古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

棚田神社

 現在の元荒川は源流地点から熊谷市久下地域までは、多少の蛇行はあるが、概ね南東へと真っ直ぐに流れて来る。しかし、地図で確認すると、元荒川主河道とは別にJR高崎線と上越新幹線に挟まれたこの地域(門井町、棚田町、壱里山町など)で北東方向へと大きく蛇行している河道がある。つまり、この地点から行田市棚田町一丁目付近まで北東へ向かって流れ、そこから流れを再び南西へと変え、ここから600m下流の行田市清水町で本来の流路へと戻ってくる。
 このように旧元荒川が大きく蛇行しているために、行田市と熊谷市と鴻巣市(旧吹上町)とが入り組んでいる地域でもある。
 嘗て旧元荒川が乱流し、頻繁に蛇行を繰り返していた痕跡をこの地形は物語っている。
        
             
・所在地 埼玉県行田市棚田町1-53
             
・ご祭神 日本武尊 菅原道真公
             
・由 緒 旧鷺明神社及び天神社等合祀社
             ・例祭等
地図 https://www.google.com/maps/@36.1213883,139.4304318,17z?hl=ja&entry=ttu
  棚田神社が鎮座する行田市棚田地域は熊谷市の大井、久下地域に西・南側を囲まれた地域で、嘗て元荒川の蛇行により形成された楕円形の突出部に沿ってできた道路の外縁に位置するといった不思議な行政区分となっている。
                      
                   棚田神社正面
            鳥居の額には「天満宮」と表記されている。
 現在の行田市棚田町地域は、嘗て「棚田村」と称し、北は持田村、西は太井村(現熊谷市)、南は元荒川を隔てて大里郡久下村(現同上)。当村は丁度元荒川の河道がU字形に屈曲した外側に位置していて頻繁に水害を受けたようで、小名に砂畠(すなはたけ)・砂原(すなはら)・深水・押出(おしだし)などの名称が残っている。江戸時代は忍藩領に属し、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)の忍領覚帳によれば大井四ヵ村のうちで、高六一二石余という。  
        
         参道の左側には数多くの石灯篭や石祠等が参道に沿って設置されている。

 国道17号をJR行田駅方向に進む。因みに行田市には同名の駅が2つあり、一つはJRの「行田駅」もう一つは秩父線の「行田市駅」である。国道17号とJR行田駅前通りとの交点にある「壱里山町」交差点の手前にある「久下」交差点を左折、400mほど進んで狭い十字路を再度左折し、しばらく進むと左側に棚田神社が見えてくる。
 社の東側隣には「真言宗智山派長盛山不動院真福寺」が管理する墓地があり、嘗て「「鷺明神社」と呼ばれていたころの別当時である。
「久下」交差点左側にはコンビニエンスがあり、そこの駐車場をお借りしてから徒歩にて社に向かう。
        
            参道の突き当り付近にある「社殿竣工記念碑」
              因みに参道はここから直角に曲がる。
 社殿竣工記念碑
 古来棚田の鎮守は、当社鷺明神社で真言宗真福寺の持ちでありました。
真福寺の境内には天神社が祀られておりましたが、明治の神仏分離により天神社を当社に合祀し、社名を天神社と改めました。
 更に明治41年字砂畑の鷺明神社と同境内社三峰神社及び同字の諏訪社・三嶋社・天神社を合祀し、社名天神社を棚田神社と改め現在に至っております。
 主祭神は日本武尊と菅原道真公であります。
 当社の鎮座する棚田は、元荒川の河岸段丘に位置し、水利に恵まれておりましたが、昔はしばしば洪水に見舞われ、その名残で砂畑・砂原・深水・押上等の地名が残っております。天正18年(西暦1590)の忍城の水攻めに使われた石田堤の端が当地に至っており、当社の境内もこの堤の一部でありました。
 当社の氏子は白鷺を神の使いとして大切にし、白鷺が水田で羽を安め田を守るように見えたところから、当社は五穀豊穣を祈る神社でありました。
長い間、五穀豊穣を祈る神、学問成就を祈る神として厚い信仰を集め数々の伝統を受け継いでまいりました当社でしたが、第二次大戦の終戦前夜からの米軍機B29の空襲で昭和20814日夜半、社殿は焼失してしまいました。
 その後、昭和3310月応急の社殿が建立されましたが三十年以上も経過し老朽化が著しく、平成72月社殿新築委員会を組織し社殿・社務所・境内整備を竣工することができました。
 当棚田は国鉄行田駅の開業や土地区画整理事業による道路整備により住宅の増加が著しく、現在では約500世帯1500人の人口を擁し、当社の参拝者は年々増加しております。
 時代の幾多の変遷にもかかわらず、町内の方々及び当町を古里にしている方々の今に続く清純な神社崇拝の心と、浄財の拠出によって今日の竣工を迎えることができました。ここに竣工を記念するにあたり、町内の方々及び当町を古里にしている方々の隆盛を祈念し併せて当神社を心のより処として当地区が平和で豊かな明るい郷土として末永く発展することを念願し碑文といたします。
                                   境内記念碑文より引用
        
