古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上池守天神社

埼玉県熊谷市大字池上と埼玉県行田市大字上池守にまたがり星宮地区がある。村内を流れている、星川と古宮用悪水路の「星」と「宮」の一字ずつ取り、星宮村とした。昭和24、忍町を行田市に名称変更して市制施行。昭和30年に星宮村が編入された。
 全国には「星宮」のつく星宮神社・星神社と星宮の地名が多く存在し、その中心は栃木県である。栃木県内では「星宮」と称する神社は、県下に170社を数え、更にかつて星宮と称した神社を含めればその数261社にのぼると言われている。祭神は磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)としている。これらの神社の特徴としては、一つ目は星を信仰とすると考えられるが、星に関係する伝承が少ないこと。二つ目は虚空蔵(こくうぞう)様と呼ばれ、鰻(うなぎ)の禁忌を伴うことが多い。
 星宮は、全国で348社。その分布は、日光から石裂山と太平山を結ぶ線上に多い。因みに石裂山とは、「おざくさん」と読み、前日光・鹿沼市と上都賀郡粟野町(現鹿沼市)の境にある山で、勝道上人の開山と伝えられ、古くから「おざく信仰」の山として知られる。
 上池守地区の「星宮」と何か関連性はあるのだろうか。
 ・所在地 埼玉県行田市上池守740-1
 ・ご祭神 菅原道真
 ・社 格 旧村社(旧上池守村鎮守)
 ・例 祭 不明
        
 上池守天神社は埼玉県道128号熊谷羽生線の「上池守北」交差点の南角に鎮座している。上池守の村社格の神社社殿、参道は南向きであり、車の進行方向上に沿う道に面した部分には石玉垣で境内が囲われている為、一旦T字路の交差点を右折し、すぐ先の鳥居前と隣接している商店の間に路地に進む。路地の奥には多少の駐車スペースがあり、そのスペースに車を停めて参拝を行った。
        
                    正面一の鳥居
        
                参道を進み、すぐ2の鳥居あり
         右側は道路に面していて、
埼玉県道128号熊谷羽生線である
        
                     拝  殿
○新編武蔵風土記稿による上池守天神社の由緒
(上池守村)天神社三宇
 一は村の鎮守とす、皆村持なり
 上池守天神社が鎮座する上池守地区は、現在の熊谷市星宮地区にあり、嘗ては北埼玉郡星宮村であった。その前の江戸時代は池上村・下川上村と、これ又地域の歴史を物語る由緒ある村の名前をもっていた。池上、下川上の地名の由来としては
・池上…中世、埼玉郡内にあった池上郷の遺名を村名としたもの。なお、池上郷の由来については、現在不明である。
・下川上…はっきりしたところはわからないが、昔あった上川上ノ里が三つの村(上川上村、下川上村、大塚村)にわかれたさい、上川上村に対応する呼称として、“下川上村”と称したものと思われる。〔成田村誌〕
  
           社殿左側に鎮座する
境内社宇賀神社(写真左・右側)
  
       境内社 八坂神社等        
芭蕉の句碑は社殿の左方に建立されている
                          (少し分かりづらいアングル)
 
上池守天神社が鎮座する「池上」地区「上之」地区に隣接し、古代から開発が進んだ地域だったといわれている。
 
奈良時代の律令制度では、各国には「郡」がその下部組織としてあり、その「郡」には必ず「郡衙」が存在していた。(因みに武蔵国は22郡置かれていて、陸奥国の40郡に次いで多い)
中でも郡正倉は、米を貯蔵するための倉庫として重要な施設であり、その立地条件としては、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。「武蔵国埼玉郡衙」は未だに不明とされているが、その有力候補地の一つがこの「池上」地域とも言われている。
        
