古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北河原十二所神社

 天神七代とは日本神話で天地開闢のとき生成した7代の神の総称であり、神世七代(かみのよななよ)ともいう。国之常立神、豊雲野神、宇比地爾神(ういじにのかみ)、角杙神(つのぐいのかみ)、意富斗能地神(おほとのじのかみ)、於母陀流神(おもだるのかみ)、伊邪那岐神。それに対して地神五代とは「天神七代」と神武天皇以後の天皇を意味する「人皇」の間に位置する5柱の神々を称していう。天照大御神、天忍穂耳命、邇邇芸命、彦火火出見命(山幸彦)、鵜葦草葦不合命(うがやふきあえずのみこと)の5柱の神々、及びそれらの神々の時代をいう。
 総じて初代神武天皇の前12代の天神地祇を総じて十二所神社と称していて、何とも贅沢な社といえよう。
        
             
・所在地 埼玉県行田市北河原1510
             
・ご祭神 天神七代命 地神五代命
             
・社 格 旧十二所権現社・北河原村鎮守 旧村社
             
・例祭等 風祭り 828日に近い日曜日

 斎条剣神社から埼玉県同199号行田市停車場酒巻線を700m程北上し、「酒巻」交差点を左折する。同県道羽生妻沼線を西方向に進み、1.7km程先の「北河原小学校前」交差点を右折すると、進行方向右側で、丁度北河原小学校の校門向かい側に北河原十二所神社が鎮座している。
 この付近は福川の下流部であり、神社の北200mには福川の右岸堤防があり東50mには酒巻導水路、東200mには福川水門が設けられている。福川の北側は熊谷市妻沼俵瀬地域であり、利根川との合流地点でもある。
        
                                  
北河原十二所神社正面
              
                                   社号標柱
 嘗て五穀豊穣を願い熊野大社より勧請したといわれている北河原地域の鎮守様。残念ながら令和4年(20223月にこの小学校は閉校となってしまったようだが、位置を確認するに、地域の大切な児童を見守り、時には傍に寄り添いながら守ってもらいたい、という行政側の気持ちからこの社の正面に小学校を建てたと考えることもできよう。
        
          
          拝殿の前に聳え立つ立派な巨木・老木(写真左・右)
       
                                       拝 殿
 十二所神社
 北河原小学校の道を隔てた北側に鎮座している。創建された年代は明らかではないが、言い伝えによれば、この地に人々が入った当時、五穀豊穣を願い熊野大社より勧請したといわれている。祭神は「天神七代命」「地神五代命」。江戸時代までは十二所権現と呼ばれ、現在でも「ごんげんさま」と呼ばれている。
 社殿の覆屋の棟札に来迎院とあり、寺と神社が一緒であった江戸時代までは、修験との関りがあったようだ。
 この神社では八月二十八日(現在は近い日曜日)に行われる「風祭り」は二百十日の風に稲がもまれると実をつけなくなるので、これをさける祈りをこめた祭りであるが、嘗ては境内に芝居小屋をつくり、白河戸・皿尾地域などから地芝居を招き、盛大に行われていたという。
 神社がある北河原は、南河原とあわせ、河原氏の所領で鎌倉時代初期に南河原を兄の河原高直が、北河原を弟忠家(平家物語では盛直)が領していたと伝えられている。いつ頃から南北に分けて呼ばれていたかは明らかではない。記録の上では十六世紀中頃に北河原の地名が出てくるという。
 河原兄弟は源氏と平氏の一の谷の戦いの中、源氏方に属して「生田の森(神戸市)」の戦いで、先陣を駆け討ち死にしたことが「平家物語」に出てくる。南河原の観福寺にある板碑は兄弟の供養塔であるという伝承がある。
                             「ぎょうだ歴史系譜100
話」より引用 
       
                     本 殿
       
 本殿の奥には拝殿前にある巨木と同じくらい立派な木が聳え立ち(写真左・右)、その根元付近には石祠がひっそり祀られている(同左)。稲荷社のようだ。元々土手の切所近くにあって「きりっと稲荷」と呼ばれたが、ある年大水で稲荷様が流されてこの名がついたという。

