古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境萩原諏訪神社


        
           
・所在地 群馬県伊勢崎市境萩原1784
           
・ご祭神 建御名方命
           
・例祭等 歳旦祭 初祭祀 17日 節分祭 23日 豊川稲荷祭 315
                
春季例祭 43日 夏祭り 8月第一土・日曜 秋季大祭 113
 境小此木菅原神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を東行する。広瀬川は現在川幅120130m程であるが、江戸時代当時は約40mで、「竹石の渡し」という渡し場があり、対岸には「相生の松」という大きな松があって、舟がその付近に向い渡ったと言う。残念ながら日光例幣使街道の渡し場の跡は、小さな案内板が建っているだけで残っていないのだが、この「竹石」という名はこの一帯の地域名である「武士」の当て字と言われていて、この「武士」は「たけし」と読む。
 広瀬川に架かる「武士橋」を渡り、更に東行し旧境町市街地方向に進む。県道142号線と群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が交わる「境萩原」三叉路を左折し、北西方向に進んだすぐ先で、進行方向左側に境萩原諏訪神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する境萩原諏訪神社
    境内は南北に長く、幅は狭い。よく確認するとこの社は北向き社殿となっている。

 ここのところ群馬県道142号綿貫篠塚線周辺の社を散策していると、嘗て「日光例幣使道」と呼ばれていた街道と、上記県道の多くが重なっていて、周辺には現在でも往時を偲ばせる名所や旧跡が残されている。社が鎮座する伊勢崎市境萩原地域も同様である。
        
                    規模は小さいながらもコンパクトに纏まった社     
 何度も繰り返しとなって恐縮ではあるが、改めて「日光例幣使道」を説明すると、「例幣使」とは、朝廷がつかわした、伊勢神宮の神前に捧げ物をもっていく使者のことである。江戸時代朝廷は、徳川家康の法要のため日光東照宮にも同じように勅使を派遣した。恒例となったこの派遣のため、京から中山道を通り、倉賀野宿より日光に至るまでの道を整備した。復路は日光道から江戸に入り、東海道を使って帰京した。春の東照宮例祭に合わせ、勅使が通る道のことを「日光例幣使道」とよんだ。
 例幣使は京を41日に出発、当時の人は1日約10里は歩いたようで、15日に日光に到着した。日光では、翌16日に厳そかな雰囲気の中で奉幣の儀式を執り行ない、同日正午すぎにはもう日光を発ち、日光道を江戸へ入り、そこから東海道を使って帰京するのを通例とし、往復に約30日を要したといわれていて、1647年から1867年の221年間、一度も中断することがなかったという。
 
   境内に入ったすぐ左手隅にある「萩原諏訪神社の道標」(写真左)とその案内板(同右)
 萩原諏訪神社の道標
 この道標は刻まれている文面から、文久元年(一八六一)に建て直されたものです。
 元は下武士萩原と境の境界付近、現在の国道三五四号の分岐点に建てられていたものが、明治はじめに諏訪神社に移されました。丸い台石には、十二支と東西南北の方向が刻まれ、その上に台形の塔身が載っています。正面に「日光木崎太田道」、左面に「五料高さき道」、右面に「いせさき 満(ま)やむし道」(前橋)とあることから、元あった場所では、東側に向いていたと考えられます。
 この分岐点は、当時の交通の要衝であり、正面と左面は日光例幣使道を示し、右面は伊勢崎から前橋に通じる道を示していました。(以下略)                 案内板より引用
 境萩原諏訪神社は境宿西はずれに位置し、案内板によれば、境内には年代不明で文久元年(1861)に建て直された「道しるベ」があり、元は下武士萩原と境の境界付近、現在の国道354号の分岐点に建てられていたものが、明治はじめに諏訪神社に移されたという。また、例幣使の小休止場所は、この境宿では、境萩原諏訪神社の境内の他、すぐ東側にある「織間本陣」で小休止したという。
 
参道途中、左側に祀られている石祠群と大黒様等   参道右側には縁起に関する案内板あり
        
                    拝 殿
 拝殿の左側隣には「豊川社」の社号額のある鳥居、その奥には豊川稲荷社が鎮座している。
諏訪神社縁起
鎮座地 群馬県佐波郡境町大字萩原千七百八十四番地
祭 神 建御名方命
 事 一月一日   歳旦祭    四月三日     春季例祭
        一月七日   発祭祀        八月第一土・日曜 夏祭り
        二月三日  節分祭    十一月三日    秋季例祭
        三月十五日 豊川稲荷祭
 緒  祭神建御名方命は古事記に依るに大国主命の第二子にして出雲国を天照大神に立奉りた
        る後信濃国に降り、民を慈しみ良き政を為せるに依り近隣の諸民その徳を偲び五穀豊、
        
