古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

道目鷲神社

 加須市道目は「どうめ」と読む。この地域は『新編武蔵風土記稿 道目村』によると、古は「堂免(どうめん)村」と書き、村内薬師堂免除の地であったと伝えているが、この「どうめん」は全国的に散在し「道面、堂免、百目」などの文字が当てられ、元々川辺に多い地名といい、水の「ざわめき→どうめき→どうめん」へ転訛(てんか)したものとされている。
『日本歴史地名大系』においても当地域は、南西を古利根川が流れ、川沿いに水除堤があると載せている。実際地図を確認すると南西方向に走る道路は、如何にも古利根川の流路跡をそのまま利用した道のようにも見え、本来の意味は「水の音」に関連した地名であったのではないかと考えられる。

        
             
・所在地 埼玉県加須市道目324
             
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命 大己貴命
             
・社 格 旧道目村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 秋の例祭 1015
 北平野稲荷神社が鎮座する埼玉県道84号羽生栗橋線を西行し、600m程先にある道幅の狭い路地を斜め右前方向に進路変更、暫く道なりに進むと進行方向左手に道目鷲神社の社号標柱とその先には石製の鳥居が見えてくる
 
         
道目鷲神社正面          入口から中に入った先に石製の鳥居が建つ。
『日本歴史地名大系』 「道目村」の解説
 細間村の南に位置し、南西を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。古は堂免村と書き、村内薬師堂免除の地であったと伝える(風土記稿)。寛永六年(一六二九)の検地帳(針谷家文書)では「武州喜東郡古河内道免村」、同一八年の検地帳(同文書)には「武州騎西之郡古河川辺内道免村」と記され、田園簿には道目村とみえる。
 寛永六年の検地奉行は八木三郎兵衛ほか、同一八年は中江作左衛門らであった。田園簿によると田高二二五石余・畑高二七八石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領として続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。
        
                   境内の様子
       旧大利根地域の社の多くが、河川対策により塚上に鎮座している。
『新編武蔵風土記稿 道目村』
 道目村は古は堂免村と書き、村内藥師堂免除の地なりしと、土人の口碑にのこれり、されど正保のものには今の如く道目村と載たり、
 古利根川 村の西界を流る、川幅六間許、水除の堤あり、
 鷲明神社 村の鎭守にして、寛文元年の勸請なり、千手院持、〇靑龍權現 持同じ、〇天神社 醫王寺持
 醫王寺 新義眞言宗、堤村延命寺末、瑠璃山と號す、開山宥道寛文三年三月五日寂す、本尊大日を安ぜり、金毘羅社
 藥師堂 坐像にて長六寸、運慶の作、村名の條に載たる土人の口碑によれば、この藥師堂免除の地なりしや、慥なる傳へはなし、 〇千手院 同末、慈雲山と號す、本尊千手觀音を安ぜり、
        
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  大利根町道目三二四(道目字中)
 当社の鎮まる道目は、この地にある薬師堂がその昔年貢の免除地であったため「堂免」といわれ、これが転訛して現地名になるという。
 社記は、当社の創建を、口碑とことわり「足利氏の一族であった小野田氏が、応仁の乱を逃れて当村に居住して以来村の長となり本村を束ねる。同家次郎左衛門の時に屋敷の神として鷲明神を勧請する。その後村も整い初め延徳三年春、村人が懇願して同社を村の鎮守とする。下って寛文元丑年中現在地に社殿を造営する。」と記している。
『風土記稿』に「鷲明神社 村の鎮守にして、寛文元年の勧請なり、千手院持」とあり、別当千手院は真言宗である。
 祭神は天穂日命・武夷鳥命・大己貴命であり、現在の一間社流造りの本殿は明治一五年の再建である。
 明治六年に村社となり、大正二年一〇月には同字の愛宕神社を本殿に合祀する。しかし、合祀に伴い口にするのも恐ろしい凶事が起こり、直ちに旧社に移すという。昭和三年、正式に合祀を中止している。
 境内末社に御嶽神社・稲荷社があるが由緒は不詳である。ほかに明治二八年銘の不二道孝心講建立の石碑浅間宮、通称庚申様と呼ばれる文政七年銘の石碑甲子祭神がある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
 鷲神社を氏神としていた足利氏の一族小野田家とその家士たちが祀り始めたという歴史があり、氏神の古い形である当社への信仰は厚い。終戦の混乱期も含めて現在まで、一日・一五日氏子による境内清掃が行われている。
 例祭は415日に行われる春祭りと呼ばれる。お供えの鏡餅の上は神職に渡し、下は氏子の戸数に切り分けて護符として配られる。秋の例祭は1015日で、春祭り同様である。この祭りの前日は宵祭りとして古くは餅を焼いたという。
 