 北河原十二所神社の西方直線で約250mに「大池(おおいけ)」というその名前通りの大きな池がある。池の周囲は土崩れ防止の護岸がなされているが、形状はほぼ昔のままの姿が残されている。南東方には行田市立北河原小学校が位置していた(20223月閉校)。大池の北方には福川が流下しており、大池と福川との間には二重堤防が所在している。池の周囲ではほぼ水面に近づくことが可能である。
 所在地周辺は主に水田などの農地となっており、その外側に集落が位置している。また、池には釣り場が設けられており、池の北側には駐車スペースが存在する。池の南部では2条の水路と接続しており、そのうち南へと延びる水路は北河原用水へと至っている。
 大池は切所沼・切戸池とも称され、福川の堤防が決壊した際の跡地である。今日では池の周囲は約400mとなっているが、明治期の記録では東西85間(約155m)・南北60間(約109m)・周囲6町(約655m)と記されている。

 大沼は嘗て「切所沼・切戸池」=「きりと」と言われていた。社の石祠も「きりっと稲荷」と呼ばれていたようだが、大水で流される前にはこの大沼付近に祀られていたのであろう。



「参考資料」「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ぎょうだ歴史系譜100話」「Wikipedia」等
 
    

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門井町鷺栖神社

 1590(天正18)年石田三成が忍城を水攻めにすべく、元荒川の自然堤防の一部等を利用して築いた堤が石田堤である。この時、三成の城を落とす作戦は、城の周囲に14km28km、4kmとする説もあり)もの堤を築き、荒川と利根川の水を城内に流しこむ水攻めであった。この地域に点在していた古墳を取り崩し、その土等を利用して自然堤防を補強して繋ぎ、短期間で堤を築いていったと推測されている。一説には堤をわずか5日間で築いたともいわれているが、当時の記録から忍城攻めが始まって約1か月後の7月前半にも堤の補強等を行われていたことが伺える。突貫工事で築いた堤を水攻めしながら補強したようだ
 さすがの堅城として名高い忍城も約1ヶ月の攻防の後に開城となるのだが、日本でも数少ない「水攻め」の史跡として知られ、現在行田市堤根地区に残る282mが埼玉県指定史跡に指定されている。また鴻巣市袋に残る約300mが鴻巣市指定史跡に指定されて、石田堤史跡公園として整備されている。
 ところで行田市門井町に鎮座する鷺栖神社は、元々は元荒川の土手、堤防の上に築かれた神社だったようだが、忍城への水攻めの際の堤防として使われたようで、道路と社殿の高さまでの間に数mの高低差がある。
 400年以上という長い時間を経る間に元荒川の整備や、荒川の掘削開削による大整備などがあり、鷺栖神社に連なっていた堤防はすっかり消えてなくなってしまっているようで、現在では周りはすっかり住宅地になっている。逆に言えば、この神社があったがために堤防の名残として現在まで保存されてきたとも言え、貴重な遺産ともいえる。
        
             ・所在地 埼玉県行田市門井町11042
             ・ご祭神 日本武尊
             ・神 号 旧神明社 鷺巣大明神
             ・例祭等
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1210729,139.4333804,19z?entry=ttu
 行田市 棚田神社の正面鳥居に面した道路を東南方向に徒歩で5分程、距離にして350mくらいで門井町鷺栖神社に到着することができる。この二つの社はあまりに近距離で、嘗ては「鷺」を共有していたことで、同じ系列の社といえそうだ。
        
      荒川左岸の元荒川水源地近くの堤の杜に鎮座している門井町鷺栖神社
「明細帳」によると古くから当社は、神明社と称し、堤の杜に鎮座していたが、いつのころからかこの杜に鷺が飛来し、営巣するようになったため棚田村の鷺栖神社(現棚田神社)を分霊して鷺宮大明神と称し、慶長年中に社殿を建立したという。
              