穣、家内安全、商売繁盛、開運招福の神とし諏訪大社にその霊を祀る。
     当社は天正年間(一五七三~一五九一)諏訪大社の分霊を奉遷し剛志村下武士に鎮祭せ
     
を天保九年(一八三八)萩原の有志相計り住民五十余戸の賛助を得てこれを譲り受け
        
現在地に鎮座せられる。
     明治の代になり神厳維持の為の一村一社主義に則り住民の協賛を得て金銭及び土地を拠
     
し定められた資格を具備し先に掲げたる御利益と共に永久の平和と文化の発展を祈念
     
し今日まで年々独自の祭祀を怠ることなし。
     
近年社屋の老朽著しきため区民並に近隣の崇敬者の奉賛に依り現在の社殿の建て替え並
        に豊川稲荷神社及び水舎の屋根の葺き替え等完成す。
境内社 稲荷神社 秋葉神社 八坂神社
        
大国神社 春日神社 八幡宮                   境内案内板より引用
        
                 境内社・
豊川稲荷神社
       
                 境内にある力石二基
 この力石は、案内板によると「貫目八十貫目、江戸は組 大願成就」と刻まれていて、今のキロ数に直すと300㎏以上もある石を、江戸から来た町火消しの「は組」の人が、見事に持ち上げた記念の石である。
 神社や寺院、道端に置かれたこの力石は、各地に見られるが、境地区ではただ一つのものであり、宿場であった旧境町が江戸時代に繫栄したことを示す貴重な石であるという。
       
                            社殿から見た境内の一風景


参考資料「群馬県歴史の道調査報告書 2集 日光例幣使街道」「伊勢崎市観光物産協会HP」
    「境内案内板等」等

拍手[0回]


境小此木菅原神社

 嘗ての「小此木村」の開村伝承はこのような言い伝えがある。
小此木氏の先祖左衛門源長光は、新田義貞に従って戦さに出たが、負けてこの地に逃げこんだ。アサヒッピラの荒野を拓いて小屋を建て、そこで農業を営んだ。そこで小此木には下ゴヤ、中ゴヤ、上ゴヤという地名がある。小此木氏は、村の草分けの家だという。江戸時代以後、この地には新田開発が進められ、小此木の新田組、下淵名の西窪新()等これに関する地名が残っている。
『伊勢崎風土記』
「小柴村、元亀天正の際に小柴左衛門長光・能登国の人なり、来りてここに住む。境町(古の仮宿村)は小柴村を割きたり、長光の累跡あり、市長(なぬし)・坊正(くみがしら)は多くは長光の従者の子孫なり。中島村は小柴村を割きたり、小柴左衛門ここに居りき。百々村に稲荷祠あり、天文十五年小柴左衛門長光、能登国石剣山より之を移せり」
『境町の民俗』 「小此木長光舘趾」
 境城主小此木長光の拠ったところと伝えられ、福寿院の東南方二百歩の地にある。いま此処に長光夫妻供養塔を存し、無住阿弥陀堂がある。かつてこの堂宇で太子像を発見し、この部落が昔鍛冶職の盛んだったことを思わせる。なお長光の子孫といい小此木姓を名乗る旧家がある。

        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境小此木216
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 春祭・入学祈願祭 43日 夏祭 七月吉日 秋大祭 113日 他
 境下蓮町三柱神社から一旦北上し、群馬県道142号綿貫篠塚線に合流後東行する。目の前に広瀬川の堤防が見えてくる周囲一面長閑な田畑風景の中、進行方向正面やや右手にポツンと深い森林に覆われた境小此木菅原神社の社叢林が見えてくる。
        
                 境小此木菅原神社正面
『日本歴史地名大系』 「小此木村」の解説
 中島村の西に位置し、西は那波郡飯島村・国領村(現伊勢崎市)に接する。現在北方を広瀬川が東流。平坦地ではあるが窪地が多い。「伊勢崎風土記」には村名について、天平神護(七六五〜七六七)の頃は朝日の里といい、のちに利根川水傍の地のため芝草が多いので小芝(こしば)村、のちに小柴村となり「近古、柴字を割き読みて、小此木村と曰えり」とある。さらに同書に「小柴村を割きて境町・中島・島村の三村を置けり」とある。
 
