古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大御堂三嶋神社及び大御堂浅間神社

大御堂三嶋神社】
        
            
・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂1131
            ・ご祭神 事代主命 ・大山祇命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019
                 新嘗祭 1211
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2290417,139.1189839,17z?hl=ja&entry=ttu
 上里町大御堂地域は町南端に位置し、児玉町の真北にある。筆者は熊谷市西端に居住している為、児玉町方向に向かう際には、ほぼ埼玉県道75号熊谷児玉線を使用する。今回も同県道のルートで児玉町方向に進み、「大天白」交差点を右折、国道254号線合流後は道なりに神川町方向でJR八高線に沿って進路をとる。その後4㎞進んだ「元阿保」交差点を右折し、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町市街地方向に進む。静かな田園風景が周辺一帯広がる中、1㎞程先に「児玉三十三霊場 吉祥院」の看板が見え、そのすぐ左側に大御堂三嶋神社が静かに鎮座している。後日地図を確認すると社の鎮座地は大御堂地域の集落西端にあたるようだ。

 駐車スペースは広く確保されている。境内に「西大御堂集落農業センター」があり、一旦社を通過し、すぐ先の十字路を左折するとすぐ左側に社の境内入口があるので、集落農業センター近くの一角に車を停めてから参拝を行う。
        
              県道沿いに鎮座する大御堂三嶋神社

 大御堂地域にある吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、武蔵七党の丹党に属した有力武将安保実光が再興したといわれている安保氏の氏寺で、中世の館跡といわれており、周りには堀があって、土塁の一部も残っている。
 古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『新編武蔵風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。

             
                     社号標柱
        
                                      鳥居を過ぎてすぐ参道左側に設置されている案内板

 三嶋神社 御由緒
 □御縁起(歴史)  上里町大御堂一一三一一
 当社は、西大御堂集落の西端の字三島西に鎮座する。祭神は、事代主命・大山祇命の二柱で、境内の欅や杉などの木々が、鎮守の杜にふさわしい景観をなしている。
 当社の創建年代は明らかでないが、吉祥院の境内にあったものを明治初年の神仏分離に際して現在地に移転したという。吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、阿保山真光寺と号し、開基は小野氏で、後に安保城主安保肥前守忠実が中興したと伝える。
古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。更に、同書の大里郡久下村(現熊谷市)の項などによると、同村東竹院の嘉禄三年(一二二七)五月日の年紀をもつ鐘銘に「奉鋳 武州賀美郡阿部村真光寺鐘右志者為信心大壇那小野氏沙弥妙阿弥陀仏」とあり、この鐘は戦国期に軍勢により奪取され、のち久下村で掘り出されたものという。この吉祥院の創建の古さから推して、その境内に村の鎮守として祀られていた当社も同様に古い勧請をうかがわせる。
 明治三年に覆屋を再建し、同五年に村社となり、大正四年には御即位記念として拝殿を新築し、昭和二年には社務所を新築した。
 □御祭神 事代主命・大山祇命
                                      案内板より引用

        
          広く静かな境内である。その先には大御堂三嶋神社が鎮座している。
       
                           境内に聳え立つご神木
        
                                    拝殿覆堂
 
   社殿左側に鎮座する石祠、石碑等。       社殿右側にも多くの石祠等が鎮座。

 大御堂三嶋神社が鎮座する大御堂地域は、地形上本庄台地に属する。この本庄台地は北武蔵台地を構成する台地群の一つであり、他には児玉丘陵、櫛挽台地、松久丘陵、江南台地も含まれ、今から約3万年前に神流川によって運ばれた土砂が堆積(たいせき)した後に浅間山などから噴出された火山灰が積もってつくられたと考えられている。
 この北武蔵台地一帯は渡来人による文化伝承も早く、利根川を挟んで毛国とも接している地域からか、重要な古墳や城が多い地域であり、また緑泥片岩の産地(長瀞・小川)が近い為、県内の殆んどの板碑がここに集中して存在している。



大御堂浅間神社】
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂736
             ・ご祭神 木花開耶毘賣命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019日
                  新嘗祭 1111日
 大御堂地区にはもう一社、旧村社が存在する。三島神社が鎮座する十字路を東側に進み、埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線と交差する信号のある十字路を右折する。250m程南下すると左側に大御堂浅間神社が左側に見えてくる。
        
                                           大御堂浅間神社正面
        
                                       鳥居の左側に案内板あり
 浅間神社御由緒   上里町大御堂七三六
 □御縁起(歴史)
 大御堂は、神流川右岸の洪積台地に位置し、地名は地内の吉祥院真光寺がかつては大伽藍で、境内に建つ阿弥陀堂が「大御堂」と呼ばれていたことに由来する。
 当社は、塚の上に奥宮、その東麓に本社をそれぞれ祀っている。その創建の年代は明らかでないが、『風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。宝蔵寺は京都醍醐三宝院末の真言宗の寺院で、富士山威徳院と号し、当山派修験を兼帯して近郷三十余ヶ寺を支配したとされる。開山は不詳であるが、開基は八幡山城主松平玄蕃頭清宗で、中興開山は寛永十二年(一六三五)一月に入寂した法印盛胤である。富士山の山号から推して、当社の勧請は宝蔵寺の草創からさほど下らない時期に行われ、遅くとも中興開山の盛胤の代には既に祀られていたものであろう。
 神仏分離を経て、当社は明治五年に村社となった。更に、大正五年には字雷電林にあった雷電神社を合祀した。この時、雷電神社の本殿が壮厳な造りであったことから同社の社殿一切を塚の東麓に移築して当社の新たな社殿とし、従来の塚上の本殿は奥宮と改称した。
 この社殿の移築に際しては、横に並べた二台の大八車の上に載せて、挟い農道を運ばなければならなかったため、大八車の車輪を補強したり、農道を補修したりと大変な苦労であったという。
 □御祭神 木花開耶毘賣命…安産・子育て
                                      案内板より引用
 
 
          拝 殿                 拝殿の右側には塚があり、
                          その墳頂に奥宮が鎮座している。
 
 元々は14m程の古墳であったが、江戸時代に富士山を信仰する富士浅間講の富士塚として現在の形に改められたという。頂上には浅間神社奥宮が鎮座しているが、ここが上里町でもっとも標高が高い地点でもある。
 
 道路を挟んで西側には「不二山宝蔵寺」があり、『新編武蔵風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。塚の中腹に鐘楼(写真左)があるのはその名残りであろう。また拝殿手前、右側には境内社が鎮座する(同右)。
       
        拝殿左側には社号標柱が立つ。    拝殿左側奥にも境内社・石祠等が見える。
       
                社号標柱近くに聳え立つご神木

            

 県道西側には宝蔵寺があり、道路沿いには町指定文化財である「マキの大木」が聳え立つ。宝蔵寺管理。樹齢は約800年と推定。昭和37222日指定。
 今でも幹回り5m程、高さ14m程の大木だが、昔はもっと大きかったという。そのため、戦争中、児玉飛行場の飛行機の発着に支障をきたすということで、上部を切って短くしたという経緯がある。木の下には、槇木大明神の碑が建てられている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
上里町公式HP」「埼玉県北部地域振興センター本庄事務所HP」
    「境内案内板」等
         

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