古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

犬塚御嶽神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市犬塚1406。
              
・ご祭神 大己貴命、少彦名命
              
・社 格 旧犬塚村鎮守 旧村社
              
・例祭等 雹祭り39日 例大祭410日前後の日曜日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.177471,139.4483666,17z?entry=ttu

 犬塚御嶽神社が鎮座する行田市大塚地域は、妻沼低地の東部に位置し、北側から東側は北河原・酒巻・斎条の各地域と接している。国道125号行田バイパスを羽生方面に進み、途中「総合運動公園前」交差点を左折し、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を北方向に進行、途中「JAほくさい南河原農業倉庫」が見える十字路を右折し300m程進むと左側にと犬塚御嶽神社の鳥居が見えてくる。
 但し鳥居周辺には適当な駐車スペースはないため、一旦県道を通り過ぎてから一本目の路地を左折し、「犬塚集会所」の北側に回り込み、そこの駐車場をお借りしてから参拝を行った。
 後日地図を確認すると、この社から北東方向で、直線距離にして500m程に「斎条劔神社」が鎮座している。
        
               県道沿いに鎮座する犬塚御嶽神社
       この鳥居前は行田市内循環バスの北西コース・「犬塚」停留場でもある。
 この「市内循環バス(コミュニティバス)」は、公共施設等への交通手段の確保、交通空白地域を解消し、地域市民の日常生活の利便性を高めるために運行している。特に運転免許証を持っていない学生や高齢者・障害者等の通学・通院、買い物など日常生活の交通手段確保がその目的の一つとされている。「市内循環バス」は、運行距離に関係なく、100円もしくは200円の低い運賃が設定されているため、地域住民の外出機会の創出を図り、住民の健康増進やコミュニティ活動の活発化をめざしているという
        
                                                         犬塚御嶽神社・一の鳥居
 この一の鳥居は県道からやや奥に建っていて、尚且つ鳥居の両側は民家が立ち並んでいる。車での移動中、ナビを利用して住所特定はできているが、それがなければ、簡単に見過ごしてしまうような場所でもある。
 話は変わるが、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線内の和田地域から南河原・犬塚地域までの間に全長1,120mのバイパス事業が行われているという。現道は車幅が狭く屈曲していて、走行上・安全上の課題がある上、拡幅も困難で、更に第二次緊急輸送道路であり重要道路のためでもあるとの事だ。
 
 一の鳥居前で一礼してから参拝。比較的長い参道を進む(写真左)。左右の民家の壁や垣根に囲まれ、参道途中、意外と閉塞的な圧迫感を感じる。進む途中には石製の神橋がある(同右)。形状からやや新しい橋ではなかろうか。しかし神橋を渡ると身が引き締まる思いがする。
        
                   二の鳥居に到着。
  二の鳥居の先は境内となるが、圧迫感を感じた参道とは異なり、広々とした空間が広がる。
        
                    開放的な境内。拝殿の右隣には「犬塚集会所」がある。
『日本歴史地名大系』 「犬塚村」の解説 
 [現在地名]南河原村犬塚
 南河原村の東にあり、北から東は北河原・酒巻・斎条の諸村(現行田市)。地下に埋没したとやま古墳がある。南部は条里遺構にかかっているとみられ、小名に五段町・柳町・中間町・古川町など町地名が多く残っていた(風土記稿)。
 
建武元年(一三三四)一〇月一二日「埼玉郡犬塚村」の屋敷田畠などが西条盛光に安堵されている(「雑訴決断所牒」別符文書)。天正一九年(一五九一)六月、忍おし城(現行田市)の松平家忠に宛行われた一万石のうちに「いぬつか村にし新井」の九四三石余があった(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。西新井は当村の小名。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)によれば、旗本領の役高九〇一石余。
        
                     拝 殿 
 犬塚御嶽神社の創建年代や由緒については不詳だが、『新編武蔵風土記稿 犬塚村条』によると、嘗ては「蔵王権現社」と称し、犬塚村の鎮守社であったという。その後明治4年に村社に列格、明治40年犬塚谷田の愛宕社、十二社天神、犬塚台の愛宕神社、犬塚西新井の雷電社を合祀して、御嶽神社と改称している。
 
