古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

持田大宮神社

 陰陽道(おんみょうどう、おんようどう、いんようどう)は、陰陽五行思想を起源として、天文学や暦の知識を駆使し、日時や方角、人事全般の吉凶を占う技術である。この思想は、古代の中国で生まれた自然哲学思想で、陰陽五行思想を起源として日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。
 5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わり、7世紀後半から8世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化される。その時期、僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた。
その後、平安時代中期,賀茂忠行,保憲父子,その門人安倍晴明の頃,陰陽道は全盛期をきわめる。これは、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていく。
 室町時代に入ると本来下級貴族の家柄であった安倍氏の嫡流は他の一族を圧倒して公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏嫡流の土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
 このように古代では公家(くげ)の政策に、中世では武家の戦術に取り入れられたこともあり、これらの風潮は、もちろん一般民衆の間にも浸透し、近世においては精神生活全般を左右するかのようにさえみられるほどで、日本人の生活全般にまで広まった。
 その後近代的科学思想によって、所謂迷信打破が叫ばれた結果、ようやく表面的には影を潜めてきた。それでも婚礼、葬礼の日取り(大安(たいあん)、友引(ともびき)、仏滅(ぶつめつ)など)や、旅行、移転の方位(恵方(えほう)、鬼門(きもん)など)、縁組、就職の相性(あいしょう)関係など、陰陽道に関連した習慣は、いまなお残されているといってよい。
        
              
・所在地 埼玉県行田市持田6516
              
・ご祭神 事代主神
              
・社 格 旧村社 持田村下組鎮守
              
・例祭等 例祭日 95
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1360076,139.4492513,17.25z?entry=ttu

 忍東照宮から埼玉県道128号熊谷羽生線を西方向に進む。城西からくり時計が設置されている「城西」交差点を左折し、「宮脇書店」手前の十字路を左折、200m程進むと右側に持田大宮神社が見えてくる。
        
                                 持田大宮神社正面
              現在は静かな住宅街のなかに鎮座する。
 創建年代などは不詳。天正年間(15731592)に兵火で焼失、同15年(1587)社殿を再建。ここは忍城大宮口にあたるので当時は「大宮の久伊豆神社」と呼ばれていたようだ。
       
 鳥居の両脇には、石柱・石碑が設置されている。左側には社号標柱、右側には大宮口御門跡」の石碑がそれぞれある。この地が嘗て「忍城裏鬼門の地」として戦略的に重要な地で久伊豆神社を祀り堀と曲輪(くるわ)と二重門で固めたという。
                   
                                  
「大宮口御門跡」の石碑
「大宮口御門跡」の石碑
 忍城裏鬼門の地として戦略的に重要な地で久伊豆神社を祀り堀と曲輪(くるわ)と二重門で固めた。天正18年(1590)石田三成忍城攻略で三成は下忍門を、そしてこの大宮口の地で大激戦が始まり、遂に不落の為水攻めとなったのである。
                                      石碑文より引用

        
      参道の両脇には玉砂利が敷かれ、手入れもしっかりとされているようだ。
 戦国時代末期、豊臣秀吉は四国征伐や九州征伐で長宗我部氏や島津氏を配下とすると、天下統一に向け今度は関東平野に広大な領土を獲得していた後北条氏に目を付けた。秀吉は徳川家康を介して上洛を促すが北条氏政は拒否し、「小田原攻め」が決定する。この戦いの中で発生したのが「忍城の戦い」である。
 1590
64日に三成は館林から忍へ移動、忍城大宮口(この付近)に本営を設けて攻撃を開始したという。この地は「忍城の戦い」での緒戦の地の一つでもあり、この戦いから3か月にも及ぶ「忍城水攻め」が繰り広げられたといってもよい。
        
                                     拝 殿
 社伝によると「創建の年月不詳なれども、天正年中社殿兵火により焼失す。同五年忍城裏鬼門なるにより城主成田下総守社殿を再建し字大宮前において一石を免ずる」という。「風土記稿」に「持田村久伊豆社下組の鎮守なり、天正15年の勧請と云」とある。また「増補忍名所図会」に「久伊豆大明神大宮口御門の外にあり、別当亀行山峯雲寺修験なり、当社の鳥居は往古は今の沼尻組屋敷の東はずれにありしとかや、其頃、神君御入国の節如何しけん、笠木に亀昇り居しを御覧有て吉瑞なるべしと御感悦ましませしとかや、是より号して亀行山と称す」とある。
 現在も当社を大宮の久伊豆社と呼ぶ人があり、これは城表鬼門除けの長野の久伊豆社(長野久伊豆神社)と区別するためという。当社の位置は戦略的にも城にとって重要な地点といわれ、天正18年石田三成が忍城攻略の火蓋を切った所であり、やがて攻めあぐねた三成により歴史上有名な水攻めが行われた。
 祭神は事代主神であり、17.5cmの神像を祀る。流造り柿葺きの本殿は大正期修復と伝えるほかは造営等明らかにできない。
 大正5年、字相之道の八幡社、字飯沼の天神社、下忍通の塞神社を合祀している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                         拝殿に掲げてある「大宮神社」の扁額 
        
