古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下池守子安神社

○池守村子安明神の伝承
 神像は一寸八分で、金銅でできていて天女が嬰児に乳をやる形である。 地元民は神宮皇后と言っている。この神宝の子安は、水晶のようで直径は八分ばかり、子育て石の長は二寸ばかり、内一寸ばかり。色は濃墨のようにして形は平らで金粉を塗ったような筋がある。
 昔浅野長政が忍城を攻めた時、神社の人は神像と宝を壺に入れ土の中に埋めた。その標識として柏を植えて去った。社は兵火で燃えたといふ。元禄年間、植えた柏の木が高木となり、毎夜 光を放った。地元民は、おそれてその辺を往来するものが少なかった。ある元気のよい者がいて、柏をきったところ、根より光るものがあった。尚 掘ってみると一つの壺が出てきた。うっかりまさかりを強く当ててしまい、壺は少し毀れた。中を見ると、神像があったので、すぐに社を再建し安置した。婦人・子育・安産を祈るとききめがあるといわれている。天明年間に、社僧が、神像とこの神宝を携えて去った。その夜 熊谷の旅亭に宿泊したところ、奇怪な事あって僧は神像と宝を置いて行方知らずとなった。よって び今のように鎮座していただいた。
 所在地 埼玉県行田市下池守549
 ご祭神 木花咲哉姫命
 社 格 旧村社
 例 祭 不明 
        
 下池守子安神社は国道17号バイパスを行田方面に進み、上之(雷電神社)交差点を左折する。暫く真っ直ぐに進み、上池守(北)T字路の次の信号左側に鎮座している。位置的には行田総合公園の北側になる。隣接する下池森農村センターに駐車スペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
        
           
下池守子安神社正面鳥居とその前には社号標あり
  
  
参道左側にある石室の蓋と思われる石材         境内社 詳細分からず
         詳細不明
        
○新編武蔵風土記稿による子安神社の由緒
(中池守村)子安明神社
 村の鎮守なり。神体は18分の銅像にて、其形嬰児の乳房を含る様なり。土人神功皇后の像なりと云。天正18年忍城攻の時、此邊兵火の災に罹りしかば、社人恐れて神体を壷に納めて、土中に埋め、其上に栢の木を植えて、後のしるしとしてにげ去れり。其後元禄年中故ありて其根を穿ち得たりしかば、社を造立し、勧請せしと云。此時鍬の当りし跡なりとて、像の背に少さき疵あり。当社は安産を祈れば、果して霊験ありと傳ふ。村持
 神宝子安玉。径8分許水晶の如くにして、光甚だうるわしきものなり。
 子育石。長さ2
寸許。色は青みを含み濃淡あり。其間金粉を以て書し如く、子持筋あり

 下池守子安神社の創建年代は不詳。但し天正18年(1590)忍城攻めの時、この地は兵火をこうむり、社人は逃れる時神体を壺に納め土中に埋め、この上に柏の木を目印として植え、その後、元禄年中に至り像を掘り起し新たに社を建立したといい、戦国時代には鎮座していたものと考えられている。
        