          本 殿          境内の片隅に祀られている「塞神」等の石碑
                          左側の石碑は削られている。
 ところで『日本歴史地名大系』 「犬塚村」の解説によると、建武元年(13341012日西条弥太郎盛光に牒を下し、武蔵国埼玉郡犬塚村内屋敷田畠並びに東江袋村内屋敷田畠・阿弥陀寺田畠等を安堵されている。
 西条弥太郎盛光という人物は誰であろうか。
 文永
9年(1272825日の関東下知状(光西寺松井家文書)によると、鎌倉幕府は養父盛元法師法名如願の譲りに任せ、武蔵国東江袋村内屋敷名田並びに出雲国真松名を西条兵衛太郎私盛定に安堵している。
 この「西条兵衛太郎私盛定」の名前であるが、「西条」「兵衛太郎」「私」「盛定」と分割できるが、この中の「私」は、武蔵七党の一つである「私市党」の一族名称である可能性は高い
 私市(きさいち)党の出自は定かでないが、大化前代の私市部の伴造を祖先とすると称し、牟自(むじ)という者の子孫が政市部領使(ことりづかい)であったとする説や、私部を管理した一族の末裔であるとする説がある。また、私市家盛が武蔵権守となって下向し、北埼玉・大里郡一帯に勢力を得たとされるという伝承がある。一族には私市(きさい・きさいち)・成木(なりき)・久下(くげ)・市田(いちだ)・楊井(やぎい)・草原(かやはら)・太田(おおた)・小沢(おざわ)・河原(かわら)・西条(さいじょう)の各氏がいる。
「私市」という名称のみで、埼玉郡騎西地区が本拠地と考えるのは早計であろう。むしろ熊谷・行田市北部がその拠点であったと、その一族の分布をみると考察できる。
        
                                   境内の一風景
「西条兵衛太郎私盛定」と「西条弥太郎盛光」はどのような間柄であったのであろうか。共に「西条」という姓を共有していること、どちらも「東江袋村内屋敷田畠」を安堵されている所から同じ一族であったろう。また人の実名に、祖先から代々伝えてつける字のことを「通字」というが、この2人には「盛」が共通していることから、直系の間柄であった可能性も高い。

*追伸として
「斎条地域」の隣は犬塚地域で、その隣には「中江袋地域」があり、古くは「東江袋村」と云っていた。この地域から北西側で妻沼地区には「上江袋地域」があるが、嘗ては「西江袋村」と称していた。また上江袋地域から国道
140号を挟んで「西城(にしじょう)地域」があり、名称も「斎条」と似通っている。何か関連性があるのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「多摩デジタルアーカイブ
    「国土交通省:コミュニティバスの導入に関するガイドライン」「Wikipedia」等
 

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馬見塚神明社


        
             
・所在地 埼玉県行田市馬見塚731
             
・ご祭神 大日孁貴命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 馬見塚の獅子舞 9月第1土曜日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1679954,139.4333215,16z?entry=ttu 

 行田市馬見塚地域西南部に鎮座する。事前のレクチャーが不足していたのだろうが、南河原・河原神社から中江袋剣神社に向かう途中の道路東側にこの社は鎮座していたのを気付かずに通り過ぎていて、中江袋剣神社から500m程しか離れていない。
 途中までの経路は中江袋剣神社を参照。南河原・河原神社からのルートとしては、「士発田集会所」の先の十字路を右折し、左手に「南河原浄水場」入口が見える南北に通じる道路の南川に、特別養護老人ホームがあり、その施設の南方向200m程の場所に馬見塚神明社は鎮座している。
 因みに地域名「馬見塚」は「まみづか」と読む。
        
                                馬見塚神明社正面
『日本歴史地名大系』 「馬見塚村」の解説
 [現在地名]南河原村馬見塚(まみづか)
 犬塚(いぬづか)村の南に位置し、東は斎条(さいじよう)・和田・下池守の三村(現行田市)。古墳後期の集落跡があり、条里制に由来する町地名が残っていた(風土記稿)。東部の御堂塚付近に馬市が立ち、塚の上から馬の良否を見分けたという伝説があり、純農村地域であるが地方的な流通市場が形成されていたとも推測される。
 天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に載る馬見塚三河(永二一貫文)は当地出身という(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領分の役高六八九石余。
 
正面鳥居は北向きであるが、そこから参道は右側  鳥居と社号標柱の間にある塞神、御神燈、
   に曲がる為、社殿は東向きとなる。       記念碑等が集中的に置かれている。

 後日地図を確認すると、中江袋剣神社の他に下池守子守神社も近距離にあり、この社を頂点に、西南方向に鎮座する中江袋剣神社、南東に鎮座する下池守子守神社は丁度正三角形を形成している。
        
                             境内の様子
『新編武蔵風土記稿 馬見塚村条』
「村内東の方に御堂塚と呼ぶ小塚あり、此邊昔馬市立て、この塚上に登り善悪を見分けしゆえ、いつとなく村名に呼なせしと云、【成田家分限帳】に永二一貫文馬見塚三河と載たり、これ当村に住して在名を氏とせしものなるべし、」
鎮座地馬見塚の地名の由来は、「風土記稿」によると、村内東部の御堂塚付近に昔、馬市が立ち、塚の上から馬の良否を見分けたことによるといわれ、その後馬市での伝承行為がいつのまにか「馬見塚」という地域名となったという。また、「成田分限帳」に記載されている、馬見塚三河を名乗る人物は、当地の住人であったであろうといわれている。
        
