古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

菅谷八幡神社

『忍名所図会』は忍藩(現行田市忍城周辺)に関する書物として最も古いものの一つで、天保年間(18301843)の忍城周辺の名勝や名刹、風俗や名品などが豊富な絵と的確な文章で描かれており、市内須加の川島家に伝わる写本は、当時の忍藩の様子を知ることができる貴重な資料である。その後文政8年(1825)、忍藩主松平忠堯(ただたか)は洞李香斎筆の編述した『忍名所図会』を見て、足りない所や漏れている所が多いのを惜しみ、家臣の岩崎長容に増補を命じ、天保6年(1835)に増補版6巻を作製したものが『増補忍名所図会』である。
 その『増補忍名所図会』には「忍」の地名由来に関して以下の記述がある。
〇忍
 鴛鴦(おし)とも書く。忍の地名は、古くは東鑑に載っている。建久元年(1190)二月七日、将軍頼朝が上洛した行列に、三十九番別府太郎・奈良五郎、四十番岡部六弥太・滝瀬三郎・玉井四郎・忍三郎・同五郎などとある。また建久六年(1195)三月四日に将軍頼朝が上洛し、同九日石清水八幡宮へ御参詣された随兵の記述があり、岡部六弥太・鴛三郎・古郡次郎などの名前がある。
 別府や玉井など皆この辺りの地名なので、忍の地名も古くからあったことが分る。 忍三郎と鴛三郎は字が違うが同じ読みなので同一人物である。また別府・玉井・奈良に成田を加えて、武蔵国成田の四家という説がある。

        
              
・所在地 埼玉県行田市持田5774
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 不明
              
・例 祭 不明
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1407957,139.4172986,16z?entry=ttu

 佐谷田神社から埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地方向に1.7㎞程進み、「流通センター前」交差点を左折する。秩父鉄道の踏切を過ぎて400m先の十字路を右折して、暫く進むと左手に菅谷八幡神社の社叢林が見え、その林の先に鳥居が見える。
 周辺には専用駐車場はない。鳥居の北側には忍川に至る道路があり、その路地に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                  菅谷八幡神社正面
 菅谷八幡神社が鎮座する行田市持田地域、「持田」は元々当て字で、昔は「糯田(もちだ)」と書かれていたようだ。『新編武蔵風土記稿 持田村条』にも
由良氏(太田金山城主)の文書の中に、頼朝が新田上西入道へ出した下文に、
  埼西郡の糯田の住人らヘ下す
 定補(決まってその職に補す)の郷司職事 新田入道殿、
 新田上西入道は、その職仁を為して郷の仕事を遂行すべし
 よって住人らへこの沙汰をよく承知させ、違失してはならない
 治承五年(1181)十一月  源朝臣
判」
と記載されている。
        
          鳥居の先で左側に設置されている提示版内にある「菅谷八幡神社由来記」 
菅谷八幡神社由来記 
 持田の名は古くは糯田郷と書き、また、条里制水田遺構が発掘され、 古来より米作地域であったことがうかがえる。
 持田は、東西三二町、南北二三町の大村のため、村内を私に上・中・下の三組に分けていたことが「風土記稿」に記され、当地は上組となっていた。
 更に「八幡社 観音寺持」とあり、現在の真言宗智山派観音寺が、往時当社の別当となり、奉斎していたことがわかる。
 当社の創建は「明細帳」によれば、建久元年(1190) 鎌倉将軍源頼朝の上洛に従い京の石清水八幡宮へ参詣の際、忍の豪族鴛 (おしどり)三郎が供奉し、帰村の後に忍城の砦西方に鬼門除けとして勧請創建したものと記されている。
 後に文化十三年(1816)頃現在の地に建てられたと推定されている。
祭神は、品陀別命で、内陣に白幣を祀るが、明治維新ごろまでは、騎乗八幡神像を安置していたと伝えられている。
本殿は、一間社流造り瓦葺きで、大正期まで覆屋・拝殿はなく、現在の拝殿は大字和田の和田神社拝殿を譲り受けたものである。
 戦後の台風などにより多くの木が倒れたため、現在、境内はまばらな木によって囲まれているが、戦前までは、うっそうと樹木が茂り、狐に化かされた話が残るほどの所であった。
 田山花袋の小説「田舎教師」のモデルとなった小林秀三もこの森を眺めながら熊谷中学へ通ったようです。
                              埼玉県神社庁「埼玉の神社」より

