古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

津田八幡神社

        
              ・所在地 埼玉県熊谷市津田897
              ・ご祭神 誉田別命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 大里比企広域農道は通称「みどりの道」と愛称で呼ばれているようだ。国道407号を荒川大橋で南へ渡り、「村岡」交差点で東へ入ると、この農道に入り、その道を「道の駅いちごの里 よしみ」がある吉見町方向に進む。丁度荒川が南東方向に向かう流れに沿ってこの道も形成されていると想像すると良い。「JAくまがや大里ライスセンター」を越えるころに進路は南方向に変わるが500m程下り、細いT字路を右折すると、正面に津田八幡神社の社叢が見える。
 残念ながら駐車スペースは全くないため、適当な路地に停めて急ぎ参拝を行う。
        
                 津田八幡神社鳥居正面
 社殿は南向きなのだが、参道入口は北東方向の道路に面してあり、参道正面の鳥居の舗装されていない脇道を越えて進み、一旦右に曲がり、さらに右に行くように、丁度コの字の形で林の中を進むと津田八幡神社社殿に至るという変わった進行方向となる。
 
 鳥居を越えて参道を進むと、社叢の木々のトンネルをくぐると、右手に社殿が見える(写真左)。突き当たりを右に曲がり、その後以前は赤い鳥居があった場所に到達し、尚右に曲がるコの字の形となる進行方向となり、参道正面(写真右)に至る。
 
     拝殿手前左側に大黒天の石碑          拝殿手前右側には「根精様」の標柱あり
                         大里村(現熊谷市)指定有形民俗文化財
        
                     拝 殿
 八幡神社 
 大里村津田八九七(津田字前町
津田の地名は、既に南北朝時代に「津田郷」として見え、その開発の古さを物語る。津田郷には、応永二十一年(一四一四)八月二十日の足利持氏寄進状により、鶴岡八幡宮の放生会料所があったことが知られ、そこに祀られたのが当社ではないかと想像される。
 『風土記稿』津田村の項には「諏訪社福王院持、八幡社村の鎮守なり、同寺持」とあり、当社が村の鎮守とされている。また、二社の別当であった福王院は、同地内の西明寺の門徒であった。明治初年に福王院の管理下を離れた当社は村社となり、更に明治四十五年字前町の無格社諏訪神社に遷座の上、同社と字西町にあった無格社八坂神社を合祀した。
 遷座前の社地は、字八幡町の水田の中にあった金塚と呼ばれる盛り土で、今は跡形もない。
合祀に際し、無格社であった諏訪神社の社地に移された理由は、八幡神社の社地が集落から離れ、参詣などに不便を来していたことが挙げられよう。
造営は、本殿が諏訪神社本殿として明治三十三年に行われ、覆屋が、来る合祀に備え、同四十二年に「諏訪八幡神社社殿新設」の名目で建立された。社殿下の盛り土はこの時に行われたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
               社殿の右奥にある境内社と根精様

 熊谷市津田地域は熊谷市の荒川中流域南岸、和田吉野川北岸の沖積低地に位置し、標高は平均20m25m程。弥生時代の頃には、荒川中流部の流路は扇状地河川特有の乱流をしていて、和田吉野川も荒川に合流する一派川であるため、洪水による浸水被害はかなりひどかったようだ。「津田」という地名も河川由来からくる地名だったのだろう。 
        
                      社殿からの遠景を撮影。長閑な田園地帯が広がる。

 但し洪水から醸成される肥沃な土地が幸いしてか、この地域周辺にはかなりの人々が定住していたことも分かっていて、南側に位置する相上地域には縄文時代の北廓遺跡や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(埼玉県で2番目、全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域には古代から人々が継続して居住していたことが伺え、また津田地域南側に隣接する「玉作」地域は文字通り大里郡内では勾玉や管玉が製作されており、玉作という地名もこの地に玉造部が住んでいたことによるという。
 大里郡津田郷は古代の幡田(はんだ)の里と言われ、後世は別称に伴田(はんだ、ばんた)と称していて、伴・蕃は姓氏録に渡来人を記している。九条家延喜式裏文書の大里郡条里坪付に「幡田里」と、また津田村旗本鈴木氏知行所に大里郡伴田村と見える。津田地域も含め、周辺地域が古代から栄えていた要因の一つにはその帰化した人々の存在も無視できないだろう。

「津田」地名の文献上での初見は意外にも古く、京都鹿王院貞治五年(1366年)文書に天龍寺領武蔵国津田郷、鎌倉円覚寺永和二年(1376年)文書に津田長福寺と見える。その後、鎌倉鶴岡八幡宮応永二十一年文書に武蔵国津田郷との記載があり、そこに祀られたのが当社ではないかと想像されている。
                 
                              
 余談だが、平安末期の源平合戦時、一の谷の戦いで戦死した河原高直、盛直兄弟には河原一党という集団を率いていたが、その中に「津田」姓の人物がいる。
武蔵志・埼玉郡北河原村条
 治承四年三月、河原一家歴々・河原源五常直・稲村八郎正直・中村四郎正広・和泉田藤太正信・間宮仲太盛久・毛利三郎友直。着座面々・布施田新平次・今藤正五郎・鈴木二平治・新井弥平太・高沢七郎太・川瀬四郎三郎・大井五郎治・川島三郎太郎・加藤仲治五郎・小沼八郎次・藤田弥平太・長井弥太郎。惣侍列位・名越十五郎・大河内三郎太・吉田仲五郎・布施田新平太・高野小平太・沢田十郎太・酒井源次三郎・鈴木二平太・川島又五郎・中条八郎次・同一十郎・加藤新八郎・川島五郎太・薬師寺四平太・平井三郎次・今藤九八郎・松本七平次・同六郎太・小和泉金平太・平野大三郎・田中小惣太・太田小五郎・森武平次・金沢藤次太・馬場門太三郎・橋本八五郎・岸軍次三郎・篠塚弥太三郎・竹井仲次太・園田太四郎・正田小軍治・三枝弥市太・津田定五郎・同藤八郎・小笠吉郎太・同文治三郎・新村吉五郎。是は河原太郎家の武家法令也

 さて河原一党・惣侍列位に登場する「津田定五郎・同藤八郎」なる人物は津田地域出身者であろうか。

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