古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

佐間天神社

  行田市佐間に鎮座する佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請し、佐間村の鎮守となっていた。
 天正19年(1590年)石田三成による忍城水攻めの際の佐間口を守った正木丹波守利英が死闘を繰り広げた場所でもあり、こんp佐間天神社付近に正木丹波守の屋敷があったとする説もある。
 その後享保五年十二月(一七二〇)京都の唯一神道、吉田殿より「正一位天満天神」の神格を与えられ、文化十年八月二十五日(一八〇〇)本殿が再建された。本殿に安置される天神座像は春日の作と伝えられている。
 又、境内の欅の樹齢は行田市教育委員会の推定によると四〇〇年とされている。

所在地   埼玉県行田市佐間1-10-6

主祭神   菅原道真公
社  格   旧佐間村鎮守 行田八幡神社の兼務社
例  祭   例大祭9月25日   八坂祭7月中旬の土・日
                                                                                                                                      
地図リンク
 佐間天神社は、秩父鉄道行田駅から南に徒歩15分、車ならば埼玉県道77号行田蓮田線を鴻巣方面に向かうと2,3分足らずで到着する。但し社は県道77号線から一本脇に入った道沿いにあり、周囲を見回してもこれといった駐車場はないのですぐ東側にある水上公園に駐車し参拝を行った。

佐間天神社

  佐間天神社の創建は忍城主の成田氏が忍城築城の折、谷郷、春日社、西を城の没沢の取入口とし、天神坊を出口としたと伝えられている。その天神坊を慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請した。今から500年前のことである。享保5年12月(1720)京都の唯一神道、吉田殿より「正一位天満天神」の神格を与えられた。その後、文化10年8月25日(1800)本殿が再建された。本殿に安置される天神座像は春日の作と伝えられている。又、境内の欅の樹齢は行田市教育委員会の推定によると400年とされている。
佐間天神社には学問の神様、菅原道真公が祭神として祀られている。以前は慈眼山安養院が神護神であったが、その様子は今でも白山社、伊奈利社、厳島、明 神・・・等の合祀社が多く両部神道の名残を留めている。神門は安政3年(1850)の大火で類焼したがここで火が止まった為、火防の門と呼ばれた。
明治22年、佐間村、成田町、行田町が合併し忍町となり、妙音寺にあった温知学校を廃止し、天神社社務所に佐間学校が開校した。正式には忍学校第三教場と言われた。大正4年3月、行田尋常小学校第三校舎(現在の新町会館)が新築されるまでここに存在したのである。

天神社の行事
・大祓式(6月30日、12月31日)
・八坂祭(7月中旬の土、日)
・例大祭(9月25日)
・新嘗祭(11月23日)
・勧学祭(12月初旬)
・元旦祭(1月1日)
・初天神祭(2月25日)
・初午祭(3月第1午の日)
特に八坂祭、元旦祭は大いににぎわいを見せている。この様に、古い歴史を持つ天神社は佐間地区の鎮守として広く人々から信仰されている。
                                                                                                           境内掲示より引用


        
 水城公園の東南角に佐間天神社が建つ。1491年の忍城築城の際、出口の守護神として勧請されたもの。写真は神門。1850年の市内大火の時、ここで火が止まったので「火防の門」と呼ばれる
             
                            佐間口の案内板
  
佐間天神社社殿は南向き故に神門に対して横向き              神楽殿
           に鎮座している。 
                        
                              拝   殿
 1720年に京都神道吉田家より正一位の神格を与えられた格式高い神社。写真の拝殿は1800年の再建。境内には神楽殿、社務所のほか、伊奈利神社、白山、厳島、明神社などの末社が鎮座している。
         
                                                     名称           佐間天神社のケヤキ                                                
                                                     名称の典拠  なし
                                                     樹種           ケヤキ
                         樹高           30m
                         目通り幹囲   5.0m
                         推定樹齢     400年以上
                         所在地の地名 埼玉県行田市佐間1丁目
                         行田市指定天然記念物(1964年1月31日指定)

