古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中曽根八幡神社

 吉見町中曽根地区は、上砂地区の東側で、荒川右岸の標高1718mの沖積低地に位置する。古くは吉見郡に属し、「日本古語事典」によれば、ソネ(曽根)は、ス(石)ネ(根)の転呼。スはシ(石)の原語、ネは峯、畝などのように丘堆状の地形にも用いられる。つまり、石ころの多い丘堆状の土地との意味として説明していて、「熊谷市史」にも同様に、古い言葉で「埆」という字をあてている。川によってできた砂礫の多いやせた荒地として紹介している。
 
一方、松尾俊郎氏は曽根という地名は、低湿地帯などによくある自然堤防のような小高い所を指すとしている。県内に曽根地名は少なくない。加えて「日本地名学」では、それらはいずれも元荒川、古利根川などの河川の沿岸に多く見られ、「ソネ」地名の発生時代は15001700年と、地名由来における歴史の深さを物語っている。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町中曽根384 
             ・ご祭神 誉田別尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 旧暦915  
 中曽根八幡神社は、松崎八幡神社上砂氷川神社と同様に、大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進む。大里比企広域農道と埼玉県道307号福田鴻巣線、同66号行田東松山線が交差する「中曽根」交差点から1.5㎞程吉見町方向に進むと、左側にこんもりとした社叢が見える。残念ながら「みどりの道」から直接中曽根八幡神社正面に通じる道はなく、一旦通り過ぎてから左回りに進むしかないが、目印となる社叢は良く見えるので、間違えることはない。
 社の正面鳥居付近には、駐車スペースも確保されているので、その周辺に車を停めて、参拝を行った。
                 
                             中曽根八幡神社 社号標柱
        
                                     鳥居正面
 このアングルからだと鳥居が3基見える。正面鳥居の奥にあるのが八幡神社の二の鳥居で、右側にある鳥居は境内社のものという。実はもう一基鳥居が右側にあるのだが、それは3基ある鳥居に対して直角に位置し、その奥には天満宮の石碑が立っている。
 
  境内社鳥居の横で、直角に設置されている          二の鳥居                             
        天満宮及び鳥居
        
                     拝 殿
            水害対策であろう、基礎部分には盛り土がされ、川石で補強されている。
 八幡神社 吉見町中曾根二八五-一(中曾根字三角)
 現在の吉見町の全域にほぼ相当する旧横見郡内で、朱印地を徳川将軍家から受けている社寺は、『風土記稿』によれば、慶安元年(一六四八)に家光から二〇石を拝領した御所の息障院をはじめ八か所ある。これらのうち七か所は寺院や仏堂で、神社としては、当社が唯一慶安二年に八石を拝領しているに過ぎない。横見郡内には、当社のほかにも、式内社である横見神社の後身と伝える御所の飯玉氷川明神社や、同じく伊波比神社の後身である黒岩の岩井神社、高負比古神社である田甲の高負比古根神社など、古い歴史を持つ神社があるにもかかわらず、朱印地を拝領していないことから、当時、当社が強い勢力を持っていたことが推測される。
 一方、口碑によれば、当社は、氏子の長島家の先祖が嵐山町鎌形からこの地に移って来た際に、鎌形八幡神社の分霊を奉斎したものといわれ、長島家の墓碑にも延宝己未年(一六七九)に当社を祀った旨が刻まれている。この、「延宝己未年」を当社の創建の年とすると、八石の朱印地を拝領した時には、神社がなかったことになり、話が合わない。また『風土記稿』には、当社に式内社の横見神社の後身であるとの伝えがある旨が記されていることから、かなり古くから当社が存在したことがうかがわれる。したがって「延宝己未年」は、当社の再建か、鎌形八幡神社の分霊を新たに祀った年ではないかと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   社殿手前左側に並んでいる石碑群     社殿右側に接するように鎮座する境内社
                          左から稲荷神社・諏訪神社 
        
                          日当たり良く、広々とした境内。
 嘗てこの中曽根地区から上砂地区にかけて、古い河川の流路跡が見つかっており、江戸時代に実施された「荒川の西遷」の土木事業前の、元荒川が旧入間川と繋がる以前に存在していた乱流状況が少しずつ判明してきた。
 荒川左岸では、前砂地区から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その蛇行河跡は自然堤防も伴ったのだろうが、不思議と現在も道路として残っている。一方荒川右岸では明用三島神社東側から存在した流路がそのまま中曽根地域に進んだかはしっかりと判明はしていないが、中曽根八幡神社の東側に流れていた蛇行河川が、上砂地区に入ると、流路が南方向から反転して、埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線上を北上するような経路ではなかったかと筆者は推測する。

 流路に関しては、細かい所は議論の余地はあるかもしれないが、この流路時期はまさに「さきたま古墳群」の形成・発展時期でもある56世紀ではなかろうか。中曽根地区の北側で、荒川左岸には明用三島神社古墳がある。径55mの古墳埋葬者は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い。河川管理も勿論できたであろうが、その時期の流路も絶妙なバランスで、最高な位置状況だったのだろう。そしてさきたま古墳群の主とも対等な立場で交渉等行っていたからこそ、かの地にこのような古墳が作られたものと考える。                    

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