 行田市小敷田(こしきだ)遺跡と、これに隣接する熊谷市池上遺跡の場所がその最も有力な候補地と考えられていて、そしてその所在地を推定する際の決め手になるのが、河川交通との関係である。
 それぞれの遺跡からは九世紀前半ごろと思われる「中」という文字を記した土器(墨書土器)が出土しており、立地条件などからみてもこの両遺跡は実際には一体の遺跡と考えられるが、ここで注目しておきたいのは、両遺跡から見つかった「倉庫」に関係する遺構・遺物である。まず小敷田遺跡では、先の出挙木簡をはじめとする八世紀前後の木簡群が、二基の土坑(どこう。地面に掘った大きい穴)に廃棄された型で出土し、更にこの土坑に隣接して二×二間と二×三間の総柱建物(一般に建物の周囲の壁を支える柱だけで構成され住居などに利用された側柱建物に対して、建物内に床を支える束柱を持ち、床に対する負荷に耐える構造となっている)の跡と、嘗ての河川跡が見つかっている。推測するに、この二棟の総柱建物跡はその構造上から倉庫的な機能を有していたものと考えられ、返済された出挙の本稲(実際に貸し出されたものと同量の稲)や利稲(利息の稲)などが河川の舟運を利用して輸送され、ここに出納されていたことが推定される。
 また池上遺跡からは、九世紀中葉以前とされる木製の扉が出土しており、これには、一般に倉庫扉などに多用された「落とし猿」用の鍵穴が穿孔(せんこう)されていることから、倉庫扉と推定されている。このように両遺跡には、倉庫的な施設が存在していたようであり、おそらくこれらの倉庫に収めたであろう田租や出挙稲といった物資の輸送には、河川の舟運が大きな役割を果たしていたのではないだろうか。
 埼玉県内の他の郡衙関係遺跡の立地をみても、嘗ての武蔵国榛沢郡の郡衙正倉跡とされる岡部町中宿遺跡も人工の運河に接して立地しており、同じく初期の足立郡衙跡が所在した可能性があるさいたま市大久保地区も、旧入間川(荒川)の自然堤防上に存在した可能性が強いなど、北武蔵地域においては、それぞれの郡衙、特に正倉は、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。
 

拍手[1回]


下池守子安神社

○池守村子安明神の伝承
 神像は一寸八分で、金銅でできていて天女が嬰児に乳をやる形である。 地元民は神宮皇后と言っている。この神宝の子安は、水晶のようで直径は八分ばかり、子育て石の長は二寸ばかり、内一寸ばかり。色は濃墨のようにして形は平らで金粉を塗ったような筋がある。
 昔浅野長政が忍城を攻めた時、神社の人は神像と宝を壺に入れ土の中に埋めた。その標識として柏を植えて去った。社は兵火で燃えたといふ。元禄年間、植えた柏の木が高木となり、毎夜 光を放った。地元民は、おそれてその辺を往来するものが少なかった。ある元気のよい者がいて、柏をきったところ、根より光るものがあった。尚 掘ってみると一つの壺が出てきた。うっかりまさかりを強く当ててしまい、壺は少し毀れた。中を見ると、神像があったので、すぐに社を再建し安置した。婦人・子育・安産を祈るとききめがあるといわれている。天明年間に、社僧が、神像とこの神宝を携えて去った。その夜 熊谷の旅亭に宿泊したところ、奇怪な事あって僧は神像と宝を置いて行方知らずとなった。よって び今のように鎮座していただいた。
 所在地 埼玉県行田市下池守549
 ご祭神 木花咲哉姫命
 社 格 旧村社
 例 祭 不明 
        
 下池守子安神社は国道17号バイパスを行田方面に進み、上之(雷電神社)交差点を左折する。暫く真っ直ぐに進み、上池守(北)T字路の次の信号左側に鎮座している。位置的には行田総合公園の北側になる。隣接する下池森農村センターに駐車スペースがある為、そこに停めて参拝を行った。
        
           
下池守子安神社正面鳥居とその前には社号標あり
  
  
参道左側にある石室の蓋と思われる石材         境内社 詳細分からず
         詳細不明
        
○新編武蔵風土記稿による子安神社の由緒
(中池守村)子安明神社
 村の鎮守なり。神体は18分の銅像にて、其形嬰児の乳房を含る様なり。土人神功皇后の像なりと云。天正18年忍城攻の時、此邊兵火の災に罹りしかば、社人恐れて神体を壷に納めて、土中に埋め、其上に栢の木を植えて、後のしるしとしてにげ去れり。其後元禄年中故ありて其根を穿ち得たりしかば、社を造立し、勧請せしと云。此時鍬の当りし跡なりとて、像の背に少さき疵あり。当社は安産を祈れば、果して霊験ありと傳ふ。村持
 神宝子安玉。径8分許水晶の如くにして、光甚だうるわしきものなり。
 子育石。長さ2
寸許。色は青みを含み濃淡あり。其間金粉を以て書し如く、子持筋あり