 
  拝殿向拝部や木鼻部には彩色こそないが、さりげなく丁寧に仕上げている彫刻が目を引く。
 
  社殿奥に祭られている塞神等の石祠群      社殿右側に鎮座する境内社・石祠。
                               詳細不明

「鬼門(きもん)」とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位・方角のこと。日本では古来より鬼の出入り方角であるとして忌むべき方角とされている。
 おそらく、平安時代までには「鬼門説」が移入されたと思われるが、これを立証するような正確な文献が現在見当たらないのも事実だ。例えば桓武(かんむ)天皇が王城を平安京に移したとき、鬼門除けとして比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を建立したという(*但しこの解釈は後代になってからの説のようだ)。
 はっきりわかっているのは『吾妻鏡(あづまかがみ)』嘉禎(かてい)元年(1235)正月の条に、五大堂建立の地が幕府の鬼門にあたっているとの記載である。江戸城に対しても同様の理由から東叡山寛永寺を建立したという。今日においても、一般民家の建築に鬼門に対する警戒がみられ、この方角に便所や浴室を設けることを避けている。鬼門除けと称して、この方角に稲荷(いなり)などを屋敷神として祀(まつ)ることが広く行われている。
 鬼門に対する俗信はきわめて多い。鬼門に向けて家を建てるなとか、この方角に出入口を設けたり、家の出っ張った所をつくるなという。これを犯すと病人や災難が絶えない、また分家を鬼門の方に出すと本家が成りたたぬともいう。鬼門の方角に常緑樹とくにエンジュの木を植えておくとよいという。鬼門と正反対の方角すなわち未申(ひつじさる)(南西)の方角を裏鬼門または病門(びょうもん)といい、鬼門と同様に忌み警戒されている。
        
                        綺麗に整備されている持田大宮神社境内

「裏鬼門」とは、北東に位置する「鬼門」に対し、南西の方角を示す。家の向きや間取りで運勢が変わるとされる家相において、鬼門や裏鬼門という用語が使用される。裏鬼門は、鬼門と同様に不吉な方角とされ、家を建てる際、この方角にトイレや風呂場、キッチンなどの水まわりや、玄関を造ることを避けるという風習がある。この思想は、もともと中国から伝わったものだが、のちに日本の陰陽道(おんみょうどう)の思想と融合し、丑寅(うしとら)の方角である北東と、未申(ひつじさる)の方角である南西が、忌み嫌われるようになった。
 これらの方角は、悪霊が来る方角とされているため、魔よけの意味を持つヒイラギや南天の木を植えたり、屋敷神を置いたりして縁起を担ぐ場合もある。古代の都市計画でも、御所や幕府の鬼門、裏鬼門には寺などを置いて、鎮護させるような配置がされている。
 行田市持田地域に鎮座している大宮神社は、忍城址から直線で南西方向500mの所に祭られている。これは所謂「鬼門除け」の神社として重要な位置にあったことが分かる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia
    「境内石碑文」等

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小敷田春日神社

 行田市の埼玉古墳群の西方、4.6㎞程隔てたところに「小敷田」という地域がある。ここは荒川左岸新扇状地の末端に位置し、旧荒川の氾濫原(はんらんげん)として水田に適した低湿の地である。この地の自然堤防上には、弥生期から奈良期にいたる集落遺構(小敷田遺跡)が存在し条里跡も見られ、早くから人々が住みつき開発の鍬を振ったことを伝えている。地域の平均標高は22m程。昭和五八年(一九八三)より発掘調査を実施。弥生時代中期、古墳時代前・後期、飛鳥・奈良・平安時代にわたる複合遺跡。調査範囲に四本の河川跡が横断し、堆積土中から多量の木器が出土した。
 弥生時代中期の遺構は竪穴住居跡・方形周溝墓・土壙からなる。竪穴住居跡は17軒が発掘され、河川跡両岸部自然堤防上に散在する。形態は隅丸方形を呈し4本柱穴のものと、小型で112本柱穴のものがある。うち1軒から広葉樹を用いた柱根4本が出土した。方形周溝墓は2地点に分れ計4基が発掘された。1地点は三基連接し、短期間に連続して構築されたと考えられる。形態は長方形を呈し四隅陸橋である。方台部からは埋葬主体は発見されなかったが、うち1基の溝底から壺5・甕1が出土している。
        
