古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上砂氷川神社

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町上砂24
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 上砂氷川神社へのルートは途中まで松崎八幡神社と同じで、松崎八幡神社からほぼ北方300mくらいしか離れていない。大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到達するが、そこを左折し、100m進行するとほぼ目の前に上砂氷川神社の社叢が見えてくる。
 残念ながら地元の集会所や社務所などもないため、周辺に駐車スペースはなく、県道脇一般道の適当な路肩に停めて、急ぎ参拝を行った。
        
                                       鳥居正面
        鳥居は県道沿いにある為、周囲の交通状態を確認し撮影を行う。
       
                       鳥居横に聳え立つ巨木
       紙垂等はなかったが、一番目立つ木であるので敬意をこめて撮影。

 決して大きな社ではないが、こじんまりと纏まっている印象。手入れも行き届いていて、日々の氏子様方の思い入れに感謝の念を感じられずにはいられない。
 一の鳥居を越えるとすぐに二の鳥居があり、その鳥居には「氷川神社」と彫られた社号額がある。
        
                                 拝  殿
        
                      拝殿手前にある御社殿造営顕彰碑
 御社殿造営顕彰碑
 當社の御創建は不詳であるが寶永二年十月宗源宣旨により氷川大明神の神号を授かり翌三年御社殿が造営される等往古より郷人が厚き崇敬を集めていたことが窺える。昭和五十年には御本殿覆殿の改築をなす等その尊厳護持に万全を期して参りましたが近年老朽化が進み御造営やむなしと思われし折東京都北区滝野川鎮座八幡神社宮司青井哲水氏より堂地御在住の氏子にして當地上砂ご出身の山本うめ氏(旧姓稲原)御社殿造営費御奉納の御趣旨を賜り早速に御造営委員会を発足して御造営に着手今般荘厳なる御社殿が竣工なり氏子一同感激の極みであり今後更なる正心誠意を尽くし祭祀の厳修と御神徳の宣揚を約し両氏の赤誠の御功績を末長く顕彰するものである。平成十八年十二月吉日
                                     
境内石碑より引用

 氷川神社 吉見町上砂一七七(上砂字窪町)
 比企郡の東部に当たる荒川右岸の低地には、氷川神社が南北に帯状に分布する。当社はこのうちの一社であり、大字上砂の鎮守として祀られている。
 『風土記稿』上砂村の項に「氷川社二宇 村の鎮守なり、観音寺持」とあるように、元来、上砂には氷川社が二社あり、それぞれ本田・新田の鎮守として奉斎されていた。本田の氷川社は稲村家の氏神として祀られ、後に本田の鎮守となったと伝えられている。稲村家の初代新左衛門は明暦年間(一六五五-五八)に没していることから、それ以前に創建したものと考えられる。本田・新田の関係からみて、その後の新田開発に伴い、この本田の氷川社を新田に分祀したものであろう。ちなみに、新田の検地は寛文十二年(一六七二)に行われた。
 宝永二年(一七〇五)には、二社共に神祇管領から大明神号を拝受した。これにより名実共に二社が村の鎮守としての地位を確立したことは想像するに難くない。事実、明和四年(一七六七)の「上砂村青蓮山観音寺起立書」には「正一位氷川大明神 二社惣鎮守免田有之」と記している。
 明治初年の社格制定に際して、本田の氷川神社はもともと稲村家の氏神であったことを理由に旧に復し、新田の氷川神社が村社に列した。これが、現在の当社である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
          社殿の左右に鎮座する境内社(写真左・右)詳細不明。

 上砂氷川神社が鎮座する「上砂」という地名に関して、上砂の「砂」は文字通り単なる砂で砂地の意味で、地形的に見ても、荒川沿岸の河川から生み出される大量の砂地であるのでこの名が生まれたのであろうと当初は簡単に考えた。
 但し「新編武蔵風土記稿・上砂村条」において「小田原役帳に松山衆知行役狩野介卅七貫文吉見郡上須奈(すな)乙卯儉見辻と載せたり」との記述があり、江戸時代までは「砂」ではなく「須奈」という何気に雅な名称であった。
        

 大里郡神社誌において「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」とあり、その後寛永二年神主須長出羽守良重署名に「中臣磐渕卿勅使として下向あり、其子磐丸卿を止めて神事を執行せしむ、是家神主の先祖なり、後に神と崇む、今の東宮なり。其後数代を経て、中臣の春友卿と云人あり、京に上り、時の関白藤原武智麿公の智に成り藤原姓を賜はる。其後数代を過て藤原房顕卿と云しは、亀卜の道を学びて上洛し、卜部の職に任ぜらる、二男を出家せしめ華蔵院開基なり、当家代々の菩提寺となさる。それより遥の世を経て、須永上野大掾藤原長春と云人あり(中略)。風土記稿相上村条に「神明社の神主須永大内蔵」。中曽根村大日堂明和六年供養塔に相上村次長太郎兵衛。吉見神社寛政三年午頭天王碑に須長豊次郎・須長房吉、嘉永二年御神燈に須長忠右衛門、明治二十一年水神楽碑に須長弁三・須長藤吉・須長房吉。白川家門人帳に慶応四年相上村吉見大神宮祝須永筑前日奉連宣興。日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見える。

 つまり相上村吉見神社の神職「須長・須永」氏が存在していて、この須永は嘗て「須中・須長・砂永・砂賀」と表記されることもあり、上砂村の別名である「砂・須奈」とどことなく類似しているようにも見える。
 しかしこれ以上の考察は、却って筆者の自己都合の推論に陥る恐れもあり、今回は一応ここまでに留め、今後の宿題としたい。

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