 下池守子安神社の創建年代は不詳。但し天正18年(1590)忍城攻めの時、この地は兵火をこうむり、社人は逃れる時神体を壺に納め土中に埋め、この上に柏の木を目印として植え、その後、元禄年中に至り像を掘り起し新たに社を建立したといい、戦国時代には鎮座していたものと考えられている。
        
『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』には61話の昔話が掲載され、その中に「子安神社 下池守」の記載があり、全文紹介する。
 下池守の子安神社は、霊験あらたかな安産の神として知られ、古くは各地から子安講(こやすこう)の参拝団が、三月十七日の祭祀に集まったといいます。それだけに、おもしろい伝説がたくさんあります。おもしろい伝説というのを調べますと、確かにありましたので、今日はそのお話といきましょう。
 村の鎮守となった「子安神社」の御祭神は「木花咲哉姫命」であります。そして内陣には赤子を抱く子安観音像を安置しております。また、文政五年に作られた神宝筥ばこの中には子安玉、子安貝、子育て石の三つの御神宝が納められております。
 今からおよそ四百年前の忍城水攻めの時、石田勢の北の攻めは浅野長政が担当しておりました。当時城攻めの常として、彼らは付近の民家、社寺をすべて焼き払う作戦をとり、須加城を落とした石田勢は一挙に埼玉に南下し、浅野勢は西に向かって焼き打ちを続けておりました。農民は難を逃れるに先立ち、子安観音像と三つの御神宝を壺に入れて土の中に深く埋めました。そして後でわかるように、柏の木を一本植えて逃げたといいます。三つの御神宝は「玉質水晶の如く直径八分計り、子育て石は長さ二寸計り、内一寸計り」というものでした。それから、ちょうど百年程経ち、江戸元禄時代となりました。その時の柏の木は高さ三メートルを超える喬木となっておりましたが、いつの頃からか、その目印の柏の木が「夜になると光る」という評判が立ち、気味悪がってその前を通る者がいなくなりました。
 ある日、一人の霊力の強い男によって、その柏の木を切り倒すことになりました。すると、切り株の下の方の絡み合った根っこの中が光り輝いており、不思議に思った男は、思い切って 鉞を振り下ろしました。根っこの抱いていたものは、伝説の壷でした。「誤りて鉞をいたく当てれば壺を少し打ち砕きぬ」と、記録が残っていますが、御神像の背と腰のあたりに、その時の鉞の傷が確かに残されております。
 その後、観音像と御神宝を納めた子安神社が再建されました。「忍名所図会」という記録によりますと、神社の社宝に「水晶の玉」と二寸ばかりの「子育石」があると書いてあります。両方ともその通りの大きさで、特に子育て石は那智黒石で「濃墨のごとくして形平に金粉を置きたる如き筋あり」とあります。一見、鶏の卵をたて割りにしたような形でありますが、中にある筋二本が黒い貝を思わせます。今では、子育て石といわず「試金石」と言われております。なぜならば、いつの頃からか、「この御神像は金で出来ている」と噂になり、その子育て石になんと御神像の鼻をこすりつけてみたというではありませんか。確かに表の丸味のある方の隅っこに、数本金色の筋がついております。そして御神像の鼻が、青銅色がとれて金色になっており、これもまた伝説の通りでありました。
 さらに「忍名所図会」には、「天明年中に、社僧、神像並びにこの神宝を携えて去る、その後熊谷の旅亭に宿たるに奇怪ありて神像並びに二宝を捨置き、僧は行方しらずなりぬ」とあります。地元下池守地区に伝わっている話では、やはり社僧が神像二宝を盗み出したのですが、なんと近くの橋の所まで行くと、社僧は急に腰が抜けてしまい、歩けなくなってしまったという話であります。いずれにしましても、この珍しい形の御神像と三つの御神宝は今日まで無事に伝えられているようですよ。めでたし、めでたし。
        