                     拝 殿
 馬見塚神明社
 鎮座地馬見塚の地名の由来は、「風土記稿」によると村内東部の御堂塚付近に、昔、馬市が立ち、塚の上から馬の良否を見分けたことによるという。また、「成田分限帳」に記載されている、馬見塚三河を名乗る武士は、当地の住人であったであろうといわれる。
 当社の創立は「明細帳」には「古老ノ口碑ニ拠ルニ往古伊勢神宮ノ分霊ヲ這ノ地二勧請ナシタルモノナリシト当時氏子凡三拾余戸ニテアリシカ自然一村挙テ崇敬スル所トナリ依テ当村ノ鎮守ト尊崇セリ」とある。往時の別当は、真言宗薬王山善林寺西善院が務めていた。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治四年に村社となり、同42年には同村同太字字書際の久伊豆社・諏訪社・稲荷社が本殿に合祀された。当地は、元は上・下に分かれ、上の鎮守が当社であり、下の鎮守が久伊豆社であった。
 祭神は、大日孁貴命である。神明造りの本殿は昭和42年の再建である。内陣には「稲荷大神 久伊豆大神 諏訪大神」と「神明大神」と記された神璽二体と祭神名不詳の神璽一体を祀る。神璽の墨書に「明治二己巳年五月廿日 神社混淆御役人共忍表岡村覚太郎与神人罷越御幣引替申候 御幣箱大工巳之助作之」とあり、神仏分離当時の様子をうかがい知ることができる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
 規模が大きな社でないにも関わらず、社殿近くに聳え立つご神木である大欅(ケヤキ)の存在は、まさに圧巻である(写真左・右)。主幹は既に無くなっており、更には裏に回ると、根本日斤から大きく空洞化している。主幹から伸びている1本の大枝や、数本の細枝は元気な様子だが、既に全盛期は越えてしまっているのが、実見しただけであるがそれでも分かる状況だ。
 それにしても貫禄ある風格が漂うご神木である。
        
          社殿の左側にひっそちと祀られている境内社・石祠。
        
                              ひっそりと静まり返った境内

 ところで、「行田市HP」によると、馬見塚地域には「馬見塚の獅子舞」といわれる伝統芸能が今も受け継がれているという。「市指定民俗文化財」の区分で、平成21730日に指定された「無形民俗文化財」であり、その形態は「三匹獅子舞」という。

「馬見塚の獅子舞」
 馬見塚の獅子舞は、市内馬見塚地区に伝わる民俗芸能で、現在は馬見塚獅子舞保存会が保存・継承し、神明社の大祭の際に奉納されています。
 起源については不詳ですが、獅子用の古い太鼓の胴内に文化4年(1821)の墨書があり、江戸時代の馬見塚村の村社であった神明社に250年以上前から奉納されていると言われています。
 獅子は法眼(ほうがん)、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)からなる三匹獅子舞で、他に面化(めんか)、笛方、道化(どうけ)、棒方などで構成されています。
 神明社で棒術から始まり「岡崎(おかざき)」、4人の花をかぶった子どものまわりを舞う「花掛かり(はながかり)」を舞った後、村回りを行います。諏訪神社では面化が獅子に酒を振舞う「稲穂(いなほ)」、薬師様で「おかざき」の変形、不動様では動きが早い舞の「ぶんなぐり」、西善院では「鐘巻(かねまき)」を奉納します。「鐘巻」は安珍清姫の道成寺説話に基づくものです。「いなほ」、「ぶんなぐり」の舞は他地域には見られないものです。昭和48年には旧南河原村の無形文化財に指定されました。
 現在は9月の第1
土曜日に実施されています。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田市HP」等
 

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中江袋剱神社


        
               
・所在地 埼玉県行田市中江袋17
               
・ご祭神 素盞嗚命
               
・社 格 旧中江袋村鎮守 旧村社
               
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1679954,139.4333215,16z?entry=ttu

 行田市中江袋地域は南河原・河原神社から直線距離にして1.5㎞程の近距離に鎮座し、南東方向に位置している。南河原・河原神社から埼玉県道178号北河原熊谷線を暫く東行し、400m程進んだY字路を右方向に進み、その後「士発田集会所」の先の十字路を右折する。
 左手に「南河原浄水場」入口が見える南北に通じる一直線の道路を道なりに約1㎞進むと、右斜め方向に中江袋剱神社の鳥居と境内の木立等が遠目からでも見えてくる。
 専用駐車場はないが、社から東西真っ直ぐに伸びた参道の突当たりに対して反対車線上に駐車可能な路地スペースが確保されており、そこに停めてから参拝を開始する。周囲は長閑な田園風景が広がる中に、ポツンと鎮座しているような印象だが、境内も含めて社殿も改築されているようで、境内周囲の垣根も綺麗に整備されていた。
        
           東西方向に参道は伸び、その先に社は鎮座する。
     境内には「中江袋集会所」もあり、地元の鎮守様という第一印象を受けた。
『日本歴史地名大系』での 「中江袋村」の解説を紹介する。
 [現在地名]南河原村中江袋
 
南河原村の南にあり、南は星川を隔てて下池守(しもいけもり)村・上池守村(現行田市)に対する。地名の由来は河流の湾曲地形によるかともいわれる。小名に条里制に関係する掃除町・瓦町などの町地名が残り(風土記稿)、古墳時代後期の集落遺跡も発見された。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に載る中条丹後(永五一貫文)は当地に帰農したという(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領分の役高四〇〇石。
        