     本殿左手奥に祀られている       本殿右手奥に祀られている浅間宮の石碑
境内社・稲荷神社(左)、甲子祭神(右)石碑
        
                社殿から見る境内の一風景
 参道左側には社務所兼道目中集会所がある。
この社務所は祭りはもちろん、各講社の集まり、村の寄り合いに用いられ、神社で決めたからという信仰が今でも生きているという。
 道目地域は、上耕地・中耕地・下耕地の3区域に分かれ、鷲神社が鎮座する区域は中耕地ある。道目の各耕地に庚申講があり、1215日には中耕地の五つの講が社務所に集まり、会食をする大庚(おおがのえ)がある。
 また4月と9月の2回社務所で安産を祈願する子安講があり、十九夜様の軸を掛け、神灯を上げて祈る。職工組合による太子講が春に行われほか、榛名講・不二道孝心講・雷電講・秋葉講・赤城講・三峰講・鬼鎮講などがある。このうち不二道孝心講は、嘗て正月に銚子へ初日の出を拝みに出かけるのが恒例であったが、今は行っていないという。
 
 参道に対して向かって右側の狛犬の奥には    社入り口の右側には「伊勢講記念碑」
    力石と思える大石がある。          の石碑が設置されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

拍手[1回]


北平野稲荷神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市北平野366
              
・ご祭神 稲荷神
              
・社 格 旧北野村鎮守
              
・例祭等 3月初午 天王祭 715
 北平野地域は加須市東部に位置し、北は稲荷木排水路、南は中川の間にあり、地域内の大部分は田畑などで占められている豊かな穀物地帯である。それでいて、地域南部には埼玉県道84号羽生栗橋線や同県道346号砂原北大桑線などの道路が通っていて、交通の便も何気に良い場所でもある。
 国道125号栗橋大利根バイパスを旧栗橋町方向に進み、「加須IC東産業団地」交差点を左折する。埼玉県道346号線に合流後、北行し中川に架かる水門橋を越え、1.5㎞程先にある「北平野」交差点を左折、同県道84号線を西行すること300m程で北平野稲荷神社に到着することができる。因みに地図を確認すると、北平野集会所の隣に鎮座している。
        
                 北平野稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「平野村」の解説
 道目村の東に位置し、南を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。田園簿によると田高一三七石余・畑高一三九石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領として続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。助郷は中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿(現栗橋町)へ出役(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                   境内の様子
 北平野地域は化政期には平野村と称していて、この村は更に上・下・新田の三耕地に分かれており、神社や寺は上耕地に集中している。江戸時代化政期頃、56戸程で米麦を中心に大豆なども生産していた。現在全戸数は71戸を数えるが、氏子は古くからこの地に生活している65戸で、近年は兼業農家が増加しているという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平野村』
古利根川 村の南を流る、幅三間餘、川より一町餘隔てゝ水除堤あり、
稻荷社 村の鎭守なり、蓮華院持、
蓮華院 新義眞言宗、南篠崎村普門寺末、安養山と號す、開山玄譽延寶九年七月寂せり、本尊不動、