        
                        比較的長めの参道の先に二の鳥居が見える。
「菅谷八幡神社由来記」には戦前までは、うっそうと樹木が茂り、狐に化かされた話が残るほどの所」書かれているが、この行田・忍地域には昔からの伝説で「菅谷の森と白い狐」という昔話がある。
忍の行田の昔ばなし⇒http://gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/cat70690389/index.html
 社周辺は道路も整備され、近代的な建物も並び、このような伝承等の面影もないが、参道周辺にはその当時の名残と雰囲気も漂っているようだ。
        
                                 二の鳥居周辺の風景

    二の鳥居の手前で右側に祀られている     二の鳥居を過ぎて暫く進むと右側に
             塞神の石祠           境内社が祀られている。詳細は不明。
       
 社殿前でどちらも右側には二基の石標柱等があり(写真左・右)左側は八幡神社の社号標柱で、右側は奉納柱、その下部には石祠(?)らしきものもある。
        
                     拝 殿
「菅谷八幡神社由来記」に記載されている「忍の豪族鴛 (おしどり)三郎」・及びその一族は、『吾妻鑑』にも度々登場している。
吾妻鑑卷十
「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に、忍三郎、同五郎」
卷十五
「建久六年三月九日、頼朝上洛随兵に、鴛三郎」
卷二十五
「承久三年六月十四日、宇治合戦に手負の人々鴛四郎太郎」と。*鴛をオシと註す。
卷四十
「建長二年三月一日、忍入道が跡」
卷四十八
「正嘉二年三月一日、忍小太郎は将軍宗尊の随兵」
        
                                  社殿からの一風景
武蔵七党・児玉党には忍氏が存在していた。
・肥後古記集覧
「小代八郎行平が曽祖父児玉の有大夫弘行の所領、武蔵一ヶ国の分には、児玉・入西両郡、並に久下・村岡・中条・忍・津戸・野村・広田・崛須・小見野・三尾乃野、弘行の所領なり」
成田記
延徳元年、成田親泰は忍三郎より相伝の地・忍大丞を攻め、児玉武蔵大掾重行も攻め殺す」
・新編武蔵風土記稿忍城下町条
東鑑に忍三郎、忍五郎、忍小太郎、忍入道など見へたれば、是等の人はや其地の宣を見てここに住せしは論なし、されど此頃城塁ありしとは思はれず。小田原記関東古戦録を合せ考るに、成田下総守親泰入道宗蓮、児玉武蔵大掾重行を欺き殺して、彼が所領を併せ忍城を築くと云。重行を或は忍大掾ともあり」


参考資料「
吾妻鑑」「肥後古記集覧」「成田記」「大里郡神社誌 箱田神社条」
    「行田市文化財保護課 文化財保護グループHP」「行田郷土史研究会2012」
    「埼玉の神社」「境内案内板」等

拍手[1回]


皿尾久伊豆神社大雷神社合殿

久伊豆雷電合社
 村の鎮守とす。縁起に文治44月成田五郎長景、伊豆国三嶋社を勧請せし所なる由記したり。成田五郎は承久の乱にも出し人にて、東鑑に見ゆ。されど久伊豆は郡中騎西町場に大社ありて、近郷是を勧請するもの多し。当社も恐くは其類ならん。社に永禄2年左衛門三郎と云ものの寄附せし鰐口を掛く。其図下に出す。此余天正5年中村丹波守守吉が寄附したる鰐口ありしが、何の頃か失ひしと云。社人、青木主殿。入間郡塚越村、住吉神職勝雅楽が配下なり。
・八幡社  村民持
・神明社
・天神社
・駒形明神社 以上三社 泉蔵院持                   新編武蔵風土記稿より引用
        
             
・所在地 埼玉県行田市皿尾393
             ・ご祭神 事代主命・別雷命
             ・社 格 旧村社 旧皿尾村鎮守  創建 文治4年(1188年)
             ・例 祭 例大祭 728
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.14366,139.4384419,16z?hl=ja&entry=ttu

