古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下須戸八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市下須戸2840
             
・ご祭神 素盞嗚尊
             
・社 格 旧下須戸村鎮守 旧村社
             
・例祭等 7月第2土日曜日
 埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を左折し、同県道364号上新郷埼玉線を900m程北上する。その後十字路を左折して500m程道なりに進むと、右側に下須戸八坂神社の鳥居が見えてくる。
        
                  下須戸八坂神社正面
 行田市中部東端に位置する下須戸地域は上星川が同市小見地域で見沼代用水と合流し、南東方向に流れるその左岸にある広大で肥沃な田園地域である。
 社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、嘗ては利根川流域に多くあった地名であったという。
 不思議なことに下須戸近郊にはそれに対する「上須戸」は存在しない。ここから10km以上北西方向に離れた旧妻沼町に「上須戸」が存在し、この両村で対をなしているようだ。
『新編武蔵風土記稿』埼玉郡之十九 忍領
「郡中に上須戸と云村なし、ここより北の方三余里を隔てて幡羅郡上須戸村ありて、下須戸村なし、是両郡に跨て上下を唱へしものなるべし」
 言い伝えによれば、約700年前鎌倉幕府の迫害を受けた一人の僧が、牛頭天王の像を奉じて当地に住み着いたという。これが当社の旧別当真言宗天王院医王寺の開基であり、同寺の寺鎮守として牛頭天王像を祀ったことが当社の創始である。
        
                  
下須戸八坂神社境内
        
                     拝 殿
「行田の神々」23 八坂神社(下須戸)
 行田市の東側、国道125号沿いにある太田西小学校の近くに鎮座しています。
 言い伝えによれば、鎌倉幕府から追われた一人の僧が、牛頭天王像を奉じて当地に住み着きました。この僧が当地に真言宗医王寺を開き、この寺の鎮守として、牛頭天王像を祭ったのが始まりであるといわれています。
 古くは牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治時代の神仏分離により、医王寺の管理を離れ、社名も八坂神社に改められ、主祭神も農耕の神様として信仰されているスサノオノミコトが祭られています。
 社殿のかたわらに小さな池がありますが、昔、周辺の村々に疫病が流行したとき、医王寺の僧が村人に疫病感染の原因である生水を飲むことをやめさせ、代わりにこの水を沸騰して飲むことを進めたお陰で、この村は疫病から守られたといいます。
 当社が牛頭天王社として信仰されていた江戸時代において、下須戸村は一時忍領であったこともありますが、長く幕府領でした。
 さらに、下須戸の須は、州で中州の先端を意味するといわれます。行田市の地図を見ると見ると良く分かりますが、南の荒川、北の利根川がかつて低地である行田市内を、乱流した痕跡が良く残されています。下須戸付近も乱流した川の痕跡が明らかに残る所であり、こうした地形から地名が付けられたのかも知れません。 
        
               社殿の左側には小さな池がある。
 上記「行田の神々23 八坂神社」に記されているように、昔近郊一円に疫病が流行り、医王寺の僧は感染の原因となる生水の飲用を村人にやめさせ、代わりにこの池の水を沸かして与えたところ、当地は疫病から守られたと伝わっていて、古くからの信仰の中心といわれていたのであろう。
 今ではその面影はなく、バリケードで張り巡らされているなど、寂しい状況となっているが、嘗てはこの池の水に対する信仰があり、遠くからはるばるこの水を受けに来るものが後を絶たなかったという。
        
                    本 殿  
          
                            拝殿手前左側に祀られている
                           若宮八幡社・辨才天等の石祠、石碑。
 この「辨才天」は下須戸地域の南方にある埼玉地域に鎮守する宇賀神社同様、出自不明の蛇神である「宇賀神」と同神であると考えられる。この宇賀神は、日本で中世以降信仰された神であり、神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられていて、その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと諸説あり一様ではない。
 元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。
 社の鎮座する場所の多くが、河川に隣接する所もあり、水との関連性が強いといわれる蛇神・龍神の化身とされることもある。
        
                    境内の一風景
 埼玉地域の宇賀神社には河川に関連した伝承である「おさき伝説」が今なお語り継がれていて、「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」。また「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」とあり、当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから、農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられている。