 稲荷神社  大利根町北平野三六六(北平野字上)
 明治一二年まで平野村と呼ばれ、その名の通り利根川右岸に広がる平野であり、元亀・天正年間の開拓と伝える。集落は古利根川の自然堤防上に点在し、社も集落の中心部から西方に走る県道羽生栗橋線に近く鎮座している。
『明細帳』によると、当社は天正五年四月一五日山城国伏見稲荷社からの分霊を祀ったのに始まり、五穀の豊穣を祈り、村人が長く信仰してきたものという。
 元禄元年一二月一五日、本社と拝殿が再建され、正徳五年一一月二八日、京都吉田家より正一位の神階を受ける。その後、天明五年に一間社流造りの本社を再建して現在に至っている。
『風土記稿』によると、往時の別当は真言宗蓮華院が務めていた。
 現在の社殿の構造は間口三間半・奥行四間半の中に稲荷神社本殿と、その右側に八坂社と神輿、左側に浅間社が並び祀られている。八坂社は大正初期のころ蓮華院墓地近くから移されたものと伝えられるが、浅間社については明らかではない。
 境内には末社として天神社が祀られ、『明細帳』によれば寛政三年三月二五日に創建とある。このほか、八坂社は寛保三年六月一五日、雷電社は正徳三年二月二〇日、八幡社は天保三年八月一五日、厳島社は享保一二年五月五日の創建と載るが、現在境内には見当たらない。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
              
                    拝殿の手前に聳え立つイチョウの御神木
   加須市保護樹木 平成27101日 イチョウ  幹の周囲 450㎝ 指定番号 97

 当社の祭礼は、3月初午と7月に行われる天王祭の2回。3月初午は、前日から世話人や当番耕地の人々が社に集まり、境内の清掃や祭りの準備を行う。当日は総代・世話人・区長などの参列により祭典が執行され、その後、集会所で直会が行われる。
 3月初午には、風呂を立ててはならないとする禁忌があるほか、スミツカリを作りツトッコ(藁苞 わらづと)に入れて神前に供える風習があった。また、スミツカリを食べると風邪にかからないといわれていた。
 因みにスミツカリとは、大根を専用のおろし器でおろして、節分のときの大豆をつぶして一緒に煮る栃木、茨城、群馬、埼玉各県の郷土料理で、2月の初午(はつうま)の日によくつくるという。
 また、稲荷様の眷属は「お稲荷様(おとかさま)」と呼ばれ、以前は陶製の白狐が奉納されており、狐は犬が嫌いであるとのことから、この北平野地域の人々は犬を飼うことを遠慮していたともいう。
        
                境内に安置されている力石

 大正初めに当社に合祀された八坂社は、現在も社が残り、7月の天王祭は初午よりも賑やかに祭りが行われる。天王祭は、77日に準備が行われ、神職により神輿への神霊遷しが行われる。以前、神輿には大人と子供の二基があったが、大人神輿は傷みが激しく、渡御は行わなくなった。子供神輿の渡御は15日に行われ、夕刻に子供たちは集まり、神輿を担ぎ出す。現在は県道を進むことができないため、町道を進み蓮華院近くのお仮屋と称する広場(以前はここにお仮屋を建てていたが、今は略して名称のみ残っている)に行き、お仮屋で暫く休息したのち社に還るとの事だ。
 
  本殿奥に祀られている末社石祠と勝軍地蔵      勝軍地蔵の右隣に並んで祀られている天神社

 有形民俗文化財 勝軍地蔵の石仏
 指定年月日 昭和六十一年十二月八日指定
 所 在 地 加須市北平野三六六番地
 所有者等  稲荷神社
 造 立 年 享保十一年(一七二六)
 勝軍地蔵は、地蔵信仰の一形態で、悪業煩悩の軍に勝つという意味のお地蔵様であり、また火伏せの神(火防神)として愛宕信仰の対象ともされてきました。
 中世その姿から武士の信仰厚く、特に足利将軍家の尊崇厚かったといわれています。
 この地方で建てられた勝軍地蔵は、主として愛宕信仰として、火伏せの神「愛宕様」と呼ばれる信仰からと思われます。当町内で唯一の勝軍地蔵です。
 愛宕信仰の歴史を知る貴重な資料として指定しました。
 昭和六十三年三月三十一日
                                      案内板より引用
        
           社殿奥で、県道寄りに祀られている浅間大神の石碑



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須市HP
    「世界大百科事典(旧版)」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
 

拍手[0回]