『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』には61話の昔話が掲載され、その中に「子安神社 下池守」の記載があり、全文紹介する。
 下池守の子安神社は、霊験あらたかな安産の神として知られ、古くは各地から子安講(こやすこう)の参拝団が、三月十七日の祭祀に集まったといいます。それだけに、おもしろい伝説がたくさんあります。おもしろい伝説というのを調べますと、確かにありましたので、今日はそのお話といきましょう。
 村の鎮守となった「子安神社」の御祭神は「木花咲哉姫命」であります。そして内陣には赤子を抱く子安観音像を安置しております。また、文政五年に作られた神宝筥ばこの中には子安玉、子安貝、子育て石の三つの御神宝が納められております。
 今からおよそ四百年前の忍城水攻めの時、石田勢の北の攻めは浅野長政が担当しておりました。当時城攻めの常として、彼らは付近の民家、社寺をすべて焼き払う作戦をとり、須加城を落とした石田勢は一挙に埼玉に南下し、浅野勢は西に向かって焼き打ちを続けておりました。農民は難を逃れるに先立ち、子安観音像と三つの御神宝を壺に入れて土の中に深く埋めました。そして後でわかるように、柏の木を一本植えて逃げたといいます。三つの御神宝は「玉質水晶の如く直径八分計り、子育て石は長さ二寸計り、内一寸計り」というものでした。それから、ちょうど百年程経ち、江戸元禄時代となりました。その時の柏の木は高さ三メートルを超える喬木となっておりましたが、いつの頃からか、その目印の柏の木が「夜になると光る」という評判が立ち、気味悪がってその前を通る者がいなくなりました。
 ある日、一人の霊力の強い男によって、その柏の木を切り倒すことになりました。すると、切り株の下の方の絡み合った根っこの中が光り輝いており、不思議に思った男は、思い切って 鉞を振り下ろしました。根っこの抱いていたものは、伝説の壷でした。「誤りて鉞をいたく当てれば壺を少し打ち砕きぬ」と、記録が残っていますが、御神像の背と腰のあたりに、その時の鉞の傷が確かに残されております。
 その後、観音像と御神宝を納めた子安神社が再建されました。「忍名所図会」という記録によりますと、神社の社宝に「水晶の玉」と二寸ばかりの「子育石」があると書いてあります。両方ともその通りの大きさで、特に子育て石は那智黒石で「濃墨のごとくして形平に金粉を置きたる如き筋あり」とあります。一見、鶏の卵をたて割りにしたような形でありますが、中にある筋二本が黒い貝を思わせます。今では、子育て石といわず「試金石」と言われております。なぜならば、いつの頃からか、「この御神像は金で出来ている」と噂になり、その子育て石になんと御神像の鼻をこすりつけてみたというではありませんか。確かに表の丸味のある方の隅っこに、数本金色の筋がついております。そして御神像の鼻が、青銅色がとれて金色になっており、これもまた伝説の通りでありました。
 さらに「忍名所図会」には、「天明年中に、社僧、神像並びにこの神宝を携えて去る、その後熊谷の旅亭に宿たるに奇怪ありて神像並びに二宝を捨置き、僧は行方しらずなりぬ」とあります。地元下池守地区に伝わっている話では、やはり社僧が神像二宝を盗み出したのですが、なんと近くの橋の所まで行くと、社僧は急に腰が抜けてしまい、歩けなくなってしまったという話であります。いずれにしましても、この珍しい形の御神像と三つの御神宝は今日まで無事に伝えられているようですよ。めでたし、めでたし。
        
                   庚申塔地蔵尊等
 『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』では子安神社の話の中に出ている子育て石である「那智黒石」にも丁寧に説明がされている。
那智黒石」
 那智黒石が文献にあらわれる最初は「紀伊続風土記」で、このあたりで採れる黒石は相当古くから知られていました。この地にある熊野本宮大社は、熊野信仰で有名な格式のある神社であります。熊野速玉神社、那智大社のいわゆる熊野三山は平安の末期より「「蟻の熊野詣」の時代で、いわゆる末法思想が起こり、仏法が衰え、社会は乱れて、世は末世と考えられ、人々は争って、西方浄土に往生することを願いました。そして熊野詣での証しとして、その黒石をすくい、あるいは山脈に露出した熊野の山岳に似た黒石を掘り出し、熊野から帰った後も、往生の念仏を念じ、手すりあわせ磨いているうちに光沢が出てくるので、そこに「極楽世界」の荘厳さを思ったに違いありません。いずれにしても、その名の由来は、人々の口から口へと伝言で伝わり、いつのまにか那智黒石といわれるようになったそうです。
        
 下池守子安神社のご祭神は木花咲哉姫命である。日本神話に登場する女神であり、非常に美しく桜の花の名の語源ともいわれている。また作者不明ではあるものの、平安時代の初期につくられたとされる「竹取物語」のかぐや姫のモデルだとも伝わっている。
 天照大御神の天孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に一目惚れされ、妻となったとあり、日本神話で最も美しいと誉れ高い女神で、古事記や日本書紀などでは別名で登場することも多く、山の神の娘であったころの名は、神阿多都比売(カムアタツヒメ)や神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)などと表記されている。この女神は神話に描かれたストーリーから、幅広いご利益・ご神徳がある神様として日本全国の神社に祀られていて、主には、火難除け、安産・子授けのほか、農業、漁業、織物業、酒造業、海上安全・航海安全などに関する御祭神でもある。
 過酷な状況での出産を無事に成功させた(火の中で無事に3人の御子を出産)ことから、安産や子育ての神様としても祀られていて、御子を育てる際には、お乳のかわりに甘酒を作って飲ませたという神話もあり、そのため、農業や酒造繁栄の神様としても大切にされている。
 木花咲哉姫命は本来富士浅間神社の主祭神で富士山の神様だが、民間信仰の子安神と結びつき、子授けや安産の神として庶民生活に密着して広く信仰されていく。この神様が非常に庶民的な顔を持つようになったのは神話に描かれる内に秘めた強靭な母性力にある。
 古来、日本では出産を控えた女性が安産を願うという信仰はさまざまな形で広く行われていた。そうした民俗信仰のなかで代表的なものである子安信仰が、神話のイメージと重ねられたのであろう。

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