古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鶴ヶ塚古墳


        
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所在地 埼玉県加須市町屋新田622
             ・形 状 円墳(前方後円墳の可能性あり)
             ・規 模 径15m 高さ3m
             ・指 定 埼玉県選定重要遺跡
             ・指定日 1976年(昭和51年)101
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1518213,139.6014811,18z?hl=ja&entry=ttu
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」では出土品に埴輪、前方後円墳の可能性ありと記されている。埼玉県選定重要遺跡 1976年(昭和51年)101日指定。
 なお、墳丘から靫型埴輪の下半分が出土したため、古墳と認定されたという。
        
     町屋新田天照皇太神宮の正面鳥居右側に立派な木製の看板が設置されている。
『新編武蔵風土記稿 町屋新田村条』には、「町屋新田は本村の名主三左衛門の先祖六蔵といへるもの、寛永の始本村の百姓等をすゝめて開設せし地にて、其開けざる以前は鶴ノ塚といひし原野なりしといへり」と記載され、この地域が開墾前には「鶴ノ塚」と呼ばれていた原野であったという。
 また境内には、天照皇大神、稲荷社、浅間社等祀られているが、そのうちの浅間社は、戦前までは北に接してあった浅間塚上にあったが、戦後、ここに移されたものであるといい、その関係で、地元ではこの塚を「鶴ヶ塚」とは呼ばず、「稲荷塚」とも呼んでいたという。
        
                             鶴ヶ塚古墳の案内板
「鶴ヶ塚古墳と大松」
 一見方墳のように見えるが、重要遺跡調査書には径15メートル、高さ3メートルの円墳と記載されている。しかし、かつては前方後円墳ではなかったかとも思われる
 南側には手子堀川が接して流れ、西から北に灌漑用水路が周溝のように接して設けられている。墳上は殆んど平らに削られ、天照皇大神、稲荷社、浅間社等がある
 浅間社は、戦前までは北に接してあった浅間塚上にあったが、戦後、ここに移されたものである。地元ではこの塚を鶴ヶ塚とは呼ばず、稲荷塚とも呼んでいたという
 また、この古墳上には樹令三百年余といわれる大松がある。この松は、目通り直径1.2メートル余もあり、四方に張り出した枝振りは自然に整っていて、その姿は一幅の風景画を思わせるものがある
 昭和五十五年三月 加須市
                                      案内板より引用
        
                町屋新田天照皇太神宮正面
 古墳の面影は失われて、神社の基壇として四角く残るのみである。しかし社があったからこそ、この古墳は形状は崩しながらも現在まで残っていて、語り継がれてきたのであろう。上記の案内板には「浅間社は、戦前までは北に接してあった浅間塚上にあったが、戦後、ここに移された」とあり、少なくとも「浅間塚」は塚状(古墳)として戦前までは存在していたが、戦後「移された」、つまり浅間塚のあった場所は開発され、今は無くなったということだ。
        
                              社殿からの一風景
 現在鶴ヶ塚古墳は「埼玉県選定重要遺跡」の指定を受けている。この埼玉県選定重要遺跡」とは、日本の埼玉県の教育委員会が、歴史上または学術上の価値が高いものとして選定した、埼玉県内の遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地)である。1969年(昭和44年)101日と1976年(昭和51年)101日の2回の選定により、計161遺跡が選ばれている。
 対象となるものは考古学における遺跡(集落跡・貝塚・古墳・城跡など)であり、文化財としての種別は、文化財保護法および埼玉県文化財保護条例に定める埋蔵文化財(土地に埋蔵された文化財)にあたる。その中で埼玉県教育委員会が特に重要と評価したものを選定し「重要遺跡」として呼称・把握した、県独自の保護制度である。
 そのため、国・県・各市町村が指定(あるいは登録・選定・選択・認定)した他種別の文化財(記念物の史跡・旧跡など)と重複して選定されているものも存在するという。
 1976年(昭和51年)の第2選定以降、新たな選定は行われていないが、『埼玉県文化財目録』要約欄には、第2選定以降の調査による知見も反映されるようになっている。


 ところで、鶴ヶ塚古墳・町屋新田天照皇太神宮の道を隔てた東側には、「月待塔(つきまちとう)」の一つ、「十九夜塔」があり、その周辺には休憩スペース等も設置されている。
        
                    十九夜塔
 月待塔とは日本の民間信仰の信仰で、特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。
 文献史料からは室町時代から始まり、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行し、「十五夜塔」「二十三夜塔」が特に普及していた。
 旧暦19日の月待の記念として、十九夜講中によって造立された十九夜塔は、ほとんどは女人講で安産などを祈願したそうである。
        
                  十九夜塔の案内板
 十九夜塔  所在地 加須市大字町屋新田
 この十九夜塔は、地元では十九夜様と呼ばれ、近在の各家庭の女性には安産の神様として大変敬われており、産前、産後には必ずお参りする風習になっている
 昔は、安産や育児、婦人の病の祈願が盛大に行われていたが、現在は、地元の各家庭の主婦が年二回、春と秋の彼岸前後に当番の家に集まり、手料理を作り、それを食べながら話し合いをし、十九夜塔にお参りをしている。
 なお、この十九夜塔は、碑文によれば天保六年(一八三五)の造立である。
 昭和五十六年三月 加須市
                                      案内板より引用 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「案内板」等
                    

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