古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

玉井大神社


 東別府神社から南東方向に1km弱の所に玉井大神社が鎮座している。
  その昔、奈良の興福寺の僧“賢景”がこの地に来たとき、眼病を患ったという。すると、夢の中で「井戸を掘れ」というお告げがあった。そこで賢景は井戸を掘る。滾々と水が湧き出てきたかと思うと、中から現れたのは宝玉だった。賢景はこの水で目をすすぐ。すると不思議なことに、眼病はすっかり治ったという。そこで賢景は井戸の神様を祀って井殿明神(玉井大神社)とし、宝玉を寺宝にして“玉井寺”(ぎょくせいじ)を創建した。「玉井」という地名も、賢景のこのエピソードに由来しているという。

所在地    埼玉県熊谷市玉井1911

主祭神    天津日高彦火火出見命(あまつ ひこひこほほでみ)
         *一般には山幸彦(やまさちひこ)の名で知られる。神武天皇の祖父に当たる人物。   
社  格     旧村社
例  祭     三月十五日 例大祭    
       
                   
地図リンク
  玉井大神社は国道17号バイパス線、熊谷方面上りで上奈良交差点で右折し、300m先の三叉路を左折すると右側に見えてくる。東別府神社にも近く、約1km弱で東南方向に鎮座している。
                      

  由来書によると玉井大神社は延暦年中遷都の折即ち第五十代桓武天皇の御代藤原小黒丸左大辨紀古佐美南都興福寺僧賢憬等に内命を伝えようと四神相応の地を巡視していたとき僧某東国に下り当地
に滞在中両眼をひどく病みその折偶々霊夢に感じ里人を鼓舞して井を掘らせその湧水を以て眼を洗い平癒したと伝えられる。その井の神を祭って井殿明神と称し里名の玉の井とはこれから生れたといはれる後社名を改め玉井大神社と称する様になった。御祭神は天津彦火火出見命を主神として十五柱を奉斉する。
                                      
玉井大神社造営記念碑より引用                                                                                                 

                     
                                                参道より社殿を撮影
   手水舎の横にある掲示板。左側に「オビシャ」についての説明が書かれている。
 
 延暦十三年(794)賢憬という僧が當地に滞在中両眼を病んだ。このとき夢の中で告げられた地点に掘った井戸の霊水で眼を洗うと直ちに眼病が治ったという。この井戸の神を祭ったのだ神社の始まりと伝えられる。毎年三月十五日この神社で「オビシヤ」が行われる。これは豊作占いの神事の変化したものといわれすべて謡曲によって進行する祝宴に特徴がある

*オビシャ

 主として関東地方の各村落で行われる春の行事で、なかでも千葉県北・中部はオビシャ行事が最も盛んに行われる地域の一つである。いずれも年の始めの1月から2月にかけて行うところが多く、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。
                                    
                             拝  殿
                        
                        
                                                    
朱色の鮮やかな本殿
         
          拝殿の手前左側に八坂神社が鎮座                       社殿脇に並ぶ末社

  今何気なく思うことがあり、最後に一言追加して述べたい事項がある由来書による玉井大神社の地名「玉井」の由緒は上記に記載した通りだが、実際の信憑性はいかがなものだろうか。というのも神社名である「玉井」の「玉」に関して、武蔵国、特に北部には「玉」のつく地名や神社が、例えば「埼玉郡」「前玉神社」「児玉郡」「玉敷神社」等少なからず存在するからだ。
                                    
                                           社殿方向から御神木の銀杏を撮影
  
               この御神木は何百年の歳月を静かに見守っている。

  地名は生きた化石と云われ、地名の起原や由来を調べれば当時の歴史がおぼろげながら見えてくる。いわば地名とは「歴史の生き証人」と言えないだろうか。
 そもそも地名とは
人類が言語を使用するようになってから現在まで、特定の地表面を表現するものとして、何らかの意義を有して命名され、伝えられてきたものである。それは言語の成立とほぼ同時に発生し、生活の場の拡大とともに増加し、時代とともにより表現方法も多彩なものとなって、日本国中の隅々にいたるまで残されてきた。往時の人びとの生活・歴史や精神・文化が、地名には凝縮されていると言っても過言ではない。
 そういう意味で地名は無形の遺物である。資・史料を証明するものであり、資・史料の表現しきれていない隙間を埋める一つの重要なファクター的存在であろうと考えることは愚かな事だろうか。

                                        
 

 
                      

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