大佐貫長良神社

 親鸞は西本願寺、東本願寺で著名な浄土真宗の開祖である。承安3年(1173年)日野有範の子として京都に生まれた。9才で出家し比叡山で修行を続けたが、既成の教えに満足せず、29才の時、専修念仏を提唱し浄土宗を開いた法然の門に入った。やがて専修念仏が国家により禁止されると越後の国へ流罪となった。後に罪が許され京都に帰ろうとしたが、尊敬してやまなかった師、法然がこの世にいないことを知り、京都に行くのを諦め越後から信濃を通り常陸の国に向かった。当時鎌倉幕府が開かれ新興の地であった関東への布教もあったわけである。常陸へ行く途中、佐貫荘(大佐貫付近)に立ち寄り、建保2年(1214年)、この地で真の他力本願に目覚めたことが、親鸞の妻である恵信尼(えしんに)の文書に記されている。この後茨城県笠間の草庵で「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を著し、浄土真宗を立教開宗した。元仁元年(1224年)「(前略)三部経(さんぶきょう)げにげにしく千部読まんと候し事は、信蓮房(しんれんぼう 長男)の四の年、武蔵国やらん、上野の国やらん佐貫と申所(もうしどころ)にて読み始めて、四、五日ばかりありて、思かへして読ませ給はで常陸へはおはしまして候しなり(後略)」。
 恵信尼が末娘の覚信尼(かくしんに)にあてた書状である。
 親鸞が越後からの旅の途中、ここ佐貫まで来たとき、人々のために千部経を読もうと思いたったのであるが、ただひたすらに阿弥陀仏にすがる専修念仏を説いてきた自分が、自己の力によって人々を救おうというのは矛盾していることだと悟ったと書かれている。ここ佐貫こそ親鸞が真の他力本願を再認識した重要な土地なのである。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大佐貫97
             ・ご祭神 藤原長良公
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り(お日待) 919
 大佐貫(おおざぬき)地域は群馬県邑楽郡明和町の中にある地域のひとつで、町内の西部に位置し、矢島地域の南側にあり、地域北部は工場や住宅地によって形成されているのに対して、南部、特に東南部一帯は長閑で広大な田畑風景が広がっている。
 途中までの経路は矢島長良神社を参照。同社から400m程南行すると、進行方向右手に大佐貫長良神社の鳥居が見えてくる。但しこの一の鳥居付近には適当な駐車場所はないので、社の西側に隣接する東光寺の駐車スペースを利用して参拝を行う。
        
            社号標柱のある大佐貫長良神社の一の鳥居
  一の鳥居は東向きであるが、社殿は南向きであるので、参道は途中右側へ直角に曲がる。
『日本歴史地名大系』 「大佐貫村」の解説
 東は中谷村、北は矢島村、南は川俣村・須賀(すか)村。村中を日光脇往還が通る。鎌倉時代末期と思われる足利氏所領奉行人交名(倉持文書)に大佐貫郷の名がみえ、南北朝期以後は鎌倉府の御料所となり、御家務料所として年貢三分の二を免除されていた。
 大佐貫の地名は伝承によると、鎌倉幕府の御家人佐貫氏が居住していたことによる。慶長一〇年(一六〇五)の大佐貫郷新開田畑年貢割付帳(薗田文書)は、同八年に造成した新田畑に対し年貢を割付けたもので、田方籾は一〇石六斗余、畠方代は一貫三一一文である。

 嘗て舘林から邑楽郡明和町一帯にかけての地域には、「佐貫荘」が広がっていた。「讃岐庄」とも「佐木荘」とも書き、郷名でも見える。
 この佐貫荘の起こりは1112世紀頃、豪族・佐貫氏が自己の所有地を被支配民に開墾させたことに始まる。邑楽郡は利根・渡良瀬の両川に挟まれた平地で、古来度重なる洪水の度に土砂が運ばれ、自然堤防の小高い丘陵ができた。そこに人々が居住し、荒廃地や原野を開墾して耕地を広げ、村落を形成したのである。このような開発には豪族の力を必要とし、豪族は人々を使役し、自墾地とした。佐貫氏は豪族の中で最も勢力が強く、豪族らの中心的存在であったと考えられている
 
