古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

酒巻八幡神社


        
               
・所在地 埼玉県行田市酒巻2038
               ・ご祭神 誉田別命
               
・社 格 旧酒巻村鎮守 旧村社
               ・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1847204,139.4546514,17z?entry=ttu

 行田市酒巻地域は、同市北部・利根川と福川の合流点に位置する。『新編武蔵風土記稿』には「当村固より利根川に傍ひ、北より東へ折れる隅にある村にて、福川落合ひの所なれば、水さかまく故酒巻と云ふ、假仮して書しならんと云」「水勢さかまくさま、近郷又なき地なり」と記載され、地域名由来として、利根川と福川の合流で逆巻いた場所よりくるといい、土地柄河川に関連した地名といえる。
 途中までの経路は斎条劔神社を参照。斎条劔神社に接している南北に通じる埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を700m程北方向に進むと、同県道59号羽生妻沼線との交点である「斎条」交差点に到着する。この交差点を直行すると利根川河川敷に達し、その河川敷沿いのほぼ正面に酒巻八幡神社は鎮座している。
 尚、社の敷地内に駐車スペースはあるので、駐車場探しをする苦労がないのは、本当に助かる。
        
            利根川右岸の堤下に鎮座している酒巻八幡神社
『日本歴史地名大系』での「酒巻村」の解説によれば、北は利根川・福川の合流点にあたり、東は斎条村・下中条(しもちゆうじよう)村に接し、南は南河原・犬塚(現南河原村)両村に続く。この地域は関東造盆運動による地盤沈下がひどく、利根川氾濫による堆積作用とあいまって、水田下に二〇基に及ぶ古墳が確認され、酒巻古墳群と称される。
 天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍酒巻靱負(永五〇〇貫文)ほか二名の酒巻姓の武士の名が載っている。同一三年、北条家が長尾顕長に発給した正月一四日の印判状(長尾文書)に「さかまき」とみえ、対岸上野国赤岩(現群馬県千代田町)との間に渡船があった。古代には幡羅郡に含まれたとする説もあるそうだ。
        
                綺麗に整備されている境内
 嘗て酒巻村には、江戸時代を通じて「酒巻河岸」があり、江戸への川道三二里、主として米の積み出しが行なわれていた。この「酒巻河岸」とは、利根川右岸の河岸。元禄三年(一六九〇)の関東八ヶ国所々御城米運賃改帳(千葉県伊能家文書)に「酒巻川岸」として江戸へ川道三二里、運賃三分一厘と載り、忍藩阿部家の手船が時期により一ないし数艘この河岸にあった(正田家文書)。
 また文政元年(一八一八)上流の幡羅(はら)郡葛和田(くずわだ)河岸(現妻沼町)が熊谷宿の商人荷物を忌避した時、阿部家手船は上野国館林藩の手船とともに商荷の運送に助力を請われている。
        
                     拝 殿
 八幡神社(酒巻)
 総合福祉会館の近くに鎮座しており、江戸時代の初期慶長十三年に社殿を再建したといいます。
 祭神は名前の通り八幡明神ですが、本殿には僧形八幡坐像が祭られています。この像は二七センチほどの高さの木像で、袈裟をかけた僧侶の姿を写実的に描いた像です。像の膝裏には宝永三年(一七〇六)に造られたことが墨画きされています。
 神社に僧侶の姿の像というのは異質なものに見えますが、人々を救うために仏が神となって姿を現した形を表現したもので、本地垂迹説の思想から造られた像であるといわれます。
 神社のある酒巻村には、江戸時代酒巻河岸があり、江戸への川道三二里、主として米の積み出しが行なわれました。
 忍城主阿部家の時代には、阿部家のもつ手船があり、この手船頭を正田家が勤め年に二万四千俵の廻米を江戸に送ったといいます。文政六年に阿部家に代わって忍城主となった松平家はこの手船を廃止し、酒巻村名主中村家を廻米御用船世話役に任命し領内の村々の蔵から江戸屋敷まで年貢米の運送を担当させたといいます。
 明治になり東京に移住する松平忠敬旧藩主を藩士一同涙して見送りしたのもこの酒巻河岸でした。
                                  『行田の神々』より引用

        
               拝殿の左側に祀られている境内社
 2012112日に公開された「のぼうの城」のメインキャストの一人に「酒巻 靱負(さかまき ゆきえ)」が登場した。この人物の出身地はこの酒巻地域と言われていて、「埼玉県史」によれば酒巻家は元々土着の有力者で、成田親泰(氏長の祖父)の代に成田家に従ったとされる。酒巻姓を名乗る前は金田姓であったとも伝えられる。
 酒巻靭負は文献によって名前の表記に違いがあり、「成田分限帳」では酒巻靭負助、「行田市譚」では酒巻靭負之助詮稠(あきちか)・酒巻靭負・酒巻靭負之助・酒巻靭負允と一つの文献の中でいくつもの表記が見られる。だが、同一人物であるのは確かなようだ。
 酒巻家に伝わる家系図にも諱(いみな)は伝わっていないという。また氏長の父親である長泰の代から酒巻靭負の名が資料に出てくることから、靭負は官職名である為、親子で同じ名前であった可能性もある。
 忍城の戦いでは、下忍口を手島采女以下600人余で守った。忍城開城後は深谷城へ赴き、忍城戦の報告をした。開城後に会津へ向かった主君氏長には同行しなかった。戦いの後、現在の埼玉県羽生市上手子林(かみてこばやし)に土着したとされる。羽生市上手子林には今も子孫が暮らしているという。
*因みに『新編武蔵風土記稿 酒巻村条』には酒巻 靱負、及びその一族に関して以下の記載がある。
当村固より利根川に傍ひ、北より東へ折れる隅にある村にて、福川落合ひの所なれば、水さかまく故酒巻と云ふ、假仮して書しならんと云、成田氏家人の事を記せし者に、永樂(楽)五百貫文酒巻靭負亮長安、同五十貫文酒巻三河、同三十貫文・酒巻源次右衛門などあるは、當(当)所の在名を用ひしものなるべし」
 