 行田市皿尾地区に鎮座する久伊豆神社大雷神社合殿は国道125号線を行田市街地方向に進み、「行田市役所入口」交差点を左折する。埼玉県道303号弥藤吾行田線に変わり、その道を道なりに進む。途中忍川手前付近でY字路を左方向に進み、忍川を越えてから暫く直進すると正面の細い道の先が社の参道入口になっていて、その先に鳥居が見える。
        
               皿尾
久伊豆神社大雷神社合殿正面
「ふるさと館皿尾センター」が鳥居をくぐった先にあるのだが、神様の通る道を乗用車でくぐるのは失礼かと思い、鳥居手前に僅かに駐車できるスペースに停めて、急ぎ参拝を行った。
 鳥居手前には神橋がある。皿尾地域は荒川の分流である星川、旧忍川の間にあり、豊富な湧き水により古代から水田稲作が盛んにおこなわれていたという。
        
                    参道を撮影
 
西方向に参道が伸びるが途中で北に折れ曲がり社殿に至る。正面にはふるさと館皿尾センターが見える。因みにふるさと館皿尾センター手前には「皿尾城」の石碑あり。
        
          ふるさと館皿尾センター入口手前にある木製の二の鳥居
            参道からは直角に入るような配置となっている。
 
    参道途中にある手水舎(写真左)。手水舎脇にちょっとおしゃれな花手水を鑑賞(同右)

 「皿尾」という地名『埼玉県地名誌』には次のように記している。「皿尾の皿(サラ)は乾いたところないし製陶地を意味する。したがって皿尾とは陶器を製造した平坦地の意となろうか。この地が製陶に適した土地であることについては、「武蔵国郡村誌」の皿尾村の条に「地味、薄黒埴を帯ぶ」と記しているのは注目すべきである。
 
「埴を帯ぶ」と記した埴は粘土、赤土の称で、上代土器をつくる必要欠くべからざるものとされていたものである(中略)」
 また『埼玉県の地名』には「古墳時代の集落遺跡」があったと記しており、これらを踏まえると、皿尾村はまさに「製陶地」だったのではなかろうか。
                 
                     拝 殿
 皿尾地区西側近郊には池上・小敷田遺跡が存在する。池上・小敷田遺跡は、熊谷市と行田市にまたがる遺跡で、秩父山地に発する荒川が関東平野に流れ出て形成した荒川扇状地の扇端付近に立地し、荒川から扇状に分流する星川と忍川の間の低地部に位置する、
 これらの遺跡は妻沼低地の自然堤防上に立地する弥生時代中期中葉から江戸時代までの複合遺跡である。池上遺跡では環濠集落、小敷田遺跡では関東地方で最古段階の方形周溝墓が見つかっており、関東地方における水稲農耕集落の定着を証明した弥生時代中期中葉の遺跡として学史的にも有名である。出土遺物には、在地の土器や石器、土偶などの他に北陸地方の小松式や東北地方南部の南御山Ⅱ式、北信地方の栗林式などの外来系土器が発掘されている。
 
 久伊豆神社・大雷神社並列にて表記された扁額          拝殿内部

 皿尾
久伊豆神社大雷神社合殿の社宝として直径七寸四分の鰐口がある。永禄二年(1559)十一月三日、左衛門三郎奉納とある。
市指定有形文化財 久伊豆神社大雷神社合殿の鰐口
 鰐口とは、寺院や神社の拝殿の軒先に吊り下げられ、参詣者が綱を振って打ち鳴らす鈴です。偏平な円形状で、上部には吊るすための耳が2つあり、下部は細長く開口しています。この鰐口は、直径20.5センチメートル、厚さ8センチメートルの偏平形で、全体に緑青(錆)に被われていますが、特に損傷はありません。同じ規型で前後両面の雌型を作り鋳造したもので、耳は前後各面に一箇ずつ鋳出されています。湯口は上部中央にあり、目は突出し、先端部はそぎあげられています。撞座(つきざ)には簡略化された蓮子が8個(中心に1個、周囲に7個)表出されています。撞座から外側に向かって内区、外区に区分され、その外区の右側には「奉掛鰐口」の銘文が刻まれ、「鰐口」の下に続く銘文の痕跡があります。左側には「永禄二年十一月三日願主右衛門三郎」の銘文が刻まれ、月日の横に小文字で「鋳物師田井」と鋳物師名が刻まれています。
 久伊豆神社の所在する皿尾には、かつて皿尾城(掻上城)が所在し、上杉謙信が忍城攻めの拠点とした事で知られていますが、この鰐口は、永禄二年(1559
)の紀年銘を持ち、伝来も「新記」などにより明確であり、地域の歴史を反映する貴重な資料です。 
                                   行田市HPよりより
引用