              道路沿いに設置されている社号標柱
        
         社は大井公民館の東側に隣接し、鷺栖公園内に鎮座する。
 下って正徳年間、当地は大井村から分村して門井村として独立したため門井村の鎮守となり、新たに伊勢神宮に倣い月読神社・荒魂神社・風神社・水分神社の諸社を本殿に配祀した。明治2年に社号の鷺宮大明神を鷺栖神社と改め、更に神仏分離により徳円寺境内にあった伊奈利神社を当社境内に移し、同四一年には字山神の山神社及び塞神社を合祀したという。
       
                    一の鳥居
       
             石段を登り終える先に立つ木製の朱色の鳥居
       
                     拝 殿
 当社の主祭神は日本武尊で、配祀神は大日孁貴命、月読命、大国魂命、志奈都比売命、水分神、合祀神は八街彦命・八街姫命・久那斗命・大山祇命である。当社は地理的な関係から農耕・治水の神として奉斎したものと伝えられる。

 配祀神の一柱に「水分神(みくまりのかみ)」が大日孁貴命や月読命と同列に祭られている。この水分神は、神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる。
 日本神話では、神産みの段でハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子として天水分神(あめのみくまりのかみ)・国水分神(くにのみくまりのかみ)が登場する。
 水にかかわる神ということで祈雨の対象ともされ、また、田の神や、水源地に祀られるものは山の神とも結びついた。後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、子供の守護神、子授け・安産の神としても信仰されるようになったという。
 また「志奈都比売命(しなつひめのみこと)」は、『古事記』神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。シナトベは、神社の祭神としては志那戸辨命、志那都比売神などとも書かれている。

 拝殿の社号額には鷺栖神社と神明社の名が並列     拝殿の手前で左側に設置されている
      して表記されている。               「
竣工記念碑」
 竣工記念碑
 当社は古くから神明社と称し日本武尊を主祭神として元荒川堤の杜に鎮座していたが、いつの頃からかこの社に鷺が飛来し営巣するようになったので鷺巣大明神と称せられた。
 下って明治2年に鷺栖神社と改め、神仏分離により伊奈利神社、山神社、塞神社を合祀した。地区住民の総鎮守として慶長年中に社殿を建立して信仰されて来たが社殿の老朽化が著しく平成24月社殿建設委員会を組織し境内総合整備計画の協議を行い氏子各位の協賛を得て社殿及び諸施設の形態を整えるべく平成211月工事に着手し平成312月完成した。
 時恰も行田市都市計画事業により区画整理が行われ以来氏子崇拝者は増加の一途を辿って居ります。
 茲に社殿改築並に諸施設竣工記念にあたり地区住民のより処として末長く平和で豊かな明るい郷土として発展することを期待し記念の碑文といたします。
                                    境内石碑文より引用
       
                     社殿奥に鎮座する境内社・山神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田市郷土博物館HP」Wikipedia」等  


      

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棚田神社

 現在の元荒川は源流地点から熊谷市久下地域までは、多少の蛇行はあるが、概ね南東へと真っ直ぐに流れて来る。しかし、地図で確認すると、元荒川主河道とは別にJR高崎線と上越新幹線に挟まれたこの地域(門井町、棚田町、壱里山町など)で北東方向へと大きく蛇行している河道がある。つまり、この地点から行田市棚田町一丁目付近まで北東へ向かって流れ、そこから流れを再び南西へと変え、ここから600m下流の行田市清水町で本来の流路へと戻ってくる。
 このように旧元荒川が大きく蛇行しているために、行田市と熊谷市と鴻巣市(旧吹上町)とが入り組んでいる地域でもある。
 嘗て旧元荒川が乱流し、頻繁に蛇行を繰り返していた痕跡をこの地形は物語っている。
        
             
・所在地 埼玉県行田市棚田町1-53
             
・ご祭神 日本武尊 菅原道真公
             
・由 緒 旧鷺明神社及び天神社等合祀社
             ・例祭等
地図 https://www.google.com/maps/@36.1213883,139.4304318,17z?hl=ja&entry=ttu
  棚田神社が鎮座する行田市棚田地域は熊谷市の大井、久下地域に西・南側を囲まれた地域で、嘗て元荒川の蛇行により形成された楕円形の突出部に沿ってできた道路の外縁に位置するといった不思議な行政区分となっている。
                      