                 鳥居・社殿方向を撮影
 棚田地域の住宅街の一角に鎮座する。 周囲は新しい家ばかりであるが、社の境内はどこもきちんと手入れされていて参拝にも気持ちよく望めた。
        
                     拝 殿
「新編武蔵風土記稿 太井村条」に鷺明神社二宇とあり、それぞれ棚田の鎮守、門井の鎮守と記載されている。また合祀したという三島社も記載されている。

○鷺明神社二宇
 一は門井の鎮守にて、徳円寺持、
 一は棚田の鎮守とす、真福寺持、
 三島社、真福寺持、
                          『新編武蔵風土記稿 太井村条』より引用

 また当地にもともと鎮座していた天神社は、真福寺の境内社だったといい、新編武蔵風土記稿真福寺項に記載されており、神体は元大里郡佐谷田村小名田中(熊谷市佐谷田)にあったもので、久下權頭直光の守護神だったといい、享保年中に領主(忍藩阿部家)に願い出て、当地へ遷したという。

天神社
神体は木像なり。久下權頭直光の守護神にて、元大里郡佐谷田村の内、小名田中と云所にありしを、享保の頃領主へ願ひ境内へ移せりと云。この直光が事同郡久下村に出たれば、爰には略す、
                       『新編武蔵風土記稿 太井村条真福寺』より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系(棚田村)」「境内記念碑文」等

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中里八幡神社


        
               
・所在地 埼玉県行田市中里413
               ・ご祭神 誉田別命
               ・社 格 旧中里村鎮守
               ・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1429578,139.4344251,16.75z?entry=ttu
 小敷田春日神社から北方450m程の場所に鎮座する。中里地域集落の南端に位置し、外観はまさに「集落の鎮守様」がピッタリの社。南方に忍川が東西に流れ、その河川に対して北方に密集する集落を守るためこの場所に鎮座しているようにも見える。
 まあ現在の一直線に流れる忍川の流 路は、昭和初期の河川改修によって確立されてきたので、昔とはかなり違うとは思うが。
        
                             中里八幡神社正面
              
                味わいのある八幡神社の石柱
 八幡神社は蔵王権現の塚があった地に鎮座するという。鎮座地の小字は「蔵殿」。蔵殿は郡村誌では[ぞうどの]と読み、風土記稿には[ぞう殿]と記されている。
 中里地区の周辺は荒川扇状地の扇端に位置し、かつては湧水が豊富だったという。西側に隣接した小敷田地区には、弥生時代中期(紀元前一世紀頃)の方形周溝墓(埼玉県現存最古)の遺跡があり、小敷田から中里にかけては、条里制(律令体制化の区画整理された土地)がしかれていたとされる。
        
                     拝 殿
 中里村  八幡社
 村の鎮守なり。萬徳寺の持
 萬徳寺
 同宗(新義真言宗)、持田村宝蔵寺門徒なり。八幡山と号す。本尊阿彌陀
                               「新編武蔵風土記稿」より引用

