古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

久米田神社

「延喜式神名帳」に記載されている武蔵国の「式内社」は武蔵国 21 郡のうち15 郡である。
・荏原郡(2座)、都筑郡(1座)、多磨郡(8座)、足立郡(4座)、横見郡(3座)、入間郡(5座)、埼玉郡(4座)、男衾郡(3座)、播羅郡(4座)、賀美郡(4座)、秩父郡(2座)、兒玉郡(1座)、大里郡(1座)、比企郡(1座)、那珂郡(1座)。
しかも都筑郡 、児玉郡 、大里郡、比企郡、那珂郡の5郡は郡中に1座(社)しかない郡であり、新羅郡(新座郡)、高麗郡、豊島郡、久良郡、橘樹郡、榛沢郡の 6 郡に至っては、式内社すら存在しない。
 吉見町は町全体が元横見郡という。武蔵国造笠原直使主と笠原直小杵との争い(安閑天皇元年534年)に際して、ヤマト朝廷の支援を受けた武蔵国造笠原直使主がヤマト朝廷に献上した屯倉のうちの一つ横渟(ヨコヌ)に比定される地域で、早くより大和朝廷の直轄地として発展を遂げた地域である。この小さな郡に3座「式内社」が存在すること自体がその証ともいえよう。
「久米田神社」は式内社ではないが、倭文神を祀る倭文神社と称して和銅年間(708-715)に創建された古社で、『日本文徳天皇実録』の天安二年(八五七)九月条に武蔵国の「倭文一神」として従五位下に昇叙したことが載っている。
《卷九天安元年(八五七)九月庚戌【十六】》○庚戌。在武藏國正六位上倭文一神授從五位下
 天安2年(857)前には既に神階(神位)が「正六位上」であった事になり、朝廷側としてもそれなりの由来等の根拠なしで、爵位を授与するとは思えず、久米田神社の創建時期はかなり古いと思われる。
 祭神の建葉槌命は天羽槌雄命の別称で、天照大神が雨岩屋戸に隠れたときに文布を織った神で、飛鳥時代から白木綿の生産が盛んだった当地で機織りや、養蚕に関わる信仰が盛んだったという。
               
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町久米田132
             ・ご祭神 建葉槌命 菅原道眞公
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭(夏祭) 724

 南吉見羽黒神社から東に進む道路を進む。市野川は市野川橋から荒川合流地点まで県主導による改修工事により真っ直ぐに南東方向に進み、道路はそれに対して離れるように東行するが、進行方向に対して右側・市野川左岸は長閑な田畑風景が広がり、道路左側は丘陵地面に民家が立ち並んでいて、北側には大沼、天神沼という灌漑用の溜池が設けられている。道路の両側の風景が違うのも地形上の理由からなのだろうと勝手に想像を膨らます時間を楽しみながら、参拝地に進んだ。
 東に進むこと1.2㎞程で、埼玉県道27号東松山桶川線に交わる「久米田」交差点に達する。そこを左折し、500m程進んだ先の十字路を左斜め方向に進路を変え、暫く進むと正面右手に久米田神社が見えてくる。

 駐車スペースは社の隣に「久米田自治会館集会所」があり、そこの駐車場をお借りしてから参拝を開始した。
               
                                    久米田神社正面

 吉見町久米田地域内には久米田神社を中心にして北側には4世紀前葉の築造と言われている「山の根古墳群」が、県道を挟んだ南側には縄文時代晩期(約2500年前)から古墳時代前期(3世紀代から4世紀前半)の前方後方形墳丘墓3基と方形周溝墓群(28)が検出されている「三ノ耕地遺跡」が存在し、朝廷の直轄地として発展を遂げる以前の遥か縄文時代から人々は定住し続け、また古墳時代には周辺に住む支配層による開発が進んでいた地域であることが分かる。
             