        西方向に伸びる参道          北方向に曲がる地には赤い両部鳥居と
                            幾多の庚申塔がある。
 藤原北家小黒麻呂流、ないしは同家秀郷流の流れをくむといわれる佐貫氏は、『尊卑分脈』によれば、淵名兼行の孫成綱がはじめて佐貫氏を称したといい、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて登場する佐貫広綱は、「吾妻鏡」などによると、上野国佐貫荘(現群馬県邑楽郡明和町大佐貫)出身の武将で、足利重光の子であり佐貫綱照の養子であるともいわれている。史実によれば、治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵にあたり、平家方の同族である足利忠綱の軍勢に属して以仁王・源頼政の追討に加わり、『平家物語』「橋合戦」に初めてその名が出てくる。その後、源頼朝に臣従して鎌倉の御家人となり、養和元年(1181年)720日、鶴岡八幡宮宝殿上棟式典で源義経・畠山重忠と共に大工に賜る馬を引いている。
 承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が北条鎌倉幕府を倒すために兵をあげたが幕府は朝廷を打ち破った(承久の乱)。このとき佐貫一族も宇治川で参戦したが、その時の手負いの人々の中に佐貫右衛門六郎、同八郎、同兵衛太郎、佐貫太郎次郎等の名前が出てくる。
        
                   境内の様子
 元弘3年(1333年)、北条鎌倉幕府は新田義貞によって滅ぼされ「建武の中興」が行われたが、すぐに破綻し、僅か2年後には足利尊氏が反旗をひるがえし、京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存する南北朝時代という王権の完全な分裂状態に陥る。建武21211日、足利尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破った際、佐野・佐貫・山名氏等は足利方で活躍する。
 その後、南北朝から室町時代にかけて続く戦乱の世に、佐貫荘も分断され、佐貫氏も衰退、徐々に赤井氏、富岡氏に権力が移っていく。
 佐貫氏は一族の氏神に長柄神社を崇拝していたが、徐々にその信仰は在地庶民の中に浸透し、地域(村)の守護神として祀られるようになる。そして佐貫荘内には長柄神社(長良神社)がまつられ、現在も邑楽郡の東・南部に存在し信奉を集めているという。
        
                    拝 殿
『明和村の民俗』
 大佐貫の長良様は古く、千代田村に鎮座する瀬戸井の長良様は、ここから分社したものといわれている。長良神社の祭典は、春祭りが四月十五日、秋祭りが九月十九日で、ナカノクンチにお祭りをしている。秋祭りのことは、お日待といっている。このときには、村からわきへ嫁に行った娘たちを呼んだり、親戚へ赤飯 (重箱に入れて)を配ったりしている。よそへ出たものは、お土産をもって、お客さんに来た。泊りこみでお客にきた。よそへ出た人は、お日待によばれてくるのが楽しみであったという。
 また、昔は天王様は七月十日〜十二日に祀り、笛を吹いて毎戸を廻り、祭り当番は若衆二十人位でやった。ここの天王様は女性であるという。
 
        拝殿に掲げてある扁額          拝殿内部に飾られてある奉納額等
 
  社殿奥に祀られている境内社・石祠等    境内右側奥に祀られている石祠等
  一番左側の石祠が猿田彦大神以外は不明     一番右側手前は道祖神の石祠 
        
               社殿の西隣にある十一面観音堂

 大佐貫の観音様の縁日は十七日。八月十日が賑やか。もとは旧七月十日が縁日であった。ここの観音様は、十一面観音で、子育てと安産の観音様として知られている。身持になると、観音様のおさご(御散供)といわれる神や仏に参ったとき供える米,または祓(はらい)や清めの目的でまき散らす米を借り、これをお産の前に食べた。安産のあとおさごを倍にして返してきた。ここのお守りを受けていって、五ヵ月目の腹帯をしめるときに、腹帯の中にまきこんだ。また、さらしも借りていった。これをまいたものを一丈借りて、一反(三丈)かえ た。なお、嫁にきたものは、二日目にムラまわりをするが、このとき、神社へお参りをしたり、観音様へお参りしたりしたという。
        
