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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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小茂田北向神社

 美里町小茂田地区は美里町の北部に位置している。美里町は南北に細長くやや長方形を示していて、中央部以北は平坦地で、南部にいくに従って高度を増し、ゆるやかな傾斜をなしている。南部山間地帯は標高100~500mに位置し、小茂田付近では標高60m程であり、畑及び水田はほとんどこの地域に分布している。地形をみると、秩父山地の山脚が北東の方向にのびて山地帯(標高150m以上)を形成し、さらに丘陵地帯(標高100~150m)・低地帯(標高100m以下)と大別することができる。秩父山地と関東平野とは、八王子構造線と呼ばれる断崖線(標高150m内外)ではっきり境されている。
 美里町の丘陵地帯は、山麓地帯やそして町の東部を北東から向かい諏訪山から山崎山にかけて走り、さらに、北西部には生野山から朝三山の間にかけてのびている。このことから小茂田地区を含む中央部から北部の低地帯は、南部は八王子構造線、北部は深谷本庄断層線によって境され、東西は丘陵によって囲まれ、盆地上低地帯を形成している。それ故に内陸性の気候の特徴をもち、夏は蒸し暑く、冬は乾燥し、湿度が低くなり、晴れの日が多く「からっ風」と呼ばれる北西の季節風が吹く。そんな小茂田地区の小高い場所の一角に小茂田北向神社は鎮座している。
所在地    埼玉県児玉郡美里町小茂田4-1
御祭神    大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命
社  挌    旧村社、旧小茂田村鎮守
例  祭    春例祭4月5日、秋祭り10月15日
        
 小茂田北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線と埼玉県道75号熊谷児玉線が交差する阿那志交差点を本庄方向に北上し、関越自動車道を過ぎた下十条交差点を右折するとすぐ左側に緑に囲まれた社叢が見える。周囲は田園地帯ながら、この社の周りだけ若干小高い丘陵地となっていて、その上に鎮座している。
            
                        小茂田北向神社一の鳥居
                  境内は綺麗に整備されていて、立派な神社。

        参道左手にある小茂田池             参道には比較的広い空間が広がる。
 延暦15年(796)7月に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる五社(沼上北向神社・阿郡志河輪神社・北十条北向神社・小茂田北向神社・古郡北向神社)ののうちの一社と比定されている。江戸時代には小茂田村の鎮守社となっていた。明治40年に近在の神社を境内に遷座したという。
           
                             拝    殿

         拝殿前にある由来書                                               拝殿内部
北向神社 由緒書
北向神社は、古代から小茂田地区の鎮守様であるとともに、「北向様」と呼ばれて、近在近郷の人々からも広く崇敬されてきました。
 社伝によりますと、桓武天皇の時代である延暦20年(801)に、征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷平定のために東北地方に出陣した折り、当地を訪れておまつりしたといわれています。
当時、近くを流れる身馴川(小山川)には、周辺の村々の田畑を荒らし廻わり、人々を苦しめる大蛇が棲みついており、坂上田村麻呂は上野国(群馬県)赤城山の神霊である赤城大明神の霊威をいただき、みごと大蛇を退治することができたという伝説が伝えられています。坂上田村麻呂は、小茂田をはじめ、沼上・十条・阿那志・古郡の五か所に、赤城大明神の神霊を、赤城山に向かって、北向きにおまつりしたため、北向大明神とか北向神社と称されるようになったといいます。地元の人々は、五か所にまつられた北向神社を総称して、「五社の明神」と呼んでいます。
北向神社は、邪気を祓い、人々の幸福を願う節分蔡行事で有名ですが、五穀豊穣や厄除開運をはじめ、勝利祈願や安全祈願にも霊験あらたかといわれています。また、氏子の人々によって鎮守の森が保護され、自然環境を大切にしておまつりされています。
祭神 大己貴命、素戔嗚命、少名彦命(以下中略)

                                                       案内板より引用
 
 境内社 左から八坂、神明、天満天神、稲荷神社       境内社 厳島、山之神、大国、三嶋、八雲神
            
                      社務所も兼務している惟神祖霊社

  当地は身馴川(小山川)と志戸川の問に位置し、条里制の遺構がある。古くは薦田(こもだ)と記し、真薦が繁茂している田を意味していたと思われる。文永11年(1274)11月の「大嘗会雑記配賦」には「薦田」と記されている。また、武蔵武士児玉党薦田氏の本質地と伝えられ、仁安3年(1168)には児玉党庄氏の家長庄太郎が社殿を再興し深く崇敬したという。元和3年(1617)5月には酒井下総守が徳川氏より小茂田村五百石を宛行われた。以後幕末まで旗本酒井氏の知行地となる。
 当社は身馴川の古い段丘状の微高地に位置し、いわゆる北向五社の一つである。社伝によると、桓武天皇延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当地方に立ち寄り、身馴川宗鑑に棲みついて周辺村々の田畑を荒らし回る大蛇を退治しようとした際、上野国赤城明神の神霊を感じ、大蛇を退治できたという。よって児玉郡内五か所に赤城明神を勧請して祀り、北向明神と称したという。当社はその内の一社である。
 当社の祭神は、須佐之男命・大己貴命・少彦名命の三柱である。江戸時代初期から幕末まで領主旗本酒井家の信仰厚く社殿改修を進めたが、元文4年(1739)12月17日に「池魚〔古くより社有地に灌漑池あり)の災い」による大火に遭い、社殿・古文書類ことことく灰燼に帰した。その後、酒井家や氏子の努力で社殿が再興された。また、天明年間(1781-89)には天候不順や浅間山大噴火などで大飢饉に見舞われたが、鳥居を奉納することでその難から逃れられるようにと願った氏子たちが天明3年(1783)に石鳥居を建立したと伝える。
 安政5年(1858)に至り、白川家御近習関東出張所出役の中嶋数馬〔岡本一馬利貞)が、名神大社金鑚神社に派遣奉職し、併せて当社の神主となった。
 境内社は稲荷神社・神明神社(伊勢神社)・天満天神社(菅原神社)・八坂神社・阿夫利神社・八雲神社・三島神社・大国神社・山之神社厳島神社である。多くの境内社が明治40年4月23日に移転された。 稲荷神社は元来の境内社に字下児玉東の伊那利神社を合祀し昭和32年に外宇を改修した。神明神社は字日之待西の伊勢神社を移転し昭和19年に神明神社と改称した。天満天神社は字下児玉東の伊那利神社境内社菅原神社を移転し社号を改称した。八坂神社は大字南口の八雲神社を移転し社号を改称した。阿夫利神社は本社創立の際に勧請したといい、文久2年(1862)銘の石宮である。三島神社は宇三島南、大国神社は字権現塚、山之神社は字太子宮、厳島神社は字阿郡志境からそれぞれ移転したものである。明治時代以降の社殿等の改修は、明治12年に拝殿再建、昭和38年に石鳥居再建、同51年に外宇営繕、平成8年に社務所再建を実施している。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

       

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