭和22年、獅子舞の経験者である針谷弁三氏を師匠として青年団を中心に復活、昭和50年からは、森子供育成会の協力を得て、従来の仕来りを排除して希望する子供達全てに舞や笛を伝授しているとの事だ。
        
                    拝 殿
 飯玉神社改築記念碑
 所在地 藤岡市森字飯玉久保一三九番地の一
 祭 神 倉稲神 菅原道真公 素戔嗚命 大穴牟遅命 建御名方命 大日孁命
 神道は天地悠久の大道であって崇高なる精神を培い太平を開く基である
 当社に明和二年八月 京都神祇管領卜部家より認可を得て 村社正一位飯玉大明神と号したに創まる 星霜は移ろい明治四十二年十二月 政府の合祀政策により 村社飯玉神社の境内末社三社の他に森郷内に鎮座された無格社茂木神社の祭神二社 同郷無格社神明宮一社を合祀し 〇〇〇〇あるものは合霊の上 六柱を以て現飯玉神社の祭神とした
 由緒に 中御門天皇の御宇正徳三年三月 時に塚越大和守藤原正屋が正一位飯玉大明神を奉祭し 裁許状を下賜されたことに遡る 正屋の義父塚越正重は神位を尊重し 桃園天皇の御宇寛延二年十二月産子と相計り新宮を造営した
 爾来 孝明天皇御宇文久三年十月に本殿 幣殿 拝殿を改築し 大正六年に到り氏子五十八戸 崇敬者十三人の寄進を得て社殿の補修整備を行い 今日まで護持されてきた
 今般 社殿の老朽するに当たり 氏子崇敬者はここに真意を披瀝し神殿の造営と神域の整美を行い 神の恵みと祖先の恩とに感謝を捧げ国家の隆昌と郷土の繁栄と世界の平和とを祈念するものである ここに永久の記念と刻す。(以下略)
                                      記念碑文より引用

 
  境内に設置された飯玉神社改築記念碑            本 殿
        
                           本殿奥に祀られている石祠三基
              
                        社叢林も境内東側に広がり、住宅街に鎮座し
            ながらも落ち着いた雰囲気も醸し出している。
        
              境内北側の道路沿いにある庚申塔等


参考資料「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」「地域文化資産ポータルHP」
    「境内記念碑文」等

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立石琴平神社


        
            
・所在地 群馬県藤岡市立石1400
            
・ご祭神 大物主神
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 春季例大祭 4月29日 秋季例大祭 11月3日 
                 越年祭 
12月31日 他
 立石新田伊勢島神社の南側を国道17号線が通っており、一旦国道に合流し、「北藤岡駅」方向に進行、「立石」交差点を左折し、路地を南へ入り高崎線の踏切を渡り、道幅の狭い農道のごとき道を道なりに南下、その後右方向進むと、立石地域の集落の中に立石琴平神社は鎮座している。昔懐かしい地域の鎮守様のような雰囲気を醸し出している社。なお、
社の北側に専用駐車場あり。
        
                 
立石琴平神社正面
『日本歴史地名大系』「立石村」の解説
 北境を烏(からす)川が東流、東境を温井(ぬくい)川が北流し、北部を中山道が東西に抜ける。古くは立石・和泉の二村であったといい、村名は「立石様」と称する自然石にちなむともいわれる。永禄六年(一五六三)に武田信玄との申合せによって安保氏に与えられた地に「立石村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。同年閏一二月一四日の某禁制(写、飯島文書)で、木部(現高崎市)在城衆および番手衆の「泉・立石両郡」での乱妨・竹木伐採を禁じている。
 
    鳥居の先で左側にある手水舎              手水舎の並びに祀られている道祖神
        
                 参道右側にある神楽殿
     
1月10日・4月29日・12月31日の年3回「立石神社太々神楽」を奉納している。
 この立石神社太々神楽は、400年程の歴史を誇る伝統芸能で、日本神話に基づき奉納される古式豊かな神楽で「大和舞太々里神楽」と称し、天正9年(1581)10月に立石神社の源惣兵衛と松本連が上京し、京都の神祗宮領長(吉田殿)より裁許状を得て、伊勢より勧請して始められたといわれ、舞は36座伝わる。
 