               歴史を感じさせる久米田神社社号標
               
                                     正面神明系鳥居

 倭文神社は機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)と棚機姫命(たなばたひめ。天之八千千比売・天衣織女などとも)を祀る神社で、建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたものである。因みに倭文と書いて「しとり、しずり、しどり、しとおり」と読む。その本源は奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている。しかし、絹織物の技術は仁徳天皇により導入振興されたとされるものと、崇神天皇期(10代)にその創始を唱える倭文神社もあり、日本(倭)においていつ頃どこで絹織物が発達したかを考えるうえで、この神社のある場所や由緒は貴重な資料といえる。       
               
                  拝殿に通じる参道

 倭文氏(しとりうじ、しどりうじ、しずりうじ)は、「倭文」を氏の名とする氏族で、織物を生産する部民である倭文部(しとりべ)を率いた伴造氏族。倭文とはシズオリの意で、アサやカジノキなどの繊維で文様を織り出した日本古来の織物という。
 中央の一族は連の姓(カバネ)であり、その中の主流の一族は天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った。地方の伴造には、連、臣、首などの姓がある。
『新撰姓氏録』(815年)によると、大和国と河内国に委文宿禰、摂津国に委文連の三氏を掲げている。出自としては、「大和国神別(天神)」の項に「委文宿禰 出自神魂命之後大味宿禰也」とあり、また「摂津国神別(天神)」の項に「委文連 角凝魂命男伊佐布魂命之後也」とある。機織の神である天羽槌雄神を祖神として奉斎し、全国に倭文神社が残る。
        
       参道左側に咲く梅。菅原道真公        参道左側に並ぶ石碑。
      (天神様)を配祀した関係であろう。 左側に「長乳歯大神」と刻印された石碑あり。

 茨城県那珂市に鎮座する「静神社(しづじんじゃ)」も同じく建葉槌命を祀り、創建の時期は不明であるが、『新編常陸国誌』では大同元年(806年)に創建されたという社伝を載せている。『常陸国風土記』久慈郡の条には「静織(しどり)の里」とあり、「上古の時、綾(しず)を織る機を、未だ知る人あらず。時に此の村にて初めて織る、因りて之を名づく」と見える。また、『和名類聚抄』には常陸国久慈郡に「倭文郷(しどりごう)」の記載があり、これらの「シドリ」が縮まり「静(しず)」の地名・社名となったと推測されている。現在鹿島神宮、香取神宮と共に古くは東国の三鎮護神と称され、また常陸国の一の宮鹿島神 宮に次いで二の宮といわれ、由緒の 古い神社である。
 また同じく茨城県日立市に鎮座する「大甕神社(おおみかじんじゃ)」の創建は、社伝によれば皇紀元年(紀元前660年)で、「静神社」より古社である。『日本書紀』神代に、下総国一宮である香取神宮の祭神経津主神と常陸国一宮である鹿島神宮の祭神武甕槌神の二柱の神が邪神をことごとく平定したが、星の神の香香背男だけは従わなかった。そこで倭文神建葉槌命が使わされ、これを服従させたと記されている。

 奈良県葛城市の二上山山麓に鎮座する「葛木倭文座天羽雷命神社」が日本各地にある倭文神社の根本の神社とされるが、資料等で、何か「倭文部」の集団が東行し、移住した文献はないだろうか。
               
                     石碑の並びに鎮座する境内社・稲荷神社だろうか。

 茨城県常陸太田市には長幡部神社(ながはたべじんじゃ)が鎮座する。この社のご祭神は綺日女命 (かむはたひめのみこと)、多弖命 (たてのみこと)。当社の創建について、『常陸国風土記』久慈郡条には「長幡部の社」に関する記事が載る。これによると、珠売美万命(すめみまのみこと)が天から降臨した際に綺日女命が従い、日向から美濃(三野)に至ったという。そして崇神天皇の御世に長幡部の遠祖・多弖命が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝えている。
〇常陸風土記久慈郡条
「郡の東七里、太田郷、長幡部の社。古老の曰ふ、珠売美万命、天より降ります時、御服を織る為に、従って降ります神の御名は綺日女命(かむはたひめのみこと)、本は筑紫国日向の二神の峰より三野国引津根の丘に至る。後に美麻貴天皇(崇神天皇)の世に及び、長幡部の遠祖・多弖命(たでのみこと)、三野より避けて、久慈に遷る。機殿を造り立て、初めて織る。其の織れる服は、自ら衣裳(みけし)と成る。更に裁ち縫ふこと無し。之を内幡と謂ふ。或は曰ふ、絁(あしぎぬ)を織る時に当って、輒(たやす)く人の見るが為に屋扉を閉ぢ内を闇くして織る。因りて鳥織と名づく。強兵利剣も、裁断するを得ず。今・年毎に、別に神調と為して、之を献納す」