              
・所在地 埼玉県行田市小敷田1
              
・ご祭神 武甕槌神 斎主神 天児屋根命 姫大神
              
・社 格 旧村社 旧小敷田村鎮守
              
・例祭等 大祭 821
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1422646,139.4264567,17z?entry=ttu

 菅谷八幡神社正面鳥居の前の道路を一旦北上し、忍川を渡ったすぐ先の道路を右折、河川沿いに800m程東行すると小敷田春日神社に到着することができる。
 社の東側に隣接している観音堂の前には車が数台駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                  小敷田春日神社正面
 小敷田春日神社は忍川左岸に鎮座し、丁度川に向かって祀られているような配置。現在の住所は「行田市小敷田1」と嘗ての旧小敷田村鎮守社として、昔から今に至るまでこの社はこの地域の正に中心に位置し、地域の方々も大切に祀られているのであろう。社の創建年代や由緒については不詳だが、江戸時代には小敷田村の鎮守となっていたという。明治41年に字稲荷木の伊奈利社、字嘉寿賀町神明屋敷の神明社を合祀した。また境内には、境内忍第7番巡礼札所と掲げられた旧施無畏寺(旧普門寺)観音堂が遺されている。
               
               道路沿いに設置されている社号標柱
          此処には「供進指定村社春日神社」と表記されている。
       
                   小敷田春日神社 朱色が鮮やかな一の鳥居
     赤色の鳥居も良いが、こうやってみると朱色もまた社のコントラストに合う。
 
   一の鳥居のすぐ先にある石製の二の鳥居    二の鳥居の左側には塞神・庚申塚群が並ぶ。
 
  塞神・庚申塚群の並びに鎮座する境内社    境内社の隣には「御嶽神社」が鎮座する。

 社は決して広大な敷地にあるわけでないが、限られた境内をうまく利用して、境内社や庚申塚等配置させている。この器用さは日本人独特の感性なのだろう。
        
                     拝 殿
 改築造営由緒紀
 埼玉県神社庁の発行した神社誌録に明記されている春日神社は小敷田の氏神様であり天児屋根命を御祭神となし古来より永々として神事が継承され神はこの地域に居住するすべての人達を氏子となし、人は自からの守護神として崇敬しているところであります。
 当地は旧池上村の新田といい伝えられ湧水に恵まれた水田地帯で小敷田の地名は、律令期国司、郡司、などに職田として支給された語源からの由来があり最近の遺跡発堀調査によると古墳後期から平安期にかけての集落遺跡や条理制遺構、特に日本最古の米と評されているものをはじめ当時の生活用具等かず多く出土し行田市博物館に保存されている。しかし当社の創建について名だたるものは未だ見当らないものの境内の手水鉢に元録六癸酉年九月の年記が刻まれ奉納されているものを見ても既に三〇〇余年を経過し祖々代々の敬神の深さに感銘を覚える次第であります。
 近時に於ては大正十四年十月より六ヶ月を要して草葺屋根を御拝の改築に合せて拝殿と共に銅葺屋根となし近隣に類なき大工事を施行され、続いて昭和五十二年には本社覆屋藁葺を茅葺に葺替え古美の伝統を継続したのであります。
 時移りて明治、大正、昭和、平成と四代に亘る年号の中に生れ育った者の人生観や時代観はそれぞれによって変ろうとも、協調一致特段のご賛助を得た金参阡万円余の資金調達は碑表に御芳名を刻し感謝の誠を尽した次第であります。
 お蔭様にて神社御拝、拝殿ともに昔日の風格を失う事なく本社奥殿の損傷も完修し奈良春日大社造り屋根の造作にも意を用い併せて覆屋の構造も同様に配し近代建築の構図を適応して完成し更に境内地の環境整備を実施する為往古の大小樹林を伐採し榧、槙、紅葉、銀杏等特別な大木を残置して御神木となし、なるべく広い子供広場の造成に配意したのであり、境内には伊奈利社、神明社、三峰社が合祀され、ほかに由緒不詳ながら御嶽神社と塞神社も祀られているが、特に旧小字島合にあった真言宗普門寺が廃寺になり本当の正観音を移した観音堂も数次に及び修復を行ってたものの神佛一体の崇敬心から堂屋改修工事も同時施行となり損傷ただならぬ正観音像を特別寄進を得て仏具専門工師により原像に復元され忍七番巡礼札所の面目を一新した、前述の神明社、三峰社ともに荒廃、手水鉢覆屋、御影石鳥居、神社幟旗、各社前幔幕、社前吊灯篭及び観音堂内灯篭堂前鰐口等は特別寄進により新規造営され加えて神職には本絹装束を贈呈しかくして一三〇五平方米の境内地も時代に即した風情を社前榊一対の植込寄進を得て春の目覚を告げる櫻、皐、椿等闊葉、針葉樹を現代風に配して景観を整えたのであります。
 今茲に建国紀元二千六百五十年祭の到来と平成明仁天皇の御大典を慶祝し併せて本事業の完成にご尽力いただいたる各位に萬腔の敬意と感謝を捧げ記念碑を建立して後世に伝えるものであります。(以下略)
                                      境内碑文より引用
 