                    境内の様子
        
           境内に設置されている「社殿改修工事竣工記念」碑
「社殿改修工事竣工記念」
 当剣神社の創建については現在不詳であるが、大字内に条里制の遺構が存在したことを考えても千年以前に遡るものと思われる。
 主祭神は素盞嗚命であって字屋敷の天神社・字士発田の伊奈利社が合祀されている。
 社殿は天保13年の再建と伝えられ、150年余の歳月と共に損壊も甚だしく再建は氏子一同長い間の念願であった。
 此の度中江袋環境総合整備建設委員会の発足に当たり、事業の一環として社殿の改修と境内の整備を完了したことは目出度い極みである。
                                  「境内石碑文」より引用
 南河原・河原神社からこの社までの経路途中、「南河原浄水場」付近に南北方向で一直線に通じる道路があった。周辺の田畑に関しても、嘗ての条里制の名残りと思わせるような真っ直ぐな道が今なお存在する。
        
                     拝 殿
 劔神社 南河原村中江袋
 当地は、県北部の星川沿いに古くから発達した集落で、遺跡などからも水田耕作地域であったことがうかがわれる。
 当社と同社名の神社には、日本武尊の伝説を伝える社が多い。当地に近い行田市内にもこの伝説の残る剣神社があることから、当社にも何らかの伝承があったと思われるが、現在は知ることができない。
 また、当地は、忍城主成田家の家人であった中条丹後が忍城落城のに後、当村に住み、姓を江袋と改めて代々名主を務めていた。当社境内には、この江袋家とのかかわりがうかがえる寛延二年の同家名を刻む宇賀神の石祠がある。
 当社の創建については不詳であるが、天保一三年の覆屋再建棟札が現存する。往時の別当は、本山派修験榛沢郡黒田村万光寺配下の本覚院が務めていたが、明治初めの神仏分離により、その管理を離れ、同院が復飾して姓を松本と名乗り、神職となった。明治五年に村社となり、同四〇年には同大字字土発田耕地の伊奈利社、字屋敷耕地の天神社を本般に合祀した。
 明治中期まで祀職は松本家が務めていたが、その後、茂木庫之助、六郎、正次、茂、貞純と継いでいる。
 主祭神は素戔嗚命で、合祀神は字賀之御魂命・少彦名命である。
                                  「埼玉の神社」より引用


『新編武蔵風土記稿 中江袋村条』には中江袋村・長徳寺に関する説明もあり、そこには「江袋氏」を名乗る経緯も記載されている。
「長徳寺は寛永年中村民孫蔵が先祖、江袋三右衛門勝重なるもの開基して、この一寺となせりと、勝重は寛文二年十一月二十九日卒す。勝重の父は中条丹後と称し、成田の家人にして、永楽五十一貫文を所務せしこと分限帳に見ゆ、天正十八年忍落城の時、当村へ来り、氏を江袋と改めしより、子孫連綿して今の孫蔵に至れり
江袋」を名乗る前は「中条」が本名であったという。中江袋地域の西側には上中条地域があるが、そこは嘗て武蔵七党横山党の出・中条氏の本拠地でもあった。
        
              社殿の右手に祀られている境内社
               右側「塞神」のみ解読可能。
    他は案内版の記載にある「宇賀神」「天神社」「伊奈利社」あたりであろう。

 中条氏は武蔵国中条保(埼玉県北部)を本領とする中世武家である。武蔵七党横山党の流れをくみ中条保を領した義勝房法橋成尋(異称中条法印)の子家長が,下野国の雄族八田知家の養子となり,藤原姓中条氏の祖となった。源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府の成立に他の武蔵七党の諸氏と共に尽力。横山党の嫡流である横山氏が和田合戦で滅びた後も幕府内で評定衆を務め、尾張の守護を長く務めるなど勢力を保った。
        
                社殿から見た境内の一風景
  
 一族は後に三河国加茂郡高橋荘(愛知県豊田市)の地頭になり、挙母を本拠地とする。同じく三河に所領を有する足利氏と縁が生まれ、南北朝時代には足利氏の北朝に味方し、室町時代には奉公衆に取り立てられた。3代将軍足利義満などに仕えたことで出羽、信濃などに勢力を広げたが、6代将軍足利義教の時代には義教の不興を買い失脚するなど衰退、戦国時代には駿河、遠江、三河国を領する今川義元やその傘下の松平元康にたびたび侵攻され勢力を弱め、最後は桶狭間の戦いで義元を討ち三河へ勢力を広げようとした尾張織田信長の侵攻で一戦も交えず退散する。これ以降、挙母城にあった中条氏は織田信長に仕えたという。
        
                            南側には星川が悠然と流れる。
 武蔵国中条保に残った一族もいた。この一族は上杉憲実、上杉房顕の与力となったり、成田下総守親泰の配下として存続していたが、天正十八年忍落城の時に、帰農してこの地に移り住み、苗字も江袋と改めたという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」Wikipedia
    「境内碑文」等