また大日本地名辞書の武蔵国秩父郡には、

「知々夫彦命を国造とし、美濃国不破郡引常の丘より倭文部長幡部を率ゐ来り、民に養蚕を教へ大いに機織の術を開く、故に其名に因て秩父の国と称す、」

 という伝承が記されている。秩父の養蚕、織物の起源に関わる伝承である。古代の織物に携わった職業集団である倭文部(しとりべ)の長幡部氏の拠点であった美濃国引常の丘からの移住先として、一つは常陸国風土記に記す常陸国久慈郡、もう一つが武蔵国秩父郡なのであった。国造本紀には古代律令体制成立以前に武蔵地方を支配していた豪族として无邪志国造、胸刺国造、知々夫国造が記されており、秩父国については知々夫国造として知知夫彦命が任命されている。大日本地名辞書の記事は、その知知夫彦命が長幡部を引き連れて美濃国引常の丘から秩父国に移動してきたと記すのである。秩父と美濃国引常の深い繋がりを思わせる伝承である。
 
常陸国久慈郡は、嘗て「静神社」「大甕神社」を包括する地域であり、社伝には記されていない伝承系統を示す何かしらの根拠に当たるものではなかろうか。
*「秩父(知々夫)」の語源は、「千々布」であり、養蚕及び織工集団の名称の可能性あり。
 また千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味であり、同義でもある。故に千々布=秩父=八幡、ともいえよう。
               
                                   拝 殿

 久米田神社 吉見町久米田一三二
 久米田は流川の東方に位置し、吉見丘陵と平坦地にまたがり南北に長く広がっている。地内には弥生時代後期から古墳時代前期の久米田・山の上の両遺跡や古墳群があり、古くから開けた土地である。
 かつての久米田村は、根古屋・柚沢・土丸・流川・長谷を含む大村であったが、慶長年間(一五九六-一六一五)から徐々に分村し、正保年間(一六四四-四八)の改編で久米田が独立して一村となった。
 当社の創建は、口碑によれば和銅年間(七〇八一五)である。古くは倭文神社で、『日本文徳天皇実録』の天安二年(八五七)九月条に武蔵国の「倭文一神」として従五位下に昇叙したことが載る。寛文十二年(一六七二)十一月二十五日に、菅原道真公を配祀した。当時の神像と木札を現在も奉安している。社号も倭文天神社に改めていた。
 当地は古代から、白木綿の産地で、正倉院に残る白木綿に「横見郡御坂郷」と記され、しかもこれは飛鳥時代の遺物である。この機織の守護のため祀られたのが当社である。ゆかり深い白木綿は後世にも織られていたようで、明治三年、「養老の典」に浴した地内の内山塩(当時九一歳)による手織りの一反が、明治天皇が大宮氷川神社に行幸の折に献上された。
別当は梅松院であったが、維新の際に廃寺となり、現在は社務所になっている。明治四年に村社となり、同年七月に現社号に改称した。
                                  「埼玉の神社」より引用

               
                                参道からの一風景

  残念ながら武蔵国における「倭文部」等集団は上里、旧児玉町周辺から吉見町久米田地域への移動までは行きつくことができなかったが、『日本文徳天皇実録』の記載から、少なくとも9世紀には当地で祀られていたことは事実である。
 今後の検討課題としていきたい。



参考資料「日本文徳天皇実録」「常陸風土記久慈郡条」「新編武蔵風土記稿」「大日本地名辞書」
    「埼玉の神社」「吉見町埋蔵文化財センターHP」」「Wikipedia」等
           

拍手[1回]