 八幡神社
 中里は、利根川と荒川の二大河川の流れによって形成された沖積平野の一角で、この湿潤地を利用し、古くから農耕が営まれていた。地名は条里制によると考えられ、その遺構が確認されている。
 当社の鎮座する字は蔵殿と呼ばれ、蔵殿権現(蔵王権現か)の塚があったと伝えられ、また勝陣場(精進場)と呼ばれる地名も近くに残っている、地名、又は加須市岡古井の通殿神社の例を勘案すると修験との関係を思わせる。
 社記に伝えられるところによれば、天文二年に再興されたとある。現在、当社に蔵されている棟札には寛政一〇年の年紀が見え、万徳寺がその管理に当たっていたことが知られる。真言宗万徳寺は八幡山と号していたが、明治初めの神仏分離により廃寺となった。まお、寺跡地は神社に隣接しており現在は民有地となっている。
 江戸期、八幡大菩薩と称していたが、神仏分離に伴い神号を改め誉田別命とした。明治四五年、字新在家の雷電社を合祀しているが、これを記録した木札には「訓令ニ依リ其筋ヘ願上新在家ニアリシ雷電社ヲ當社ヘ合祀致シ候雨屋者構造宜シキタメ是ヲ用ヒ候事、明治四五年三月十日、社掌茂木庫之助」とあり、雨屋(覆屋)には雷電社の社殿を使用したことがわかる。祀職は現在も茂木家が奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 茅葺屋根の本殿。昔こそありふれた屋根構造であったろうが、現在の本殿には今までお目にかけた構造ではないので、正直驚いたと同時に、今まさに現存することに対して感動をも覚えた。
 
  社殿の左側に祭られている境内社と石碑     鳥居付近には塞神の祠を祭っている。
「埼玉の神社」には「明治四五年、字新在家の雷電社を合祀している」と記載されている。境内社の中の一社がそれなのであろうか。境内社には社名が書かれた札等がなかったので不明だ。
          
            境内には立派な老木が聳え立つ(写真左・右)
    紙垂等ないのでご神木かどうか何とも言えないが、とにかく立派な老木である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等

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前谷天神社


        
               ・所在地 埼玉県行田市前谷1425
               ・ご祭神 菅原道真公
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 例大祭 825
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1183098,139.4536299,18z?entry=ttu
 前谷天神社は「ものつくり大学」から直線距離にして350m程北西方向に鎮座している。吹上駅前から埼玉県道66号行田東松山線・通称「産業道路」を行田市街地方向に進み、上越新幹線高架橋の下を潜り抜けた先の「大学入口」交差点を左折する。ものつくり大学を左手に見つつ、その大学を過ぎてから300m程進んだT字路を左折し暫く進むと「前谷集落センター」や「光明寺」の間に前谷天神社が見えてくる。
        
                   前谷天神社正面
 前谷地域は、江戸時代・寛永年間に新田開発によりできた村である。地域の南境には「前谷落(まえやおとし)という農業排水路が流れている。この前谷落の流域は茫漠とした低地であり、近年都市化は進行してはいるが、まだ氾濫原跡を思わせる地形が残っていて、それらは現在広大な水田となっている
『増補忍城名所図会』には前谷村にあった「三千坊沼」にまつわる伝説も残り、新田開発後も水腐の続く湿田地帯で、往古から水損の地であったようだ。
        
           前谷天神社は真言宗光明寺に隣接して鎮座している。
           この寺社には境内に垣根等仕切りがないのも珍しい。
 

 行田市指定有形文化財「忍城名所図会」は、忍藩に関する書物として最も古いものの一つで、天保年間(18301843)の忍城周辺の名勝や名刹、風俗や名品などが豊富な絵と的確な文章で描かれている。
 文政八年(1825)忍藩主松平忠堯は、洞李香斎筆の編述した「忍名所図会」を見て、足りない所や漏れている所が多いのを惜しみ、家臣の岩崎長容に増補を命じ、天保六年(1835)に増補版六巻を作製したものが「増補忍名所図会」である。
        