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南河原・河原神社

 行田市南河原地域は、埼玉県の北東部に位置し、北・東・南を取り囲むように行田市が、西を熊谷市が隣接する、面積5.82k㎡、人口4,200人程度の稲作農業中心の地域である。村内を星川とその支流の青木堀や酒巻導水路が流れ、他にも用・排水路が縦横に通っていて、村域は水田が多く、畑の倍近くある。2006年(平成18)行田市へ編入し消滅するまでは、埼玉県内で蕨市についで2番目に小さな行政区であった。
 古くは江戸期より存在した南河原村であり、地名の「河原」は北に位置する利根川の氾濫によって堆積して生じた新地の意味である。また、当地の北を兄の河原高直が、南を弟の河原忠家(河原盛直とも)が所有していたが、その頃から地名が南北に分かれていたかどうかは定かではない。慶長3年頃には南河原の呼称が北河原と共に成立していたと言われている。
 旧村域は利根川と荒川にはさまれた低地にあるが、農業的生産は少なく、おもに米麦作と野菜栽培を行っている。1954年(昭和29)ごろから農閑期の副業として始まったスリッパ製造は、地場産業として定着している。また鉄道は通じないがバス交通が発達しているので,70年代後半からは熊谷市,旧行田市など周辺地域への通勤者が増えている。
 なお観福寺
(かんぷくじ)の南河原石塔婆(いしとうば)(板碑(いたび))は一ノ谷の戦いで戦死した河原太郎・次郎の墓といわれ、国指定史跡になっている。
        
              
・所在地 埼玉県行田市南河原386
              
・ご祭神 住吉大神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
              
・社 格 旧南河原村鎮守 旧村社
              ・例祭等 
在家の獅子舞 8月中旬の土曜日
    地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.177199,139.4231893,16z?entry=ttu

 南河原・河原神社が鎮座する行田市南河原地域は、熊谷市大塚・上中条地域の西側に接している。途中までの経路は上之村神社及び池上古宮神社を参照。古宮神社から東行し、コンビニエンスのある交差点を左折、埼玉県道303号弥藤吾行田線に合流後道なりに北方向に進行する。熊谷スポーツ文化公園を左側に見ながら2㎞程進み、大塚熊野神社が鎮座している大塚古墳前の丁字路を右折。埼玉県道178号北河原熊谷線に入り1.7㎞程進むと左手に南河原・河原神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する南河原・河原神社
 当社は社記によると、応保元年(1161)平賀冠者義信が武蔵守に任ぜられ、関東へ下向し、河原郷(南河原)に城を築いて居住した折に、先祖以来信仰していた住吉の神を祀るために、入間郡勝呂郷(現坂戸市塚越)の住吉明神の分霊をこの地に勧請し、「勝呂(すぐろ)明神」と称したことに始まるという。
 
 社の正面には白を基調とした石製の一の鳥居(写真左)、すぐ先には朱色の二の鳥居(同右)が参道に沿って設置されている。
        
                    境内の様子
 社記に登場する平賀冠者義信(源義信)は平安時代末期の河内源氏の武将で、父は新羅三郎義光の四男で、平賀氏の祖である源盛義である。
 史実の上では、信濃国佐久郡平賀郷(現在の長野県佐久市)を本拠として、平治元年(1159年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣する。『平治物語』には平賀四郎義宣と記され、三条河原での戦いで奮戦する義宣(義信)を見た義朝が、「あぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」と郎党達に救うように命じている様が描かれている。義朝敗戦の後、その東国への逃避行に付き随った7人の1人となる。
『平治物語』では、尾張国知多郡内海の長田忠致館で義朝の最期を知った直後、逃亡に成功して生き延びる。その後、地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられるが、以後20年余に渡って史料からは姿を消す。
 その後治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵、更に少し遅れて源義仲が信濃で挙兵すると、最終的には義朝の遺児である頼朝の麾下に平賀氏は参じる。寿永2年(1183年)に頼朝が義仲を討つために軍を信濃に出陣し、結果的に義仲の長男・義高と頼朝の長女・大姫の縁組として和解しているが、この頼朝が義仲に対する優位性を確立した重要な争いにおいて、義仲が挙兵した場所であり、信濃における重要拠点といっていい佐久地方がほとんど無抵抗で制圧されていることから、それは佐久を本貫地とする源義信の協力なしになしえたとは考えられない。
 元暦元年(1184年)3月、子・惟義が伊賀国の守護に任じられ、義信自身も同年6月に頼朝の推挙により武蔵守に任官し国務を掌握して、以後長きに渡って善政を敷いて国司の模範とされた。また文治元年(1185年)8月には惟義が相模守となり、鎌倉幕府の基幹国といえる両国の国司を父子で務めることになる。
 源頼朝は義信を大変信頼していたようだ。文治元年(1185年)9月、勝長寿院で行われた源義朝の遺骨埋葬の際には、義信と惟義が源義隆の遺児・頼隆と共に遺骨に近侍することを許されるなど、源氏門葉として御家人筆頭の座を占めている。正治元年(1199年)の頼朝死後も源氏一門の重鎮として重きをなし、義信より上席だったことがあるのは源頼政の子の源頼兼だけで、他の源範頼も足利義兼も、もちろん北条時政も常に義信の下座だった。
 これは義信が源氏一門(門葉)の首座にいたことを示している。
 没年ははっきりしていないが、『吾妻鏡』の承元元年(1207年)220日に「故武蔵守義信入道」とあるので、それ以前であることは確実であるという。
        
