北大塚石上神社
神體は長四尺、横一尺許の赤き石なり、相傳ふ此社地の下は、昔高麗川の流通せし所にて、此の神體は川中より出しものなりと云、かゝる石はいくばくも有べきものなるに、いかなれば殊更には祀りけん、其故を傳へず、今村の産神とす、社の建る所は登り二十間許なる丘の上なり、明學院持なり、
『新編武蔵風土記稿』より引用
社地は高台にして、大なる古墳にかゝれり。大塚の名或は此辺に原づきしやも計られず。台下は古高麗川の流域なりしと云ふ。奇木あり。周囲一丈余。社の傍に神職木下氏ありと云ふ。
『入間郡誌 石上神社』より引用
・所在地 埼玉県坂戸市北大塚138
・ご祭神 不明
・社 格 旧村社
・例祭等 春祈祷 4月15日 例祭 10月15日
厚川大家神社から埼玉県道114号河越越生線を北西方向に進む。高麗川を渡り切った最初の十字路を右折し、高麗川河川敷沿いの道路を道なりに1.5㎞程進行する。その後「坂戸市立若宮中学校」の北東方向で、緩やかな上り斜面上の先に見える社叢林に囲まれた高台上の頂上部に北大塚石上神社は鎮座している。
北大塚石上神社正面
北大塚石上神社は、成願寺2号墳(石上神社古墳)の頂上部に鎮座している。墳形は前方後円墳といわれているが、見た目では判別はできない。全長約50m、後円部径約10.3m。築造年代は6世紀前半~6世紀末(推定)。鴻巣市明用地域にある「明用三嶋神社古墳」と同規模の古墳で、どちらも河川に接して古墳が築造されていることから、水上交通等で利益を出した在地豪族長の墓であるかもしれない。
石製の鳥居正面
石段好きの筆者にとって、この石段からのアングルはたまらない。
石段は2段の遊びを経て、拝殿に通じる墳頂部に達する。
北大塚石上神社境内
北大塚石上神社が鎮座している北大塚地域は、坂戸市「坂戸市都市計画マスタープラン」において地域割がされている5地区(「三芳野」「勝呂」「坂戸」「入間」「大家」)のうちの一つである入西(にっさい)地区に所属し、この地区の南部に位置する。
入西地区は、市の西部に位置し、北は東松山市、鳩山町、西は毛呂山町に接し、越辺川が東松山市、鳩山町との境を、高麗川が地区の南縁部を流れている。また、地区の中央部は、良好な市街地が形成されつつある。 地区の区域は、新堀、堀込、小山、善能寺、竹之内、長岡、北浅羽、今西、金田、沢木、東和田、新ヶ谷、戸口、中里、塚崎、北峰、北大塚及びにっさい花みず木となり、面積は、約717.9haである。北大塚地域は、南西から北東に緩やかに蛇行しながら流れる高麗川左岸に位置し、河川で形成された平野面に農地と民家が立ち並ぶ長閑な地域である。
ところで『新編武蔵風土記稿 大塚村』には「水田少くして陸田多し、用水には高麗川の水を引く、是は大久保村の地にて分水し、夫より村内に漑ぐ故、動もすれば足ざるを患ふ、又洪水の時は彼川漲り来る故、水旱共に患多し」と記されている。
北大塚石上神社の南側で、高麗川堤防裾には「九頭龍神社」が祀られているが、そもそも「九頭龍神」とは水を鎮める神様であり、荒川水系には幾多の同神が祀られており、この地域は嘗て水害等の被害が多かった場所でもあったのであろう。
参道左側に設置されている「石神神社の由来」の石碑
石神神社の由来
石上神社の起源については詳らかではないが木下宮司の家に傳わる古文書に依れば此地は古くは武蔵國入間郡三芳野の里大塚村と言ひ古墳を氏神塚として尊崇して来たが嘉元二年(一三〇二)の頃氏神塚の下の川の深い渕の中より漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであると記されて居る。