                   庚申塔地蔵尊等
 『郷土忍の歴史・忍の行田の昔ばなし』では子安神社の話の中に出ている子育て石である「那智黒石」にも丁寧に説明がされている。
那智黒石」
 那智黒石が文献にあらわれる最初は「紀伊続風土記」で、このあたりで採れる黒石は相当古くから知られていました。この地にある熊野本宮大社は、熊野信仰で有名な格式のある神社であります。熊野速玉神社、那智大社のいわゆる熊野三山は平安の末期より「「蟻の熊野詣」の時代で、いわゆる末法思想が起こり、仏法が衰え、社会は乱れて、世は末世と考えられ、人々は争って、西方浄土に往生することを願いました。そして熊野詣での証しとして、その黒石をすくい、あるいは山脈に露出した熊野の山岳に似た黒石を掘り出し、熊野から帰った後も、往生の念仏を念じ、手すりあわせ磨いているうちに光沢が出てくるので、そこに「極楽世界」の荘厳さを思ったに違いありません。いずれにしても、その名の由来は、人々の口から口へと伝言で伝わり、いつのまにか那智黒石といわれるようになったそうです。
        
 下池守子安神社のご祭神は木花咲哉姫命である。日本神話に登場する女神であり、非常に美しく桜の花の名の語源ともいわれている。また作者不明ではあるものの、平安時代の初期につくられたとされる「竹取物語」のかぐや姫のモデルだとも伝わっている。
 天照大御神の天孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に一目惚れされ、妻となったとあり、日本神話で最も美しいと誉れ高い女神で、古事記や日本書紀などでは別名で登場することも多く、山の神の娘であったころの名は、神阿多都比売(カムアタツヒメ)や神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)などと表記されている。この女神は神話に描かれたストーリーから、幅広いご利益・ご神徳がある神様として日本全国の神社に祀られていて、主には、火難除け、安産・子授けのほか、農業、漁業、織物業、酒造業、海上安全・航海安全などに関する御祭神でもある。
 過酷な状況での出産を無事に成功させた(火の中で無事に3人の御子を出産)ことから、安産や子育ての神様としても祀られていて、御子を育てる際には、お乳のかわりに甘酒を作って飲ませたという神話もあり、そのため、農業や酒造繁栄の神様としても大切にされている。
 木花咲哉姫命は本来富士浅間神社の主祭神で富士山の神様だが、民間信仰の子安神と結びつき、子授けや安産の神として庶民生活に密着して広く信仰されていく。この神様が非常に庶民的な顔を持つようになったのは神話に描かれる内に秘めた強靭な母性力にある。
 古来、日本では出産を控えた女性が安産を願うという信仰はさまざまな形で広く行われていた。そうした民俗信仰のなかで代表的なものである子安信仰が、神話のイメージと重ねられたのであろう。

拍手[0回]


和田神社

 一般的に「和田(わだ)」は各地に存在する地名である。「和田」は現在、縁起の良い漢字を使っているが、輪(わ)や処(と)が訛った「わた」が語源で、周囲を山で囲まれた小平地や河川の曲流部にあたる場所で、曲がっている田、輪のような地形の田、丸田から来ている。また、よい田、実りのある田、良田のこと。渓谷のやや広がった所を意味する。昔の人は海や川が湾曲しているところを「わだ(輪処)」と呼んでいたことから、この地名がうまれ、こういう場所は港に適していたことから各地に存在するのはある意味当時の人々の共通の認識だったのだろう。
 また「わだ(和田)」は「港・津」を意味し、「渡」にも通じているらしく、例えば昔の大阪には「わたなべのつ(渡辺津)」があり、いまは「渡辺橋」に名残りをとどめている。さらに、海や川に祈りを捧げる場所である「わたらい(渡会、度会)」の地名ともつながっており、三重県には伊勢神宮にまつわるその地名がいまも残っている。
所在地     行田市和田192
御祭神     大己貴命・少彦名命
社  挌     旧村社
例  祭     不明

       
 行田市和田神社は国道17号バイパス線を熊谷、行田方面に進み、上之(雷電神社)交差点を左折し、道なりに真っ直ぐ進む。ちなみにこの道路は埼玉県道128号熊谷羽生線で、熊谷市筑波交差点を起点として羽生駅東口交差点が終点の約15kmの県道で、国道125号バイパス線に並行して造られているのだが、上之(雷電神社)交差点から新道の合流交差点までの約930メートルの区間が、熊谷羽生線の指定を外されているという。もっともそれによって走行上は何も影響はないことなのだが、和田神社のルートを説明する際に細かく説明すると厄介なので前置きをさせていただいた。
この埼玉県道128号線は南側には国道125号バイパスがあり北側には忍川が流れ、和田神社付近まで丁度この間を並行している格好になっている。
 とにかくこの埼玉県道128号線を道なりに真っ直ぐ進むと約10分くらいで左側に和田神社の社号標が見えるT字路があり、そこを左折すると、正面突き当りに和田神社の鳥居が見えてくる。
     