    鳥居の右側に建つ社号標柱        社号標柱の後方に設置されている案内板
 伊勢崎市境小此木地域は、利根•広瀬両川の間にあり境町随一の肥沃の地である。とくに桑園、根菜類がとれることは黒土層が深いからで、掘っても赤土に達しない。ゴボウ(牛蒡)などは1mから1.5m位太く真っすぐ伸びた優秀なものがとれる。対して、稲作は飯米分だけ出作し、4㎞の遠方の水田まで農耕に出掛けるが、近年は「オヵタンボ」とよぶ畑地を水田化した稲作を行うようになった。いずれも水利に恵まれなかったからで、発動機によって井戸の揚水が行われていたという。
 地域内は、平坦地ではあるが窪地が多く、村中道路は未開発で狭く曲りくねっている。商業は少なく大部分農業で、次いで機業が盛んである。
        
                綺麗に整備されている境内
 天平神護(七六五〜七六七)の頃に「朝日の里」と呼ばれたころはわずかな人家であったと推測される。というのも、江戸の初めにも十数軒にすぎない集落であったが、農民の移転土着は盛んで、江戸時代末期には家数一五五軒、人数六九八人の大村になった。
 この地域は、肥沃な土地と河川交通にめぐまれていたが、かつては一部の地域をのぞいては農業の開発がおそく、長い間原野山林のままであったと思われる。境地区は面の萩の原中に開かれた街並でいまに萩原の地名を残し、小此木地域は柴草が生い茂っていたので「小柴村」、のちに「柴」の字を割いて「小此木」としたといわれている。
        
                    拝 殿
 菅原神社誌
 主祭神 贈正一位太政大臣 菅原道真公
 合祀神 素盞鳴尊 大稲田姫命 八柱御子神
     大国主命 建御名方命 木花咲姫命
     加具土命 豊受姫命  大雷命
     日本武尊 応神天皇
 由緒 古伝によれば日本武尊御東征の折当地一帯を眺められ朝日の里と仰せられたという利根・烏川両川の運んだ沃土と水利の地に何時か人々が住み着き 鎌倉時代新田氏に属した小此木彦次郎盛光が此の地を領北野雷電の松の傍らに天満宮を祀る その後戦国時代金山城主由良氏に属した小此木左衛門尉長光 境城に據って此の地を領し天満宮を興し天正十八年徳川家康公江戸城以後祭祀は里民の手に移り寛永年間社殿造営 安永年間改築 明治十一年村社に列し地内各組の小社を合祀して現在に至る
 上 愛宕神社・天神社 中 稲荷神社・熊野社・諏訪社
 新田北下 住吉社・浅間社 原 八幡社(以下略)               案内板より引用
 
            社殿の左側に祀られている英霊殿(写真左・右)
       
        本殿の裏に祀られている(?)多数の石祠と庚申塔群に旧狛犬
        この石祠は、案内板に記載されている各小字で祀られていた愛宕神社・天神社
             稲荷神社・熊野社・諏訪社・住吉社・浅間社・八幡社等であろうか。
             
                      境内にある「当社沿革並合社碑記」
                 当社沿革並合社碑記
      元亨年間一ノ巨松アリテ老幹半天二真立シ松聲風二激シテ雷ノシ〇〇
      雷電松ト称ス 樹下二一石祠アリテ其ノ祭神詳ナラズ 然シ小此木〇〇〇
      盛光崇敬ノ念厚ク神領ヲ寄進シ後小此木左衛門尉長光此ノ地二封〇〇〇
      ルヤ天文二年
五月二十五日領土ノ安全ヲ祈リ幣帛ヲ奉ル元和年間巨松〇
      チ村ノ北方荒野二位ス之レ所謂北野ナル〇故二天満宮ヲ奉祀セル〇〇〇
      リトシテ之ヲ主祭ス寛永八年
九月神殿ヲ営〇後安永二年十月社殿ヲ〇〇

      シ明治十年七月村社二列ス同四十年十月廿三日宝暦年間創建二〇〇〇〇
      士塚二祭祀セル浅間社及ビ天明八年六月創始セル字神明ノ八坂社並〇〇
      内末社秋葉社ヲ合祀シ次二字原ノ八幡宮及ビ境内末社菅原社雷電社大己
      貴社字熊野ノ熊野社及ビ稲荷社並二境内末社菅原社琴平社字南塚越ノ〇
      吉社字神明ノ神明宮、字諏訪ノ木ノ稲荷社ヲ合祀シ明治四十一年
十二月
      日更二字伊勢久保ノ熊野社及ビ境内末社城峯社神明宮字前久保ノ諏訪社
           ヲ合祀ス 大正十五年
六月四日幣帛供進指定神社トナル
        