 
    久伊豆神社大雷神社合殿境内社        久伊豆神社大雷神社合殿神輿庫
       
                拝殿手前・左側にある春日杉。
          御神木の春日杉から蛇が出ると雷雨になると言われている。
        
                                   拝殿からの一風景
 皿尾久伊豆神社大雷神社合殿は、皿尾を拠点としていた成田五郎長景が伊豆国三嶋社を勧請して文治4年(1188)に久伊豆社として創建したと伝えられている。三島神社のご祭神が事代主命でもあり、本来久伊豆神社のご祭神が大己貴命である矛盾は上記の件で納得できる。
 大雷神社が合祀された時期は不詳だが、新編武蔵風土記稿には久伊豆雷電合社と記載されており、江戸時代後期には合祀されていたようだ。明治6年村社に列格、明治41年に皿尾字駒形の伊駒神社(駒形明神社)、皿尾字仲ノ在家神明社、皿尾字仲ノ在家天神社を合祀している。
        

拍手[1回]


斎条劔神社

         
               ・所在地 埼玉県行田市斎条1255
              ・ご祭神 日本武尊
              ・社 格 旧斎条村鎮守・旧村社 
              ・例 祭 春祭り 416日 夏祭り 726日(天王様も併せる)
                                     秋祭り 1016日(お日待とも称す)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1776464,139.4485394,15z?hl=ja&entry=ttu
 斎条劔神社は国道125号行田バイパスを羽生方面に進み、途中「総合運動公園前」の交差点を左折し、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を利根川方面に道なりに進む。埼玉県道199号線は行田市街地外れの和田地域から南河原地域の犬塚までの路線であるが、車幅が狭く屈曲している地点も多くあり、安全運転に努める必要性がある。行田市消防署分署を越えると前方右方向にこんもりとした社叢が見える。そこが斎条劔神社であり、社叢の西側で県道沿いに南北に広がる駐車スペースがあり、そこに車を停めて参拝を行った。
 社殿周辺は斎条古墳群と呼ばれる古墳群となっていて、この劔神社は斎条1号墳という古墳群を代表する円墳上に祀られている。
        
                   斎条劔神社正面
        
                       拝 殿             
  斎条村 第十一冊-頁六十七
  村の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より引用)

 当地は西条とも書き、条里制水田に由来した地名である。社記によれば景行天皇の御代御諸別王が勅命を奉じ、父彦狭島王に代わり東国都督となる。この時、王は当地開拓の祖である日本式尊の霊を、水陸の要にある当地を選んで、東国鎮護の神として祀る。更に、康平5年には八幡太郎義家が安倍氏を征伐するに当たり、社前に馬を休めた。これにちなんで八幡社を併せて祀る。また、応永年中忍城主成田左京亮家が神威を崇め神田を寄進する。更に、徳川家康が江戸に入り、社領十石境内数町を除地する。
 古老の話によれば、当社には愛染明王像が祀られていたが、神仏分離の折、宝泉寺に移されたという。往時この像を納めていたと思われる箱の裏書きには「元禄六癸酉杷919日 明治2己巳年529日改」とあり、神璽箱の裏書きには「明治2己巳年529日御改 忍藩岡村覚太郎様 民政社寺御掛立会清水圭太郎様 名主萎澤六左衛門 同見習千五郎 組頭 松岡平六 大次郎 又三郎 反次郎 吾十」とある。このほか釈迦如来像を安置している。
 幕末まで真言宗金剛山阿弥陀院宝泉寺が別当を務めていた。
 明治4年に村社となり、同43年には字大道の八坂社、白幡の諏訪杜・天神社、江川の雷電社、北反戸の浅間社、新田の熊野社、八幡の八幡社・矢矧社を合祀した。    
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                      本 殿
 
        社殿左側に鎮座する               境内社・八幡社
 浅間・雷・天満・矢矧・熊野・諏訪の各境内社    本殿と隣接するように鎮座している
   拝殿の左側に鎮座する境内社・八坂神社     拝殿と八坂神社の間にある石碑(?)
                          表面が削られているように見える。
   