      県道128号線上、左側にある社号標         真っ直ぐ進むと和田神社一の鳥居がある。
           
                            和田神社正面
           
                      一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
 和田神社の創建年代は不詳だが、江戸時代には蔵王社と称していたという。明治維新後御嶽神社と改称、明治2年には村社に列格、明治41年には和田村内の八坂神社(伊森明神社)を合祀したという。関東大震災により全壊、和田地区の中心にあたる当地に遷座・再建したとのことだ。
             
                             拝    殿
 この和田神社が鎮座する和田地区は忍川が起点である熊谷市平戸から東へ向かって流れ、行田市の市街地を経由し、秩父鉄道を横断した付近から流路を南へ変え、最後は吹上町袋で元荒川の左岸に合流するのだが、その曲流部の南側に位置している。まさに「和田」という地名にピッタリな地形だ。 
           
                             本    殿
              よく見ると本殿のすぐ先、つまり北側に忍川が流れている。
和田神社 由来
 和田はかつて条里制水田が広がっていた地域で、現在も水田の中に位置する。
 「風土記稿」和田村の項には「伊森明神社 村の鎮守とす。宝珠院持。蔵王社 同持。宝珠院 新義真言宗、上之村一乗院末、和光山と云、本尊地蔵を安ず」と載せ、このうち「蔵王社」が当社であり、往時、蔵王権現と称していたという。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、社名を御嶽神社と改め、明治二年に村社となった。同四一年、字北屋敷の八坂神社及び境内社八幡社を合祀し、社号を和田神社と改めた。八坂神社は「風土記稿」に載る「伊森明神社」である。
 大正一二年の震災により本殿・幣殿・拝殿が全壊したため、これを機に従来の社地が偏狭なことから、和田の大地主竹田恒太郎所有の地が和田の中心地であるとして、この地を求め大正一四年社殿を新たにし一段と尊厳を加えた。この移転及び造営のために要した費用は七千八百円余りといわれ、氏子一同がこの再建に尽くした並々ならぬ熱意がうかがえる。
本殿は一間社流造りで、大己貴命・少彦名命の二柱を祀る。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿の左側にある石祠、石碑(写真左)、そして本殿の右側奥にひっそりとあった石祠(同右)
                          どちらも由緒不明だ。

 日本は大昔から山や川等の自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見い出す多神教国家だった。それ故に西洋国家のように「自然を支配する」ことを嫌い、「自然の造形美」を人間の手によって造りだし、左右対称性、幾何学的な池の配置や植栽の人工的整形などを特徴をもつ「西洋的庭園」方式をせずに、その土地の気候や風土にあった仕事や家づくりをするなど、自然と生活が互いの一部として存在していて、自然に人の営みが加わることがそのまま美しい景観になっていた。
 それは地名にも当てはまり、自然との共生から培った古代の人々の知恵からくるものだったのだろう。この「和田」という地名一つとってみてもそれが分かるものだ。埼玉県には行田市和田以外にも「和田」のつく地名は意外と多い。