          本 殿              社殿奥に祀られている境内社。
                              稲荷社だろうか。

        
 境内には、境内忍第7番巡礼札所と掲げられた旧施無畏寺(旧普門寺)観音堂が遺されている。

新義真言宗、上ノ村一乗院末。
土人云古は施無畏寺と号せしが、何の頃か寺号替れり。此施無畏寺と云は古き寺院にして、今忍の城内に掛し延慶
2
年の古鐘に、武蔵国崎西郡池上郷施無畏寺、冶鋳梵鐘一枚、右当□者、□組奉為関東右大□家御菩提所令建立也と彫り、末に願主正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏敬白と載たるは、則当寺の鐘にして、戦国の頃忍城へ持行陣鐘に用ひしものならんと云。さもあるべし、今はこの寺荒廃して庵室の如くになれり。本尊正観音を安ず
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

『新編武蔵風土記稿』に記されている「正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏」とはどのような人物であろうか。延慶2年は西暦に直すと1309年となり、鎌倉後期の時代である。「関東右大□家」は肝心なところが読めていないが、「関東右大将家」で、恐らく源頼朝のことであろう。(*北武八志には「関東右大将家」と記されている)吾妻鑑に頼朝の一周忌に際して関東に令して、「堂宇を建立して冥福を修せよ」とあるので、この時期の鋳造されたものであろう。
「藤原朝臣道敏」は如何なる人か、どの資料にも載っていないため、知る手掛かりはない。但し「正六位」という官位を持っていて、これは自称ではなく、中央の任命により官位が授けられた人物である。余程地元では有力な豪族であったことは、この官位任命により分かる。また嘗て頼朝の恩顧を受けた人の子孫なのであろう。銘文に「曩祖」とあるから、道敏の祖先が建立したものである。
 加えて「藤原朝臣」と名乗っている所から、この人物は「成田氏」の一族で、しかもその長である可能性が高い。藤原道長とする説と藤原基忠とする説とに分かれるようだが、どちらも藤原北家から出ていることには変わりない。

 ところで時代は下り、元弘の変(1333)で鎌倉幕府が滅亡し建武新政が成立したが、それも新政府の失政が原因で崩壊したのち、成田氏の嫡流は本領成田を没収され庶流に預けられた。この庶流こそ、武蔵七党の一つ丹党の安保氏である。
 安保氏は、安保実員の庶子・信員が成田家資(「成田系図」上での家助)の娘を娶(めと)って成田氏と姻戚関係になっており、信員の孫・行員が祖母を通じて成田氏の所領を継承していた。行員の子・基員は成田氏を名乗り、基員からその子・泰員への継承時には成田氏本領である成田郷も所有している。このため、安保氏庶流の一族が姻戚関係によって没落した御家人成田氏の領地や名跡を継承していったとみられ、成田系図上は鎌倉期から一貫して続いている戦国時代の忍 城主成田氏は、実は安保氏系だと考えられている。
 但し経歴を考慮すれば「藤原氏」を名乗る方が系図的にも見栄えが良いため、始祖を「藤原氏」として面々と続いているように見せたのではなかろうか。
「左衛門尉」という官職名は、日本の律令制下の官職のひとつで、左衛門府の判官であり、六位相当の官職であるのだが、「成田氏」には多く排出されているように見えて、その実は「安保氏系」にも多いことも事実である。

 梵鐘を冶鋳した年代が1309年というのも何か曰くがありそうである。というのも鎌倉時代北条家が滅び、藤原系成田氏の本家が衰退するのが1333年であり、丁度24年前に当たる。
「正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏」は「藤原氏」なのか「安保氏」であるか、微妙な時期であろう。但し最低でもこの時期には「安保氏」の誰かが、成田氏・庶流となっていたことは確かであろう。そうでなければ本流が衰弱して、庶流が継いだ時には、その多くの一族からも認められた地盤がなければ、本流を名乗ることすら出来ないからである。