 社殿周辺は斎条古墳群と呼ばれる古墳群となっていて、この劔神社は斎条1号墳という古墳群を代表する円墳上に祀られている。
 斎条古墳群は利根川の堤防を北方約1キロにのぞむ標高20m程の微高地に築造された。中心となる古墳は、剣神社の鎮座する直径40m、高さ3mの剣神社古墳と呼ばれる埴輪を持つ古墳で、斎条1号墳とも呼ばれ、円墳と推定されている。この古墳の周辺には8基の古墳跡が確認されている。昭和36年(1961年)水田下から埴輪が発見されたのを契機に斎条5号墳の発掘調査が行われた。
 斎条古墳群の存在する行田市斎条は、加須低地に位置していて、この加須低地は関東造盆地運動により、利根川からの河川堆積物を受けて徐々に沈降しているため、古墳群の墳丘自体も沈降している。
 近郊には酒巻地区があり、関東造盆地運動により沈降した「酒巻古墳群」も存在する。
       
              田園地帯に囲まれて静かに佇む社。
        
                   斎条劔神社遠景                            
 
 

拍手[3回]


上池守天神社

埼玉県熊谷市大字池上と埼玉県行田市大字上池守にまたがり星宮地区がある。村内を流れている、星川と古宮用悪水路の「星」と「宮」の一字ずつ取り、星宮村とした。昭和24、忍町を行田市に名称変更して市制施行。昭和30年に星宮村が編入された。
 全国には「星宮」のつく星宮神社・星神社と星宮の地名が多く存在し、その中心は栃木県である。栃木県内では「星宮」と称する神社は、県下に170社を数え、更にかつて星宮と称した神社を含めればその数261社にのぼると言われている。祭神は磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)としている。これらの神社の特徴としては、一つ目は星を信仰とすると考えられるが、星に関係する伝承が少ないこと。二つ目は虚空蔵(こくうぞう)様と呼ばれ、鰻(うなぎ)の禁忌を伴うことが多い。
 星宮は、全国で348社。その分布は、日光から石裂山と太平山を結ぶ線上に多い。因みに石裂山とは、「おざくさん」と読み、前日光・鹿沼市と上都賀郡粟野町(現鹿沼市)の境にある山で、勝道上人の開山と伝えられ、古くから「おざく信仰」の山として知られる。
 上池守地区の「星宮」と何か関連性はあるのだろうか。 
        
             ・所在地 埼玉県行田市上池守740-1
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧上池守村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1569084,139.4307418,17z?hl=ja&entry=ttu
 上池守天神社は埼玉県道128号熊谷羽生線の「上池守北」交差点の南角に鎮座している。上池守の村社格の神社社殿、参道は南向きであり、車の進行方向上に沿う道に面した部分には石玉垣で境内が囲われている為、一旦T字路の交差点を右折し、すぐ先の鳥居前と隣接している商店の間に路地に進む。路地の奥には多少の駐車スペースがあり、そのスペースに車を停めて参拝を行った。
        
                    二の鳥居
『日本歴史地名大系 』「上池守村」の解説
 北は星川を隔てて下川上村(現熊谷市)、南は中里・皿尾の両村、東は中池守村・下池守村。条里遺構が地下に埋没している。中世には中・下の池守村とともに池守郷に含まれた。観応三年(一三五二)七月二日、室町幕府管領・武蔵守護仁木頼章は足利尊氏の命により池守郷および大里郡久下郷内宇波五郎入道・同七郎等跡(現熊谷市)地頭職を、久下弾正忠頼に引渡すよう仁木義氏に命じている(「仁木頼章奉書」久下文書)。

                
                     拝 殿
 新編武蔵風土記稿による上池守天神社の由緒
 上池守村 天神社三宇
 一は村の鎮守とす、皆村持なり

 
上池守天神社が鎮座する上池守地区は、現在の熊谷市星宮地区にあり、嘗ては北埼玉郡星宮村であった。その前の江戸時代は池上村・下川上村と、これ又地域の歴史を物語る由緒ある村の名前をもっていた。池上、下川上の地名の由来としては
・池上…中世、埼玉郡内にあった池上郷の遺名を村名としたもの。なお、池上郷の由来については、現在不明である。
・下川上…はっきりしたところはわからないが、昔あった上川上ノ里が三つの村(上川上村、下川上村、大塚村)にわかれたさい、上川上村に対応する呼称として、“下川上村”と称したものと思われる。〔成田村誌〕
 
