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古社への誘い 神社散策記

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埼玉古墳群(10) 稲荷山古墳の被葬者は

 稲荷山古墳は大山陵古墳と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなる。また埼玉古墳群の二子山古墳や鉄砲山古墳も大きさは異なるものの稲荷山古墳と同じ墳形をしており、やはり大仙陵古墳をモデルとした墳形と見られている。
 従来の説では、このことから古代ヤマト朝廷が5世紀末には東方へ勢力を伸ばした一つの証拠と解釈され、その結果畿内中心の統一権力と、その他地方への波及という単純な図式でここでも多くの考古学者から賛同され、継受されているのが今日の現状である。


       
  埼玉古墳群の古墳では二子山古墳、稲荷山古墳に次ぐ大きさ109mの前方後円墳である鉄砲山古墳
                          築造推定年代は6世紀後半。


 前章までのおさらいで何度も確認するが、この埼玉古墳群は築造時期も遅く、不思議にも他地域における古墳形態のなかの発生期にあたる初期小古墳が存在せず、いきなり稲荷山古墳という大型古墳が出現している。いわゆる論理的思考法の基本である「起承転結」の概念のひとつである「起」句がこの古墳群には存在しないことであり、このことはすなわちその勢力は埼玉郡内の元々の土着の勢力ではなく、既に大形前方後円墳を築造するだけの力を持った勢力が外部からやってきたのでではないかと考えた。
 その後
埼玉の津を領有し、周囲との交易にて莫大な富を得た埼玉古墳群の大王は生前から陵墓を築造し、その築造する際に関東地方近郊の大型古墳を参考、模擬し、より見栄えの良い古墳を造ったのではないか、という次なる仮説を立てた。では現実に参考とした古墳は果たしてあったのだろうか。またあったとしたらどの古墳だったのだろうか。

 その前に一つだけ確認したい事項がある。埼玉古墳群の最初の古墳である稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文には、乎獲居「臣」(おわけのおみ)は「杖刀人の首」であり、また「吾、天下を左治する」と書かれている。この「杖刀人の首」と「吾、天下を左治する」とは具体的にどのような意味があるだろうか。

・ 杖刀人の首は「刀を杖にする人」で、要するに門を守る守護であり、武人のことであり、大王のもとで軍事を担当する意味。「首」というのはその長という意味。つまり軍事担当の最高司令官といったところか。

・ 「吾、天下を左治する」というのは、王が幼少や女帝である時に、大王に変わって成務をとる意味で、後代
「摂政」という言葉に置き換えられ、大体大王の近親者(叔父、義父)やそれに準ずる皇族がその任に就くことが多いらしい。内政担当の最高長官。

 つまり、乎獲居「臣」は「杖刀人の首」、「佐治天下」という2種類の銘文の言葉から、内政、軍事を総括する大王の次の地位、いわば「ナンバー2」としてこの一族を統括していた人物であるといえる。

 この金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)は鉄剣銘文の中でも115文字と大変文字数が多く、これらは5世紀前後のの情報を知るための貴重な第一級的な史料であるし、全国でも他に6例しか存在しない珍しい剣だ。ちなみに稲荷山古墳出土の鉄剣以外の6例は以下の通りだ。

 ・ 稲荷台1号墳出土「王賜」銘鉄剣            千葉県市原市稲荷台古墳群から出土
 ・ 江田船山古墳出土の鉄刀          熊本県玉名郡和水町江田船山古墳より出土
 ・ 
岡田山1号墳出土の鉄刀                      島根県松江市岡田山1号墳より出土
 ・ 
箕谷2号墳出土の鉄刀                 兵庫県養父市箕谷2号墳より出土
 ・ 
中国から伝来の中平刀                         奈良県天理市東大寺山古墳から出土      
 ・ 七支刀
                      奈良県天理市石上神宮に保存

 古墳時代には主に古墳の発掘、調査によってこれまでに多くの鉄製の刀、剣の出土、発見が報告されているが、上記の銘文の入った刀、剣はいたって少ないのが現状である。これから先もこの傾向は基本的に変わらないと思う。考えてみると当たり前のことで、刀や剣は当時成人男性で自らの身分を証明する為に身に着けていたいわば日常生活品で、製造数も基本的に多数であったろう。それに対して経文鉄剣はある意味名誉勲章の類のもので、儀礼や祭祀等、特別な行事に使用するか、個人的に大事な場所に保管するかどちらかである。地方の首長すらめったに所持することができないもので、日本全国を見ても大変珍しい鉄剣を何故乎獲居「臣」は獲加多支鹵大王から下賜されたか、という問いにほとんどの歴史学者は沈黙している。

  この乎獲居「臣」は余程大王の信任が厚かったと見えて、稲荷山古墳の後円部第一主体礫槨より、経文鉄剣や豊富な副葬品をもって葬られており、一族の中でも大王並みかそれに準ずるかなりの実力者であった可能性が高いとみることができよう。
 また先ほどから乎獲居臣の臣に「 」をつけているがこれにも意味がある。この銘文鉄剣には乎獲居「臣」の祖先八代の系譜を記しているが、乎獲居「臣」の父(カサハヨ)と祖父(ハテヒ)には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかないのに対して、乎獲居の「臣」は姓(かばね)の一つで、姓の中では「連」と並んで高位に位置していた。5世紀当時の姓制度の中で臣下の中でも最高位に位置している「臣」を何故乎獲居臣が名乗ることができたのか、このことは非常に意味が重いと考える。

  つまり考えられることは次の通りだ。この乎獲居「臣」はこの銘文鉄剣を受け取るに値する大きな業績を自らの智謀と政略、戦略によって一代で挙げたということではないだろうか。しかしこの事業は想像を絶する困難の連続だったのだろう。乎獲居「臣」は一身を擲ってこの難事業をやり遂げた。そうでなければこの経文鉄剣を下賜される絶対的な理由とはならない。考えられる以下の項目が経文鉄剣を下賜された特別な理由だったのではないかと現時点で推測する。