 長々と綴ってしまったが、本来歴史を探求する際に必要なことは、第一級資料である遺物等をまず中心において、付随的にはより古い書物等を参考にしなければいけない事と思っている。書物等は編集を何度も繰り返すことにより、編集時の新しい発見や、場所名の変遷、地形の変化、編集者当人の偏見等により、変わってしまうことが度々ある。
「藤原朝臣道敏」という人物がどの系図書簡にも登場しないからといって、「系図に載っていない人物はデタラメ」と簡単には言い切れないし、今回梵鐘に刻印された一文字 〃 が、何事にも代え難い第一級資料であり、まさに時間軸が固定された「生きた証人」となりうる貴重な存在と考察する。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本デジタルアーカイブス」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    Wikipedia」「境内碑文」等
  

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菅谷八幡神社

『忍名所図会』は忍藩(現行田市忍城周辺)に関する書物として最も古いものの一つで、天保年間(18301843)の忍城周辺の名勝や名刹、風俗や名品などが豊富な絵と的確な文章で描かれており、市内須加の川島家に伝わる写本は、当時の忍藩の様子を知ることができる貴重な資料である。その後文政8年(1825)、忍藩主松平忠堯(ただたか)は洞李香斎筆の編述した『忍名所図会』を見て、足りない所や漏れている所が多いのを惜しみ、家臣の岩崎長容に増補を命じ、天保6年(1835)に増補版6巻を作製したものが『増補忍名所図会』である。
 その『増補忍名所図会』には「忍」の地名由来に関して以下の記述がある。
〇忍
 鴛鴦(おし)とも書く。忍の地名は、古くは東鑑に載っている。建久元年(1190)二月七日、将軍頼朝が上洛した行列に、三十九番別府太郎・奈良五郎、四十番岡部六弥太・滝瀬三郎・玉井四郎・忍三郎・同五郎などとある。また建久六年(1195)三月四日に将軍頼朝が上洛し、同九日石清水八幡宮へ御参詣された随兵の記述があり、岡部六弥太・鴛三郎・古郡次郎などの名前がある。
 別府や玉井など皆この辺りの地名なので、忍の地名も古くからあったことが分る。 忍三郎と鴛三郎は字が違うが同じ読みなので同一人物である。また別府・玉井・奈良に成田を加えて、武蔵国成田の四家という説がある。

        
              
・所在地 埼玉県行田市持田5774
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 不明
              
・例 祭 不明
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1407957,139.4172986,16z?entry=ttu

 佐谷田神社から埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地方向に1.7㎞程進み、「流通センター前」交差点を左折する。秩父鉄道の踏切を過ぎて400m先の十字路を右折して、暫く進むと左手に菅谷八幡神社の社叢林が見え、その林の先に鳥居が見える。
 周辺には専用駐車場はない。鳥居の北側には忍川に至る道路があり、その路地に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                  菅谷八幡神社正面
 菅谷八幡神社が鎮座する行田市持田地域、「持田」は元々当て字で、昔は「糯田(もちだ)」と書かれていたようだ。『新編武蔵風土記稿 持田村条』にも
由良氏(太田金山城主)の文書の中に、頼朝が新田上西入道へ出した下文に、
  埼西郡の糯田の住人らヘ下す
 定補(決まってその職に補す)の郷司職事 新田入道殿、
 新田上西入道は、その職仁を為して郷の仕事を遂行すべし
 よって住人らへこの沙汰をよく承知させ、違失してはならない
 治承五年(1181)十一月  源朝臣
判」
と記載されている。
        
          鳥居の先で左側に設置されている提示版内にある「菅谷八幡神社由来記」 
菅谷八幡神社由来記 
 持田の名は古くは糯田郷と書き、また、条里制水田遺構が発掘され、 古来より米作地域であったことがうかがえる。
 持田は、東西三二町、南北二三町の大村のため、村内を私に上・中・下の三組に分けていたことが「風土記稿」に記され、当地は上組となっていた。
 更に「八幡社 観音寺持」とあり、現在の真言宗智山派観音寺が、往時当社の別当となり、奉斎していたことがわかる。
 当社の創建は「明細帳」によれば、建久元年(1190) 鎌倉将軍源頼朝の上洛に従い京の石清水八幡宮へ参詣の際、忍の豪族鴛 (おしどり)三郎が供奉し、帰村の後に忍城の砦西方に鬼門除けとして勧請創建したものと記されている。
 後に文化十三年(1816)頃現在の地に建てられたと推定されている。
祭神は、品陀別命で、内陣に白幣を祀るが、明治維新ごろまでは、騎乗八幡神像を安置していたと伝えられている。
本殿は、一間社流造り瓦葺きで、大正期まで覆屋・拝殿はなく、現在の拝殿は大字和田の和田神社拝殿を譲り受けたものである。
 戦後の台風などにより多くの木が倒れたため、現在、境内はまばらな木によって囲まれているが、戦前までは、うっそうと樹木が茂り、狐に化かされた話が残るほどの所であった。
 田山花袋の小説「田舎教師」のモデルとなった小林秀三もこの森を眺めながら熊谷中学へ通ったようです。
                              埼玉県神社庁「埼玉の神社」より