欅群(けやきぐん)             
 
天神社は、享保5年(1720)12月京都の吉田家より神位を与えられ、正一位天満天神と称するようになった、との記録がある行田市佐間地区の鎮守です。
  祭神は学問の神様として信仰されている菅原道真です。その天神社境内に9本の巨木が群生するこの欅群は、いずれも樹齢400年以上と推定される古木群です。樹高は高いもので30m、目通り幹周は最大のもので5.0mを計ります。落雷のため幹に空洞があるものがありますが、樹勢は旺盛で、枝張りもよく繁茂していて、神域の風致を保っています。また、秋には美しい紅葉が見られます。
                                                                              平成23年          行田市教育委員会                                                                              
  
 
  社殿の奥には境内社や石碑が立っている。
 
          境内社 三峯神社             石碑群。石碑の奥には水上公園が隣接する。
           
                          境内社 伊奈利神社

拍手[0回]


小埼沼 宇賀神社

 さきたま古墳群から東へ2.5Km、川里町との境界付近に小埼沼は位置している。小埼沼の北500mには旧忍川が流れ、現在あたり一面には水田が広がりのどかな田園風景が続くが、かつてこの周辺は沼の多い湿地で、旧忍川の対岸には昭和50年代まで、小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼が存在していたらしい。
 約6000年前の縄文時代この辺りは縄文海進の関係でこの地方まで東京湾が入り込んでいたといわれる。その後の関東造盆地運動により陸地が上がり、海域が後進して現在の関東平野ができたらしい。が元々荒川、利根川、多摩川、入間川などの河川が狭い東京湾に集中して排出されたため、陸地も湿地帯が広域に広がっていたと思われ、また弥生、古墳時代の3~7世紀頃までは十分に陸地化されず、現在の東京都心部は武蔵野台地付近以外は内海の一部ではなかったかと考えられる。
 現在の河川の流路は江戸時代、徳川家康の江戸転封により、人工的に流路を変えたもので、これを瀬替えという。利根川は元々東京湾に流れていたものを、鬼怒川の流路を利用し合流させ太平洋に瀬替えした。また利根川と同じく大宮台地の右側を流れていた荒川を、埼玉県の熊谷でせき止め、比企丘陵から流れてくる和田吉野川や市野川の河道に移したことにより、入間川と合流させることによって、台風で大水が発生した場合、荒川中流域である吉見地方でわざと氾濫させ、下流域の江戸の町を水害から守ったと言われその結果、江戸時代の江戸の町は大きな台風がきても意外と安全な場所となったといわれている。

 それ故に、瀬替えする前の古墳時代の河川の流路がどのような経路だったか断片的でほとんど解っていないのが実情である。そのな中小埼沼は、上代の東京湾の入江の名残りともいわれ、「埼玉の津」万葉集の遺跡とされている。
所在地       埼玉県行田市埼玉2636
区  分       埼玉県指定記念物 旧跡
指定年月日        昭和36年9月1日


                
 かつて『万葉集』に詠まれ、利根川と荒川の氾濫によって水路が発達し、船着場があったであろうと推測される「小埼沼」は、埼玉県行田市の東南部、埼玉古墳群より東方2~3kmの場所に存在する。現在は広い田畑の一角にポツンと樹木が生い茂り、その中に「武蔵小埼沼」と彫られた石碑がある。
 
田んぼと畑が広がる中に、小埼沼だけ林になって              現地に着くとすぐ左側に案内板がある。
                        存在する。
       
尾崎沼神社(宇賀神社)
在地  行田市埼玉2739
祭神    宇賀御魂神(倉稲魂神) 

 当社の創始についての言い伝えに、「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」また「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」とある。このことから見て当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられる。