                             境小此木菅原神社遠景 


参考資料「境町の民俗」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「境内案内板・石碑文」等
 

拍手[0回]


境下蓮町三柱神社


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市下蓮町767
             
・ご祭神 (主)倉稲魂命 誉田別命 建御名方命
                  
(配)菅原道真公 保食命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 節分祭 23日 春季例祭 4月上旬 夏祭 8月中旬
                  
秋季例大祭 10月中旬 年末大祓式 1231日 他
 馬見塚飯玉神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を1.6㎞程東行し、「下蓮町」交差点を右折する。同県道八斗島境線に合流し、200m程進んだ丁字路を左折し、暫く道なりに進み、最初の路地を右折すると、進行方向右手に境下蓮町三柱神社が見えてくる。
 社の境内北側には社務所があり、数台分駐車可能な空間があり、そこの一角に駐車して参拝を行う。
        
                 境下蓮町三柱神社正面
『日本歴史地名大系』「下蓮沼村」の解説
 上蓮沼村の東にあり、北方を広瀬川が東流し、南は利根川(七分川)に面した。東は佐位郡小此木(おこのぎ)村(現佐波郡境町)・国領(こくりよう)村、北は佐位郡保泉村(現境町)。日光例幣使街道が通る。西から東へ通行する場合、集落に入る手前で南西方向の畔道に入り、街道上で赤城山が右手に見える唯一の地点であった。「右赤城」と称し、名勝とされたという。もと上蓮沼村と一村。元禄郷帳では高四七八石余、伊勢崎藩領。
『日本歴史地名大系』「国領村」の解説
 東は佐位郡小此木村(現佐波郡境町)、南は前河原村(現境町)、西は下蓮沼村。明治初年まで利根川に面した。元和三年(一六一七)徳川秀忠から松平忠政に「国領村」の知行宛行状が出されている(記録御用所本古文書)。寛永二年(一六二五)当村四〇〇石が松平孫太夫に与えられ(同文書)、以後近世を通して旗本松平領。寛文郷帳では田方二一一石余・畑方三七石余。
『日本歴史地名大系』「上蓮沼村」の解説
 韮川左岸、長沼村の東に位置。北は馬見塚村、東は下蓮沼村。日光例幣使街道が通る。「伊勢崎風土記」によると、長沼村の五十嵐氏が開発し、一村一苗であったという。古くは下蓮沼村と一村で、「寛文朱印留」に蓮沼村とみえ、寛文郷帳では蓮沼村の高六九一石余、うち田方一七九石余・畑方五一二石余、前橋藩領・旗本松平領の二給。元禄郷帳では上下二村で記され、上蓮沼村の高二一二石余、伊勢崎藩領(六二石余)・旗本松平領(一五〇石余)の二給。
『日本歴史地名大系』「飯島村」の解説
 利根川左岸にあり、全村平坦地で、東は下蓮沼村、北は上蓮沼村、西・南は長沼村。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方四石余・畑方一四〇石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば新田ともで反別五町四反余、うち田方三反余・畑方六町一反余。ほかに新田九石余があったが、川欠けとなっており、耕地は畑三町余のみである。年貢は永二貫余のみ。家数二四、男五三・女五三。
 当社の創建は、大正寺町豊武神社と同じく、明治四十二年(1909)明治政府の勅令により近隣の村々の産土神であった「国領村・八幡宮」「飯島村・諏訪神社」「上蓮沼村・飯玉神社」を合祀し、「三柱神社」と改称したという。その関係で、各村々の簡単な歴史等を解説することとなった。
 
 当社名は三柱神社であり、社の「顔」というべき正面には石製の鳥居が三基連続して立てられている
 一の鳥居から順番に「正一位飯玉大明神」(写真左)「諏訪大明神」(同右)の社号額が架けられているので、三番目の鳥居には当然「八幡神社」の社号額であると思ったが、何故か「飯玉大明神」となっていた。
 