                                       拝 殿 
 『増補忍城名所図会』には 「三千坊沼。前谷村にあり。古は大沼なりしが今は田圃となる。往古此沼に鐘沈み有りそを成田竜淵寺の和尚加蔵主此鐘を法力を以て取上、寺に持行、其休養し勉を鐘置橋といふ。鐘置橋は皿尾より上の村へ行中程小川に係る橋を云也。しかして竜淵寺に有りしが今は常陸筑波山にありといふ。」と沼にかかわる伝説が残り、新田開発後も水腐の続く湿田地帯で、往古から水損の地であったようだ。
 当社の創立は不詳であるが、口碑によると、先祖が名主を務めた細谷家の宅地内に祀っていたが、何らかの理由で当地に移されたという。明治六年村社となった。
 
 神社境内は北側を真言宗光明寺の境内が、南側を農民センターの建つ共有地がそれぞれ隣接して、両者に挟まれるようにして神社参道が延びている’写真左)。祭神は菅原道真公を祀り、本殿は一問社流造りである。境内社として塞神(石両)とほかに社名不詳の石祠三社が祀られているが、この四社は「明細帳」に記載の伊奈利神社・宇賀神社・事任神社・塞神社であると思われる(同右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「増補忍城名所図会」「行田市公式HP 指定文化財」等

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持田大宮神社

 陰陽道(おんみょうどう、おんようどう、いんようどう)は、陰陽五行思想を起源として、天文学や暦の知識を駆使し、日時や方角、人事全般の吉凶を占う技術である。この思想は、古代の中国で生まれた自然哲学思想で、陰陽五行思想を起源として日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。
 5世紀から6世紀頃、陰陽五行説が仏教や儒教とともに日本に伝わり、7世紀後半から8世紀はじめに律令制がしかれると、陰陽の技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化される。その時期、僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられた。
その後、平安時代中期,賀茂忠行,保憲父子,その門人安倍晴明の頃,陰陽道は全盛期をきわめる。これは、律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて、形式化が進んだ宮廷社会で高まりつつあった怨霊に対する御霊信仰などに対し、陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となった。これにともなって陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がりつつ一般化し、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して、日本独自の展開を強めていく。
 室町時代に入ると本来下級貴族の家柄であった安倍氏の嫡流は他の一族を圧倒して公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏嫡流の土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
 このように古代では公家(くげ)の政策に、中世では武家の戦術に取り入れられたこともあり、これらの風潮は、もちろん一般民衆の間にも浸透し、近世においては精神生活全般を左右するかのようにさえみられるほどで、日本人の生活全般にまで広まった。
 その後近代的科学思想によって、所謂迷信打破が叫ばれた結果、ようやく表面的には影を潜めてきた。それでも婚礼、葬礼の日取り(大安(たいあん)、友引(ともびき)、仏滅(ぶつめつ)など)や、旅行、移転の方位(恵方(えほう)、鬼門(きもん)など)、縁組、就職の相性(あいしょう)関係など、陰陽道に関連した習慣は、いまなお残されているといってよい。
        
              
・所在地 埼玉県行田市持田6516
              
・ご祭神 事代主神
              
・社 格 旧村社 持田村下組鎮守
              
・例祭等 例祭 95日(本祭り) 96日 山下ろし
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1360076,139.4492513,17.25z?entry=ttu

 忍東照宮から埼玉県道128号熊谷羽生線を西方向に進む。城西からくり時計が設置されている「城西」交差点を左折し、「宮脇書店」手前の十字路を左折、200m程進むと右側に持田大宮神社が見えてくる。
        
                                 持田大宮神社正面
              現在は静かな住宅街のなかに鎮座する。
 創建年代などは不詳。天正年間(15731592)に兵火で焼失、同15年(1587)社殿を再建。ここは忍城大宮口にあたるので当時は「大宮の久伊豆神社」と呼ばれていたようだ。
       
 鳥居の両脇には、石柱・石碑が設置されている。左側には社号標柱、右側には大宮口御門跡」の石碑がそれぞれある。この地が嘗て「忍城裏鬼門の地」として戦略的に重要な地で久伊豆神社を祀り堀と曲輪(くるわ)と二重門で固めたという。
                   
                                  
「大宮口御門跡」の石碑
「大宮口御門跡」の石碑
 忍城裏鬼門の地として戦略的に重要な地で久伊豆神社を祀り堀と曲輪(くるわ)と二重門で固めた。天正18年(1590)石田三成忍城攻略で三成は下忍門を、そしてこの大宮口の地で大激戦が始まり、遂に不落の為水攻めとなったのである。
                                      石碑文より引用

