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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小松三神社

 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・ 平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って 累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
 嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。ただ重盛は温厚・誠実な人柄で後白河院の信任も厚く、『平家物語』において平氏一門の良識派的な存在とされていることも、その人柄が後世に伝わっていたことによると思われる。
  清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。享年41歳。し、歴史のイフが許されるとして重盛が長生きしていたとしたら、平氏の歴史は違った形で存続していたのかも知れない。 重盛の死の2年後には父清盛が、さらに4年後には壇ノ浦にて平家は急転直下に滅亡することになる。
 ちなみに重盛は六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣と称された。

 羽生市小松地区は元々平氏の荘園があったとされ、それ所以か小松三神社は承安年間(1171~1175)小松内大臣重盛が当社に熊野白山両権現を勧請したのが始まりという。

所在地   埼玉県羽生市小松280
御祭神   伊弉諾命,伊弉冉命,小松大明神(小松内府平重盛公)
社  挌   旧郷社
例  祭   7月15日夏季例祭・7月31日大祓祭(輪くぐり)・11月23日献穀祭

       
 
 小松三神社は国道125号行田バイパスを東に進み、国道122号と合流する前の小松交差点を左折し、約500m北上すると左側に赤い立派な鳥居が見えてくる。よく見ると東向きの鳥居から真っ直ぐ進む道があり、南側に松林があるところから、この鳥居の前の道は嘗ては社の参道だったのだろう。
 鳥居の脇に駐車場があり、そこに停めて参拝を行った。
         
鳥居の先、右側には「郷社 小松神社」の古い社号標があり(写真左)、神社の北側には弁財天が祀られている。(写真右)
           
                 鳥居の扁額には「小松三神社」と表記されている。
    
 案内板によると、小松神社は、熊野白山合社と小松大明神を合わせて、小松三神社と呼ばれていたそうだ。新編武蔵風土記稿では、「羽生領七十二ヶ村の鎮守となり」と書かれ、この地方では信仰を集めていたらしい。
           
           
                              拝   殿
           
                              本殿覆屋
           
          本殿覆屋の中の本殿は、白山神社(左側)、熊野神社(右側)が並んで鎮座

 今を遡り、景行天皇の代(55年)日本武尊が東征の途次小祠を建立し、伊弉諾命・伊弉冉命に二柱を祀ったと言われ、承安年間(1171〜75)の小松内府・平重盛が没し埋葬地の目印に銀杏が植えられ、脇に小松大明神として祀られ、この時代に社殿が創建されたと伝えられている。
 天文5年(1536年)に、羽生城主・木戸忠朝と館林城主・広田直繁が奉納した「三宝荒神」が鎮座している。
 慶安元年(1648年)羽生領72町ヶ村の総鎮守となり、家内安全、商売繁盛、交通安全祈願まで多くの氏子から崇められている。
 また「新編武蔵風土記稿」小松村の項には「熊野白山合社 羽生領七十二ヶ村の鎮守なり、社領二十石は慶安元年七月十一日賜へり、勧請の年代を伝へされど、古は大社にて、宝蓮坊・安養坊・善林坊・宝珠坊・不動坊・山本坊・明見坊等の供僧ありしと云伝へ 以下略 末社 小松明神 重盛をまつりし社と云う、と記述されている。
           
                      社殿の北側に鎮座する小松大明神
 本殿内にある白山神社、熊野神社、そして小松大明神の三社で小松三社と称した。小松三神社内にある小松大明神の由来として、重盛が治承3年(1179)に没し、重臣の筑後守貞能は出家し、追善の為に小松寺を造営、遺骨は重盛が日ごろから崇拝し、自らが勧請した熊野白山両権現のそばに埋葬され、目印として銀杏を植え、脇に小松大明神が建立された。なお、小松と称する所は、当地に限らず下総・加賀・出羽の国々にもあり、それぞれに小松寺が建立されているが、これは小松内府重盛の霊を慰めるために造営されたものといわれる。
                 
                   小松大明神の脇にある小松三神社の銀杏
 平凡社「埼玉県の地名」によると、天和2年(1682)に鋳造されたと伝える銅鐘の銘文の写しが神社に残っているらしい。それには次のようなことが記されているという。
 承安年間(1171~75)、小松内府平重盛(たいらのしげもり)が当地に熊野・白山両権現を勧請、本地仏として阿弥陀如来・十一面観音を安置した。重盛没後、重臣筑後守平貞能が出家して小松寺を建立。重盛の遺骨は両権現のそばに埋葬して、目印のためにイチョウを植えたという。真偽の程は定かでないが、幹の太さといい、かなりの年代物の巨木であることは確かだ。

 小松三神社は嘗て羽生領72町ヶ村の総鎮守だった故に上記の弁天社他、境内には浅間社、日枝社、
伊奈利社等、多数の境内社、合祀社が存在する。
 
 
 

 羽生市を含む埼玉県の東部は、関東平野のほぼ中央部に位置し、利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にある。このうち加須低地は、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 ところが加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、 ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることだ。通常低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことで、しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものといわれている。
 もうひとつは後背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことだ。代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもある。水はけが悪くぬかるため、縦横に溝を掘った堀上田と呼ばれるこの地域独特な田んぼがかつてはあちこちで見られた。

 さらに、昭和54(1979)年、羽生市小松では地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることが調査の結果判明した。また行田の埼玉古墳群や真名板高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2、3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなった。
  これらのことから、加須低地のすぐ下には台地が隠れている(俗に埋没台地という)ことが分かり、加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だった。埋没台地の存在は加須低地を特長づけるもので、台地性微高地や谷地性低湿地は加須低地の特異な地形という。

 
 小松三神社周辺には嘗て小松古墳群が存在していたという。が、この利根川の乱流、氾濫による土砂の堆積と、関東造盆地運動と言われる沈降により現在は埋没古墳となり、地下2,3m掘らなければ発見できないという。実際にこの古墳の存在は、下水道工事で偶然発見されたのだ。小松埋没古墳は、完全に埋没しており、その形態が前方後円墳なのか円墳なのかもわかっていない。石室は地表から1.2mのところにあり、床面までは3mという深さだった。小松1号墳と命名、発掘調査が実施された。
 

  • 小松1号墳
    • 標高17.9m、地表下1.2mから主体部が発見された。主として角閃石安山岩を用いて構築され、奥壁まで胴張りがある複室構造の横穴式石室で、ほぼ南向きに開口している。石室の規模全長4.68m、高さ2m。床面には拳大の河原石が敷き詰められている。
    • 大刀2、鉄鏃2、瑪瑙製勾玉1、水晶製切子玉7、碧玉製管玉1、ガラス製丸玉6、滑石製臼玉1、ガラス製小玉121、耳環6が出土。このほか骨、歯、赤色顔料が確認されている。遺物は平成25年3月26日付けで羽生市有形文化財(考古資料)に指定された。

 石室の構造、副葬品の検討から7世紀前半の築造とみられる。

 古墳を埋めてしまう力が河川にはある。事実、真名板高山古墳は現状90.5mの中型古墳だが、築造当時は127mの埼玉地方でも二子山古墳に次ぐ大型古墳で、周囲には深さ2メートルもの二重堀が張り巡らされたのである。河川は大いなる災いを齎す破壊者でもあり、また平和時であれば人々に恵みをもたらす幸福の使者でもあった。

 それ故に河川を制する者は、土地をも制することが可能となる。埼玉古墳群の王者のように。



 


 

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