 参道の両側には幾多の石碑、石神が設置されている。その中には利根川堤防拡張のために現在地に移設した「八幡神社新築記念碑」(写真左)があり、つい最近に移設したようだ。また記念碑の向かい側には「諏訪大神」と刻まれた石祠もある。(同右・真ん中の石碑)。
 石祠等3基は古い形状でもあり、移設の際に、そのまま持ち込まれたものと思われる。また社殿に関しても、その木材の色の違いから、特に向拝部・木鼻部等、昔の社殿の一部で、再利用できるものはそのまま使用しているようである。
        
                     利根川堤防のすぐ南側に鎮座する酒巻八幡神社
 行田市酒巻地域は利根川・福川の合流地点に位置し、過去数えきれないほどの水難等の災害を経験している。『新編武蔵風土記稿』に記載されている「逆巻いた場所」という地名由来にも説得力がある。なにせ河川の規模は日本一で、「坂東太郎」の異名を持ち、日本でも「三大暴れ川」としても有名な利根川、その水難時の激流たるや、レベルを超えたものであったろう。


 酒巻八幡神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を600m程西行すると、進行方向左側に「酒巻会館」があり、そこの敷地の一角には「酒巻古墳群(さかまきこふんぐん)」の案内板が立っている。県道沿いにこの案内板は設置されているので、見失うことはほぼないであろう。
 酒巻古墳群は、埼玉県行田市酒巻に存在する古墳群である。現在は残念ながら全て消失または埋没し、周囲一面見渡す限りの田畑風景となっている。
 前方後円墳3基、円墳20基の、合計23基。この他に存在すると言われている未確認のものが1基ある。5世紀末から7世紀初頭の築造とされている。
 ほぼすべての古墳が水田面下に埋没した状態で散在している。地元の人は「飛び島地」と呼び、墳頂部をならして畑として利用していた。
 酒巻古墳群の存在する行田市酒巻地区は、加須低地に位置している。この加須低地は関東造盆地運動により、利根川からの河川堆積物を受けて徐々に沈降しているため、古墳群の墳丘自体も沈降している。1964年(昭和39年)に斎条古墳群の発掘調査を行う時点で、斎条5号墳が地表から11.5mの深さまで埋没していたことから、酒巻古墳群も同じように沈降してしまったと考えられる。
 1983年(昭和58年)、さすなべ排水路の改修工事と県営かんがい排水整備事業が行田市酒巻地区にて実施されることになり、それにより工事より先に発掘調査を実施する運びとなった。1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)までの調査により、23
基の古墳の概要が判明した。
        
       酒巻会館の敷地内で、県道沿いに設置されている
酒巻古墳群の案内板

 その酒巻古墳群の中でも「酒巻14号墳」から出土した埴輪は、平成1968日に国指定重要文化財に指定されている。『行田市HP』での記載では以下のように記述されている。
酒巻14号墳出土埴輪』
 国指定重要文化財 指定年月日 平成1968
 酒巻14号墳は、昭和6112月から昭和623月にかけて農業基盤整備工事に先立ち発掘調査が実施されました。調査は古墳全体の約1/3が対象となりましたが、確認された周掘や墳丘の状況から、本古墳は直径約42メートルの円墳で現地表面より1.3メートル埋没していたことが明らかになりました。
 埴輪は、墳丘中段のテラス状の部分から、墳丘を二重に巡るように配置された状態で検出されました。外側に円筒埴輪、内側には人物、馬形埴輪などの形象埴輪が巡らされており、人物埴輪は台部の設置状況から、墳丘を背にして外側に向かって立てられていたことが確認されています。
 形象埴輪の中で注目されるのは、馬の背に旗竿を指した馬形埴輪の存在です。鞍の後部に屈曲したパイプ状の旗竿が付けられており、この旗竿上部のソケット部分には、近くから検出された旗をかたどった部品がセットされます。この旗竿は、これまで用途不明とされてきた蛇行状鉄器(だこうじょうてっき)の性格・用途を明らかにした点で重要であり、国内では本例のほかに例はありません。
人物埴輪には、手先まで隠れる筒袖の衣装を着けたものや、まわしを締めた力士埴輪があり、当時の風俗を知るうえで重要です。
埴輪の時期は、6
世紀後半と考えられています。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「行田市HP」「行田の神々
    Wikipedia


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