      参道左側にある神楽殿        神楽殿の先に祀られる「蚕景山大神」
 群馬県南部には江戸中期以降,養蚕信仰の高まりとともに多数の養蚕関連碑(蚕神碑)が建立された。特に、江戸中期以降の養蚕業隆盛に伴い、豊蚕祈願や蚕の供養など養蚕にまつわる信仰(養蚕信仰)が養蚕の盛んな地域に流布・拡散し、「蚕影大神」「蚕影山大神」「絹笠明神」「衣笠大神」などの碑名が刻まれた石碑(文字塔)が,江戸中期から昭和初期にかけて多数建立された
 この石碑によると、1893(明治 26)年 5 6 日の霜害における群馬県の被害は甚大で、雹霜害により桑の葉が枯死し、蚕の飼育が不可能となり、神社境内等に穴を掘削して蚕の亡骸を埋めた。その後、下蓮沼村民で協議し、明年 4 3 日に小規模な塚を造成して供養し「蚕景山大神」の碑を建石して祀り、後人に伝えるため概要を刻んだ。この碑についても、霜害の犠牲となった蚕の慰霊と被害概況を後世に伝承することを目的として建立されたことがわかる
 正面・蠶景山大神  中講義毛呂廣郷敬書
 裏面・明治二十六年五月六日大霜上毛之野被害殊甚桑葉凋
       落蠶多飢人皆棄其幾分而紓其食我下蓮沼邨之人亦相
       謀同埋諸社前青爽之地明年四月三日建石奉祀蠶影山
       
大神且序事之大概刻其陰以傳後人
 雹霜害が当時の地域住民に与えた経済的、精神的ダメージの大きさや、養蚕と地域との結びつきの強さなどがうかがえよう。
             
           蚕景山大神の背後に聳え立つ大ケヤキのご神木。 
 
社殿の左側に設置されている社の簡単な案内板   社殿の右側にある「
三柱神社 新築記念碑」
        
                    拝 殿
 三柱神社 新築記念碑
 当神社は始め下蓮沼村に倉稲魂神を奉祀、飯玉神社と称し、弘治年間那波氏の創建と伝へる。
 国領村八幡宮、飯島村諏訪神社、上蓮沼村飯玉神社が夫々の産土神として祀られていたが、明治四十二年勅令により合祀し、三柱神社と改称す。
 爾来、氏子篤く信仰を捧げ、平和と繁栄を祈念し今日に至ったが、多年の風雨により損傷著しく、諸氏相議り、その遺風を後世に伝えんと此の度奉賛会を結成し、氏子及び縁りりある各位の浄財により社殿を新築、工事業者の誠意努力により荘厳に完成する。
 志篤かりし芳名を刻み後の世に伝えんとこの碑を建立する。
 平成五年四月三日 春季例祭                        記念碑文より引用
 
           社殿右側奥に祀られている末社・石祠(写真左・右)
 おそらく、当地に国領村八幡宮・飯島村諏訪神社・上蓮沼村飯玉神社が合祀した際に、各社に祀られていた末社・石祠等を移したと思われるが、詳細は不明である。
        
               落ち着いた雰囲気の境内一風景



参考資料「群馬県南部における雹霜害碑とその建立経緯の検討HP」「日本歴史地名大系」
    「境内案内板・記念碑文」等

拍手[0回]


馬見塚町飯玉神社

 玉村方面から例幣使街道を東に進んで伊勢崎市馬見塚町の集落に入る手前に、嘗て小川が3本流れ、小さな橋が掛かっていた。この橋を「三ッ橋」と呼び、例幣使がこの橋を見ると安堵したという。1日約10里歩く彼らにとり、1つの目安で名勝になったのであろう。またここには「三ッ橋伝説」が伝っている。
 1203 年(建仁23月世良田長楽寺の開山で知られる栄朝禅師が、関東へ下向の途中、春うららかな野の道を牛の背に乗って通リかかった。牛も眠いのかのろのろしか歩かない。そこで禅師は道端の小松の枝を折って、時々牛の背を、ぴしりぴしりと打って歩ませた。たまたま馬見塚の三ッ橋のほとりで、麻疹(はしか)に苦しむ2人の子供に出合い、その顔に松の小枝をかさして救ったという。そのため、土地の人たちは、栄朝禅師の霊験に感激し、三ッ橋をくぐって麻疹を平癒する祈願が、明治から大正年代まで続いたという。
 また、栄朝禅師が使った小松の枝は、不思議や自然に根付いて、いつか土地の人たちから「牛うちの松」とよばれるようになった。この松は、寛文年間に枯死したので土地の人たちは、この名木を絶えることを惜しんで2代目の松を植えたが、この松の木の下に土地の俳人で、栗庵似鳩の高弟の1人である向松庵剣二によって1825(文政8)年に「涼しさやすぐに野松の枝の形」という芭蕉句碑が建てられたとの事だ。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市馬見塚町903
            
