小山入西神社
・所在地 埼玉県坂戸市小山72
・ご祭神 須佐之男命 稲田姫命
・社 格 旧村社
・例祭等 不明
北大塚石上神社から一旦北上し、埼玉県道171号ときがわ坂戸線の終点である小山三叉路から同県道に合流して西方向に進行する。同県道37号川越坂戸毛呂山線が交わる「善徳寺」交差点をそのまま直進し350m程先にある丁字路を右折する。道幅の狭い道路なので、道路状況を確認しながら300m程進むと、左手に小山入西神社の赤い鳥居と規模は小さそうだが鬱蒼とした森のような社叢林が見えてくる。
小山入西神社正面
小山入西神社が鎮座する坂戸市小山地域は、現在の坂戸市の北西部に位置し、北を越辺川、南から東を高麗川が流れ、その合流地点西方の台地に位置する。『新編武蔵風土記稿』によると、昔は「小山村」として紹介されており、1889年(明治22年)4月1日町村制施行により、東和田村、新ヶ谷村、戸口村、中里村、塚崎村、堀込村、新堀村、北大塚村、北峰村、沢木村、金田村、今西村、北浅羽村、竹之内村、長岡村、小山村、善能寺村の17か村が合併し入西村が成立したことにより、小山村は消滅した。
その後1954年(昭和29年)7月1日 - 坂戸町、大家村、勝呂村、三芳野村と合併し新たに坂戸町が成立、入西村は消滅し、旧村域は現在「入西地区」と称されている。
かなり個性的な小山入西神社の赤い鳥居
入西(にっさい)という地名由来として、嘗てこの地域を入間郡の西方という意味で「入西領」と称していたことによる。時には「入西之郡」「仁西之郡」と書かれている書簡も存在する。「小代文書」の系図によると、入間郡の西郷という意味であるといい、具体的には、高坂郷・浅羽郷・越生郷に属する村々の総称である。
拝 殿
入西神社 坂戸市小山七二(小山字北林)
当社の鎮座する小山は、越辺川と高麗川の合流点西方の台地にあり、口碑によると、坂戸氏から出た平田氏が開いた地という。
当社は本来、氷川神社であり、須佐之男命と稲田姫命を祀る社で、神仏分離まで竜光寺が別当を務めていた。また、当社は明治四一年まで社が上宮・下宮に分かれていた。現在、境内地前方に“オハヤシ山”と呼ばれる雑木林があり、古くはそこに下宮の社があったが、合祀時廃されて今は無い。
明治二二年の町村合併により、小山以下一七ヵ村が合併し、入西村が成立した。村名は、近世当地域を入西領と呼んだことに由来する。
明治四一年に大字長岡の氷川・愛宕・日枝社、竹之内の稲荷社、善能寺の天神・琴平社、小山の氷川・八幡・熊野社、掘込の三島・日枝・稲荷社、新堀の金山・稲荷・愛宕・日枝社、更に大正元年には北峰の稲荷社・同境内社稲荷神社が合祀され、社号を氷川神社から村名にちなみ入西神社と改め、小山・長岡・竹之内・善能寺・掘込・新堀・北峰の旧七ヵ村の村社となった。
「埼玉の神社」より引用
本 殿 鳥居の北側にあるもう一つの鳥居
『新編武蔵風土記稿』には「社は二ヶ所建て、上宮・下宮と呼ぶ、村の産神なり」と記載されている。このもう一つの鳥居は上宮・下宮どちらかの鳥居であったのであろうか。
社殿の右側に祀られている境内合祀社 社殿と境内合祀社との間にあるお社
規模が大変小さく可愛い。
社殿からの風景
武蔵七党の一つとして数えられる児玉党(こだまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つ。主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に秩父・上野国辺り、またこの入西地域まで拠点を置いていた。
児玉党本家2代目児玉弘行の次男である有道資行(すけゆき)は、「入間郡小代郷の地頭職を賜わって」分家し、入西三郎大夫資行と称した。
その長男・行業(ゆきなり)は、浅羽小大夫と称し入間郡浅羽に住し、次男・次郎大夫遠弘は小代郷を相続、更に三男・有平は越生を領し、それぞれ「小代」「越生」と称し、分かれていった。また浅羽小大夫行業の長男・三郎行親は浅羽を継ぎ、次男・盛行は「小見野四郎」、三男・行直は「栗生田五郎」と称して、独立しが、「入西」姓はだれも継承する人物は出てこず、1代限りで終わる。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市図書館/鶴ヶ島デジタル郷土資料」
「Wikipedia」等