大塚熊野神社
もとは江戸期より存在した大塚村であった。中条古墳群のひとつである大塚古墳が地名の起源と言われている。
・所在地 埼玉県熊谷市大塚365
・御祭神 熊野夫須美命 速玉男命 家都御子神
・社 挌 旧大塚村鎮守・旧村社
・例祭等 不明
大塚熊野神社は熊谷スポーツ公園の東側にあり、国道17号バイパスを熊谷方面に進み、途中肥塚交差点を左折、其のまま真っ直ぐ1km程行くと右手に赤城神社のあるT字路の交差点になるので、そこを右折しそのまま道なりに5分位進むと大塚熊野神社に到着する。ただ社号標石がある正面ではないので、今回は社号標の撮影はできず、一の鳥居から参拝を行った。
大塚熊野神社一の鳥居 そのすぐ先にある二の鳥居
大塚熊野神社は大塚古墳の墳頂に鎮座している。
大塚古墳 熊谷市指定文化財
指定年月日 昭和三十四年十一月三日
所 在 地 熊谷市大字大塚
大塚古墳は、古墳時代後期(七世紀前半)につくられた円墳で当地を支配していた豪族の墓であろうと推定されています。
墳丘は、直径約五九m、高さ一・二mの基壇上に直径約三五m高さ四m以上の円丘がのった形です。全体で、五・二m以上の高さになると考えられます。
現存する墳丘は、北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約四分の一が残っている状態です。
二度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であることが確認されています。
石室内から、鉄製小札・鉄鏃・金銅製鞘尻金具・勾玉のほか、金箔装漆塗木棺の破片が出土し、西側の基壇上からは、須恵器の甕が列をなして出土しました。
案内板より引用
案内板の手前には大塚古墳の石室、天井部に使用されたものと思われる石材がある。
古墳の頂上、また大塚熊野神社に通じる参道 参道の途中にある境内社
ちなみに境内社は宇賀神社と豊蚕神社、塞神社、三峰社、榛名社、天神社の六社が存在するそうだ。
大塚古墳墳頂に鎮座する大塚熊野神社拝殿
熊野神社 熊谷市大塚二六六(大塚字杉戸田)
大塚の地名は、その地内に大きな古墳があることに由来する。この古墳は、七世紀初頭に造られたもので、その出土品から当地を支配していた豪族の墓であろうと推定されている。直径五九メートル、高さ一・二メートルの基壇上に、直径三五メートル、高さ四メートルの半円が載った形をとる市内最大の円墳で、中には横穴式石室が築かれている。当社は、この墳丘上にあり、古墳の下には江戸時代に別当であった龍昌寺がある。以前は、周りに民家などがなかったのでかなり遠方からでもその堂々とした社を見ることができたが、近年では墳丘の周囲にも建物が増えたため、参道の正面からでもその全容が見られないのは残念である。
祭神は、熊野夫須美命・速玉男命・家都御子神のいわゆる熊野三神である。『風土記稿』の記述から、当社は江戸時代には既に大塚の鎮守として祀られていたことが知られるが、創建の年代は明らかでなく、古墳の被葬者との関係も分かっていない。
神仏分離の後は、明治五年に村社になり、同四十二年十二月(『明細傾』では四十一年)には地内に鎮座していた猿田彦神社・宇賀神社・豊蚕神社・塞神社の四社を合祀した。ただし、宇賀神社は現在も旧地に社殿が残っており、毎年四月に農事組合の人々が中心になって祭りを行っている。
「埼玉の神社」より引用
西側道路沿いから大塚熊野神社を撮影。
中央石燈籠そばの石には猿田彦大神の文字が彫られている。