 最後に埼玉苗字辞典にも「和田」について以下の記述があり、それを紹介したい。

和田 ワダ 綿(わた)・和田(わた)は、海(ばた、はた)の転訛にて、海(あま)族居住地を称す。ベトナムから中国雲南省附近に居た海洋民は黒潮暖流に乗って沖縄・九州・太平洋岸へ、また中国沿岸部や朝鮮半島・日本海岸へ土着した。海洋民のことはウツミ・コシ・斎藤・鈴木・秦・渡辺等参照。先代旧事本紀巻一陰陽本紀に「伊弉諾、伊弉冉の二尊、海神(わたつみのかみ)を生む。名は大綿津見神(おおわたつみのかみ)」とあり。大綿津見神の子宇津志日金折命は別名穂高見命とも云い、安曇族の祖神なり。此の海神は慶尚南道釜山港附近にあった委陀(わだ)・和多から渡来す。金官・須奈羅は今の金海。背伐(はいばつ)・費智(ほっち)・発鬼(ほっき)は今の熊川。安多(あた)・多多羅(たたら)は今の多大で、四村(村は今日の郡程度)は対馬海峡・朝鮮海峡に面した南加羅の地である。日本書紀継体天皇二十三年条に「新羅は四村を攻略す、金官・背伐・安多・委陀、是を四村とす。一本に云はく、多多羅・須奈羅・和多・費智を四村とするなりといふ」。敏達天皇四年条に「新羅は、多多羅・須奈羅・和陀・発鬼、四村の調を進る」と見ゆ。南加羅の和多村の渡来人集落を和田と称す。
○男衾郡折原村字和田及び立原村字和田(寄居町)は古の村名にて、今の寄居運動公園附近なり。鉢形古城跡内郭案内記に「武州鉢形の古城跡追手は立原村也、続て諏訪の神社あり、此社の南堀の上に御金倉と言所有是なり、北の方は和田村なり鉢形へ通る小路あり、和田坂の東に巻渕あり」と。鎌倉浄光明寺嘉慶三年文書に浄光明寺領武蔵国男衾郡内和田郷事、応永二十七年文書に武蔵国男衾郡内和田郷、享徳二年文書に武蔵国男衾郡和田郷と見ゆ。和名抄の男衾郡幡郷の地か。
○秩父郡下飯田村字和田(小鹿野町)は、平村慈光寺元禄八年棟札に「和田村、飯田村、須々木村」と見ゆ。元応二年丹党中村文書に「秩父郡三山郷小鹿野の和田の屋敷一所」と見ゆ。下飯田村は小鹿野村より分村す。
○那賀郡中沢郷駒衣村字和田(美里町)は、丹波国中沢文書に「明徳元年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道在家・同田一町・同名々寺の事」。「永正四年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道有宗同田一町の事」と見ゆ。
○高麗郡脚折村字和田(鶴ヶ島市)は古の村名にて、天正二年白鬚社棟札に「白鬚大明神七ヶ村惣社、臑折、太田ヶ谷、針宮、和田、高倉、大六道、小六道」と見ゆ。
○大里郡和田村(熊谷市)、入間郡入西領和田村(坂戸市)、越生郷和田村(越生町)、埼玉郡和田村(行田市)あり。
○小名和田は、葛飾郡神間村、埼玉郡久喜町、足立郡大牧村、入間郡上谷村、高倉村、二本木村、下安松村、高麗郡平沢村、栗坪村、高倉村、比企郡玉川郷、上古寺村、横見郡御所村、幡羅郡弥藤吾村、秩父郡久長村、河原沢村、下吉田村、長留村、日尾村、日野村、薄村、横瀬村、中野上村、下名栗村等にあり。また、葛飾郡花和田村、宇和田村、足立郡大和田村、新座郡大和田町、入間郡箕和田村、横見郡大和田村、児玉郡沼和田村等あり。此氏は海岸部の常陸国、海神安曇族の渡来地信濃国に多く存す。

拍手[3回]


下忍神社

 
 下忍神社が鎮座する行田市下忍地区は、その昔、忍城の下(外れ)といい戦国時代以前からの名称であったそうで、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
 この「忍」という地名は戦国時代以前よりかなり古くからこの地方で使用されていたようだ。その由来として忍は磯辺(オシベ)の転化とか、鴛(オシドリ)がすんでいたからであるといわれ、河川や沼地が多かったこの地らしい口伝がある。また文献上では鎌倉時代の東鑑という本に忍五郎、鴛三郎が活躍していることが出ているから、その当時から用いられていたのだろう。そして1050年頃、忍氏がこの地域を開拓し、「忍荘」として交通の要路となったと言われている。
 またこの社は古くから久伊豆社と称して鎮座していたと伝えられ、旧下忍村の鎮守となっていた。明治2年村社に列格、高畑の塞神社、東谷の天神社をを合祀、明治42年に下忍神社と改称、さらに同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を合祀したといわれる。
所在地   埼玉県行田市下忍1160
御祭神   大己貴命
社  挌   旧村社
例  祭   不明
 