 八坂神社は、神道と仏教の融合・神仏習合の典型例といえる神社で、一説では、斉明天皇2年(656)新羅の牛頭山に鎮座していた素盞嗚尊の霊を迎えて創祀されたとされているこの神様は神仏習合の中で祇園精舎の守護神であり、疫病を鎮める仏教の神・牛頭天王と同一視され、明治の神仏分離令まで牛頭天王を称していた。こうした起こりから、八坂神社は厄難退散の性質が色濃く出ている神社でもある。
 この下須戸八坂神社は「素盞嗚尊」を祭神とした社であり、神話において描かれている「素盞嗚尊」のヤマタノオロチの大蛇退治伝説の話は、出雲の斐伊川の治水事業を象徴した話であるという解釈もある。社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、河川に関連した地域名であることから、当時の地元住民の方々が子孫繁栄・五穀豊穣を祈り、「素盞嗚尊」をご祭神とする八坂神社を創建した一方で、弁財天を祀ったと考えることもできよう。



参考資料「
新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田の神々」「忍の行田の昔話」
    Wikipedia」等
 

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若小玉勝呂神社

 若小玉勝呂神社のご祭神は中筒男命(なかつつのおのみこと)で、住吉大神の1柱であり、航海の神で、住吉系の社である。この住吉神社の「住吉」という社名由来は、神功皇后が住吉大神をお祀りされる際、それに相応しい土地を探したが、この地を見つけた時に、「真住吉」との託宣を得られ、この地を住吉と名づけて鎮座したという
現在、この「住吉」は、スミヨシと読むが、古くは「墨江(スミノエ)」と読んでいたり、時には「清江」と表記される事もある。
『古事記』
 其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也、
 スミノエの「エ」とは、今でも関西圏では、良い事を「ええ」(良い)というのと同じで、神さまが「住むのに良い」という意味で、神さまの御心にかなう土地ということで住吉となった。また住吉大神は祓の神様でもあり、昔の住吉の海岸は水が美しかったということもあり、正に「澄み良し」という意味もある。
 勝呂神社が鎮座する若小玉地域は、「埼玉の津」で有名な埼玉古墳群の北方近隣にあり、嘗ては利根川や荒川水系河川等が流れる自然豊かな地域であったのであろうか。
        
              
・所在地 埼玉県行田市若小玉2630
              
・ご祭神 中筒男命 外四柱
              
・社 格 旧若小玉村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭(若小玉の獅子舞) 920日に近い日曜日

 国道17号線を熊谷市街地からJR行田駅方面に進み、「佐谷田」交差点を左折する。途中までの経路は「佐谷田神社」「菅谷八幡神社」を参照。埼玉県道128号熊谷羽生線に合流後、暫く道なりに進み、行田市街地を抜け、武蔵水路を越えた「富士見」交差点から450m程先にある信号を左折する。左折する変則的な十字路の右側にはコンビニエンスがあるため分かりやすい。左折後320m先の十字路を左方向に進むと若小玉勝呂神社の正面に到着する。
 余談となり社とは全く関係のない話となるが、昔は国道125号といえば、上記「佐谷田」交差点から国道17号から分岐し、行田・加須方向に進行する道路と、新たにこの道路の北側を並列して進む「国道125号バイパス」の2本がある、との認識でいたが、調べてみると2018年(平成30年)330日に、熊谷市内の全区間(熊谷市佐谷田地内、行田・熊谷市境 - 終点間)の旧道が指定解除され、埼玉県道128号熊谷羽生線へ降格されたとのことだ。
 勝呂会館が社の北側に隣接しており、そこには駐車スペースも確保されていて、そこに止めてから参拝を開始する。
        
                  
若小玉勝呂神社正面
 
 鳥居の額には「正一位勝呂大明神」と表記      鳥居の右側にある社号標柱
       
                参道の先に見える二の鳥居
 旧若小玉村鎮守・旧村社で、参道周りの社叢林も勢いよく生い茂っており、静かで落ち着いた佇まいの神社。これほどの規模の社であるにも関わらず、残念ながら境内を見回しても案内板等は無く、後日ネット等で調べても勧請年月・縁起・沿革等は全て不明。
          