① 「埼玉の津」を実効的に支配し、埼玉郡にまでその勢力範囲を広げた。
② その前後におそらくこの地を支配していたであろう古参の大勢力との戦いに勝利した。
③ 「埼玉の津」の経済的利点、文化の広がりを最大限に利用し、武蔵国の覇者となり、関東一の大勢力を築き上げた。
④ 自分を引き立ててくれた恩人であり、苦労を共にした王の墓を埼玉郡の稲荷山の地に築いた。 

 経文鉄剣の記された年代である辛亥年(471年)は、項目①から項目④までの事業を完全に達成した記念塔として現在の大王である(獲)加多支鹵大王から下賜された名誉ある勲章だったのではなかろうか。




 ところで通説において乎獲居臣の家は代々は埼玉から中央のヤマトに出仕し、代々天皇家に杖刀人の首として仕えていたが、乎獲居臣は獲加多支鹵大王である雄略天皇の役所が斯鬼宮にあったとき治天下を補佐し、役目を終え埼玉に帰り、そのときのことを記念し鉄剣をつくった、と大方の歴史学者から解釈され、稲荷山古墳の被葬者は経文鉄剣の所有者である乎獲居臣と同一人物であると見られている。
 しかし『日本書紀』雄略天皇の項とこの経文鉄剣の内容、さらに稲荷山古墳の出土状況を考えると幾つかの矛盾が生じてくる。以下の点だ。

① 『日本書紀』雄略天皇の項には、この天皇を補佐する「乎獲居」という人物がいたという記録が全く存在せず、ましてや経文鉄剣の下賜についての記載もない。そもそも関東の埼玉を根拠地とする地方豪族が、代々杖刀人の首としてヤマトに出仕し、しかも天皇の治天下を補佐する身分となりうることができるか、という基本的な問題にだれも理論的に証明した書物等がない。奈良時代に道嶋宿禰嶋足という陸奥在地の豪族の中で唯一中央官僚として立身し、官位は正五位上・近衛中将に上り詰めた人物がいたが、この人物は奈良時代当時余程珍ったようで「続日本記」等に記載されている。このようにたとえ優秀な人物であったとしても中央出身者でない人物が中央に出仕し、更に立身出世することは非常に難しい時代であったし、もし出来たならばこのことを記載しないという事はまずありえないことだ。しかし同じ『日本書紀』でも安閑天皇の項において「武蔵国造の乱」の当事者である笠原直使主や笠原小杵の名前やこの内乱の顛末が簡単ではあるが記載されている。
 歴史学者等、このような問題に誰も見向きもしないのは不自然ではないだろうか。
② 雄略天皇が即位し政務を行った宮は、「近畿の泊瀬朝倉宮」であり、皇子時代「大泊瀬幼武尊」と呼ばれたように、「泊瀬の朝倉」は幼少時代から慣れ親しんだ場所で「宮」とする根拠として適当であるが、経文鉄剣に出てくる「斯鬼宮」とは実は同一地域ではない。大和国穴師西方は三輪山の西北、巻向駅の東方の地域は「磯城」(しき)の比定地なのだが、この地は朝倉の比定地である三地域は三輪山の南であり、朝倉の比定地と磯城の比定地には地理的に大きな隔たりがある。このように「磯城宮」と「朝倉宮」は明らかに別地である。したがって、「斯鬼宮」にいた「獲加多支鹵大王」を「朝倉宮」にいた「大泊瀬稚武皇子」、つまり雄略天皇に当てるのはまったく根拠のない説で、この二人は別人物だったこととなる。
③ 稲荷山古墳で経文鉄剣が発見された後円部第一主体礫槨とすぐ近くにあ第二主体る粘土郭はどちらも後円部の中央からややずれたところにある。中央にこの古墳の真の主体部が有り、真の被葬者がいたと考えられている為、稲荷山古墳は乎獲居臣の墓とは到底考えられない。

 このように「日本書紀」の記述をあまりに盲信しすぎて①から③の矛盾に対して明確な回答ができない現在の定説、通説に対して事実はもっと単純で明快ではなかったか。それはからこの稲荷山古墳の真の被葬者は乎獲居臣ではなく埼玉古墳群の大王という事である、ということだ。また稲荷山古墳内の墓の配列から経文鉄剣を乎獲居臣に与えた人物は、遠い近畿の雄略天皇ではなく、「佐治天下」の言葉通り、距離的にも常に乎獲居臣が傍にいて支え続けていた埼玉古墳群の大王と考えたほうが自然ではないかと思われる。
 たしかに「古事記」「日本書紀」は古代日本史を語る上においても、日本人としての精神的な拠り所としても第一級資料であることは間違いない。但し記紀等の中央の書物は中央の「目」から見た主観の歴史が反映され、おのずと「地方」軽視の風潮にともすると陥りやすい。少なくとも埼玉古墳群の経文鉄剣の内容や、稲荷山古墳の石室の配置状況から推測される当時の埼玉地方には古代大和中心の世界、「日本書紀」の記述とは全く違う世界、違う空気を感じずにはいられないのは自分ひとりだけなのだろうか。

 稲荷山古墳出土の鉄剣を調べていくと当時の状況が少なからず解ってきた。さらに上記の事項を参考に時空列で物事を纏めると実はもう一つの事実に必然的に突き当る。稲荷山古墳の真の被葬者は(獲)加多支鹵大王でも乎獲居臣でもない。そう、(獲)加多支鹵大王の前代にあたる大王にあたる人物の他該当する人物はいない。



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