        
      参道の両脇には玉砂利が敷かれ、手入れもしっかりとされているようだ。
 戦国時代末期、豊臣秀吉は四国征伐や九州征伐で長宗我部氏や島津氏を配下とすると、天下統一に向け今度は関東平野に広大な領土を獲得していた後北条氏に目を付けた。秀吉は徳川家康を介して上洛を促すが北条氏政は拒否し、「小田原攻め」が決定する。この戦いの中で発生したのが「忍城の戦い」である。
 1590
64日に三成は館林から忍へ移動、忍城大宮口(この付近)に本営を設けて攻撃を開始したという。この地は「忍城の戦い」での緒戦の地の一つでもあり、この戦いから3か月にも及ぶ「忍城水攻め」が繰り広げられたといってもよい。
        
                                     拝 殿
 社伝によると「創建の年月不詳なれども、天正年中社殿兵火により焼失す。同五年忍城裏鬼門なるにより城主成田下総守社殿を再建し字大宮前において一石を免ずる」という。「風土記稿」に「持田村久伊豆社下組の鎮守なり、天正15年の勧請と云」とある。また「増補忍名所図会」に「久伊豆大明神大宮口御門の外にあり、別当亀行山峯雲寺修験なり、当社の鳥居は往古は今の沼尻組屋敷の東はずれにありしとかや、其頃、神君御入国の節如何しけん、笠木に亀昇り居しを御覧有て吉瑞なるべしと御感悦ましませしとかや、是より号して亀行山と称す」とある。
 現在も当社を大宮の久伊豆社と呼ぶ人があり、これは城表鬼門除けの長野の久伊豆社(長野久伊豆神社)と区別するためという。当社の位置は戦略的にも城にとって重要な地点といわれ、天正18年石田三成が忍城攻略の火蓋を切った所であり、やがて攻めあぐねた三成により歴史上有名な水攻めが行われた。
 祭神は事代主神であり、17.5cmの神像を祀る。流造り柿葺きの本殿は大正期修復と伝えるほかは造営等明らかにできない。
 大正5年、字相之道の八幡社、字飯沼の天神社、下忍通の塞神社を合祀している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                         拝殿に掲げてある「大宮神社」の扁額 
        
 
  拝殿向拝部や木鼻部には彩色こそないが、さりげなく丁寧に仕上げている彫刻が目を引く。
 
  社殿奥に祭られている塞神等の石祠群      社殿右側に鎮座する境内社・石祠。
                               詳細不明

「鬼門(きもん)」とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位・方角のこと。日本では古来より鬼の出入り方角であるとして忌むべき方角とされている。
 おそらく、平安時代までには「鬼門説」が移入されたと思われるが、これを立証するような正確な文献が現在見当たらないのも事実だ。例えば桓武(かんむ)天皇が王城を平安京に移したとき、鬼門除けとして比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を建立したという(*但しこの解釈は後代になってからの説のようだ)。
 はっきりわかっているのは『吾妻鏡(あづまかがみ)』嘉禎(かてい)元年(1235)正月の条に、五大堂建立の地が幕府の鬼門にあたっているとの記載である。江戸城に対しても同様の理由から東叡山寛永寺を建立したという。今日においても、一般民家の建築に鬼門に対する警戒がみられ、この方角に便所や浴室を設けることを避けている。鬼門除けと称して、この方角に稲荷(いなり)などを屋敷神として祀(まつ)ることが広く行われている。
 鬼門に対する俗信はきわめて多い。鬼門に向けて家を建てるなとか、この方角に出入口を設けたり、家の出っ張った所をつくるなという。これを犯すと病人や災難が絶えない、また分家を鬼門の方に出すと本家が成りたたぬともいう。鬼門の方角に常緑樹とくにエンジュの木を植えておくとよいという。鬼門と正反対の方角すなわち未申(ひつじさる)(南西)の方角を裏鬼門または病門(びょうもん)といい、鬼門と同様に忌み警戒されている。
        