                   棚田神社正面
            鳥居の額には「天満宮」と表記されている。
 現在の行田市棚田町地域は、嘗て「棚田村」と称し、北は持田村、西は太井村(現熊谷市)、南は元荒川を隔てて大里郡久下村(現同上)。当村は丁度元荒川の河道がU字形に屈曲した外側に位置していて頻繁に水害を受けたようで、小名に砂畠(すなはたけ)・砂原(すなはら)・深水・押出(おしだし)などの名称が残っている。江戸時代は忍藩領に属し、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)の忍領覚帳によれば大井四ヵ村のうちで、高六一二石余という。  
        
         参道の左側には数多くの石灯篭や石祠等が参道に沿って設置されている。

 国道17号をJR行田駅方向に進む。因みに行田市には同名の駅が2つあり、一つはJRの「行田駅」もう一つは秩父線の「行田市駅」である。国道17号とJR行田駅前通りとの交点にある「壱里山町」交差点の手前にある「久下」交差点を左折、400mほど進んで狭い十字路を再度左折し、しばらく進むと左側に棚田神社が見えてくる。
 社の東側隣には「真言宗智山派長盛山不動院真福寺」が管理する墓地があり、嘗て「「鷺明神社」と呼ばれていたころの別当時である。
「久下」交差点左側にはコンビニエンスがあり、そこの駐車場をお借りしてから徒歩にて社に向かう。
        
            参道の突き当り付近にある「社殿竣工記念碑」
              因みに参道はここから直角に曲がる。
 社殿竣工記念碑
 古来棚田の鎮守は、当社鷺明神社で真言宗真福寺の持ちでありました。
真福寺の境内には天神社が祀られておりましたが、明治の神仏分離により天神社を当社に合祀し、社名を天神社と改めました。
 更に明治41年字砂畑の鷺明神社と同境内社三峰神社及び同字の諏訪社・三嶋社・天神社を合祀し、社名天神社を棚田神社と改め現在に至っております。
 主祭神は日本武尊と菅原道真公であります。
 当社の鎮座する棚田は、元荒川の河岸段丘に位置し、水利に恵まれておりましたが、昔はしばしば洪水に見舞われ、その名残で砂畑・砂原・深水・押上等の地名が残っております。天正18年(西暦1590)の忍城の水攻めに使われた石田堤の端が当地に至っており、当社の境内もこの堤の一部でありました。
 当社の氏子は白鷺を神の使いとして大切にし、白鷺が水田で羽を安め田を守るように見えたところから、当社は五穀豊穣を祈る神社でありました。
長い間、五穀豊穣を祈る神、学問成就を祈る神として厚い信仰を集め数々の伝統を受け継いでまいりました当社でしたが、第二次大戦の終戦前夜からの米軍機B29の空襲で昭和20814日夜半、社殿は焼失してしまいました。
 その後、昭和3310月応急の社殿が建立されましたが三十年以上も経過し老朽化が著しく、平成72月社殿新築委員会を組織し社殿・社務所・境内整備を竣工することができました。
 当棚田は国鉄行田駅の開業や土地区画整理事業による道路整備により住宅の増加が著しく、現在では約500世帯1500人の人口を擁し、当社の参拝者は年々増加しております。
 時代の幾多の変遷にもかかわらず、町内の方々及び当町を古里にしている方々の今に続く清純な神社崇拝の心と、浄財の拠出によって今日の竣工を迎えることができました。ここに竣工を記念するにあたり、町内の方々及び当町を古里にしている方々の隆盛を祈念し併せて当神社を心のより処として当地区が平和で豊かな明るい郷土として末永く発展することを念願し碑文といたします。
                                   境内記念碑文より引用
        