  また一方ではこのような伝説も残っている。この付近に住む、おさきという娘が沼で遊んでいた時に、葦が目に刺さり、それが原因で片方の目が見えなくなってしまったそうだ。その後、沼には片目のドジョウが棲みつき、水辺には片葉の葦が茂るようになってしまったと言い伝えがある。小埼沼の西側には、片原(地元の人はカタラと呼んでいます)という地名があるが、それも片目の伝説と関係があるのだろうか。
 行田市には似たような伝承が他にもあり、例えば埼玉県伝説集成中には行田市谷郷の春日神社に関して、”春日様は幼少の時、芋の葉で目をつかれ片目を傷つけた。そのため谷郷の人の片目は細い”と記されている。


 まりこれらの伝承の真相は、古代ある時期において、鍛冶師、タタラ師などの古代鍛冶産鉄集団が移住して来たことを意味するのではないか。これらの集団は職業病として片目になることが多く、天目一箇神(天津麻羅)などの信仰があるという。
 古代鍛冶集団と片目伝説については別項を設けて改めて述べたいと思う。

        
                    林の中にある「武蔵小崎沼」石碑
 宝暦3年(1753年)忍城主阿部正允(まさちか)によって建てられた万葉歌碑であり、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られている。碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた理由だったようだ。


 「埼玉の  津に居る船の  風をいたみ  綱は絶ゆとも  言な絶えそね」(さきたまの  つにおるふねの  かぜをいたみ  つなはたゆとも  ことなたえそね)
 
歌の意味は、津は船着場・河岸のことであり、埼玉の津に帆を降ろしている船が、激しい風のために綱が切れても、大切なあの人からの便りが絶えないように、と考えられている。冷たい北よりの季節風にゆさぶられる船の風景と、男女のゆれ動く恋の感情とを重ね合わせて詠み込んだ歌で、東歌(あずまうた)の中の相聞歌(そうもんか)に分類されるもの。

 「埼玉の  小埼の沼に  鴨ぞ翼きる  己が尾に  零り置ける霜を  掃ふとにあらし」(さきたまの  おさきのぬまに  かもぞはねきる  おのがおに  ふりおけるしもを  はらうとにあらし)
 
この歌は、埼玉の小埼沼にいる鴨がはばたいて、自分の尾に降り積もった霜を掃っている寒い冬の早朝の風景を歌ったもので、この歌は、上の句が五・七・七、下の句も五・七・七の繰り返す形式で旋頭歌(せどうか)と呼ばれている。作者は、常陸国(ひたちのくに:今の茨城県)の下級役人であった高橋虫麻呂(むしまろ)と言われている。
                   

小埼沼史跡保存碑 碑陰: 大正14 和歌が3首(藤原定家、橘仲遠、よみ人しらず) 碑陰:子爵松平忠壽題 

小埼沼史蹟保存碑
  埼玉県知事從四位勲三等齋藤守圀題
小埼沼は著名の古沼にして往昔水波渺茫舟船の輻輳せしこと古人の詠歌に依りて明なり爾後千有餘年の閒陵谷幾多の變遷あり寶暦三年秋忍城主阿部侯此名蹟の湮滅せんことを憂へ碑石を建てゝ其跡を傳ふ爾来茲に百七十餘年遺跡益荒廢せんとするに方り本縣之か保存の要を師事せられ郷人亦意を此に致し胥謀りて保存會を組織し柵を繞らし坳地を浚渫し樹木を植ゑて舊跡を昭にす縣村其資を補助し青年團員工を賛て工事成るに及び記念碑建設の企あり文を余に需む思ふに滄桑の變窮りなし史蹟保存の途は永久に之を繼承せさるへからず郷人此史跡を修理保存し永く懷古の資たらしむるもの實に愛郷の至情に廢せすんはあらす余大に此擧を美とし茲江來由を叙し古歌を録して以て後代に傳ふ
  さし暮る洲崎に立たる埼玉之津に居る船も氷閉しつつ        藤原定家
  山鳥之小崎の池の秋の月さてや鏡をかけて澄むらん         橘 仲遠
  埼玉之崎の池にさし暮る洲崎に咲く花はあやめにまさる杜若かな  讀人不知
 皇紀二千五百八十五年大正十四歳七月
      埼玉縣北埼玉郡長從七位黒澤秀雄撰并書
                                                埼玉県 行田市 埼玉 3165
        