                        綺麗に整備されている持田大宮神社境内

「裏鬼門」とは、北東に位置する「鬼門」に対し、南西の方角を示す。家の向きや間取りで運勢が変わるとされる家相において、鬼門や裏鬼門という用語が使用される。裏鬼門は、鬼門と同様に不吉な方角とされ、家を建てる際、この方角にトイレや風呂場、キッチンなどの水まわりや、玄関を造ることを避けるという風習がある。この思想は、もともと中国から伝わったものだが、のちに日本の陰陽道(おんみょうどう)の思想と融合し、丑寅(うしとら)の方角である北東と、未申(ひつじさる)の方角である南西が、忌み嫌われるようになった。
 これらの方角は、悪霊が来る方角とされているため、魔よけの意味を持つヒイラギや南天の木を植えたり、屋敷神を置いたりして縁起を担ぐ場合もある。古代の都市計画でも、御所や幕府の鬼門、裏鬼門には寺などを置いて、鎮護させるような配置がされている。
 行田市持田地域に鎮座している大宮神社は、忍城址から直線で南西方向500mの所に祭られている。これは所謂「鬼門除け」の神社として重要な位置にあったことが分かる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia
    「境内石碑文」等

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小敷田春日神社

 行田市の埼玉古墳群の西方、4.6㎞程隔てたところに「小敷田」という地域がある。ここは荒川左岸新扇状地の末端に位置し、旧荒川の氾濫原(はんらんげん)として水田に適した低湿の地である。この地の自然堤防上には、弥生期から奈良期にいたる集落遺構(小敷田遺跡)が存在し条里跡も見られ、早くから人々が住みつき開発の鍬を振ったことを伝えている。地域の平均標高は22m程。昭和五八年(一九八三)より発掘調査を実施。弥生時代中期、古墳時代前・後期、飛鳥・奈良・平安時代にわたる複合遺跡。調査範囲に四本の河川跡が横断し、堆積土中から多量の木器が出土した。
 弥生時代中期の遺構は竪穴住居跡・方形周溝墓・土壙からなる。竪穴住居跡は17軒が発掘され、河川跡両岸部自然堤防上に散在する。形態は隅丸方形を呈し4本柱穴のものと、小型で112本柱穴のものがある。うち1軒から広葉樹を用いた柱根4本が出土した。方形周溝墓は2地点に分れ計4基が発掘された。1地点は三基連接し、短期間に連続して構築されたと考えられる。形態は長方形を呈し四隅陸橋である。方台部からは埋葬主体は発見されなかったが、うち1基の溝底から壺5・甕1が出土している。
        
              
・所在地 埼玉県行田市小敷田1
              
・ご祭神 武甕槌神 斎主神 天児屋根命 姫大神
              
・社 格 旧村社 旧小敷田村鎮守
              
・例祭等 初拝み 1月中旬 祈年祭 4月中旬 大祭 821日
                   新嘗祭 11月下旬
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1422646,139.4264567,17z?entry=ttu

 菅谷八幡神社正面鳥居の前の道路を一旦北上し、忍川を渡ったすぐ先の道路を右折、河川沿いに800m程東行すると小敷田春日神社に到着することができる。
 社の東側に隣接している観音堂の前には車が数台駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                  小敷田春日神社正面
 小敷田春日神社は忍川左岸に鎮座し、丁度川に向かって祀られているような配置。現在の住所は「行田市小敷田1」と嘗ての旧小敷田村鎮守社として、昔から今に至るまでこの社はこの地域の正に中心に位置し、地域の方々も大切に祀られているのであろう。社の創建年代や由緒については不詳だが、江戸時代には小敷田村の鎮守となっていたという。明治41年に字稲荷木の伊奈利社、字嘉寿賀町神明屋敷の神明社を合祀した。また境内には、境内忍第7番巡礼札所と掲げられた旧施無畏寺(旧普門寺)観音堂が遺されている。
               