         
 下忍神社は下忍愛宕神社から埼玉県道148号騎西鴻巣線を北方向に進む。道なりに進み、途中県道と別れる変則的な十字路を直進する。そのまま北上すると4,5分くらいで左側に下忍神社が鎮座する場所に到着する。駐車スペースは神社の南側にあるのだが、入口付近は鎖で塞がれていていたので、北側に路上駐車して急ぎ参拝を行った。
            
                            下忍神社 正面
 
            右側には手水舎                                           拝殿の手前にある力石
           
                              拝    殿
 
  拝殿上部にある「久伊豆神社」と書かれた扁額                拝殿内部
           
                             本    殿
下忍神社の由来 
 「武蔵志」には「下忍、境地ノ南ニテ士町足軽町アリ」と載せ、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
当社の創始は、口碑に「下忍神社は晋、久伊豆社と呼んでいた。久伊豆社は武蔵七党の一つ私市党の氏神で、私市城の鎮めに祀った社である」というが、私市城との関係は明らかにできない。また「明細帳」には「昔ヨリ下忍村上組総鎮守ト仰キ云々」とあり、「風土記稿」には「久伊豆社 村の鎮守とす、明光寺持」と載せている。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治2年に村社となり、同3年高畑の塞神社を境内に合祀し、同42年には東谷の天神社を本殿に合祀して、社号を下忍神社と改める。更に、同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を境内に合祀する。
合祀社のうち塞神社は、古くは道六神と称し、既に「慶長13年検地水帳」(島崎隆家所蔵)にその名が見えることから古社であることが分かる。また、琴平神社は、旧別当明光寺の本山、行田遍照院の金毘羅大権現であり、神仏分離により下忍飯田萬吉家に移され、次いで当社に合祀したものである。内陣に、「弘化四年開眼供養」の墨書がある金毘羅権現像(24cm)を安置している。
                                         埼玉県神社庁 「埼玉の神社」より引用

 この下忍神社の隣には明治2年に合祀した高畑の琴平神社が二社並列という形で鎮座している。
          
                        合祀社 琴平神社正面
            
                           琴平神社 拝殿
 

   下忍神社と琴平神社の間にある石祠群        琴平神社の拝殿手前にある「新川早船絵馬」 
                                               の案内板
新川早船絵馬
  本絵馬は明治6年に琴平神社に奉納されたもので、江戸時代から明治初頭頃にかけて賑わった新川河岸に関わる人々が奉納したものである。
絵師は岩田霞岳で、中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれ、下半部には奉納者の名前と国・村名が列記されている。当時の荒川舟運や新川河岸の様子、金比羅信仰の様相等を示す貴重な資料である
                                           行田市教育委員会掲示板より引用
   
 この絵馬は、明治6年(1873)に琴平神社(下忍神社境内)に奉納されたもので、作者は絵師の岩田霞岳(かがく)、願主は芝崎鉄五郎です。桐板6枚を繋げて造られ縦77.5cm、横104.7cmの額装です。新川とは新川河岸(かし)の事で、寛永6年(1629)の荒川開削以降に開かれ、主に忍藩の年貢米や御用荷物の運送で賑わいましたが、鉄道の開設により衰退し、大正末頃には消滅してしまいました。
 画面中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれており、船、問屋の家屋、波頭が見事な筆致で描かれています。下半部には本絵馬の奉納者の名前と国・村名が列記されていますが、その構成は埼玉県の外、栃木、千葉、茨城、群馬県にまで及んでいます。奉納者は、問屋仲間や船頭仲間として新川河岸とつながりのあった者と考えられ、彼らが商売繁盛と航行の安全を祈願して、船運の神として信仰されていた琴平神社に奉納したものと思われます。当時の船運、新川河岸の様子や金比羅神社信仰の様相を示す貴重な資料です。
                                           行田市教育委員会掲示板より引用

 新川早船絵馬は荒川の新川河岸の様子を描いた絵馬であり、行田市指定文化財(歴史資料)となっている。
 新川河岸とは現在の熊谷市久下付近の荒川に明治初期まであった、河岸場(やっちゃば、舟運の荷降しのための中継所)である。荒川からはかなり遠方である下忍村にまで、舟運関係者が在住していたようで、この絵馬は当時の新川河岸の規模の大きさと賑わいぶりを示している。