               二の鳥居の額には「勝呂神社」と表記      
 社には直接関係はないが、『日本歴史地名大系』には 「旧若小玉村」の解説が載っている。
 [現在地名]行田市若小玉・藤原町
 長野村の東、小見村の南に位置し、東は見沼代用水を隔てて下須戸村。八幡山古墳地蔵塚古墳などを含む若小玉古墳群が分布する。「万葉集」巻二〇に収める防人歌の作者埼玉郡防人藤原部等母麿遺跡として県の旧跡に指定されている。「吾妻鏡」嘉禎四年(一二三八)二月二三日条の参内する将軍に供奉した御家人のなかに若児玉小次郎の名があり、また同書建長二年(一二五〇)三月一日条に載る閑院殿造営雑掌のうちには若児玉次郎とあって、これらは当地在住の武士であろうという(風土記稿)。永仁三年(一二九五)九月一三日の関東下知状(別符文書)に若児玉氏元後家妙性尼がみえる。
 
       
                     拝 殿
 行田の神々22 勝呂神社(若小玉)
 国道125号線(現埼玉県道128号熊谷羽生線)の行田バイパスが武蔵水路、秩父線を跨ぐ行田大橋の南側に位置しています。
 神社の周辺は、現在大字名を若小玉(わかこだま)と呼び、鎌倉時代の『吾妻鑑』には、若児玉小次郎、若児玉次郎の名前が記載されており、このあたりに館をかまえていた武士と思われます。
 鞘戸(さやど)耕地に小次郎の館があり、屋敷鎮守の祠が残されていたが、江戸時代にはすでにみな陸田になり、痕跡は残っていない状態であったことが記録に残されています。このように古くは若児玉の字が使われており、さらに『群村誌』によれば若子玉から若小玉へと変わったといいます。
 神社の祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)。いつ創建されたかについては明らかでありませんが、江戸時代までは、近くにある真言宗遍性寺が別当を勤めていました。
 勝呂神社は、近くでは南河原村にもあります。当社との関係は明らかでありませんが、南河原村の勝呂神社は、生田の森で先陣を取り討ち死にした河原兄弟で知られる河原氏が、もとは入間郡の勝呂村の出身で、移住するにあたり当所の住吉神社を勧請したもので、名前も地名を取り勝呂神社にしたと伝えられています。
 若小玉の当社では九月二十日の祭礼にササラ(獅子舞)が奉納されます。古くは雨乞いササラとも呼ばれ、『鐘巻(かねまき)』が代表的な演目として残っています。
        
                拝殿向拝部には精巧な「龍」の彫刻が施されている。

              木鼻部左右の「獅子」(写真左・右)
 
    拝殿正面左側の欄間には「獅子」       拝殿正面右側の欄間には「鳳凰」
 
   拝殿の左側には境内社が祭られている。          本 殿
        
               社殿の右側に並列して祀られている境内社・榛名社。
         規模は小さいながらも、社としても立派な造りである。
 境内社の榛名神社は氏子から群馬の本社と同格であるといわれ、古老の中には、こちらの神社の方が格が高いとする人もいる。そのために当地では本社に代参を行うことはない。
 四月三日は電嵐除けを祈願して「電祭り」を行う。当日「榛名神社祈祷神璽」の神札が農家に配布され、笛代や畑に立てられる。「榛名様のお陰で今年は作物がよくできた」とは、地元でよく耳にする話である。

 若小玉地区に伝わる民俗芸能である「若小玉の獅子舞」は、現在若小玉獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、悪魔退散、村内安全を祈願して村の総鎮守である勝呂神社の大祭の際に奉納されている。起源については、江戸時代後半の文化11年(1814)に、村内の中里家に集まる若者を中心に始められたと伝えられている。
 獅子は法眼(ほうがん)、中獅子(なかじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に面冠(めんか)、おかめ、火男(ひょっとこ)、笛方、歌方、万燈、花笠などで構成されている。
 曲目は「橋掛り(はしがかり)」、「花掛り(はながかり)」、「鐘巻(かねまき)」の3曲でいずれも神話を題材としている。
        
                                境内に建つ神楽殿
 勝呂神社拝殿前で「橋掛り」を舞った後、村回りを行い、稲荷神社または諏訪神社(1年交替で獅子舞が演じられる)で「橋掛り」、秋葉神社で「花掛り」を奉納し、夜には勝呂神社で「鐘巻」、「花掛り」を奉納します。「鐘巻」は須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する場面の舞で、若小玉を代表する曲目です。舞の最後には、子どもたちが元気に育つようにとの願いを込め、面冠が見物客の中にいる子どもたちを鐘の上に座らせるほほえましい光景も見られる。
 現在は920に近い日曜日に実施されている。

