古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

沼尻熊野神社


        
               
・所在地 埼玉県深谷市沼尻160
               
・ご祭神 伊邪那美命 速玉男命 事解男命(推定)
               
・社 格 旧沼尻村鎮守 旧村社
               
・例祭等 不明
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.2288212,139.304723,16z?hl=ja&entry=ttu
 上増田諏訪山神社を東行して一旦17号上武バイパスとの交点を左折し、進路を北西方向にとる。2㎞程進んだ先の「石塚」交差点を左折、その後すぐ先に見える路地を右折し、暫く道なりに進むと沼尻熊野神社が正面に見えてくる。
 社の背後には小山川の土手が見え、その土手沿いには、春先に見られる菜の花が一面に咲き誇っていた。参拝当日の天候は晴れであったが、風は強く、肌寒く感じたが、やはり目の前に広がる菜の花の風景には心癒され、春の到来を身近に感じるものであった。
        
                  沼尻熊野神社正面
              
            正面鳥居からは左側で離れた所にある社号標柱
 深谷市沼尻地域は、利根川右岸の自然堤防上に位置し、東西十丁・南北七丁程の変形的な台形を成している。因みに「丁」は長さの単位で、一丁はおよそ108m。現在の距離単位では、東西1080m程・南北760m程で、現在の行政単位でもそれほど変わらない。
 南西から北東に流れる小山川が西境で、小山川対岸は新戒・高島地域。南側は東西に流れる「備前渠用水」が南境となり、東側から北側は蓮沼・石塚両地域がその境となっており、平均標高は
32m34m程の沖積低地帯である。集落は利根川右岸の自然堤防上である地域北部にあり、その最西部に沼尻熊野神社は鎮座している。
        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 蓮沼村条』において、「古は江原堀米二村の地も当村の内にて、既に名主伊左衛門の家に蔵する天正七年の水帳によりても、其頃三村すべて蓮沼村なりしこと知らる。今の如く三分せしは慶長七年検地の時なり」とあり、嘗てこの沼尻・堀米の2地域は「蓮沼」地域と一緒であり、その後慶長七年の検地時に3つの村に分かれたという。
        
                    拝 殿
 この社に関して、創建や由来を記した案内板や石碑等もなく、筆者が調べた限りにおいて、直接的な資料等も極端に少なかった。その少ない資料に中、「神社人」のサイトにこのような内容が記載されていたので紹介する。
 天慶3年(940年)に、藤原秀郷が、平将門追討のため、東国へ遠征した際、当地の祠前で、戦勝祈願をしたところ、無事、目的を達することが出来たのたので、その謝意として、再度当地に訪れ、三社の小祠を建てて祀ったことに始まるといわれ、現在も本殿北側に残っているという。

 ところで、沼尻熊野神社の北西方向には「高島生品神社」が鎮座している。小山川の対岸にあり直線距離にして500mくらいしか離れていない。この社のご祭神は考素戔嗚尊であるが、『新編武蔵風土記稿 高島村条』には奇妙な一文もあるのでここに紹介する。
『新編武蔵風土記稿 高島村条』
 生品明神社
 村の鎭守にて村民持、當社は平將門の子を祀ると傳ふれど、來由詳ならす、【太平記】に幾品明神の前に旗を上げ、小角の渡云々とあるは、當所のことなるにや、又小角は當村及中瀨村の小名にもあり、
 高島生品神社は「平將門の子を祀ると傳ふ」と記されている。近郊の沼尻熊野神社はその平將門を討伐した藤原秀郷が戦勝を祈願した場所であるにも関わらず、その目と鼻の先にこのような社があるのはどうしてだろうか。

   社殿左手にある境内社・詳細不明。       社殿手前で右側にある社務所
     
                      深谷市指定保存樹木15号のイチョウ(写真左・右)

   社殿の右横に祀られている石祠三基       石祠三社の隣にも境内社が鎮座
        
                                    境内の一風景

 平安時代末期に活躍した斎藤実盛は、藤原利仁の流れを汲む越前斎藤氏の出で、出身地こそ越前国だが、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれている。
 源氏の家人として為義に仕え,保元・平治の乱では義朝軍に加わった。のち平家に属し,平家領である長井荘の荘官となったようで、治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いたとされる。富士川の戦(1180)では東国の案内者として平氏軍に加わって東下したといわれる。1183年源義仲追討のため北陸に下ったが,加賀篠原で手塚光盛に討たれた。享年50余歳とも60余歳とも,また70余歳ともいう。
斎藤別当実盛伝(奈良原春作著)に「斎藤館は、妻沼町の大我井の地・白髪神社の東方にありて、実盛の祖父実遠が着任し館を築き、実遠入所以前からあった酒巻氏の館であったので、酒巻氏を家司とした。実遠の長井庄着任以前の土地開拓者に十八人衆あり、その子孫は保元の乱後、同元年秋に実盛が長井庄館に帰還祝を屋敷母屋の座敷にて陣どる面々は、実盛を上座に、その左右に酒巻左源太・右源次の兄弟、十八人衆といわれる西岡喜内、高城宗近、飯塚平太、八木蔵人、江袋武平、沼尻五郎、江原太郎、蓮沼久吾、堀米八郎、大塚豊人、新井久馬、石塚左内、本郷三郎、谷口十四郎、江波善九郎、神根喜兵衛、藤木左近、寺窪次郎、郎等の宮内権六、長瀬新八、西浦喜十郎、西条新五、宮前太兵衛、以上二十六人。庭にむしろを敷いて邸内に住む家八、下人十三、以上二十一人である」と記載されている。
 この十八人衆といわれる家臣団の中に「沼尻五郎」が登場するが、近隣の地域名を冠した武士名(江原・蓮沼・堀米・大塚・新井・石塚)もあり、沼尻地域出身の武士である可能性は高い。
 このような資料を個人の力で探すのも結構時間と根気がいる作業だ。
        
                      社の後方で、小山川土手に広がる菜の花の風景
                         春の到来を告げる、心癒される風景だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「改訂新版 世界大百科事典」
    「熊谷デジタルミュージアム」「斎藤別当実盛伝(奈良原春作著)」「Wikipedia」等
  

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