                社殿から見る境内の一風景

 また、この地域の「薬師送り」は、戦前まではあった。年寄の人が、白い手甲に脚胖をつけ、白装束で、菅笠をかぶり、「南無遍照金剛」と言いながら、歩いて廻ってきた。村々では、大師様(弘法様)を寺に飾っておいた。そこへ寄ってお参りをしたものである。村の人(寺世話人)が出ていて、廻って来た人を接待した。おにぎりを飯台に一杯つくっておいて、お参りに来た人をもてなした。これは、三月二十一日一日だけ。このことを、大師めぐりとか、大師送りといった。弘法大師を信仰する人たちが廻ってきたもの。子供達は、その人たちがまわってくると、「大師だ」といって、その行列のあとをついていったりした。この行列( 一行)は館林の普済寺を出発した。明和村関係では、新里­中谷⇒大佐貫矢島⇒青柳の順であったという。



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」「Wikipedia」等

拍手[1回]


矢島長良神社

 群馬県邑楽郡明和町矢島地域は邑楽郡明和町の西北部谷田川右岸の位置にある。この地域は、古くから開発されてきた地域である。というのも、昭和333月谷田川中小河川改良事業と併せて行われた明和村土地改良区の事業の際に発見された「矢島遺跡」は、縄文時代から古墳時代までにわたり当時の人たちが暮らす貴重な遺跡や遺物が多く発見されており、文化的価値が非常に高い遺跡として知られている。この遺跡は国道122号線を中央に挟み、西側に2か所、東側に1が所の合わせて3ヶ所にある。当時の明和村教育委員会が最初に現地を試掘調査したあと本調査が実施され、明和村立明和西小学校の児童による遺物採集の協力もあり、多数の深鉢、壷、貝輪状土製品、石器等が採集され、縄文時代中期末から古墳時代に及ぶ複合遺跡であることがわかった。その後、昭和59年千葉大学考古学研究室の麻生優氏により、前回の遺跡付近を発掘調査したところ、縄文時代晩期の住居跡と平安時代の住居跡などが発見された。
 平成元年、
2年と東京電力が送電線の鉄塔を立てることになり、その予定地を明和村教育委員会が試掘調査をしたところ、縄文時代晩期のさまざまな遺物が発見された。その後、本調査である発掘調査をした結果、縄文時代中期から晩期にかけての土器や石器等の多彩な遺物を採集することができた。その後、同教委は幾たびも発掘調査を行った。主なものをあげれば、平成144月矢島遺跡の隣接地に東京ガスの輸送導管を埋設する事業を行うことになり、その事前試掘調査をした後に本調査の発掘をした。遺跡からは、縄文時代中期後半から晩期にかけての土坑(人為的竪穴)、深鉢、土器破片、炉の跡、石器類等の遺物が採集できたという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡明和町矢島14501
            ・ご祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 
                 菅原道真公 大山祇命 他八柱
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 春祭り 415日 夏祭り(天王祭) 715
                               秋祭り 1015日。(*それぞれ15日に近い日曜日) 
 国道122号線を北進し、「川俣駅入口」交差点で右折、群馬県道361号矢島大泉線を100m程進んだ十字路を左折し、「矢島公民館」が見えるすぐ先の十字路右手に矢島長良神社の正面鳥居が見えてくる。前出矢島公民館の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
       
                  矢島長良神社正面
『日本歴史地名大系』「矢島村」の解説
 谷田(やた)川右岸にあり、東は南大島村、南は大佐貫村。村中を日光脇往還が通る。尭雅僧正関東下向記録(醍醐寺文書)によると、永禄三年(一五六〇)尭雅が上州佐貫遍照寺に逗留している。遍照寺は矢島村にあった寺である。天正一八年(一五九〇)榊原康政が館林に入封すると、遍照寺一三世宥円の徳を慕い、館林城に近い新宿村(現館林市)に遍照寺を移した。現在も遍照寺の地名が村北部に残る。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方四九四石四斗余・畑方一六八石三斗とある。天和二年(一六八二)の分郷配当帳には旗本山田・植村・井上領の三給となる。
        
                   境内の様子
        鳥居から社殿に向かう参道は、若干上り坂となっているようで、
      更に社殿前には石段があり、周囲より一段高いところに鎮座している。
             