○若小玉の獅子舞
・読み わかこだまのししまい
・区分 市指定民俗文化財
・種別 無形民俗文化財
・形態 三匹獅子舞
・指定年月日 平成21730
・所在地 行田市若小玉  勝呂神社 埼玉県行田市若小玉2630



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「朝日日本歴史人物事典」
    「住吉大社HPWikipedia」「行田の神々」等

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須賀熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市須賀4533
              
・ご祭神 家都御子神 熊野夫須美命 速玉男命
              
・社 格 旧須賀村鎮守社 旧村社
              
・例祭等 例祭日 715

 北河原十二社神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を東へ4km程進むと、進行方向左手に須賀熊野神社の鳥居が見える。地図を確認すると「利根大堰」の東側500m程の場所に位置する。県道沿いでも目立つ社号標柱と、整備された長い参道が北方向に延びて、その先に拝殿が僅かに望める。
 須賀集落は県道沿いに集中しており、少し民家が途切れると美しい田畑と利根川の果てしなく長い堤防が見られる。社は須加の集落の中央に鎮座している。
        
                         県道側から参道正面を撮影
               
                    社号標柱
 
         鳥居の額名は「熊野大権現」               コンクリートで整備された参道が
                                                        一直線に延びている。
        
           鬱蒼とした森が背後に控え、利根川の堤防を背に社殿は鎮座している。

 ○須賀村 
 熊野社 
村の鎮守なり、本地佛弥陀を安ず、
  末社。大黒天、子安権現合社、
 別当利益寺 当山派修験、山城国醍醐三宝院末、加納院と号す。本尊不動を安ず、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用
        
                     拝 殿
 熊野神社
 須加の地名は、川州に形成された土地であることに由来する。社伝によれば、建武年中、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したというが、古記録等は天正十八年の火災により焼失している。祭神は家都御子神(けつみこのかみ)・熊野夫須美命(くまのふすみのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)である。また、神仏習合時代の本地仏である阿弥陀如来立像を安置している。(中略)
 明治六年には村社となり、同四二年舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社が合祀された。しかし、大伊奈利社・小伊奈利社を除くすべての社が現在も各耕地にあり、現在も祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                   拝殿部挙鼻の龍
                         龍はかなり動きのある精緻な造りである。 
 
                木鼻部の獅子(写真左・右)

『行田郷土史研究会2012 HP』には「忍の行田の昔ばなし」が紹介され、その中に須加地域の昔話もある。興味深い内容であるので全文紹介する。

 第三十話「須加の熊野神社」
 昔から、利根川べりにある須加に住む人々は、妻沼町の人との縁談は必ず不縁になると信じられておりましたので、近年になってもこの二つの町村との婚姻はなかったということであります。なんでそんなことになったのか、昔むかしのお話を紐解くことにいたしましょう。
 須加には拝殿の拳鼻彫刻龍と、木鼻彫刻による端正なお顔をした狛犬で有名な熊野神社がございます。趣のあるこの熊野神社は、社伝によりますと建武(けんむ)年中といいますから一三三四年ごろ、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したといわれております。御祭神は、家都御子神、熊野夫須美命、速玉男命、でございます。
 この神社には富士塚もあり、浅間大社、三峰神社その他たくさんの末社が祀られております。
 この中に、昔は聖天さまも祀られていたそうであります。
 縁結びの霊験あらたかな聖天さまでございますが、妻沼の聖天さまは、もともとはこの須加の熊野神社の境内を借りて祀られてあったのだそうでございます。
 縁結びのお力は人々の心を大変引き付け、だんだんと熊野神社では聖天さまの方が人気さかんになってしまいました。
「肝心の熊野神社の方がすたれていってしまい、このままでは熊野神社が聖天さまに取られてしまう」ということで、或る日のこと、熊野神社の氏子たちが皆で聖天さまを松葉を焚いていぶり出してしまったということでございます。
 いぶり出されてしまった聖天さまは、妻沼郷大我井の森に移転することになりました。その移転の道中、北河原村まで来たところ、嵐のような大雨に遭ってしまわれました。
 奥墨某という家でなんとか雨宿りをしましたが、雨はなかなか降りやまないので、一夜泊めてもらうことにしました。そこでこの地は「雨の袋」と地名が付き、今では「天の袋」と書きますが現在の小字にもある「天袋(あまぶくろ)」というようになりました。
 翌日この地から旧奈良村へ出て道中の休息をしたところから、ここに「時華」という地名もあるそうです。そしてようやく妻沼の大我井の森にたどり着き、安住の土地である妻沼に落ち着かれたのだということであります。
 聖天さまは須加で松葉いぶしにあってしまわれたのですが、「この世の中に松の木がなかったらこんなひどい目に会わなかったであろう。」と、それからというもの、聖天さまは松の木を非常に嫌ったといいます。一説には、聖天さまは、太田の呑龍さまと戦ったことがあるそうで、その時、金山の松で左の目を突ついて怪我をしたので、松が嫌いになったともいわれておりますが、松嫌いの聖天さまのお話はこれまたいろいろございますので、別のところでお話しいたしましょう。
 縁結びの神様がいなくなってしまった須加の熊野神社ですが、神社の風格や凛とした構えの鳥居など、本当に心が浄められる美しい神社でございます。見事な社殿彫刻をご覧になりたい方はぜひ一度訪れてみてはいかがでしょう。