・ご祭神 (主)保食命
                 
(配)素盞鳴命 倉稲魂命 建御名方命 天児屋根命 迦具土命
                    別雷命 
菅原道真命 大己貴命 豊受比売命 日本武命
                    
大山祇命 大日孁命
            
・例祭等 歳旦祭 春季例祭 43日 例大祭 1017
                                  
交通安全祈願祭・大祓式 12月末日
 大正寺町豊武神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を1.4㎞程東行し、「馬見塚町」交差点を更に直進すると、すぐ左手に馬見塚町飯玉神社は見えてくる。社の東側には延命寺(新義真言宗)が隣接しており、県道沿いにはお寺の専用駐車場もあるため、そこの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
            県道沿いに建つ馬見塚町飯玉神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 -「馬見塚村」の解説
 北は佐位郡茂呂村、東は同郡保泉村(現佐波郡境町)、西は大正寺村・下道寺村。古くに馬市が立ったと伝え、村名の由来という(伊勢崎風土記)。日光例幣使街道が通る。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方三五六石余・畑方六三二石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別七五町四反余、うち田方一九町八反余・畑方五五町四反余。
        
              境内に設置されている社の由緒板
        
                    拝 殿
 由緒
 一、主祭神 保食命
 一、配祀神 素盞鳴命・倉稲魂命・建御名方命
       天児屋根命・迦具土命・別雷命
       菅原道真命・大己貴命・豊受比売命
       日本武命・大山祇命・大日孁命
 当社の創建は明らかではないが、後小松天皇の御代の応永年間(13941412)大江広元の庶子、那波掃部輔によって再興されたと伝えられている。当社はもと上社と下社の二社からなり、明治四十二年(1909)三月勅令により両社と延命寺境内にあった八雲神社を合祀し、同年八月この地に社殿を移築し奉遷した。昭和五十五年合祀七十周年記念事業として社務所、水舎を新築した。
 平成八年四月社殿改築奉賛会を結成し、社殿の改築、境内地の拡張と整備を行い平成九年六月一日に竣工し今日至る。
                                      由緒板より引用
        
                 拝殿に掲げてある扁額
                   その壁面にはなかなか凝った彫刻が施されている。
 
 社殿左側奥に立つ二基の石製鳥居(写真左)。奥の鳥居には「神武天皇」と刻印されている。すぐ近くにある建物は神興庫らしいので、その奥に祀られている末社である石祠十数基(同右)の鳥居と思われる。この末社は、後述する「飯玉神社改築記念碑」に記されている菅原神社・神明宮・稲荷神社・諏訪神社・春日神社・秋葉神社・八雲神社の七柱に関連すると思われるのだが、それ以外の石祠の中に「神武天皇」に関係する社があるのであろうか。
        
           社殿右側に祀られている境内社・飯玉稲荷神社
        
          境内北東側に設置されている「飯玉神社改築記念碑」
 飯玉神社改築記念碑
 飯玉神社はその歴史は古く 伊勢崎佐波神社誌によれば 後小松天皇の御代応永年間 一三九四―一四一三 上野国那波城主那波掃部輔により那波総社飯玉神社 現伊勢崎市堀口町 の分霊を奉祀されたと伝えられている
 当神社は元上社  現三ッ橋町  下社 現本町が馬見塚邑の鎮守の神として鎮座し奉祀されていたが 明治十一年 一村一社令により下社が上社に合祀された  同四十二年勅令により現在地に社殿を移築し境内末社の  菅原神社  神明宮  稲荷神社  諏訪神社  春日神社  秋葉神社  八雲神社の七柱之神を合祀し奉遷した  爾来氏子崇敬者篤く信仰を捧げ平和と繁栄を祈念しその時々に社殿の改修を行い尊厳を守り今日に至ったが多年の風雪により損傷著しく 諸氏相諮り改築奉賛会を結成し神社財産と氏子及び縁りある各位の浄財をもって社殿の改築 境内地の拡張と整備が工事者の誠意と匠技により荘厳に竣工した篤志者の芳名を刻み後世に伝えんとこの碑を建つ(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
          境内東側に聳え立つクスノキのご神木(写真左・右)
        
                境内東側に建つ朱色の鳥居
        
             社に隣接してある新義真言宗・延命寺



参考資料「日光例弊使街道HP」「日本歴史地名大系」「境内案内板・記念碑文」等
    

拍手[0回]


大正寺町豊武神社


        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市大正寺町272
            
・ご祭神 (主)誉田別命
                 
(配)建御名方命 倉稲魂命 保食命 大日孁命 日本武命 
                    
素盞鳴命 大物主命 手力雄命 大山祇命 別雷命
            
・社 格 旧村社
            ・例祭等 歳旦祭 天神梅花祭 115日 節分追儺式 23
                 春季例祭 43日 例大祭 1017日 他
:中町雷電神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を2㎞程東行し、国道462号線との交点である「徐ヶ町」交差点を更に直進すると、進行方向左手に大正寺町豊武神社が見えてくる。
 鳥居正面からは社に入ることができないため、一旦北上して回り込み、社の後ろ方面から境内に入ることができ、そこの一角に車を駐車させてから参拝を開始する。
        