        
                        比較的長めの参道の先に二の鳥居が見える。
「菅谷八幡神社由来記」には戦前までは、うっそうと樹木が茂り、狐に化かされた話が残るほどの所」書かれているが、この行田・忍地域には昔からの伝説で「菅谷の森と白い狐」という昔話がある。
忍の行田の昔ばなし⇒http://gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/cat70690389/index.html
 社周辺は道路も整備され、近代的な建物も並び、このような伝承等の面影もないが、参道周辺にはその当時の名残と雰囲気も漂っているようだ。
        
                                 二の鳥居周辺の風景

    二の鳥居の手前で右側に祀られている     二の鳥居を過ぎて暫く進むと右側に
             塞神の石祠           境内社が祀られている。詳細は不明。
       
 社殿前でどちらも右側には二基の石標柱等があり(写真左・右)左側は八幡神社の社号標柱で、右側は奉納柱、その下部には石祠(?)らしきものもある。
        
                     拝 殿
「菅谷八幡神社由来記」に記載されている「忍の豪族鴛 (おしどり)三郎」・及びその一族は、『吾妻鑑』にも度々登場している。
吾妻鑑卷十
「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に、忍三郎、同五郎」
卷十五
「建久六年三月九日、頼朝上洛随兵に、鴛三郎」
卷二十五
「承久三年六月十四日、宇治合戦に手負の人々鴛四郎太郎」と。*鴛をオシと註す。
卷四十
「建長二年三月一日、忍入道が跡」
卷四十八
「正嘉二年三月一日、忍小太郎は将軍宗尊の随兵」
        
                                  社殿からの一風景
武蔵七党・児玉党には忍氏が存在していた。
・肥後古記集覧
「小代八郎行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領、武蔵一ヶ国の分には、児玉・入西両郡、並に久下・村岡・中条・忍・津戸・野村・広田・崛須・小見野・三尾乃野、弘行の所領なり」
成田記
延徳元年、成田親泰は忍三郎より相伝の地・忍大丞を攻め、児玉武蔵大掾重行も攻め殺す」
・新編武蔵風土記稿忍城下町条
東鑑に忍三郎、忍五郎、忍小太郎、忍入道など見へたれば、是等の人はや其地の宣を見てここに住せしは論なし、されど此頃城塁ありしとは思はれず。小田原記関東古戦録を合せ考るに、成田下総守親泰入道宗蓮、児玉武蔵大掾重行を欺き殺して、彼が所領を併せ忍城を築くと云。重行を或は忍大掾ともあり」


参考資料「
吾妻鑑」「肥後古記集覧」「成田記」「大里郡神社誌 箱田神社条」
    「行田市文化財保護課 文化財保護グループHP」「行田郷土史研究会2012」
    「埼玉の神社」「境内案内板」等

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皿尾久伊豆神社大雷神社合殿

久伊豆雷電合社
 村の鎮守とす。縁起に文治44月成田五郎長景、伊豆国三嶋社を勧請せし所なる由記したり。成田五郎は承久の乱にも出し人にて、東鑑に見ゆ。されど久伊豆は郡中騎西町場に大社ありて、近郷是を勧請するもの多し。当社も恐くは其類ならん。社に永禄2年左衛門三郎と云ものの寄附せし鰐口を掛く。其図下に出す。此余天正5年中村丹波守守吉が寄附したる鰐口ありしが、何の頃か失ひしと云。社人、青木主殿。入間郡塚越村、住吉神職勝雅楽が配下なり。
・八幡社  村民持
・神明社
・天神社
・駒形明神社 以上三社 泉蔵院持                   新編武蔵風土記稿より引用
        
             
・所在地 埼玉県行田市皿尾393
             ・ご祭神 事代主命・別雷命
             ・社 格 旧村社 旧皿尾村鎮守  創建 文治4年(1188年)
             ・例 祭 例大祭 728
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.14366,139.4384419,16z?hl=ja&entry=ttu

 行田市皿尾地区に鎮座する久伊豆神社大雷神社合殿は国道125号線を行田市街地方向に進み、「行田市役所入口」交差点を左折する。埼玉県道303号弥藤吾行田線に変わり、その道を道なりに進む。途中忍川手前付近でY字路を左方向に進み、忍川を越えてから暫く直進すると正面の細い道の先が社の参道入口になっていて、その先に鳥居が見える。
        