           社殿左側に鎮座する
境内社宇賀神社(写真左・右側)
 
       境内社 八坂神社等        
芭蕉の句碑は社殿の左方に建立されている
                          
 上池守天神社が鎮座する「池上」地区「上之」地区に隣接し、古代から開発が進んだ地域だったといわれている。
 奈良時代の律令制度では、各国には「郡」がその下部組織としてあり、その「郡」には必ず「郡衙」が存在していた。(因みに武蔵国は22郡置かれていて、陸奥国の40郡に次いで多い)
中でも郡正倉は、米を貯蔵するための倉庫として重要な施設であり、その立地条件としては、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。「武蔵国埼玉郡衙」は未だに不明とされているが、その有力候補地の一つがこの「池上」地域とも言われている。
        
                                     境内の一風景

 行田市小敷田(こしきだ)遺跡と、これに隣接する熊谷市池上遺跡の場所がその最も有力な候補地と考えられていて、そしてその所在地を推定する際の決め手になるのが、河川交通との関係である。
 それぞれの遺跡からは九世紀前半ごろと思われる「中」という文字を記した土器(墨書土器)が出土しており、立地条件などからみてもこの両遺跡は実際には一体の遺跡と考えられるが、ここで注目しておきたいのは、両遺跡から見つかった「倉庫」に関係する遺構・遺物である。まず小敷田遺跡では、先の出挙木簡をはじめとする八世紀前後の木簡群が、二基の土坑(どこう。地面に掘った大きい穴)に廃棄された型で出土し、更にこの土坑に隣接して二×二間と二×三間の総柱建物(一般に建物の周囲の壁を支える柱だけで構成され住居などに利用された側柱建物に対して、建物内に床を支える束柱を持ち、床に対する負荷に耐える構造となっている)の跡と、嘗ての河川跡が見つかっている。推測するに、この二棟の総柱建物跡はその構造上から倉庫的な機能を有していたものと考えられ、返済された出挙の本稲(実際に貸し出されたものと同量の稲)や利稲(利息の稲)などが河川の舟運を利用して輸送され、ここに出納されていたことが推定される。
 また池上遺跡からは、九世紀中葉以前とされる木製の扉が出土しており、これには、一般に倉庫扉などに多用された「落とし猿」用の鍵穴が穿孔(せんこう)されていることから、倉庫扉と推定されている。このように両遺跡には、倉庫的な施設が存在していたようであり、おそらくこれらの倉庫に収めたであろう田租や出挙稲といった物資の輸送には、河川の舟運が大きな役割を果たしていたのではないだろうか。
 埼玉県内の他の郡衙関係遺跡の立地をみても、嘗ての武蔵国榛沢郡の郡衙正倉跡とされる岡部町中宿遺跡も人工の運河に接して立地しており、同じく初期の足立郡衙跡が所在した可能性があるさいたま市大久保地区も、旧入間川(荒川)の自然堤防上に存在した可能性が強いなど、北武蔵地域においては、それぞれの郡衙、特に正倉は、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。
 

拍手[1回]


下池守子安神社

『池守村子安明神の伝承』
 神像は一寸八分で、金銅でできていて天女が嬰児に乳をやる形である。 地元民は神宮皇后と言っている。この神宝の子安は、水晶のようで直径は八分ばかり、子育て石の長は二寸ばかり、内一寸ばかり。色は濃墨のようにして形は平らで金粉を塗ったような筋がある。
 昔浅野長政が忍城を攻めた時、神社の人は神像と宝を壺に入れ土の中に埋めた。その標識として柏を植えて去った。社は兵火で燃えたといふ。元禄年間、植えた柏の木が高木となり、毎夜 光を放った。地元民は、おそれてその辺を往来するものが少なかった。ある元気のよい者がいて、柏をきったところ、根より光るものがあった。尚 掘ってみると一つの壺が出てきた。うっかりまさかりを強く当ててしまい、壺は少し毀れた。中を見ると、神像があったので、すぐに社を再建し安置した。婦人・子育・安産を祈るとききめがあるといわれている。天明年間に、社僧が、神像とこの神宝を携えて去った。その夜 熊谷の旅亭に宿泊したところ、奇怪な事あって僧は神像と宝を置いて行方知らずとなった。よって び今のように鎮座していただいた。
 