                     拝 殿
 勝呂明神社
 村の鎮守なり。慶安二年十月一七日社領四石五斗の御朱印を賜ふ。当社は入間郡勝呂郷塚越村の住吉を当所に勧請せしにより、その地名を取勝呂を以て社号とせる由を傳へり、
 別当本覚院。当山修験榛澤郡黒田村萬光寺の配下。開山は清誉とのみ傳へ、寂年をば失へり。本尊不動、
                       『新編武蔵風土記稿 埼玉郡南河原村』より引用
 当地は利根川が運ぶ肥沃な土壌を背景に古くから開け、私市党河原氏が兄弟で領有し、兄の領地を南河原、弟の方を北河原と呼ぶという。
 当社は社記によると、応保元年(1161)平賀冠者義信が武蔵守に任ぜられ、関東へ下向し、河原郷(南河原)に城廓を築いて居住した折に、先祖以来信仰していた住吉の神を祀るために、入間郡勝呂郷(現坂戸市塚越)の住吉明神の分霊をこの地に勧請し、勝呂明神と称したことに始まるという。
 下って、慶安2年、45斗の朱印を受け、明治2年に社名を河原神社と改めて村社となる。41年には、字屋敷の浅間社・伊奈利社、字新屋敷の八幡社・一目蓮社・三峰社・伊奈利社、字諏訪ノ宮の諏訪社・伊奈利社・塞神社、字町の天神社・伊奈利社・八坂社、三峰社・金山社、字西浦の伊奈利社、字光二ノ町の白山社・八坂社の計17社が合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額           拝殿・向拝、木鼻部の彫刻
        
                   社殿左側には
建長2年銘の板碑がある。
        
                       「
建長2年銘板碑」の案内板
 河原神社建長2年銘板碑
 板碑は鎌倉~室町時代、追善や逆修供養のために造立された石造物で、石材は荒川上流の長瀞周辺に算出する緑泥片岩。
 この板碑は南河原最古であり、古墳時代の石棺石材の転用を示す初例である。
 上半分が欠損しているが、基部に棺を直角に組むためのホゾが残っている。
(現存高118、上幅57、下幅61cm
                                      案内板より引用

 
  拝殿手前で、参道右側に祀られている境内社。    拝殿手前、左側に鎮座する境内社。
 どちらも詳細は不明。但し「埼玉の神社」に記されている17社のうちのどれかであろう。
        

 南河原地区に伝わる民俗芸能で、「在家の獅子舞」という獅子舞がある。この伝統芸能は平成21730日に行田市指定無形民俗文化財に登録されている。

行田市指定無形民俗文化財「在家の獅子舞」
 所在地   行田市南河原
 形態    三匹獅子舞
 指定年月日 平成21730
 在家の獅子舞は、市内南河原地区に伝わる民俗芸能で、現在は在家ささら保存会が保存・継承し、河原神社の祭礼の際に奉納されています。
 起源については不詳ですが、古くから「住吉よりのしきたりの行列ありて御輿の前で獅子舞をなしつつ村中を巡った。これを御神行と申し豊年萬作を祈願した。この獅子舞の様は恰かも獅子の荒れすさぶが如き感あり、如何なる悪魔も厄神も恐れをなして退散する。」と言い伝えられています。昭和48年には旧南河原村の無形文化財に指定されました。
 獅子は法眼(ほうがん)、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)からなる三匹獅子舞で、他に面化(めんか)、笛方で構成されており、河原神社では「道節(みちぶせ)」、「岡崎(おかざき)」、「橋掛り(はしがかり)」、「おいとま」の曲目の順で舞います。
 現在は8月中旬の土曜日に実施されています。そのほかにも5月下旬に「厄神除け」として南河原在家地区の全戸を巡行しています。
                                 「行田市公式HP
」より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本大百科全書(ニッポニカ」「改訂新版 世界大百科事典」
    「行田市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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小針日枝神社

 古代蓮の里(こだいはすのさと)は、埼玉県行田市にある公園を兼ねる施設である。ふるさと創生事業の一環とし、行田市の天然記念物であり市の花である「古代蓮(行田蓮)」をシンボルとする公園。古代蓮は、1971年(昭和46)公共施設(小針クリーンセンター)建設工事の際に蓮の種子が掘削地の池で自然発芽し1973年(昭和48)に開花したものである。
 出土した地層の遺物や木片の放射性炭素年代測定から約1,400年から3,000年前のものと推定されたため、「古代蓮」と呼ばれるようになった。古代蓮の里は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。
 この「古代蓮の里」の北側にひっそりと鎮座しているのが小針日枝神社である。筆者も嘗て鴻巣市の事業所で勤務していた関係で、この「古代蓮の里」には何度も利用させて頂いたが、そのすぐ北側にこのような不思議な雰囲気のある社が鎮座しているとは全く知らなかった。まさに『灯台下暗し』とはこのことだろう。
 この社に参拝する際にまず、その失礼をお詫びしてから、神妙な面持ちで境内に入らせて頂いた次第だ。
        