 ところで万葉集に詠まれた小埼沼の候補地として、この行田市埼玉の場所のほかに例えば羽生市尾崎(利根川右岸)、岩槻市尾ヶ崎新田(綾瀬川左岸)が挙げられる。共に[おさき]または[おざき]と読める地区名である。オザキという名前に重要なヒントが隠されているようだ。

 
 また周囲には水神社(写真左側)や弁財天(同右側)などの石碑もあり、ここでも水、沼地に関係した神々が祀られている。伝説は抜きにしても確かに、小埼沼の周辺には神秘的な雰囲気が未だに残っている。


 



拍手[6回]


行田八幡神社

 行田市は埼玉県北西部に位置する人口8万7000人の都市である。この地域は古代「忍庄」と言われ、行田、谷郷、長野、上中条、小曽根、下川上地域が属していた。戦国時代,行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城(おしじょう)を築城した。文明11年(1479)の古河公方足利成氏の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられる。当時の城主は成田顕泰といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主であった。
 
永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いている。

 忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていて、そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれた。別名「浮き城」としてその名を轟かせ、関東七名城に謳われた戦国の世を生き抜いた名城で、行田市各地域に点在する神社も忍城防衛の一拠点として築かれたと考えられる。

 この「ぎょうだ」は、「(湿地から)田に成つた地」の「行(なり)田」の転とされている説もある。

所在地   埼玉県行田市行田16-23
主祭神   誉田別尊    第15代天皇、皇祖神や武神(弓矢神)
        気長足姫尊  仲哀天皇の皇后 安産、子育ての神
        比亮大神    主祭神の妻や娘、宗像三神の説もあり
        大物主神    蛇神、水神、雷神、稲作豊穣の神、疫病除けの神
                  酒造り(醸造)の神、国の守護神

         神素羞鳴尊  嵐・暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神
                  安産の守護神
社  格   行田総鎮守
通  称   西向き八幡  封じの宮   
例  祭   例祭9月15日、祈年祭3月15日、行田八坂祭7月下旬土・日
         
愛宕神社祭10月23日など



 熊谷市から国道125号線で行田市方向に向い、「行田郵便局入口」の信号を右折し、同左郵便局を通りすぎると左側に当神社がある。駐車場は、参集殿の前の道路沿いにある。よく整備されていて便利である。行田の市街地の中心部にある神社。かっては忍城のあったところで江戸の北部を守る大事な要衝だった。八幡神社は武門の守り神であり、藩主や藩士の信仰も厚かったという。その面影を残す立派な社殿だ。



行田八幡神社御由緒

 当神杜は、源頼義・義家が、奥州討伐のためこの地に滞陣した折、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられています。
 当初、佐間村田中に鎮座、俗に田中(でんちゅう)八幡と称せられましたが、天文年中に、現在の地に移されました。この時、忍城主成田下総守長泰公は深く当杜を崇敬して社殿を修補し城下総鎮守といたしました。是れより、「城主八幡」また社殿の向きから.「西向き八幡」の名があります。
 応神天皇、神功皇后を主祭神とし、比売神、
大物主神素羞鳴尊
を配祀神として御祀りしています。
 現在の社殿は、皇紀二千六百五十年を記念して造営が進められ、平成元年十一月の竣功であります。次いで平成十二年には参集殿が竣功いたしました。

                                                                                 境内案内板より引用








拍手[2回]


前玉神社

 武蔵国埼玉郡は、武蔵国の東北端に位置し、北は利根川を境に上野国邑楽郡に接し、さらに下野国都賀郡にも接し、東から南は下総国葛飾郡、西は元荒川を境として足立郡、さらに幡羅郡、大里郡に接している。おおむね現北埼玉郡に属する町村、行田市、羽生市、加須市、南埼玉郡に属する町、岩槻市、八潮市、越谷市、蓮田市、久喜市、春日部市の広大な地域で、『和名抄』は「佐伊太末」(「郷名は「佐以太末」)と訓じている。