        
              ・所在地 埼玉県行田市下池守549
              ・ご祭神 木花咲哉姫命
              ・社 格 旧中池守村鎮守・旧村社
              ・例祭等 夏祭り 816日(お子安様の祭り)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1645404,139.4424489,17z?hl=ja&entry=ttu   
 下池守子安神社は国道17号バイパスを行田方面に進み、上之(雷電神社)交差点を左折する。暫く真っ直ぐに進み、上池守(北)T字路の次の信号左側に鎮座している。位置的には行田総合公園の北側になる。隣接する下池森農村センターに駐車スペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
        
           
下池守子安神社正面鳥居とその前には社号標あり
 
  
参道左側にある石室の蓋と思われる石材       境内社 詳細分からないが、
         詳細不明           左側の社はその置物から稲荷社だろうか。
        
 子安神社の由緒
 中池守村 子安明神社
 村の鎮守なり。神体は18分の銅像にて、其形嬰児の乳房を含る様なり。土人神功皇后の像なりと云。天正18年忍城攻の時、此邊兵火の災に罹りしかば、社人恐れて神体を壷に納めて、土中に埋め、其上に栢の木を植えて、後のしるしとしてにげ去れり。其後元禄年中故ありて其根を穿ち得たりしかば、社を造立し、勧請せしと云。此時鍬の当りし跡なりとて、像の背に少さき疵あり。当社は安産を祈れば、果して霊験ありと傳ふ。村持
 神宝子安玉。径8分許水晶の如くにして、光甚だうるわしきものなり。
 子育石。長さ2
寸許。色は青みを含み濃淡あり。其間金粉を以て書し如く、子持筋あり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 下池守子安神社の創建年代は不詳。但し天正18年(1590)忍城攻めの時、この地は兵火をこうむり、社人は逃れる時神体を壺に納め土中に埋め、この上に柏の木を目印として植え、その後、元禄年中に至り像を掘り起し新たに社を建立したといい、戦国時代には鎮座していたものと考えられている。
        
『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』には61話の昔話が掲載され、その中に「子安神社 下池守」の記載があり、全文紹介する。
 下池守の子安神社は、霊験あらたかな安産の神として知られ、古くは各地から子安講(こやすこう)の参拝団が、三月十七日の祭祀に集まったといいます。それだけに、おもしろい伝説がたくさんあります。おもしろい伝説というのを調べますと、確かにありましたので、今日はそのお話といきましょう。
 村の鎮守となった「子安神社」の御祭神は「木花咲哉姫命」であります。そして内陣には赤子を抱く子安観音像を安置しております。また、文政五年に作られた神宝筥ばこの中には子安玉、子安貝、子育て石の三つの御神宝が納められております。
 今からおよそ四百年前の忍城水攻めの時、石田勢の北の攻めは浅野長政が担当しておりました。当時城攻めの常として、彼らは付近の民家、社寺をすべて焼き払う作戦をとり、須加城を落とした石田勢は一挙に埼玉に南下し、浅野勢は西に向かって焼き打ちを続けておりました。農民は難を逃れるに先立ち、子安観音像と三つの御神宝を壺に入れて土の中に深く埋めました。そして後でわかるように、柏の木を一本植えて逃げたといいます。三つの御神宝は「玉質水晶の如く直径八分計り、子育て石は長さ二寸計り、内一寸計り」というものでした。それから、ちょうど百年程経ち、江戸元禄時代となりました。その時の柏の木は高さ三メートルを超える喬木となっておりましたが、いつの頃からか、その目印の柏の木が「夜になると光る」という評判が立ち、気味悪がってその前を通る者がいなくなりました。
 ある日、一人の霊力の強い男によって、その柏の木を切り倒すことになりました。すると、切り株の下の方の絡み合った根っこの中が光り輝いており、不思議に思った男は、思い切って 鉞を振り下ろしました。根っこの抱いていたものは、伝説の壷でした。「誤りて鉞をいたく当てれば壺を少し打ち砕きぬ」と、記録が残っていますが、御神像の背と腰のあたりに、その時の鉞の傷が確かに残されております。
 その後、観音像と御神宝を納めた子安神社が再建されました。「忍名所図会」という記録によりますと、神社の社宝に「水晶の玉」と二寸ばかりの「子育石」があると書いてあります。両方ともその通りの大きさで、特に子育て石は那智黒石で「濃墨のごとくして形平に金粉を置きたる如き筋あり」とあります。一見、鶏の卵をたて割りにしたような形でありますが、中にある筋二本が黒い貝を思わせます。今では、子育て石といわず「試金石」と言われております。なぜならば、いつの頃からか、「この御神像は金で出来ている」と噂になり、その子育て石になんと御神像の鼻をこすりつけてみたというではありませんか。確かに表の丸味のある方の隅っこに、数本金色の筋がついております。そして御神像の鼻が、青銅色がとれて金色になっており、これもまた伝説の通りでありました。
 さらに「忍名所図会」には、「天明年中に、社僧、神像並びにこの神宝を携えて去る、その後熊谷の旅亭に宿たるに奇怪ありて神像並びに二宝を捨置き、僧は行方しらずなりぬ」とあります。地元下池守地区に伝わっている話では、やはり社僧が神像二宝を盗み出したのですが、なんと近くの橋の所まで行くと、社僧は急に腰が抜けてしまい、歩けなくなってしまったという話であります。いずれにしましても、この珍しい形の御神像と三つの御神宝は今日まで無事に伝えられているようですよ。めでたし、めでたし。
        