 妻沼の聖天様だけでなく、日本全国に松が嫌いな神様がおられるそうだ。例えば鴻巣市安養寺八幡神社も同じ説話があり、人々から厚く信仰される神仏でも、不思議と人間くさい一面が伝承・伝説では語られている。慈悲深い神様や仏様とはいえ、争いごと等をすることもあるかと感慨深いエピソードであるが、「神様の松嫌い」この伝承・伝説にはもっと深い何かが隠されているようにも思えて仕方がない。
 

           本 殿            社殿左側には「御嶽社」・「浅間社」

 「御嶽社」・「浅間社」の右隣には倉庫らしき施設あり、神興庫であろうか(写真左)。その並びには石祠群がびっしりと並ぶ(同右)。「埼玉の神社」に記されている「舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社」であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田郷土史研究会 忍の行田の昔ばなし」
    「
Wikipedia」等

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北河原十二所神社

 天神七代とは日本神話で天地開闢のとき生成した7代の神の総称であり、神世七代(かみのよななよ)ともいう。国之常立神、豊雲野神、宇比地爾神(ういじにのかみ)、角杙神(つのぐいのかみ)、意富斗能地神(おほとのじのかみ)、於母陀流神(おもだるのかみ)、伊邪那岐神。それに対して地神五代とは「天神七代」と神武天皇以後の天皇を意味する「人皇」の間に位置する5柱の神々を称していう。天照大御神、天忍穂耳命、邇邇芸命、彦火火出見命(山幸彦)、鵜葦草葦不合命(うがやふきあえずのみこと)の5柱の神々、及びそれらの神々の時代をいう。
 総じて初代神武天皇の前12代の天神地祇を総じて十二所神社と称していて、何とも贅沢な社といえよう。
        
             
・所在地 埼玉県行田市北河原1510
             
・ご祭神 天神七代命 地神五代命
             
・社 格 旧十二所権現社・北河原村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初拝み 112日 春祭り 415日 風祭り 828
                  秋祭り 99日 おたき上げ 1231
 斎条剣神社から埼玉県同199号行田市停車場酒巻線を700m程北上し、「酒巻」交差点を左折する。同県道羽生妻沼線を西方向に進み、1.7km程先の「北河原小学校前」交差点を右折すると、進行方向右側で、丁度北河原小学校の校門向かい側に北河原十二所神社が鎮座している。
 この付近は福川の下流部であり、神社の北200mには福川の右岸堤防があり東50mには酒巻導水路、東200mには福川水門が設けられている。福川の北側は熊谷市妻沼俵瀬地域であり、利根川との合流地点でもある。
        
                                  
北河原十二所神社正面
              
                                   社号標柱
 嘗て五穀豊穣を願い熊野大社より勧請したといわれている北河原地域の鎮守様。残念ながら令和4年(20223月にこの小学校は閉校となってしまったようだが、位置を確認するに、地域の大切な児童を見守り、時には傍に寄り添いながら守ってもらいたい、という行政側の気持ちからこの社の正面に小学校を建てたと考えることもできよう。
        
          
          拝殿の前に聳え立つ立派な巨木・老木(写真左・右)
       