                石段上にある「御大典記念碑」
『御大典記念碑』
 村社 長良神社
 祭神 藤原長良公 火産霊命 彌都波能売命 菅原道真公 大山祇命
       宇迦之御魂命 素戔嗚命 市杵島姫命 大海津見命
       久那戸神 八衢比古命 八衢比売命 木花開耶姫命
 御本社長良神社ノ沿革ヲ〇フルニ其由緒古クシテ舊記ニモ見エズ口碑二依レバ長良神
 社ハ瀬戸井村長良神社ノ分祀ナリト云フ而シテ文政六七年以前二ハ字大宮二在リシガ
 須賀村破堤ノ際荒蕪野地ト爲リ氏子参拝二不便ナル爲字北谷二輔祀セリ其後神社合祀
 ノ令二依リ明治四十二年縣ノ許可ヲ〇〇字北谷二祭祀セル村社長良神社及境内末社水
 神二社稲荷神社愛宕神社富士嶽神社〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 神社字遍照寺無格社長良神社及末〇稲荷神社道祖神愛宕神社厳島神社〇〇〇〇〇〇〇
 格社清瀧神社字南谷厳島神社ヲ〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 合祀シ後二長良神社ト改稱セリト云(以下略)                       記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 
   拝殿左側に祀られている根本山神       社殿奥に祀られている石碑三基
                      出羽三山社、食行霊神・角行霊神、磐長姫命

 根本山(ねもとさん)は、栃木県と群馬県に跨がる山で、標高1,199m。
 栃木県佐野市飛駒町と群馬県桐生市梅田町五丁目・みどり市東町沢入に跨がる。桐生市梅田町の最高峰である。桐生川の最上流部に位置する。中腹に根本山神社があり、江戸時代に山岳信仰の対象として庶民の信仰を集めた。江戸時代には信仰により多くの参詣者が訪れ、根本山の周辺地域には根本山への里程標「根本山道標」が設置され一部現存している。
 根本山の山気に浴して山霊を鎮魂することで神通力を得、心身の苦難を排除できるという民間信仰であり、江戸時代には参詣案内書が発行され、関東から東北方面にかけて広く信者が集うほどの盛んな講に発展したという。

 ところで、明和町矢島地域には、「御影田(みかげだ)」という地名に関しての伝説があり、『明和町の文化財と歴史』には「富士山供養塔」との名で紹介されている。どちらも話の内容は同じであるので、後者の話を全文紹介したい。
「富士山供養塔」
 矢島地区旧国道を横切る佐貫排水路の脇に高さ1m15㎝、幅35㎝の富士山供養塔が立っており、傍に植えた松が覆うように茂っている。昔、北国から富士登山を行う一行があった。
 その中に一人の年寄りがいたが、寄る年波に身体も意の如く動かず、ただお参りしたい一念で旅立ちはしたものの、一行より遅れて矢島村に差し掛かった時には、もはや力もつきはてて路傍に倒れてしまった。無念のあまり遠く富士を望んだところ、不思議にもその一念が通じたのか、水田の水面に鮮やかに富士山の霊姿が写り、有り難く伏し拝みながら遂に息絶えたと伝えられている。その後、人々はこれを非常に哀れみ、その弔意から路傍の一里塚に富士山供養の碑を建てて一句を刻んだと言われている。
 今でもこの地を御影田と呼んでいる。
「昔此の田に富士の影写りしかばふじの雲裾ひきあげて田うゑかな 翁(せいおう)

        
                境内より鳥居方向を撮影



参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP 明和の昔ばなし」「明和町の文化財と歴史」    
        「Wikipedia」「境内記念碑文」等
                

拍手[1回]


