古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

玉作八幡神社

           
              ・所在地 埼玉県熊谷市玉作343
              
・ご祭神 誉田別命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 玉作八幡神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」と呼ばれているが、その農道を吹上・吉見町方向に進む。津田八幡神社の参拝後、一旦県道に合流し更に南下すると、和田吉野川の土手を下る右手方向に玉作八幡神社のこんもりとした社叢が見える。
 和田吉野川の土手を下る最初のT字路を右折すると、すぐ左手に「桜リバーサイドパーク」公園駐車場があり、そこに駐車する。玉作八幡神社はその駐車場の東側に隣接していて、特にフェンス等の遮蔽物もないので、駐車場南側から回り込むようにして参拝を行った。
        
              参道から離れた玉作八幡神社一の鳥居
 玉作八幡神社が鎮座する熊谷市玉作地区は、北は荒川水系の支流で東西方向に流れる和田吉野川が玉作水門に達する下流域の南岸周辺に位置し、東は荒川右岸に接している。南は埼玉県道307号福田鴻巣線の北側の田園地帯付近で、西はその県道と枝分かれし、北西方向の相上地域に進む道路の東側がその地区範囲となる。
 玉作地区の中央部を南北に貫通する「みどりの道」を境にして、西側が本田、東側が新田と呼ばれ、当社は、本田の集落の北端部に、荒川支流の和田吉野川の流れを背に鎮座し、その社殿は水害を避けるために水塚の上に築かれている。
        
              
「みどりの道」西側に鎮座する社
        
        水害対策の為か、朱色の鳥居基礎部分が頑丈に補強されている。
        
                                      境内の風景
 参道周辺は綺麗に手入れがされている。樹木に覆われているが、参道周辺は陽光もさすような幅設定となっている。但し参拝当日は小雨交じりの天候で、境内周辺の湿度はかなり高い。
 
    参道左側には石碑(写真左)や末社の石祠(同右)が並んでいる配置となっている。
        
                     拝 殿
 八幡神社 大里村玉作三四三(玉作字成瀬)
 船木遺跡の出土品に見られるように、古代、大里郡内では勾玉や管玉が製作されており、玉作という地名もこの地に玉造部が住んでいたことによるという。玉作の地内は、中央部を南北に貫通する大里比企広域農道を境にして、西側が本田、東側が新田と呼ばれ、当社は、本田の集落の北端部に、荒川支流の和田吉野川の流れを背に鎮座し、その社殿は水害を避けるために水塚の上に築かれている。
 『郡村誌』に「往古は玉造神社と唱へたりと云」とあるように、当社は、古くは玉造神社と呼ばれ、古代の玉造部が創祀し、奉斎した社ではないかと考えられている。この玉造神社が八幡神社になった時期や経緯については明らかではないが、地内にある玉泉寺は源頼朝の弟である範頼草創の慈眼院を再興したものであるとの伝承があることや、近くの津田には鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会料所にかかわると思われる八幡神社があることから、源氏の台頭に伴い、源家の氏神である八幡神社が玉作に勧請された結果、旧来の玉造神社が衰徴したか、社名を改め、今日の八幡神社になったものであろうか。
 江戸時代、当社は不動寺の持ちであったが、神仏分離後はその管理を離れ、明治七年に村社になり、同四十二年には字成願にあった稲荷社と荒神社を境内に移した。なお、稲荷社は、中世当地の北西隅にあった永福寺という大きな寺の境内社であったといわれている。
                                  「埼玉の神社」より引用 

        
「玉作」とは古い地名でこの神社も嘗ては玉造神社と称したとの伝承があるそうで、古墳時代にこの地に勾玉などの製作に従事していた玉作部が住んでいたことに因むとの見解もある。
 玉作八幡神社~北西方向に直線距離にして1㎞程、荒川南部環境センターに近い場所に「下田町遺跡」が存在する。この遺跡は現在の和田川と荒川の合流点付近の自然堤防上に位置する遺跡である。弥生時代から中世にかかる内容が明らかになり、鉄剣の出土した弥生時代の土壙墓1基、方形周溝墓9基・竪穴住居跡163軒・堀立柱建物跡30棟などが 検出されている。
 遺跡の主体は古墳時代から平安時代であり、古墳時代では子持ち勾玉が出土している。

下田町遺跡 場所 熊谷市大字津田
 下田町遺跡は和田吉野川と荒川が合流する地点に位置し、両河川によって形成された氾濫原の自然堤防上に立地しています。 これまでの調査で発見された遺構は、竪穴住居跡163軒、掘立柱建物跡30棟、方形周溝墓9基、井戸跡328基、溝跡601条、道路状遺構2条、土壙586基があります。 弥生時代から中世までの複合遺跡で、主体を占めるのは古墳時代前期から後期、平安時代にわたる集落です。 これらの集落は、低地に面した小高い地形に立地していたため、連綿と人々が生活の場にしていたものと考えられます。
 今回の調査で特筆すべきは、奈良時代の井戸から木製の壺鐙(つぼあぶみ)が発見されたことです。鐙とは馬に乗るときに足をかける道具ですが、今回発見された壺鐙は、表面に黒漆(くろうるし)が塗られた優雅な形のもので、たいへん珍しく貴重な資料と言えましょう。
 壺鐙のほかに注目される遺物としては、刻骨(こっこつ/古墳時代前期)、子持勾玉(こもちまがたま/古墳時代末)、 瓦塔(がとう/奈良時代)、合子型香炉(ごうすがたこうろ/平安時代)、 「占部豊川」と線刻のある紡錘車(ぼうすいしゃ/平安時代)、黒漆塗の鞍(くら/平安時代)、 和鏡(わきょう/中世)などがあげられます。
             「公益財団法人
埼玉県埋蔵文化財調査事業団」 ホームページより引用
        
 

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