               皿尾
久伊豆神社大雷神社合殿正面
「ふるさと館皿尾センター」が鳥居をくぐった先にあるのだが、神様の通る道を乗用車でくぐるのは失礼かと思い、鳥居手前に僅かに駐車できるスペースに停めて、急ぎ参拝を行った。
 鳥居手前には神橋がある。皿尾地域は荒川の分流である星川、旧忍川の間にあり、豊富な湧き水により古代から水田稲作が盛んにおこなわれていたという。
        
                    参道を撮影
 
西方向に参道が伸びるが途中で北に折れ曲がり社殿に至る。正面にはふるさと館皿尾センターが見える。因みにふるさと館皿尾センター手前には「皿尾城」の石碑あり。
        
          ふるさと館皿尾センター入口手前にある木製の二の鳥居
            参道からは直角に入るような配置となっている。
 
    参道途中にある手水舎(写真左)。手水舎脇にちょっとおしゃれな花手水を鑑賞(同右)

 「皿尾」という地名『埼玉県地名誌』には次のように記している。「皿尾の皿(サラ)は乾いたところないし製陶地を意味する。したがって皿尾とは陶器を製造した平坦地の意となろうか。この地が製陶に適した土地であることについては、「武蔵国郡村誌」の皿尾村の条に「地味、薄黒埴を帯ぶ」と記しているのは注目すべきである。
 
「埴を帯ぶ」と記した埴は粘土、赤土の称で、上代土器をつくる必要欠くべからざるものとされていたものである(中略)」
 また『埼玉県の地名』には「古墳時代の集落遺跡」があったと記しており、これらを踏まえると、皿尾村はまさに「製陶地」だったのではなかろうか。
                 
                     拝 殿
 皿尾地区西側近郊には池上・小敷田遺跡が存在する。池上・小敷田遺跡は、熊谷市と行田市にまたがる遺跡で、秩父山地に発する荒川が関東平野に流れ出て形成した荒川扇状地の扇端付近に立地し、荒川から扇状に分流する星川と忍川の間の低地部に位置する、
 これらの遺跡は妻沼低地の自然堤防上に立地する弥生時代中期中葉から江戸時代までの複合遺跡である。池上遺跡では環濠集落、小敷田遺跡では関東地方で最古段階の方形周溝墓が見つかっており、関東地方における水稲農耕集落の定着を証明した弥生時代中期中葉の遺跡として学史的にも有名である。出土遺物には、在地の土器や石器、土偶などの他に北陸地方の小松式や東北地方南部の南御山Ⅱ式、北信地方の栗林式などの外来系土器が発掘されている。
 
 久伊豆神社・大雷神社並列にて表記された扁額          拝殿内部

 皿尾
久伊豆神社大雷神社合殿の社宝として直径七寸四分の鰐口がある。永禄二年(1559)十一月三日、左衛門三郎奉納とある。
市指定有形文化財 久伊豆神社大雷神社合殿の鰐口
 鰐口とは、寺院や神社の拝殿の軒先に吊り下げられ、参詣者が綱を振って打ち鳴らす鈴です。偏平な円形状で、上部には吊るすための耳が2つあり、下部は細長く開口しています。この鰐口は、直径20.5センチメートル、厚さ8センチメートルの偏平形で、全体に緑青(錆)に被われていますが、特に損傷はありません。同じ規型で前後両面の雌型を作り鋳造したもので、耳は前後各面に一箇ずつ鋳出されています。湯口は上部中央にあり、目は突出し、先端部はそぎあげられています。撞座(つきざ)には簡略化された蓮子が8個(中心に1個、周囲に7個)表出されています。撞座から外側に向かって内区、外区に区分され、その外区の右側には「奉掛鰐口」の銘文が刻まれ、「鰐口」の下に続く銘文の痕跡があります。左側には「永禄二年十一月三日願主右衛門三郎」の銘文が刻まれ、月日の横に小文字で「鋳物師田井」と鋳物師名が刻まれています。
 久伊豆神社の所在する皿尾には、かつて皿尾城(掻上城)が所在し、上杉謙信が忍城攻めの拠点とした事で知られていますが、この鰐口は、永禄二年(1559
)の紀年銘を持ち、伝来も「新記」などにより明確であり、地域の歴史を反映する貴重な資料です。 
                                   行田市HPよりより
引用

