平塚天満天神社
・所在地 埼玉県川越市平塚96
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 不明
・例祭等 天王様 7月25日頃の日曜日
川越市平塚地域は、同市北西部に位置し、東側には入間川、そして西側には越辺川支流小畔川に挟まれた低地に立地しており、水田と畑の広がる農業地帯である。
途中までの経路は下小坂白鬚神社を参照。一旦埼玉県道256号片柳川越線に戻り、その後小畔川に架かる刺橋(とげばし)を渡り、南東方向に700m程進むと進行方向左側に平塚天満天神社が見えてくる。
社の西側には「平塚自治会館」が隣接しており、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
平塚天満天神社正面
社殿の後ろ側には埼玉県道256号片柳川越線が走る。
『日本歴史地名大系』 「平塚村」の解説
鯨井村の北、入間川左岸で同川と小畔川に挟まれた低地に立地。高麗郡に属した。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一六九石余・畑高一三八石余、ほかに野銭永三貫五〇〇文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二五〇石余、反別田一四町四反余・畑二七町三反余、ほかに開発分高三八石余(反別田二町二反余・畑四町二反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高二三八石余・外高三五石余。秋元家時代郷帳では反別田一七町余・畑三一町一石余・野二町七反余、ほかに見取場田一畝余・畑一町一畝余、野永三貫一八一文、並木一ヵ所がある。
鳥居に掲げてある社号額 規模は小さいながらも手入れの行き届いた社
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平塚村』
天神社 正光寺の持、
正光寺 梅香山と號す、新義眞言宗、入間郡石井村大智寺末、本尊藥師を安ず、辨天社
天満天神社 川越市平塚九六(旧平塚字天神後)
当所は、入間川と小畦川とに挟まれた低地で水田と畑の広がる農業地帯である。古くは平塚村として一村を成し、隣村の平塚新田に鎮座する氷川神社が両村の鎮守となっていた。鎮守が新しく開けた平塚新田にあるのは、入植時に平塚よりも新田の方が戸数が多かったことによる。
口碑によると昔、当社は村はずれの畑中にあり、川が増水すると神社が浸水するため、その都度本殿を担いで、村の中央にある真言宗梅香山正光寺の庫裏に移し、水が引くと元に戻していた。そのため本殿は一間社向唐破風造りの神輿型である。内陣には天神座像を安置している。
明治初めの神仏分離後も当社は庫裏に留まったままとなり、畑中の社は空宮となっていたために“野良天神”“留守天神”と呼ばれ、別の天神であるかに思われるようになった。明治五年、正光寺は無住無檀を理由に廃寺となり庫裏は小学校として大正一二年まで利用されていたが、小学校の統合に伴い庫裏は取り壊され、本殿はその跡地に祀られるようになった。
昭和五一年留守天神周辺の土地が県立川越農業高校の実習地として買収されるに当たり、留守天神が正式な社であることが確認されたのを機に、翌五二年、現社殿に改築し、正式に鎮座地を当地に改めた。
「埼玉の神社」より引用
社殿左側に祀られている境内社や石祠
左側の石祠は道祖土神社。その隣は三峰社
社殿の右側に祀られている境内社・八坂社
当社は7月25日頃の日曜日の天王様にて「平塚の獅子舞」を奉納しているという。
市の指定は受けていないようだが、この「平塚の獅子舞」は、『川越の民俗芸能(2)』のよると、明治初年に平塚大火があり、獅子道具もすべて焼失したのだが、現在の獅子頭は明治7年7月に作りなおしたものなので、ここの獅子舞は明治以前からのものと思われる。
嘗ては7月15日だったのが、田の仕事がばかに忙しかったので10日遅らせたのだという。
獅子頭は大獅子・中獅子・女獅子。7月25日は、天王さまの前から行列を組んで村廻りに出る。笛は道下りの曲、1軒ずつ、庭まで入る。途中、馬頭観音の前と区長の家で舞うとの事だ。
境内の様子
集会所近くにある松の木が不思議と印象的な社
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越の民俗芸能(2)」等