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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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武蔵野八幡神社

  武蔵野と呼ばれる地域は旧武蔵国に居住地のある自分にとって妙に郷愁をそそられる名前である。この武蔵野の範囲について明確な定義はないようだが、広辞苑によれば「埼玉県川越市以南、東京都府中市までの間に拡がる地域」であり大略において今の武蔵野台地にあたる地域とも、また広義には「武蔵国全域」を指すこともあるとされている。
 
埼玉県深谷市にもその「武蔵野」という地域が存在する。元々は旧花園町に属し、2006年(平成18年)1月に深谷市に合併された一面のどかな田園地帯が続く地域だ。町の殆どが櫛引台地上にある。『新編武蔵風土記稿』によれば、江戸初期、この辺りを飯塚村といい、上飯塚と下飯塚とに分かれていたらしく、武蔵野村に改称したのは明治期になってからのことらしい。
 
武蔵野=雑木林のイメージには全く似つかわしくない水田地帯であるが、この地に華麗な装飾に飾られた社が存在している。
所在地    埼玉県深谷市武蔵野1862
御祭神    誉田別命(推定)
社  挌    旧村社
例  祭         不明
         
 
 武蔵野八幡神社は旧花園町、現深谷市花園地区武蔵野の埼玉県道175号小前田児玉線の北側に鎮座している。同県道は秩父鉄道小前田駅を起点にして最初に西方向に進むが、途中踏切を越える手前から北西方向に進路を変え、その道を真っ直ぐ進み、原宿交差点の先約300mで進路に対して右側にこの社はある。
 駐車場は道路沿いにはなく、社をぐるっと回った本殿の奥に武蔵野自治会館があり、そこの駐車スペースに停めて参拝を行った。
           
 
                                                        武蔵野八幡神社正面
 この社の案内板はなく、その代わりに鎌倉街道(上道)についての看板が鳥居の左側に大きくあった。この地は鎌倉街道の宿駅・原宿があったところで、鎌倉街道は源頼朝は鎌倉に幕府を開いてから(1192)後北条氏が滅びるまで(1590)政治的、軍事的な主要道路の役割を果たしてきたという。現在はほぼ舗装されているこの道を畠山重忠、新田義貞等多くの武将の栄枯盛衰の物語を刻みつけた道と思うと、感慨はまた一入(ひとしお)だ。


    鎌倉街道(上道)のみちすじ」と書かれた案内板                     境内の風景
 
         
                          武蔵野八幡神社拝殿

 
     犬養毅筆の拝殿上部の社号額         拝殿側部には西南戦争で活躍した陸軍元帥

                                           野津道貫の額
        
  今現在は色あせてきているが、築造当時は華麗に装飾され、彫刻も見事だったろうと思われる
                          武蔵野八幡神社本殿

武蔵野八幡神社
 
当社の西側を通る県道小前田・児玉線は、建久三年(1192)源頼朝が鎌倉幕府を開いてから整備した鎌倉街道であると伝えている。頼朝やそれに従った者たちの八幡信仰はよく知られている。
 当社も、この街道を通って、鎌倉に向かった当地の武将が信仰したものなのであろう。江戸期は、当社の北東に位置する浄土宗常光寺が別当で、祭祀を司っていた。その後、明治に入り、政府から神仏分離令、次いで神社合祀政策が打ち出された。当社も、明治四十一年には、字東宿地の無格社大荒神社、字正法寺の無格社諏訪大神社を合祀し、社名を八幡大神社と改めた。更に、翌四十二年には、字宮地の村社十二社大神社及びその境内社八幡大神社を合祀した。この折、字風原の村社足高大神社も合祀する予定であったが、賛同が得られず中止となった。
 このため足高大神社は、合祀された十二社大神社の氏子への配慮から、
社名を大正四年に武蔵野神社に改めた。また、一旦合祀された十二社大神社は、昭和二十八年に地元の氏子の強い要望により、十二社神社の社名で字濡僧の地に分祀され、当社も八幡神社の旧称に復した。
                                       埼玉の神社、埼玉県神社庁発行より引用

 
    武蔵野八幡神社社殿の奥にある合祀社             合祀社に並んである仙元社等 



 



 

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