田島長良神社

 明和町は梨の産地である。社の鎮座する県道沿いにも梨園、及び直売店が数多く見られる。梨の栽培適地は火山灰土や砂地などといわれているが、この田島地域は他の明和地域より若干標高が高く、土壤も砂質で梨の栽培には適しているという。
「明和村の民俗」によると、田島地域の梨つくりは明治6年頃から明和村へ入ったといわれているが、そのころはそれほど盛んではなく、大正78年ころ陸稲つくりがひろがり、旱魃にあいやすいので、桐の木を畑に植える人が出たりしたが、その後、梨つくりが流行した。羽田(場所は不明)が先進地で、そこから大きい木を買い、植えて拡張したもので。それから苗木から仕立てるようになった。梨は旱魃の影響がほとんどなく、田島の梨は裁培を始めてから四代目となり、すっかり地域の特産になっている。
 因みにこの地域での梨の肥料には有機質を使用していたという。大豆粕・油のしめ粕・堆肥等で、堆肥は麦のから(麦わら)を積んで、利根川の草を刈り、人糞尿をかけて何回も積みかえをしてつくる。稲藁は梨畑の地面に敷く。そら豆をつくって緑肥としてふみこんだのは大正初年頃のことであるという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町田島165
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             ・社 格 不明
             ・例祭等 不明
 田島は、群馬県邑楽郡明和町を構成する地域の一つである。大部分が田畑となっているが、県道沿いには住宅などが集中する区域も見られる。また、邑楽郡明和町内の中央部に位置しているこの地域は、西側には新里、南は江口、北には南大島等の地域と隣接している。
 新里菅原神社から埼玉県道・群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行する。途中進行方向左側に明和町立名和中学校が見え、そこから更に800m程進むと、県道沿い左手に田島長良神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する田島長良神社
『日本歴史地名大系』 「田島村」の解説
 南大島村の南に位置する。天正一九年(一五九一)館林城主榊原氏により検地が行われ、大荒木郡佐貫庄田島之郷検地帳(奈良文書)が残る。末尾が欠落しているため全容はわからないが、下田二一筆・上畠二七筆・中畠二四筆・下畠七四筆・屋敷五筆が数えられ、名請人のほかに分付百姓の記載がある。大荒木郡は邑楽郡の古訓表記である。慶安四年(一六五一)の検地帳写(同文書)によると、上田五町一反余・中田三町四反余・下田一五町五反余、上畑九町二反余・中畑八町五反余・下畑一六町三反余、屋敷一町六反余。名義人計六五、うち村内四五・村外二〇(江口村一七・新里村三)、屋敷三〇筆。寛文郷帳によると田方二三〇石余・畑方二四六石余、館林藩領。
        
                    拝 殿
            この社も創立年代・由緒・社格・例祭等不明
 
 拝殿の左側に祀られている境内社・八幡社      社殿奥に祀られている石祠二基
                               詳細不明
 田島長良神社の詳細は不明であるが、「明和町HP 明和町の文化財と歴史」によると、この地域には「正和の板碑」と称する鎌倉時代後期に造られた板碑が田島地域の青木氏屋敷内で出土している。
 この板碑は井戸掘りをしている途中出土したものといわれ、高さ89㎝、幅29㎝、鎌倉時代後期の正和4年(131536日に造立したものである。板碑は鎌倉時代中期から造立された塔婆形式の一つで、関東地方では埼玉県秩父郡長瀞町付近から産出される緑泥片岩(りょくでいへんがん)が主として用いられている。その始まりについては五輪塔の地輪を長くした板塔婆、あるいは長足塔婆の形状を木製から石材にしたものと推察できる。この造立の目的は、亡者の追善供養に建てたものは墓地に、生前に後生を願うために建てたものは路傍などが多いようである。この板碑の梵字は阿弥陀仏を表している。阿弥陀仏は平安時代末期、法然上人によって立教開宗(りっきょうかいしゅう)された浄土宗によって広められたものであるが、身分の高下、職業の貴賤を問わず、またどのような罪深い人でも阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱える者は阿弥陀仏の救いにあずかり、必ず極楽往生できるという平易な教えであったため、庶民の間に急速に浸透していき法然死後も浄土真宗を開いた親鸞上人等によって後生次第に発展していったようである。
 正和の板碑は、明和町の文化財に指定されている。
        
                             境内に祀られている富士塚
      塚上に石祠が一基、塚の左右に「烏帽子磐」と「小御岳」の石碑がある。



参考資料「日本歴史地名大系」「
明和町HP 明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等

        


拍手[1回]