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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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阿那志河輪神社

 河輪神社は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山に鎮座している。河輪という一風変わった地名の語源は曲流を意味し、志戸川の曲がりくねっている内側にある低地を意味しているという。
 嘗てこの河輪地区には河匂(かわわ)氏という豪族がこの一帯を領有していたという。河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、小野篁の末裔を称す横山党の一族である。この河匂氏は児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったと云われている。
 美里町にある諏訪山の河輪神社の社伝によると武蔵七党の一つ猪俣党河匂氏の本貫地として、河匂七郎、河匂左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行ったという。
所在地    埼玉県児玉郡美里町阿那志1663
御祭神    淤迦美神 (相殿)健御名方命、八坂刀売命
社  挌        武蔵国式外社  阿那志村鎮守
例  祭    不明

       
 河輪神社は一説によると『日本三代実録』に「清和天皇の貞観17年(875)12月5日、武蔵国正六位上河輪神に従五位下を授く」と記されているが、この河輪神が阿那志河輪神社という説もある。ただ横浜市都筑区川和町に鎮座する川和八幡神社も同じ武蔵国にあり、神社を祀る場所の字名を河輪森といい、ここも古くから河輪神社と主張していて現在どちらが真の河輪神社であるか不明だ。
 
 河輪神社は武蔵国の多くの神社の中にあって、俗にいう式外社(しきげしゃ)と言われている。この式外社というのは、平安時代編集された延喜式神名帳に記された全国の神社の意味を持つ「延喜式内社」または単に「内社」と言われる社に洩れた神社で、当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社といい、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社等が含まれるという。
            
           正面 諏訪山の麓から平野部にかけて河輪神社の参道は伸びている。

 河輪神社一の鳥居(写真左)と奥に伸びる参道(同右)。標高113mの頂上まで石段を登ることになる。登り詰めると鮮やかな赤い社殿の河輪神社に着く。この参道は昼間でもほの暗く、第一印象とても武蔵国の由緒ある式外社とは思えない。
           
              やっと社殿が見えてくる。社殿は諏訪山の山頂部にあたる。
 河輪神社が鎮座する諏訪山は美里町と寄居町の境界にあるが、独立した山ではなく、埼玉県道75号線を境にして北は山崎山丘陵、そして南側に諏訪山丘陵が広がり、その標高の一番高い場所が諏訪山と呼ばれている。
           
                       赤が基調の河輪神社拝殿正面
 境内は意外と広く、社務所や神楽殿などもあり、参道の寂しい印象とは対照的な趣のある北向きの社。だがその神聖な静寂とは別に、南側にはゴルフ場が広がる。同じ面でもこの人工的な緑はなにか異質でもあるが、逆に考えると古(いにしえ)の文化遺産と現代社会の風景の微妙なコントラストを直接的に感じることができる貴重な体験も同時に味わうことができた。

河輪神社
  阿那志の鎮守河輪神社には淤迦美神外15柱の神々が祀られている。当社は三代実録に載っている河曲神社であると、伝えられる古いお社である。桓武天皇の御宇、延暦20年(801)、坂上田村麻呂が東北地方の反乱を鎮定する際に、当社に祈願して功を奏したという。清和天皇の貞観17年(875)12月5日に正六位の位階を授けられた。降って鎌倉時代には河匂左京進、畠山重忠、那須宗高等の武将が崇敬したことが口碑に残っている。徳川時代になって、慶長年中地頭安藤彦四郎が諏訪神を尊信して当社に合祀して、社号を諏訪神社と改称した。
  当社は盛夏旱魃になると、代官が近村の村吏を従えて祈雨祭を修行するのを例としたが、霊験最も顕著であったという。古文書類は元和年間の火災で全部焼失し、今は元禄16年(1703)の棟札が残っているだけだという。明治28年(1895)に再び河輪神社に改称して今日に至っている。

                                                      美里町史より引用
河輪神社の由緒
 

 当社は「三代実録」に記載されている「河曲神社」と想定され、いわゆる国史現在社と考えられる。鎮座地は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山である。
  社伝によると、延暦20年(801)坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当社に祈願したという。その後、武蔵七党の猪俣党河勾氏の本貫地として、河勾七郎・河勾左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行った。次いで、慶長年間(1596-1614)には地頭安藤彦四郎が信州の諏訪神を合祀し、別当光勝寺を祈願所としてより諏訪神社と改称したという。以後、江戸時代は諏訪神社と称した。
  当社は雨乞いに霊験あらたかといい、干ばつ時には代官が近在近郷の官吏を従えて祈雨祭を実施し、旗本安藤氏より褒賞されている。
  明治19年には、社号を旧名に擬すとして社号改称願が県令に提出され、同28年に河輪神社に改称した。また、同33年と35年には郷社昇格願も提出されている。
  主祭神は淤迦美神で、合殿の神に健御名方命と八坂刀売命が祀られている。境内社は、三和神社・二柱神社・若宮八幡神社をはじめ、明治40年に字新井より移転した北向五社の一つである北向神社、字天神に祀られていた赤城神社・妙義神社・榛名神社・天手長男神社、同41年に字横手の御嶽神社、字塚田の富士仙元社を移転した。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

 拝殿正面上部に飾られていた神社名を記した額             境内にある神楽殿
  拝殿上部に飾られている額には神社の正式名
   「国史現在社河輪神社」と書かれている。

 ここに記されている「国史現在社」とは、10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には,全国で2861の神社,3132座の神名が記載されているが,そこに見える神社を後世式内社、また単に内社といい、式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり,式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特にそれらを国史現在社といい、式内社に次ぐとされた。
 (但し式内社以外に六国史に名が記されている神社のほとんどが式内社であるため、通常は式外社として言われているようだ。)

                    社殿の奥にある境内社(写真左、右)

 
 ところで河輪神社周辺には河輪神社古墳群が存在している。埼玉県の遺跡マップによると、諏訪山古墳群は帆立貝型古墳1基と12基の円墳で構成される。箱式石棺を主体とする古いもの間あるが大半は横穴式石室を主体としない古墳群。諏訪山は住人達の墓域であったのであり、古くから継続的に営まれた神聖な場所であったのだろう。
        
              河輪神社社殿の左側にある径30mの円墳である河輪神社古墳
 諏訪山古墳群は諏訪山の稜線に沿って南西-北東に細長く広がっている。河輪神社古墳は諏訪山古墳群の中では、諏訪山古墳、諏訪山古墳2号墳に次ぐ規模の古墳。墳頂には「八海神社 御嶽神社 三笠神社」と刻まれた石碑が建てられている。この古墳は手入れがされていて、山中の古墳としては抜群に管理が行き届いていて、周囲を散策することができる。
 ちなみに諏訪山古墳は河輪神社から南西方向の諏訪山の屋根をたどるとある。径39m、後円部径30m、同高4m、前方部幅18m、同高1mの帆立型前方後円墳。旧岡部町と美里町の境界に位置し、舗装されていない道路によって後円部が分断され半壊状態となっている。年代的には埴輪の特徴などから5世紀終末期と推定される。近隣には長坂・河輪の両聖天塚があり、その有力首長の流れを受け継ぐ古墳であるかどうかは現在はっきりわかっていないという。 
     
             境内にある御神木               参道の途中にあった立派な杉
                                    境内にある御神木より立派なため撮影。

 河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったといわれている。この河匂氏の始祖は小野篁であるが、何故武蔵国北部に土着した横山党の一派でしかない河匂氏の信奉した河輪神社が武蔵国の式外社、または国史現在社として中央の正史に名を連ねているのだろうか。真にもって不思議な社だ。
 


 

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