                 鳥居・社殿方向を撮影
 棚田地域の住宅街の一角に鎮座する。 周囲は新しい家ばかりであるが、社の境内はどこもきちんと手入れされていて参拝にも気持ちよく望めた。
        
                     拝 殿
「新編武蔵風土記稿 太井村条」に鷺明神社二宇とあり、それぞれ棚田の鎮守、門井の鎮守と記載されている。また合祀したという三島社も記載されている。

○鷺明神社二宇
 一は門井の鎮守にて、徳円寺持、
 一は棚田の鎮守とす、真福寺持、
 三島社、真福寺持、
                          『新編武蔵風土記稿 太井村条』より引用

 また当地にもともと鎮座していた天神社は、真福寺の境内社だったといい、新編武蔵風土記稿真福寺項に記載されており、神体は元大里郡佐谷田村小名田中(熊谷市佐谷田)にあったもので、久下權頭直光の守護神だったといい、享保年中に領主(忍藩阿部家)に願い出て、当地へ遷したという。

天神社
神体は木像なり。久下權頭直光の守護神にて、元大里郡佐谷田村の内、小名田中と云所にありしを、享保の頃領主へ願ひ境内へ移せりと云。この直光が事同郡久下村に出たれば、爰には略す、
                       『新編武蔵風土記稿 太井村条真福寺』より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系(棚田村)」「境内記念碑文」等

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中里八幡神社


        
               
・所在地 埼玉県行田市中里413
               ・ご祭神 誉田別命
               ・社 格 旧中里村鎮守
               ・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1429578,139.4344251,16.75z?entry=ttu
 小敷田春日神社から北方450m程の場所に鎮座する。中里地域集落の南端に位置し、外観はまさに「集落の鎮守様」がピッタリの社。南方に忍川が東西に流れ、その河川に対して北方に密集する集落を守るためこの場所に鎮座しているようにも見える。
 まあ現在の一直線に流れる忍川の流 路は、昭和初期の河川改修によって確立されてきたので、昔とはかなり違うとは思うが。
        
                             中里八幡神社正面
              
                味わいのある八幡神社の石柱
 八幡神社は蔵王権現の塚があった地に鎮座するという。鎮座地の小字は「蔵殿」。蔵殿は郡村誌では[ぞうどの]と読み、風土記稿には[ぞう殿]と記されている。
 中里地区の周辺は荒川扇状地の扇端に位置し、かつては湧水が豊富だったという。西側に隣接した小敷田地区には、弥生時代中期(紀元前一世紀頃)の方形周溝墓(埼玉県現存最古)の遺跡があり、小敷田から中里にかけては、条里制(律令体制化の区画整理された土地)がしかれていたとされる。
        
                     拝 殿
 中里村  八幡社
 村の鎮守なり。萬徳寺の持
 萬徳寺
 同宗(新義真言宗)、持田村宝蔵寺門徒なり。八幡山と号す。本尊阿彌陀
                               「新編武蔵風土記稿」より引用

 八幡神社
 中里は、利根川と荒川の二大河川の流れによって形成された沖積平野の一角で、この湿潤地を利用し、古くから農耕が営まれていた。地名は条里制によると考えられ、その遺構が確認されている。
 当社の鎮座する字は蔵殿と呼ばれ、蔵殿権現(蔵王権現か)の塚があったと伝えられ、また勝陣場(精進場)と呼ばれる地名も近くに残っている、地名、又は加須市岡古井の通殿神社の例を勘案すると修験との関係を思わせる。
 社記に伝えられるところによれば、天文二年に再興されたとある。現在、当社に蔵されている棟札には寛政一〇年の年紀が見え、万徳寺がその管理に当たっていたことが知られる。真言宗万徳寺は八幡山と号していたが、明治初めの神仏分離により廃寺となった。まお、寺跡地は神社に隣接しており現在は民有地となっている。
 江戸期、八幡大菩薩と称していたが、神仏分離に伴い神号を改め誉田別命とした。明治四五年、字新在家の雷電社を合祀しているが、これを記録した木札には「訓令ニ依リ其筋ヘ願上新在家ニアリシ雷電社ヲ當社ヘ合祀致シ候雨屋者構造宜シキタメ是ヲ用ヒ候事、明治四五年三月十日、社掌茂木庫之助」とあり、雨屋(覆屋)には雷電社の社殿を使用したことがわかる。祀職は現在も茂木家が奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 茅葺屋根の本殿。昔こそありふれた屋根構造であったろうが、現在の本殿には今までお目にかけた構造ではないので、正直驚いたと同時に、今まさに現存することに対して感動をも覚えた。
 