「さいたま」の語源として
1 『古事記』に「前玉(さきたま)比賣命」の名が見え、行田市大字埼玉に前玉神社があつて前
  玉彦命と前玉姫命が祀られているところから、「幸玉(さきたま)」からの転訛。 
2 「サキ(先、前)・タマ(水辺、湿地)」の意または「多摩郡の先」
3 国境または辺境の意などの説 

  と様々な説があるが真相は不明だ。

  この地域は関東平野の中心部にあたる加須低地に位置し北に利根川、西に荒川の本流、支流が数多く存在し、乱流が最も激しかつた地域で、縄文時代から古墳時代まで後背湿地や沼が多く、開発が非常に困難な地域ではなかったかと思われる。


所在地    埼玉県行田市大字埼玉字宮前5450
主祭神    前玉比売神(サキタマヒメノミコト)
         前玉彦命(サキタマヒコノミコト)
社  格     式内社 郷社 埼玉郡総社   浅間神社・行田市埼玉鎮座
例  祭     4月15日 春祭り 例大祭
創立年代    不詳

  
 前玉神社は埼玉県道77号行田蓮田線沿い、さきたま古墳群の外れにあり、浅間塚古墳の頂きに鎮座している。駐車場は一の鳥居からの参道の南側に十数台駐車可能なスペースが確保されており、そこに車を止め参拝を行った。
 
          前玉神社 社号標                一の鳥居 
                          総高4.5m、最大幅5.8m、材質 白河石
前玉神社 一の鳥居 
 行田市指定文化財で延宝4年(1676)建立の鳥居。

 鳥居は明神系の形式で、笠木、島木が一体に作られ、両端に反増を持ち、さらに笠木、島木は二本の石材を中央額束の上で組み合わせている。
貫は一本の石材で作られてくさびはなく、柱はややころびを持ち、台石の上に建つ。正面左側の柱の銘文によれば、延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領内氏子により建立された。
 
                           長い参道が続く                                    二の鳥居の先にある境内
                                              右手に手水舎、奥に三の鳥居が見える
 
                              前玉神社正面。後方高台が社殿
埼玉県名の由来
  明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当所の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
 埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉郡(さきたまぐん)という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
 ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所である。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
昭和62年4月   埼玉県     
                                                                                                                社頭掲示板より引用

新編武蔵風土記稿による前玉神社の由来
  新編武蔵風土記稿では、「浅間社」として浅間社遷座にまつわる江戸時代の口承を伝えている。

浅間社
 祭神木花開耶姫命にして、「延喜式」に載せたる前玉神社なれば郡中の総鎮守なりと土人いへいり。
 されど屈巣村の傳へには、当社は式内の社にはあらず、昔富士の行者己が命の終る時に臨み、当所にのみ雪を降すべしといひしに、六月朔日終穏の日、果たして雪の降りたることあれば、成田下総守氏長奇異の思をなし、此所に塚を築き、家人新井新左衛門に命じて、忍城中にありし浅間社をここに移し、則成田氏の紋をつけて、行者の塚上に建り。されば忍城没落の後、彼新左衛門屈巣村に住せしより、子孫今の五郎左衛門に至り祭礼毎に注連竹を納むるをもて例とすと。
 社地の様平地の田圃中より突出せる塚にて、周り二町程、高さ三丈余、四方に喬木生い茂り、頂上は僅に十坪程の平地にして、そこに小社を建つ。これを上ノ宮と云、夫より石階数十級を下り、又社あり。これを下ノ宮と云。
 相傳ふ、此塚は天正の頃下総守氏長の築きし塚といへど、其様殊に古く、尋常のものにはあらず。上古の人の墳墓地なるも知るべからず、されば当社の鎮座も古きことにて、彼行者の霊社なりと云は、尤便事にて取べからざつは勿論なり。成田氏の紋を記せるは、天正の頃彼の家より造立してかくせしにや。されど天保天和等の棟札のみを蔵て、余に證すべきこともなければ、詳かなることは知るべからず。
 例祭は5月晦日、6月朔日・14日・15日なり。
 本社の外に拝殿、神楽殿あり