              
・所在地 埼玉県行田市小針1990
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等
 埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を右折し、同県道364号上新郷埼玉線を南下すると、左手前方に「古代蓮の里」が見えてくる。その手前にある押しボタン式信号のある十字路を左折し、200m程進んだ先の十字路を右折すると右手に小針日枝神社が見えてくる。前項で紹介した下須戸八坂神社の南方で、直線距離にして1.5km程の場所に鎮座している。
 社の北側に隣接している「小針自治会集会所」に車を止めてから参拝を行う。
        
                  
小針日枝神社正面
『日本歴史地名大系』には「小針村」の解説が載っている。全文紹介する。
 [現在地名]行田市小針
 加須低地西端の洪積層微高地に接する沖積低地にあり、北は若小玉村、東は見沼代用水を隔てて下須戸・藤間の二村。「是より西、忍領」の封標が下総・常陸へ通じる幸手道にあった。
 約一千四〇〇年前の実から発芽した、いわゆる「行田ハス」(豊田清修氏による古代蓮)は当地で発見された。寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末に至る。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高四六九石余。田園簿によると村高は高辻帳に同じで、反別は田方一五町九反余・畑方四七町四反余。享保一三年(一七二八)埼玉沼を干拓した持添新田三三八石余は初め幕府領であったが(郡村誌)、明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領になった(松平藩日記)。

『小針』という地名は「開墾地」を意味するらしい。その昔、
星川と忍川に挟まれた後背湿地に位置する旧小針村は、忍藩諸村(埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村)の悪水溜井となっていて、恒常的な排水不良に悩まされていたという。
        
                    境内の風景
 小針日枝神社は加須低地西端の沖積低地内に位置し、四方を水田に囲まれて鎮座している。嘗て当社境内の南側には小針沼という大きな沼が広がっており、この沼は古くには尾崎沼と称されていた縦約10町(約1090m)・横16町(約1745m)・面積約50町(約49.6ha)の沼地であり、星川と忍川に挟まれた後背湿地として埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村にまたがり所在していた。この当時は忍藩諸村の悪水溜井となっていた。後に小針沼(こばりぬま)と呼ばれていたが1696年(元禄9年)に小針村と埼玉村との間で沼の名称問題が発生し、幕府の裁許によって埼玉沼へと改められたと伝えられている。
 その後1728年(享保13年)になると、幕府の命を受けた井沢弥惣兵衛と埼玉村・小針村・若小玉村・長野村の4村の住民らにより新田開発が行われた。沼の中央に排水路として小針落が開削され、小針落は旧忍川を伏せ越し野通川へと至る流路形態となっている。また、沼の北側には長野落が附廻堀として整備され、当初は見沼代用水へと至る流路となっていたが、後に旧忍川を伏せ越し、野通川へ流入する流路へと付け替えられている。
 しかし水はけがあまり良くなく、たびたび水害が発生していたため、1754年(宝暦4年)に新田の中央部に南北に貫く380間(約691m)の中堤(なかつづみ)と称する堤防が設置され、堤防の東側の下沼(したぬま)は耕地として利用され、西側の上沼(うわぬま)は元の沼地のようになった。堤防の設置により、水害は減少した。その後、沼地に戻されていた上沼において再び開田計画が起り、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、約27haの「昭和田(しょうわでん)」と称される水田となった。
 今日の埼玉沼は古代蓮の里や埼玉県行田浄水場、圃場整備事業のなされた通常の水田などに整備され、かつての沼地の面影はあまり残されていなく、埼玉県行田浄水場と古代蓮の里との間に位置している県道上新郷埼玉線は380間(約691m)の堤防の名残である。現在では名称について再び小針沼とも称されている。
        
  鳥居正面左側には幾多の石碑・石祠があり、右側の石碑の奥には境内社も祀られている。
「明細帳」によると、境内社として八坂神社と前玉神社があったが、現在は本殿に合祀されている。明治五年に村社となり、同四〇年に字星川と字本郷からそれぞれ御嶽神社を合祀したが、これらは前出の蔵王権現社であり、星川の旧社地を「ゾウ様屋敷」と呼ぶのがその名残である。更に同年字大沼(弁天)の厳島社、字沼通の宇賀社を合祀したというので、そのうちの一社であろうが、詳細は不明だ。
 