             県道沿いに鎮座する大正寺町豊武神社
『日本歴史地名大系』 「大正寺村」の解説
 西は除(よげ)村、東は馬見塚(まみづか)村で、韮川が中央を流れ、日光例幣使街道が通る。 かつて地内にあった大聖寺(大正寺)が村名の由来という。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方一一七石余・畑方一五五石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別二五町二反余、うち田方八町五反余・畑方一六町七反余。ほかに宝永七年(一七一〇)までの新田九石余があった。天保元年の年貢は米四三石余・永二二貫余、ほかに麦九石・大豆五石余を納めている。家数四三、男七九・女七六、馬一〇。柴宿助郷高二〇四石余(寛政八年「柴宿助郷村高等書上帳」関根文書)。明治三年(一八七〇)に松本宏洞らを中心として藩庁に郷学設立願(松本文書)が提出され、翌年村内の薬師堂に行余(ぎようよ)堂が開設された。
『日本歴史地名大系』 「除(よげ)村」の解説
 東は大正寺村、北は堀口村、南は富塚村。北方を日光例幣使街道が通る。古くは大正寺村と一村であったという(伊勢崎風土記)。大正寺地内にあった八幡宮と当地の飯玉神社の氏子の分裂によって分村したという。村名の由来は利根川の氾濫時避難地であったことによるとする説もある。当地域は稲作地帯でよい米がとれたという。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二〇一石余・畑方二七三石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別四〇町八反余、うち田方一五町七反余・畑方二五町一反余。
『日本歴史地名大系』 「富塚村」の解説
 東は下道寺村、北は除村、西は下福島村、南は八斗島村。利根川(七分川)が南西を流れていた。享徳の乱の時には上杉・古河公方両勢力の境目として戦場になっている。享徳四年(一四五五)四月四日の小此木(現佐波郡境町)の合戦で、足利成氏方の岩松次郎(持国長子)が「冨塚在所以下所々」の敵上杉方を掃蕩し、小柴刑部左衛門尉を討取っている(同年四月五日「足利成氏書状写」正木文書)。
『日本歴史地名大系』 「下道寺村」の解説
 韮川が中央を南流し、東は馬見塚村、南は長沼村。専修念仏の寺が創建され、真言・臨済・禅宗の信徒から外道とよばれたことから村名となったと伝える。日光例幣使街道が通る。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方一四一石余・畑方一九七石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば反別三四町五反余、うち田方一二町余・畑方二二町五反余。ほかに宝永七年(一七一〇)までの新田九石余があった。天保元年の年貢は米三〇石余・永二八貫余、ほかに大豆七石・麦八石余を納めている。
 社は明治42124日、当時の大正寺村の「八幡宮」、下道寺村の「飯玉神社」、富塚村の「諏訪神社」、除ヶ村の「飯玉神社」、下福島村の「八郎大明神」を合祀し、新たに「豊武神社」と改称した。その際に、富塚の「ト」、除ヶの「ヨ」、大正寺の「タ」、下道寺の「ケ」を取ってトヨタケと命名したと伝えられたという。
 因みに下福島村の「八郎大明神」の本殿は豊武神社には合祀されず、八斗島稲荷神社に譲り受け移築していて、現在に至っている。その後八郎大明神は、昭和
45年(1970)に現在地へ分祀された。故に『日本歴史地名大系』も下福島村以外の四村を紹介した次第である。

 
 朱を基調とする大正寺町豊武神社の両部鳥居       鳥居の先にある手水舎と社の看板
        
           鳥居近くで道路沿いに設置されている社の案内板
        
                   境内の様子
 当社の例祭の一つである23日に行われる節分祭は、神社合祀をきっかけに明治四十四年に始まったと伝えられている。数え四十二歳男の大厄にあたる氏子が年男会を結成し、企画・運営をおこなう。氏子区域を袴姿で練り歩き豆を撒いて町内の厄を祓い、御神前で厄除の祈祷を受けた後、拝殿回廊から豆を撒いて厄を祓う。境内では様々な催し物が行われ、一日中賑わいをみせる当地の伝統行事となっているとのことだ。
 