  社殿の左側に祭られている境内社と石碑     鳥居付近には塞神の祠を祭っている。
「埼玉の神社」には「明治四五年、字新在家の雷電社を合祀している」と記載されている。境内社の中の一社がそれなのであろうか。境内社には社名が書かれた札等がなかったので不明だ。
          
            境内には立派な老木が聳え立つ(写真左・右)
    紙垂等ないのでご神木かどうか何とも言えないが、とにかく立派な老木である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等

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前谷天神社


        
               ・所在地 埼玉県行田市前谷1425
               ・ご祭神 菅原道真公
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 例大祭 825
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1183098,139.4536299,18z?entry=ttu
 前谷天神社は「ものつくり大学」から直線距離にして350m程北西方向に鎮座している。吹上駅前から埼玉県道66号行田東松山線・通称「産業道路」を行田市街地方向に進み、上越新幹線高架橋の下を潜り抜けた先の「大学入口」交差点を左折する。ものつくり大学を左手に見つつ、その大学を過ぎてから300m程進んだT字路を左折し暫く進むと「前谷集落センター」や「光明寺」の間に前谷天神社が見えてくる。
        
                   前谷天神社正面
 前谷地域は、江戸時代・寛永年間に新田開発によりできた村である。地域の南境には「前谷落(まえやおとし)という農業排水路が流れている。この前谷落の流域は茫漠とした低地であり、近年都市化は進行してはいるが、まだ氾濫原跡を思わせる地形が残っていて、それらは現在広大な水田となっている
『増補忍城名所図会』には前谷村にあった「三千坊沼」にまつわる伝説も残り、新田開発後も水腐の続く湿田地帯で、往古から水損の地であったようだ。
        
           前谷天神社は真言宗光明寺に隣接して鎮座している。
           この寺社には境内に垣根等仕切りがないのも珍しい。
 

 行田市指定有形文化財「忍城名所図会」は、忍藩に関する書物として最も古いものの一つで、天保年間(18301843)の忍城周辺の名勝や名刹、風俗や名品などが豊富な絵と的確な文章で描かれている。
 文政八年(1825)忍藩主松平忠堯は、洞李香斎筆の編述した「忍名所図会」を見て、足りない所や漏れている所が多いのを惜しみ、家臣の岩崎長容に増補を命じ、天保六年(1835)に増補版六巻を作製したものが「増補忍名所図会」である。
        
                                       拝 殿 
 『増補忍城名所図会』には 「三千坊沼。前谷村にあり。古は大沼なりしが今は田圃となる。往古此沼に鐘沈み有りそを成田竜淵寺の和尚加蔵主此鐘を法力を以て取上、寺に持行、其休養し勉を鐘置橋といふ。鐘置橋は皿尾より上の村へ行中程小川に係る橋を云也。しかして竜淵寺に有りしが今は常陸筑波山にありといふ。」と沼にかかわる伝説が残り、新田開発後も水腐の続く湿田地帯で、往古から水損の地であったようだ。
 当社の創立は不詳であるが、口碑によると、先祖が名主を務めた細谷家の宅地内に祀っていたが、何らかの理由で当地に移されたという。明治六年村社となった。
 
 神社境内は北側を真言宗光明寺の境内が、南側を農民センターの建つ共有地がそれぞれ隣接して、両者に挟まれるようにして神社参道が延びている’写真左)。祭神は菅原道真公を祀り、本殿は一問社流造りである。境内社として塞神(石両)とほかに社名不詳の石祠三社が祀られているが、この四社は「明細帳」に記載の伊奈利神社・宇賀神社・事任神社・塞神社であると思われる(同右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「増補忍城名所図会」「行田市公式HP 指定文化財」等

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