  石祠・石碑等の並びに鎮座する境内社。   その境内社の右側には庚申搭等も祀られている。
        
                     拝 殿
 行田の神々25 日枝神社(小針)
 古代蓮の里のすぐ北側に鎮座している日枝神社の創建については明らかでなく、『新編武蔵風土記稿』では、村内の鎮守としては蔵王権現二社が載せられています。
 主祭神は、大山咋命で、この神は、最澄の開いた天台宗延暦寺のある比叡山の麓の日吉大社、京都嵐山に近い松尾大社の祭られている神として知られています。
 神々の系譜上この大山咋命は、スサノオノミコトの子の大年(おおとし)神が天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)を娶って生まれた子の一人で、別の名前を山末之大主(やますえのおおぬしのかみ)と称しています。
 大山咋命の神名の意味は、大と山咋に分け、偉大な山の境界の棒の意味で、山頂の境界を示す棒くいを神格化したもの。また、別名の山末之大主は山の頂上の偉大な主人の神の意味であるといわれています。
 小針の当社は縁結びの神として信仰をあつめていますが、神社に伝わる話では、鴻巣市三ツ木の山王社(現在の三ツ木神社)は当社から分社したもので、当社が男の神様、三ツ木の山王社が女の神様であり、女性が良き男性を探す時は当社に、男性が良き女性を探す時は三ツ木の山王社に祈願すると良縁が成就するといわれています。
 また昭和初期まで行われた当社の例大祭の行事である「浮かし灯籠」は、神社の西に広がる上沼、(現在の県営浄水場)に、枠灯籠一千基を浮すもので実に壮観であったといいます。

 主祭神が大山咋命である小針日枝神社の創始に関わる史料がなく不詳とされ、「新編武蔵風土記稿」にも「蔵王権現社二宇 共に村内の鎮守なり、一つは大福寺持、一は神仙寺持」とあり当社は載せていない。口碑には鴻巣市三ツ木の山王社を当社から分霊したことが伝えられているだけで、おそらく旧くから鎮座していたと考えられているが、それ以外の詳細は分かっていない。
 因みに拝殿の手前右側には、既に何かしらの原因で倒木してしまった巨木が幹部分を屋根で覆い保存されている。「埼玉の神社」に記されている「舟つきの松」であろうか。
        
                     本 殿
            
 本殿の両側には狛犬ならぬ「狛猿」が設置されている。日枝神社の神使は「猿」であるためであろうが、考えてみると鳥居から境内に入り、拝殿に至るまで、狛犬等は存在していなかった。どちらにしてもこのような配置は珍しい。
 
            本殿に描かれている見事な彫刻(写真左・右)
        
        小針日枝神社の南側には「古代蓮の里」公園の豊かな林が一面に広がる。

 行田市小針地域には、古墳時代前期頃から平安時代かけて発展した「ムラ」の遺跡である『小針遺跡』が発掘されている。
 当遺跡は、埼玉古墳群東南2km程離れた旧忍川を望む台地辺にあり、行田市一帯のなかでも拠点的な「ムラ」であると考えられ、「ムラ」が展開する以前の方形周溝墓も5基みつかっている。やや離れた行田市野に展開した築道下(つきみちした)遺跡とともに、埼玉古墳群の造営を支えたムラであると考えられている。古墳群の造営の背景には、こうした大規模な「ムラ」の存在があったという。
 この
小針遺跡から出土したものには平安時代頃の「紡錘車」がある。紡錘車は「ぼうすいしゃ」と読み、糸を紡ぐ道具であり、日本では弥生時代から紡錘車が使われはじめた。紡錘車は、糸紡ぎだけではなく、祈りや呪いをするまつりの場でも使われていたようで、他にも文章や絵などが刻まれた紡錘車などが遺跡から出土することがあるという。

 ところで小針遺跡から出土した平安時代頃の紡錘車は、直径約4.5㎝の円すい台形で、蛇紋岩という石でできていて、側面には「丈部鳥麻呂(はせつかべのとりまろ)」という名前が刻まれていた。「丈部」は、地方から出向き、古代に朝廷の警備などをした部民という。おそらくこの地域で暮らしていた豪族の1人だったのではないだろうかと考えられている。
 さきたま古墳群の埋葬者の特定も今だに解明されていない中、発掘によりこのような人物の固有名詞が突如登場した珍しいケースだ。今まで土器や住居跡の出土・検出によって、そこに確かに人間がいたことは分かっていた。但しあくまで「人々・集団」等であり、名前を持たない人々・集団であった。
 ところが、小針遺跡から丈部鳥麻呂という人名が発掘された。これは歴史学的にも考古学的にも新たな視点を与える史料となる可能性は大きい。

 さて丈部鳥麻呂なる人物はどのような出自、性格で、家族構成は、年齢等はこの発掘のみでは分かる由もないが、この鳥麻呂を始め、人々がこの地でどのような営みをしてきたのだろうかと、筆者の想像力がますます膨らみそうな人物であることは確かなようだ。
 またこの紡錘車に人名を刻んだ人物は(当人か、第三者だったかは分からないが)、どのような願い・思いをかけていたのであろうか。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「行田の神々HP」
    「行田市郷土博物館 案内板」「古代蓮の里HP」「Wikipedia」等
              

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