後に川の流が南に変りその跡へ広伝寺が移り来って石上明神の別当職となり栄えたが天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉小田原攻城の際その手勢によって焼き払われ「これによって三芳野天神の堂宇尽く焼失せり」云々とあり爾来堂宇の再建中々成らず長い間雨風に晒されその為氏子の雪隠に屋根を葺かない習慣となり「大塚の屋根なし雪隠」と云ふ言葉が生れる程であったと云ふ。これについて県文化財保護委員大護八郎氏は「初めは三芳野天神であり焼失後再建され勧請されたものが石上明神である事は明らかである」と指摘して居る。拜殿正面に掛る「石上宮」の神号額は全徳寺第七世國水伝春が明和四年(一七六七)揮毫し篆刻奉納したものである。
文化六年(一八〇六)坂戸宿棟梁高山兵部藤原師美の手によって拜殿が作られた。何時の頃からか子授安産の神として尊崇され春秋の祭典には近隣より参詣の人々群をなし俗に「押上様」と云われる程栄えたと云ふ。
大正十五年春屋根の葺替えを行い昭和六年柏槙の天然記念物指定により後方へ約二米程引き昭和三十五年本殿覆殿の根継ぎを行ひたるも拜殿の破損著るしく昭和五十二年遂に解体しこれを再建しようとする氏子の熱意により内外より多額の浄財の寄進を得て精緻を極めた彫刻類は悉く使用し坂戸市仲町安斉利一氏の手に依って昭和五十三年十月竣工したものである(以下略)。
石碑文より引用
拝 殿
拝殿上に掲げてある扁額
拝殿向拝部の見事な彫刻
よく見ると木目の年輪をうまく利用して、龍の鱗や胴体部を生々しく表現させている。
特に拝殿木鼻部位の龍の彫刻は年輪を生かした生き生きとした表現である(写真左・右)。
境内に聳え立つ「入西のビャクシン」(埼玉県指定天然記念物)
この大きなビャクシンの巨木の捩じれ具合は迫力があり、一見の価値はある。
「石神神社の由来」の石碑の隣にある「入西のビャクシン」の案内板
「入西のビャクシン」 埼玉県指定天然記念物
樹高十二メートル、幹回り約三・五メートル、直径約一メートルで、幹が右回りにねじれていることから、「ねじれっ木」と呼ばれて、大切にされています。昔、徳の高いお坊様が、地面に突き立てた杖が根付いたと伝えられています。
ビャクシンはヒノキ科ビャクシン属の常緑針葉喬木で、イブキ、イブキビャクシンなどと呼ばれています。
昭和六年に埼玉県の天然記念物に指定され、当時の入西村の地名をとって、「入西のビャクシン」と名付けられました。
ビャクシンは、臨済宗の寺院に多く植えられており、臨済禅宗と密接な関係にあったようです。 現に湯河原の城願寺、北鎌倉の建長寺、川口の長徳寺などに見られます。
入西のビャクシンの近くにある成願寺は、臨済宗の僧乾峰士雲が開いたと伝わる寺です。
乾峰士雲は、文和四年(一三五五)に鎌倉五山の建長寺・円覚寺の住職を兼ねた高僧でした。
現在、この地は、石上神社の境内になっていますが、もとは成願寺の境内だったと考えられます。
成願寺創建にちなんでビャクシンが植えられたとすれば、文和四年以後のことで、樹齢六五〇余年となると考えられます。
入西のビャクシンは、天然記念物としてだけでなく、歴史の証人としても生き続けているのです。
案内板より引用
ところで、拝殿にて参拝を済ませた後に、拝殿脇にパンフレットがあり、その最終ページには「北大塚の石上さま」という伝承・伝説が載せてあった。
「北大塚の石上さま」のページ
北大塚石上神社の創立由来は、嘉元二年に近くの渕の中から漁師の手綱に再三掛った石を氏神塚に安置し、当時中里郷の前にあった広伝寺のすすめによって石上明神としたものであるとする社伝があり、それが後代「子孫繁栄・安産や厄除け」等のご利益に変化して、伝承として物語もつくられたのではなかろうか。また当時の地域周辺の方々にもその評判は広がり、御利益にあやかろうと多くの参拝客が訪れたのであろう。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「石上神社HP」「境内石碑・案内板・パンフレット」等