                   庚申塔地蔵尊等
 『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』では子安神社の話の中に出ている子育て石である「那智黒石」にも丁寧に説明がされている。
那智黒石
 那智黒石が文献にあらわれる最初は「紀伊続風土記」で、このあたりで採れる黒石は相当古くから知られていました。この地にある熊野本宮大社は、熊野信仰で有名な格式のある神社であります。熊野速玉神社、那智大社のいわゆる熊野三山は平安の末期より「「蟻の熊野詣」の時代で、いわゆる末法思想が起こり、仏法が衰え、社会は乱れて、世は末世と考えられ、人々は争って、西方浄土に往生することを願いました。そして熊野詣での証しとして、その黒石をすくい、あるいは山脈に露出した熊野の山岳に似た黒石を掘り出し、熊野から帰った後も、往生の念仏を念じ、手すりあわせ磨いているうちに光沢が出てくるので、そこに「極楽世界」の荘厳さを思ったに違いありません。いずれにしても、その名の由来は、人々の口から口へと伝言で伝わり、いつのまにか那智黒石といわれるようになったそうです。
        
                    境内の様子 
 下池守子安神社のご祭神は木花咲哉姫命である。日本神話に登場する女神であり、非常に美しく桜の花の名の語源ともいわれている。また作者不明ではあるものの、平安時代の初期につくられたとされる「竹取物語」のかぐや姫のモデルだとも伝わっている。
 天照大御神の天孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に一目惚れされ、妻となったとあり、日本神話で最も美しいと誉れ高い女神で、古事記や日本書紀などでは別名で登場することも多く、山の神の娘であったころの名は、神阿多都比売(カムアタツヒメ)や神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)などと表記されている。この女神は神話に描かれたストーリーから、幅広いご利益・ご神徳がある神様として日本全国の神社に祀られていて、主には、火難除け、安産・子授けのほか、農業、漁業、織物業、酒造業、海上安全・航海安全などに関する御祭神でもある。
 過酷な状況での出産を無事に成功させた(火の中で無事に3人の御子を出産)ことから、安産や子育ての神様としても祀られていて、御子を育てる際には、お乳のかわりに甘酒を作って飲ませたという神話もあり、そのため、農業や酒造繁栄の神様としても大切にされている。
 木花咲哉姫命は本来富士浅間神社の主祭神で富士山の神様だが、民間信仰の子安神と結びつき、子授けや安産の神として庶民生活に密着して広く信仰されていく。この神様が非常に庶民的な顔を持つようになったのは神話に描かれる内に秘めた強靭な母性力にある。
 古来、日本では出産を控えた女性が安産を願うという信仰はさまざまな形で広く行われていた。そうした民俗信仰のなかで代表的なものである子安信仰が、神話のイメージと重ねられたのであろう。

拍手[0回]