    高台から見た社殿 社殿は参道に対して直角、南側に向いている      

  前玉神社へ登る石段の両脇に万葉の歌を刻んだ石灯籠が建っている。説明板によると、元禄10年(1697)に氏子たちが奉納した灯籠とのことだ。今では見にくくなっているが、万葉集の「小埼沼」と「埼玉の津」の歌が、それぞれに刻まれている。万葉歌碑としては最も古いと考えられている。

              石灯籠の案内板

埼玉(さきたま)の、小埼(をさき)の沼に、鴨(かも)ぞ、羽(はね)霧(き)る、おのが尾に、降り置ける霜を、掃(はら)ふとにあらし 巻9-1744                 
           
   (意味:埼玉の小埼(の沼の鴨が、羽ばたいて水を飛ばしている。あれは、羽に降り積もった霜を払い落としているのだろうなぁ

佐吉多万(さきたま)の津におる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも音な絶えそね 巻14-3380
   
(意味:さきたまの津にある船は風が強いので今にも綱が切れそうだ。船の綱は切れようとも、私への言葉は絶やさないでくれ)

 
小埼(をさき)の沼」は、現在の埼玉県行田市埼玉(さきたま)にある埼玉古墳群から東に2.5kmほど行ったところにある小さな沼である。古代には、行田市大字埼玉あたりを表す地名として「さきたま」が用いられた。この付近に湖 沼があちこちに散らばり、また利根川や荒川に臨む渡し場も随所にあったとされている。

                             拝    殿                                                        拝殿内部撮影
 

  また前玉神社は浅間塚古墳の上に鎮座している。

              
社内にある浅間塚古墳の案内板
浅間塚古墳
  高さ8.7メートル、直径58メートルの円墳であり、市内の八幡山古墳、白山神社古墳と並行する7世紀前半の築造と思われる。最近まで古墳なのか、それとも後世に築造された塚なのか、議論 されていたが、1997年と1998年の発掘調査で幅10mの周濠が確認され、古墳であることが明らかになっている。変形が激しく、元々は新撰武蔵国風土記稿に記されている大きさから、前方後円 墳であったという説もある。(現地案内板では円墳説を採っている)
 
出土品に関しては不明。墳頂には延喜式の式内社である前玉神社(さきたまじんじゃ)が鎮座している。そのため、この古墳の周りには歌碑などが多い。

  前玉神社の祭神は前玉比売神、前玉彦神の2神であるが、前玉彦神は別名天忍人命とも言う。この天忍人命は先祖神、天火明命の曾孫にあたる。海人族である天火明命から天香語山命-天村雲命-天忍人命という系図となり、尾張氏、海部氏、掃守氏の祖にあたるともいう。系図によっては、天香語山命の父、つまり天火明命の位置に、前玉彦神(天忍人命)とするものがあって、天香語山命(高倉下命)の兄の天筑摩命(あめのちくまのみこと)を「掃部直祖」としている。天忍人命と同神とされている前玉彦神、天前玉命は、豊玉比瑪の弟の振魂命の子、つまり豊玉比売の甥にあたり、産屋に奉仕するということからして、こちらの系図もなかなか魅力的だ
  ちなみに「先代旧事本紀」によると、この天火明命は天照国照天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるあまひあかりくしたまにぎはやひのみこと)であり、物部氏の祖とされるニギハヤヒとも言われている。

 
武蔵国北東内陸部に位置している埼玉郡だが、内海の津である「埼玉の津」を通じて海人族である天火明命を祖とする物部氏やその一族である尾張氏等らと交流が我々が思っている以上に深ったのかもしれない。


 

拍手[5回]