拍手[1回]


行田桜町久伊豆神社

所在地   埼玉県行田市桜町2-20-35
主祭神   大己貴命、事代主命
社  格   旧村社  
例  祭   秋祭り9月18・19日

       
地図リンク
 久伊豆神社は東行田駅の北約100m、埼玉県道7号佐野行田線に面して鎮座している。
 創立は文明年中(1469-1487)とされているが、一説に応永年中(1394-1428)に成田家時が武運長久を祈ったのに始まるともいう。成田顕泰が忍城鬼門の守護神として隣接する長久寺と共に創建したという。旧村社。明治42年に町内の26社を合祀、さらに昭和30年に楯場にあった赤飯稲荷神社が摂社として合祀されている。
          
                        県道沿いにある一の鳥居
          
              一の鳥居を越えてすぐ右側にある久伊豆神社の案内板
久伊豆神社    
 
所在地 行田市桜町
 
久伊豆神社の祭神は、素盞嗚尊の子大己貴命である。
 創立は文明年中(1469-1487)で、成田下総守顯泰が忍城築城に際し、城の鬼門の守護神として当神社を祀り、隣接する長久寺を別当とした。これに合わせ、城の裏鬼門の守護神として城の南西大宮口に、やはり久伊豆神社をおいている。
 境内には15m四方の枝張りを有する藤があり、市指定天然記念物となっている。
 この藤は、境内にある赤飯稲荷を合祀する際に、市内若小玉にある「紫藤庵の野田藤」を根分けして植えたものである。野田藤は、日本原産の藤であるが、花房が1.5mもあるのは珍しい。
 なお、本社には市指定書籍の勝海舟書「大幟」原本も保存されている。
                                                    境内案内板より引用
 
              二の鳥居                 二の鳥居を過ぎると左側に神楽殿がある。
  
 神楽殿の向かい側、参道の右側には15m四方の枝張りを有する市指定文化財である九尺藤(写真左)、また近くには案内板(同右)もある。境内にある赤飯稲荷神社を合祀する際に植えたものだ。但し藤の見頃である4月の下旬から5月の上旬にもう一回参拝に来たいと正直思った。

市指定文化財 
九尺藤    昭和39年1月31日指定

 原木は長野字林の堀口和三郎方にあり、往時忍藩主より藤の肥料として搾粕二俵の下賜があったと言われています。その後、若小玉の内田牧之助方に移植され、久伊豆神社が村内合社となるに及んでその苗を譲り受け境内に移植したものです。
 目通り1.3m。
                                                      行田市教育委員会
                                                      案内板より引用
             
                              拝   殿
           
                              本   殿
 
 本殿の手前にある赤飯伊奈利大神等の石祠群      同じく本殿の奥にひっそり鎮座する稲荷社等

  また社殿の南側隣には摂社として赤飯(せきはん)伊奈利大社が鎮座 している。摂社の定義は通常、本社の 境内外にわたって配置され、多くは本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま),また地主 神など縁故の深い神を祀っている小規模神社の呼称であり、大宮氷川神社内に存在する門客人神社や、玉敷神社の宮目神社のような配置形態だが、この久伊豆神社に対する赤飯伊奈利大社のそれは、摂社というよりはむしろ並立神社といっても良いような立派な赤飯伊奈利大社の規模だ。
           
               摂社赤飯伊奈利大社の鳥居とその左側にある社号標
           
摂社赤飯伊奈利大社の御祭神は宇迦之御魂神。本殿真下の地下に御神体が安置してあり、真っ暗の中を参拝するという胎内参拝の儀というのがあるそうだ。
           
                              拝殿内部
 赤飯伊奈利大社の鳥居の左側には「勝海舟閣下書記念」の石碑があり、勝海舟が書いた「大幟原本」がこの社にあった。長さ10m、幅1.2m。書かれた経緯は、従来の幟は汚損し、明治維新により神号も改正されたので、明治17年11月氏子総代三氏が中心となり、東京大伝馬町の松雲堂主人の紹介で、前海軍郷参議正四位勝安芳公に依頼して書かれたものだということだ。現在は行田市郷土博物館に寄託している。ちなみにこの勝海舟書 大幟原本は市指定有形文化財となっている。

拍手[4回]