               道路沿いに設置されている社号標柱
          此処には「供進指定村社春日神社」と表記されている。
       
                   小敷田春日神社 朱色が鮮やかな一の鳥居
     赤色の鳥居も良いが、こうやってみると朱色もまた社のコントラストに合う。
 
   一の鳥居のすぐ先にある石製の二の鳥居    二の鳥居の左側には塞神・庚申塚群が並ぶ。
 
  塞神・庚申塚群の並びに鎮座する境内社    境内社の隣には「御嶽神社」が鎮座する。

 社は決して広大な敷地にあるわけでないが、限られた境内をうまく利用して、境内社や庚申塚等配置させている。この器用さは日本人独特の感性なのだろう。
        
                     拝 殿
 改築造営由緒紀
 埼玉県神社庁の発行した神社誌録に明記されている春日神社は小敷田の氏神様であり天児屋根命を御祭神となし古来より永々として神事が継承され神はこの地域に居住するすべての人達を氏子となし、人は自からの守護神として崇敬しているところであります。
 当地は旧池上村の新田といい伝えられ湧水に恵まれた水田地帯で小敷田の地名は、律令期国司、郡司、などに職田として支給された語源からの由来があり最近の遺跡発堀調査によると古墳後期から平安期にかけての集落遺跡や条理制遺構、特に日本最古の米と評されているものをはじめ当時の生活用具等かず多く出土し行田市博物館に保存されている。しかし当社の創建について名だたるものは未だ見当らないものの境内の手水鉢に元録六癸酉年九月の年記が刻まれ奉納されているものを見ても既に三〇〇余年を経過し祖々代々の敬神の深さに感銘を覚える次第であります。
 近時に於ては大正十四年十月より六ヶ月を要して草葺屋根を御拝の改築に合せて拝殿と共に銅葺屋根となし近隣に類なき大工事を施行され、続いて昭和五十二年には本社覆屋藁葺を茅葺に葺替え古美の伝統を継続したのであります。
 時移りて明治、大正、昭和、平成と四代に亘る年号の中に生れ育った者の人生観や時代観はそれぞれによって変ろうとも、協調一致特段のご賛助を得た金参阡万円余の資金調達は碑表に御芳名を刻し感謝の誠を尽した次第であります。
 お蔭様にて神社御拝、拝殿ともに昔日の風格を失う事なく本社奥殿の損傷も完修し奈良春日大社造り屋根の造作にも意を用い併せて覆屋の構造も同様に配し近代建築の構図を適応して完成し更に境内地の環境整備を実施する為往古の大小樹林を伐採し榧、槙、紅葉、銀杏等特別な大木を残置して御神木となし、なるべく広い子供広場の造成に配意したのであり、境内には伊奈利社、神明社、三峰社が合祀され、ほかに由緒不詳ながら御嶽神社と塞神社も祀られているが、特に旧小字島合にあった真言宗普門寺が廃寺になり本当の正観音を移した観音堂も数次に及び修復を行ってたものの神佛一体の崇敬心から堂屋改修工事も同時施行となり損傷ただならぬ正観音像を特別寄進を得て仏具専門工師により原像に復元され忍七番巡礼札所の面目を一新した、前述の神明社、三峰社ともに荒廃、手水鉢覆屋、御影石鳥居、神社幟旗、各社前幔幕、社前吊灯篭及び観音堂内灯篭堂前鰐口等は特別寄進により新規造営され加えて神職には本絹装束を贈呈しかくして一三〇五平方米の境内地も時代に即した風情を社前榊一対の植込寄進を得て春の目覚を告げる櫻、皐、椿等闊葉、針葉樹を現代風に配して景観を整えたのであります。
 今茲に建国紀元二千六百五十年祭の到来と平成明仁天皇の御大典を慶祝し併せて本事業の完成にご尽力いただいたる各位に萬腔の敬意と感謝を捧げ記念碑を建立して後世に伝えるものであります。(以下略)
                                      境内碑文より引用
 
          本 殿              社殿奥に祀られている境内社。
                              稲荷社だろうか。

        
 境内には、境内忍第7番巡礼札所と掲げられた旧施無畏寺(旧普門寺)観音堂が遺されている。

新義真言宗、上ノ村一乗院末。
土人云古は施無畏寺と号せしが、何の頃か寺号替れり。此施無畏寺と云は古き寺院にして、今忍の城内に掛し延慶
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年の古鐘に、武蔵国崎西郡池上郷施無畏寺、冶鋳梵鐘一枚、右当□者、□組奉為関東右大□家御菩提所令建立也と彫り、末に願主正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏敬白と載たるは、則当寺の鐘にして、戦国の頃忍城へ持行陣鐘に用ひしものならんと云。さもあるべし、今はこの寺荒廃して庵室の如くになれり。本尊正観音を安ず
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