  神楽殿と拝殿の間にポツンとある「立石様」といわれる石とその案内板(写真左・右)
「立石様」の伝説
 江戸時代の始め頃、立石あたりは前橋藩の酒井雅楽頭(うたのかみ)の領地でありました。北に烏川が流れている立石には、江戸時代の主要な街道である中山道が通っていました。
 三角道の道端の大きな杉の木の下に「立石様」という石がありました。「立石様」は濃い緑色をした高さ1メートルほどの細長い自然石で、不思議な霊験がある石ということで、石神様として祀られていました。
「立石様」の評判をきいた雅楽頭は、きれいなこの石を欲しくなり前橋の城へ運ぼうとしました。重さ200貫(750キログラム)ほどの石ですが、やっとのことで船に乗せました。城の影が映る利根川の深い淵にまで来ると、船がぐらりと傾いて、ひっくりかえりそうになりました。「これは「立石様」が城に行くのを嫌がっているのに違いない。無理して動かすと船が沈んでしまう」と人々は恐ろしくなりました。
 雅楽頭は、せっかく城の近くまで来たのに残念だと怒って、長槍で石の背中部分を2回続けて突きましたが硬くて刃が立ちません。仕方なく、元の位置に戻すことにしました。
 帰りには嘘のように船が軽くなり、容易に元の場所に戻すことができました。立石様は立石の土地を守る神様なので、やたらに他所に動かしてはいけないのだと人々に思われました。
 永らく「立石様」は立石地内の個人宅に置かれていましたが、令和6年10月5日にこの地に移設しました。
                                       案内板より引用

 案内板に登場する「酒井雅楽頭」は、徳川家の祖父方である松平家と同祖とされる酒井広親(ひろちか)の次男とされる酒井家忠からの家系で、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれていた。
 酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとりで、永禄4年(1561)もしくは永禄5年(1562)に家康の三河支配の過程で三河西尾城主に取り立てられた。
 慶長6年(1601)、その子酒井重忠は当時の厩橋城に3万石で入封してから9代150年にわたり前橋を治め、前橋の町割りの基礎を築き上げたという。
        
                    拝 殿
 烏川・神流川・鏑川に囲まれた藤岡市の北東部に位置する神社。安土桃山時代の天正9年(1581)創建といわれ、村の五穀豊穣、村民の無病息災、厄除け、家内安全を祈願する村社として存在している。後年、立石琴平神社(立石金毘羅神社)と合祀され現在に至る。古くは「金毘羅さん」の愛称で村人から親しまれていた。
        
            拝殿中央上部に掲げてある扁額と奉納額
 皆野町国神神社の項でも説明しているが、金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と称し、明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」として親しまれている。
 この金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があるが、金刀比羅宮は自身の由緒で大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとしている。大宝年間に修験道の役小角が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡の雲気神社が金刀比羅宮という記述がある。
 
   中央の扁額等の左側にある奉納額(写真左)、右側には絵馬(同右)も掲げてある。

 大物主神(おおものぬしのかみ、大物主大神)は、日本神話に登場する神で、『記紀神話』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。
 ところで、大物主神の由緒は不明瞭であり、他の神と同定すべきか否かについて古来見解が分かれてきた。『古事記』においては出自について詳しい説明が無く、大国主命とは別の神である様に述べられている。
 一方『日本書紀』では先述の大己貴神の別名とする説、大己貴神の幸魂奇魂とする説と、別個の国津神とする説が併記されている。 例えば異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、事代主神と並び大物主が明記されている。
 明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされている。
        
             社殿左側に祀られている八幡宮天満宮
             
           境内南側の道路沿いに聳えたつイチョウのご神木 


参考資料「日本歴史地名大系」「ぐんま地域文化マップHP」「ウィキペディア(Wikipedia)」
    「境内案内板」等
 

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