 
    久伊豆神社大雷神社合殿境内社        久伊豆神社大雷神社合殿神輿庫
       
                拝殿手前・左側にある春日杉。
          御神木の春日杉から蛇が出ると雷雨になると言われている。
        
                                   拝殿からの一風景
 皿尾久伊豆神社大雷神社合殿は、皿尾を拠点としていた成田五郎長景が伊豆国三嶋社を勧請して文治4年(1188)に久伊豆社として創建したと伝えられている。三島神社のご祭神が事代主命でもあり、本来久伊豆神社のご祭神が大己貴命である矛盾は上記の件で納得できる。
 大雷神社が合祀された時期は不詳だが、新編武蔵風土記稿には久伊豆雷電合社と記載されており、江戸時代後期には合祀されていたようだ。明治6年村社に列格、明治41年に皿尾字駒形の伊駒神社(駒形明神社)、皿尾字仲ノ在家神明社、皿尾字仲ノ在家天神社を合祀している。
        

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斎条劔神社

         
               ・所在地 埼玉県行田市斎条1255
              ・ご祭神 日本武尊
              ・社 格 旧斎条村鎮守・旧村社 
              ・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1776464,139.4485394,15z?hl=ja&entry=ttu
 斎条劔神社は国道125号行田バイパスを羽生方面に進み、途中「総合運動公園前」の交差点を左折し、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を利根川方面に道なりに進む。埼玉県道199号線は行田市街地外れの和田地域から南河原地域の犬塚までの路線であるが、車幅が狭く屈曲している地点も多くあり、安全運転に努める必要性がある。行田市消防署分署を越えると前方右方向にこんもりとした社叢が見える。そこが斎条劔神社であり、社叢の西側で県道沿いに南北に広がる駐車スペースがあり、そこに車を停めて参拝を行った。
 社殿周辺は斎条古墳群と呼ばれる古墳群となっていて、この劔神社は斎条1号墳という古墳群を代表する円墳上に祀られている。
        
                   斎条劔神社正面
        
                       拝 殿             
  斎条村 第十一冊-頁六十七
  村の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より引用)

 当地は西条とも書き、条里制水田に由来した地名である。社記によれば景行天皇の御代御諸別王が勅命を奉じ、父彦狭島王に代わり東国都督となる。この時、王は当地開拓の祖である日本式尊の霊を、水陸の要にある当地を選んで、東国鎮護の神として祀る。更に、康平5年には八幡太郎義家が安倍氏を征伐するに当たり、社前に馬を休めた。これにちなんで八幡社を併せて祀る。また、応永年中忍城主成田左京亮家が神威を崇め神田を寄進する。更に、徳川家康が江戸に入り、社領十石境内数町を除地する。
 古老の話によれば、当社には愛染明王像が祀られていたが、神仏分離の折、宝泉寺に移されたという。往時この像を納めていたと思われる箱の裏書きには「元禄六癸酉杷919日 明治2己巳年529日改」とあり、神璽箱の裏書きには「明治2己巳年529日御改 忍藩岡村覚太郎様 民政社寺御掛立会清水圭太郎様 名主萎澤六左衛門 同見習千五郎 組頭 松岡平六 大次郎 又三郎 反次郎 吾十」とある。このほか釈迦如来像を安置している。
 幕末まで真言宗金剛山阿弥陀院宝泉寺が別当を務めていた。
 明治4年に村社となり、同43年には字大道の八坂社、白幡の諏訪杜・天神社、江川の雷電社、北反戸の浅間社、新田の熊野社、八幡の八幡社・矢矧社を合祀した。    
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                      本 殿
 
        社殿左側に鎮座する               境内社・八幡社
 浅間・雷・天満・矢矧・熊野・諏訪の各境内社    本殿と隣接するように鎮座している
   拝殿の左側に鎮座する境内社・八坂神社     拝殿と八坂神社の間にある石碑(?)
                          表面が削られているように見える。
   
 社殿周辺は斎条古墳群と呼ばれる古墳群となっていて、この劔神社は斎条1号墳という古墳群を代表する円墳上に祀られている。
 斎条古墳群は利根川の堤防を北方約1キロにのぞむ標高20m程の微高地に築造された。中心となる古墳は、剣神社の鎮座する直径40m、高さ3mの剣神社古墳と呼ばれる埴輪を持つ古墳で、斎条1号墳とも呼ばれ、円墳と推定されている。この古墳の周辺には8基の古墳跡が確認されている。昭和36年(1961年)水田下から埴輪が発見されたのを契機に斎条5号墳の発掘調査が行われた。
 斎条古墳群の存在する行田市斎条は、加須低地に位置していて、この加須低地は関東造盆地運動により、利根川からの河川堆積物を受けて徐々に沈降しているため、古墳群の墳丘自体も沈降している。
 近郊には酒巻地区があり、関東造盆地運動により沈降した「酒巻古墳群」も存在する。
       
              田園地帯に囲まれて静かに佇む社。
        
                   斎条劔神社遠景                            
 
 

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