                                       拝 殿
 十二所神社
 北河原小学校の道を隔てた北側に鎮座している。創建された年代は明らかではないが、言い伝えによれば、この地に人々が入った当時、五穀豊穣を願い熊野大社より勧請したといわれている。祭神は「天神七代命」「地神五代命」。江戸時代までは十二所権現と呼ばれ、現在でも「ごんげんさま」と呼ばれている。
 社殿の覆屋の棟札に来迎院とあり、寺と神社が一緒であった江戸時代までは、修験との関りがあったようだ。
 この神社では八月二十八日(現在は近い日曜日)に行われる「風祭り」は二百十日の風に稲がもまれると実をつけなくなるので、これをさける祈りをこめた祭りであるが、嘗ては境内に芝居小屋をつくり、白河戸・皿尾地域などから地芝居を招き、盛大に行われていたという。
 神社がある北河原は、南河原とあわせ、河原氏の所領で鎌倉時代初期に南河原を兄の河原高直が、北河原を弟忠家(平家物語では盛直)が領していたと伝えられている。いつ頃から南北に分けて呼ばれていたかは明らかではない。記録の上では十六世紀中頃に北河原の地名が出てくるという。
 河原兄弟は源氏と平氏の一の谷の戦いの中、源氏方に属して「生田の森(神戸市)」の戦いで、先陣を駆け討ち死にしたことが「平家物語」に出てくる。南河原の観福寺にある板碑は兄弟の供養塔であるという伝承がある。
                             「ぎょうだ歴史系譜100
話」より引用 
       
                     本 殿
       
 本殿の奥には拝殿前にある巨木と同じくらい立派な木が聳え立ち(写真左・右)、その根元付近には石祠がひっそり祀られている(同左)。稲荷社のようだ。元々土手の切所近くにあって「きりっと稲荷」と呼ばれたが、ある年大水で稲荷様が流されてこの名がついたという。

 北河原十二所神社の西方直線で約250mに「大池(おおいけ)」というその名前通りの大きな池がある。池の周囲は土崩れ防止の護岸がなされているが、形状はほぼ昔のままの姿が残されている。南東方には行田市立北河原小学校が位置していた(20223月閉校)。大池の北方には福川が流下しており、大池と福川との間には二重堤防が所在している。池の周囲ではほぼ水面に近づくことが可能である。
 所在地周辺は主に水田などの農地となっており、その外側に集落が位置している。また、池には釣り場が設けられており、池の北側には駐車スペースが存在する。池の南部では2条の水路と接続しており、そのうち南へと延びる水路は北河原用水へと至っている。
 大池は切所沼・切戸池とも称され、福川の堤防が決壊した際の跡地である。今日では池の周囲は約400mとなっているが、明治期の記録では東西85間(約155m)・南北60間(約109m)・周囲6町(約655m)と記されている。

 大沼は嘗て「切所沼・切戸池」=「きりと」と言われていた。社の石祠も「きりっと稲荷」と呼ばれていたようだが、大水で流される前にはこの大沼付近に祀られていたのであろう。



「参考資料」「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ぎょうだ歴史系譜100話」「Wikipedia」等
 
    

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門井町鷺栖神社

 1590(天正18)年石田三成が忍城を水攻めにすべく、元荒川の自然堤防の一部等を利用して築いた堤が石田堤である。この時、三成の城を落とす作戦は、城の周囲に14km28km、4kmとする説もあり)もの堤を築き、荒川と利根川の水を城内に流しこむ水攻めであった。この地域に点在していた古墳を取り崩し、その土等を利用して自然堤防を補強して繋ぎ、短期間で堤を築いていったと推測されている。一説には堤をわずか5日間で築いたともいわれているが、当時の記録から忍城攻めが始まって約1か月後の7月前半にも堤の補強等を行われていたことが伺える。突貫工事で築いた堤を水攻めしながら補強したようだ
 さすがの堅城として名高い忍城も約1ヶ月の攻防の後に開城となるのだが、日本でも数少ない「水攻め」の史跡として知られ、現在行田市堤根地区に残る282mが埼玉県指定史跡に指定されている。また鴻巣市袋に残る約300mが鴻巣市指定史跡に指定されて、石田堤史跡公園として整備されている。
 ところで行田市門井町に鎮座する鷺栖神社は、元々は元荒川の土手、堤防の上に築かれた神社だったようだが、忍城への水攻めの際の堤防として使われたようで、道路と社殿の高さまでの間に数mの高低差がある。
 400年以上という長い時間を経る間に元荒川の整備や、荒川の掘削開削による大整備などがあり、鷺栖神社に連なっていた堤防はすっかり消えてなくなってしまっているようで、現在では周りはすっかり住宅地になっている。逆に言えば、この神社があったがために堤防の名残として現在まで保存されてきたとも言え、貴重な遺産ともいえる。
        