     参道を進んだ右側には「豊武神社の道標」と記された案内板とその石像。
 豊武神社の道標
 豊武神社は、かつて大正寺村の八幡様が祀られていました。境内には、豊受地区で最も古い年号が記された道標が残されています。道標は、神仏への功徳になるものという理由から建立される場合が多かったようです。
 この道標は、二十二夜信仰にもとづき、正面に如意輪観音の座像が美しく彫られ、塔の右に「安永八己亥三月吉日」、左に「二十二夜供養」、そして台石正面に「村中男女」、台石左に「右ちゝぶ」(秩父)、「左日光」と刻まれています。安永八年は西暦一七七九年で、この道標は、以前、例幣使道沿いに建っていたと思われます。
                                      案内板より引用
 その左側には力石もあり、社では「合格力石」とも呼んでいる。浦風林右エ門(うらかぜりんうえもん)の相撲辻(すもうつじ)が幕末の文久元年(1861)に創設されたという記録があり、力士たちが持ち上げたと思われる、力石が95貫(356キロ)と刻まれているとのことだ。
 力がつくということで、天満宮の前で「合格力石」として登録されているという。 
       
                                        拝 殿                

 豊武神社
 鎮座地 伊勢崎市大正寺町二七二番地
 御祭神
 主祭神 誉田別命
 配祀神 建御名方命 倉稲魂命 保食命 大日孁命 日本武命
         素盞鳴命 大物主命 手力雄命 大山祇命 別雷命
 由 緒
 当社はもと八幡宮と称された旧社であるが、元和二年(一六一六)火災のため記録を焼失し、創建年代など詳細は不明である。しかし、その神威霊験はあらたかにして、近隣の村々で疫病が流行して多くの死者を出した時も、村内氏子中には感染した者はいなかったという。氏子らは当社の階段にあった竹弓手張を各戸口に掛けて祈願したので悪疫の侵害を免れたといわれ、この話が伝わると隣村の馬見塚や伊与久、下武士、茂呂、遠くは上植木、下植木や新田郡など十二カ村の人々からも信仰を集めたと伝えられている。
 現在の社殿は、慶応年間から始めた募金積立により明治二十四年に改築工事を起し、野州那須山の桧材を用いて翌二十五年に竣功、三十二年二月十五日に遷宮式が行われた。
 明治四十二年十二月十四日、五村の神社とその末社を合祀し、豊武神社と改称された。
・冨 塚(ト) 諏訪神社 八幡宮 神明宮
・徐 ヶ(ヨ) 飯玉神社 諏訪神社
・大正寺(タ) 八幡宮
・下道寺(ケ) 飯玉神社 神明宮
・福島     八郎神社 昭和四十五年十月十七日、地元住民の要望により元の地へ奉遷された。
 昭和六十二年には社殿、神楽殿の改修、社務所の改築と、かつて境内にあった天満宮(菅原道真命)を再建、十二月二十五日遷座祭が斎行された。
 宝 物
 獅子頭(雌雄)
 徐ヶ村飯玉神社境内の大ケヤキを安政三年(一八六五)伊勢崎城と姫路城及び城主酒井家の江戸屋敷の門扉と御殿の用材として献上した際の根株を淵名の弥勒寺義勝が彫刻し、伊勢崎城主酒井下野守忠強公が奉納したものと伝えられている。
 例祭日には「悪鬼除け」と唱えながら村内を巡回したという。
 龍の天井画
 拝殿には大正寺の教育者・文人画家松本宏洞作の天井画と、かつての「八幡大神」の鳥居神額が掲げられている。(以下略)
                                      案内板より引用
 社の社務所に貼ってあったパンフレットには「豊武神社の弓千張の伝説」がある。
 ある年、疫病が大流行し、周辺に多くの感染者と死者を出した。しかし、当社の氏子には感染者が出なかった。それは、氏子が当社の階檀にあった1,000張の弓を、各戸に1張ずつ掛け、祈願して悪厄の侵害を防いだという。
 又、かつての八幡宮は、源氏の守護神であったが、武神・軍神と崇められ、弓術者の信仰が特に篤く、弓術者の奉額も確認できるものだけでも、明治30年(1897)、明治45年(1912)、昭和35年(1960)のものがあったという。
 この伝説は、後に厄災除け、悪厄退散、スポーツ・技芸上達の神として信仰形態が変容したとの事だ。
 
           社殿の右側に鎮座する豊武天満宮(写真左・右)
       
         本殿奥に聳え立つご神木       境内にある巨木・老木
 
境内西北側隅に祀られている摂社・衣笠稲荷社  衣笠稲荷社の周辺にも多くの末社が祀られている。
        
                衣笠稲荷社や石祠が祀られている幟と木々に囲まれた一角



参考資料「日本歴史地名大系」「境内案内板及び豊武神社社務所 パンフレット」等
 

拍手[0回]