『新編武蔵風土記稿』に記されている「正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏」とはどのような人物であろうか。延慶2年は西暦に直すと1309年となり、鎌倉後期の時代である。「関東右大□家」は肝心なところが読めていないが、「関東右大将家」で、恐らく源頼朝のことであろう。(*北武八志には「関東右大将家」と記されている)吾妻鑑に頼朝の一周忌に際して関東に令して、「堂宇を建立して冥福を修せよ」とあるので、この時期の鋳造されたものであろう。
「藤原朝臣道敏」は如何なる人か、どの資料にも載っていないため、知る手掛かりはない。但し「正六位」という官位を持っていて、これは自称ではなく、中央の任命により官位が授けられた人物である。余程地元では有力な豪族であったことは、この官位任命により分かる。また嘗て頼朝の恩顧を受けた人の子孫なのであろう。銘文に「曩祖」とあるから、道敏の祖先が建立したものである。
 加えて「藤原朝臣」と名乗っている所から、この人物は「成田氏」の一族で、しかもその長である可能性が高い。藤原道長とする説と藤原基忠とする説とに分かれるようだが、どちらも藤原北家から出ていることには変わりない。

 ところで時代は下り、元弘の変(1333)で鎌倉幕府が滅亡し建武新政が成立したが、それも新政府の失政が原因で崩壊したのち、成田氏の嫡流は本領成田を没収され庶流に預けられた。この庶流こそ、武蔵七党の一つ丹党の安保氏である。
 安保氏は、安保実員の庶子・信員が成田家資(「成田系図」上での家助)の娘を娶(めと)って成田氏と姻戚関係になっており、信員の孫・行員が祖母を通じて成田氏の所領を継承していた。行員の子・基員は成田氏を名乗り、基員からその子・泰員への継承時には成田氏本領である成田郷も所有している。このため、安保氏庶流の一族が姻戚関係によって没落した御家人成田氏の領地や名跡を継承していったとみられ、成田系図上は鎌倉期から一貫して続いている戦国時代の忍 城主成田氏は、実は安保氏系だと考えられている。
 但し経歴を考慮すれば「藤原氏」を名乗る方が系図的にも見栄えが良いため、始祖を「藤原氏」として面々と続いているように見せたのではなかろうか。
「左衛門尉」という官職名は、日本の律令制下の官職のひとつで、左衛門府の判官であり、六位相当の官職であるのだが、「成田氏」には多く排出されているように見えて、その実は「安保氏系」にも多いことも事実である。

 梵鐘を冶鋳した年代が1309年というのも何か曰くがありそうである。というのも鎌倉時代北条家が滅び、藤原系成田氏の本家が衰退するのが1333年であり、丁度24年前に当たる。
「正六位行左衛門尉藤原朝臣道敏」は「藤原氏」なのか「安保氏」であるか、微妙な時期であろう。但し最低でもこの時期には「安保氏」の誰かが、成田氏・庶流となっていたことは確かであろう。そうでなければ本流が衰弱して、庶流が継いだ時には、その多くの一族からも認められた地盤がなければ、本流を名乗ることすら出来ないからである。

 長々と綴ってしまったが、本来歴史を探求する際に必要なことは、第一級資料である遺物等をまず中心において、付随的にはより古い書物等を参考にしなければいけない事と思っている。書物等は編集を何度も繰り返すことにより、編集時の新しい発見や、場所名の変遷、地形の変化、編集者当人の偏見等により、変わってしまうことが度々ある。
「藤原朝臣道敏」という人物がどの系図書簡にも登場しないからといって、「系図に載っていない人物はデタラメ」と簡単には言い切れないし、今回梵鐘に刻印された一文字 〃 が、何事にも代え難い第一級資料であり、まさに時間軸が固定された「生きた証人」となりうる貴重な存在と考察する。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本デジタルアーカイブス」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    Wikipedia」「境内碑文」等
  

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