             ・所在地 埼玉県行田市門井町11042
             ・ご祭神 日本武尊
             ・神 号 旧神明社 鷺巣大明神
             ・例祭等 不明
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1210729,139.4333804,19z?entry=ttu
 行田市 棚田神社の正面鳥居に面した道路を東南方向に徒歩で5分程、距離にして350mくらいで門井町鷺栖神社に到着することができる。この二つの社はあまりに近距離で、嘗ては「鷺」を共有していたことで、同じ系列の社といえそうだ。
        
      荒川左岸の元荒川水源地近くの堤の杜に鎮座している門井町鷺栖神社
「明細帳」によると古くから当社は、神明社と称し、堤の杜に鎮座していたが、いつのころからかこの杜に鷺が飛来し、営巣するようになったため棚田村の鷺栖神社(現棚田神社)を分霊して鷺宮大明神と称し、慶長年中に社殿を建立したという。
              
              道路沿いに設置されている社号標柱
        
         社は大井公民館の東側に隣接し、鷺栖公園内に鎮座する。
 下って正徳年間、当地は大井村から分村して門井村として独立したため門井村の鎮守となり、新たに伊勢神宮に倣い月読神社・荒魂神社・風神社・水分神社の諸社を本殿に配祀した。明治2年に社号の鷺宮大明神を鷺栖神社と改め、更に神仏分離により徳円寺境内にあった伊奈利神社を当社境内に移し、同四一年には字山神の山神社及び塞神社を合祀したという。
       
                    一の鳥居
       
             石段を登り終える先に立つ木製の朱色の鳥居
       
                     拝 殿
 当社の主祭神は日本武尊で、配祀神は大日孁貴命、月読命、大国魂命、志奈都比売命、水分神、合祀神は八街彦命・八街姫命・久那斗命・大山祇命である。当社は地理的な関係から農耕・治水の神として奉斎したものと伝えられる。

 配祀神の一柱に「水分神(みくまりのかみ)」が大日孁貴命や月読命と同列に祭られている。この水分神は、神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる。
 日本神話では、神産みの段でハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子として天水分神(あめのみくまりのかみ)・国水分神(くにのみくまりのかみ)が登場する。
 水にかかわる神ということで祈雨の対象ともされ、また、田の神や、水源地に祀られるものは山の神とも結びついた。後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、子供の守護神、子授け・安産の神としても信仰されるようになったという。
 また「志奈都比売命(しなつひめのみこと)」は、『古事記』神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。シナトベは、神社の祭神としては志那戸辨命、志那都比売神などとも書かれている。

 拝殿の社号額には鷺栖神社と神明社の名が並列     拝殿の手前で左側に設置されている
      して表記されている。               「
竣工記念碑」
 竣工記念碑
 当社は古くから神明社と称し日本武尊を主祭神として元荒川堤の杜に鎮座していたが、いつの頃からかこの社に鷺が飛来し営巣するようになったので鷺巣大明神と称せられた。
 下って明治2年に鷺栖神社と改め、神仏分離により伊奈利神社、山神社、塞神社を合祀した。地区住民の総鎮守として慶長年中に社殿を建立して信仰されて来たが社殿の老朽化が著しく平成24月社殿建設委員会を組織し境内総合整備計画の協議を行い氏子各位の協賛を得て社殿及び諸施設の形態を整えるべく平成211月工事に着手し平成312月完成した。
 時恰も行田市都市計画事業により区画整理が行われ以来氏子崇拝者は増加の一途を辿って居ります。
 茲に社殿改築並に諸施設竣工記念にあたり地区住民のより処として末長く平和で豊かな明るい郷土として発展することを期待し記念の碑文といたします。
                                    境内石碑文より引用
       
                     社殿奥に鎮座する境内社・山神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田市郷土博物館HP」Wikipedia」等  


      

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