古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

南河原・河原神社

 行田市南河原地域は、埼玉県の北東部に位置し、北・東・南を取り囲むように行田市が、西を熊谷市が隣接する、面積5.82k㎡、人口4,200人程度の稲作農業中心の地域である。村内を星川とその支流の青木堀や酒巻導水路が流れ、他にも用・排水路が縦横に通っていて、村域は水田が多く、畑の倍近くある。2006年(平成18)行田市へ編入し消滅するまでは、埼玉県内で蕨市についで2番目に小さな行政区であった。
 古くは江戸期より存在した南河原村であり、地名の「河原」は北に位置する利根川の氾濫によって堆積して生じた新地の意味である。また、当地の北を兄の河原高直が、南を弟の河原忠家(河原盛直とも)が所有していたが、その頃から地名が南北に分かれていたかどうかは定かではない。慶長3年頃には南河原の呼称が北河原と共に成立していたと言われている。
 旧村域は利根川と荒川にはさまれた低地にあるが、農業的生産は少なく、おもに米麦作と野菜栽培を行っている。1954年(昭和29)ごろから農閑期の副業として始まったスリッパ製造は、地場産業として定着している。また鉄道は通じないがバス交通が発達しているので,70年代後半からは熊谷市,旧行田市など周辺地域への通勤者が増えている。
 なお観福寺
(かんぷくじ)の南河原石塔婆(いしとうば)(板碑(いたび))は一ノ谷の戦いで戦死した河原太郎・次郎の墓といわれ、国指定史跡になっている。
        
              
・所在地 埼玉県行田市南河原386
              
・ご祭神 住吉大神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
              
・社 格 旧南河原村鎮守 旧村社
              ・例祭等 
在家の獅子舞 8月中旬の土曜日
    地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.177199,139.4231893,16z?entry=ttu

 南河原・河原神社が鎮座する行田市南河原地域は、熊谷市大塚・上中条地域の西側に接している。途中までの経路は上之村神社及び池上古宮神社を参照。古宮神社から東行し、コンビニエンスのある交差点を左折、埼玉県道303号弥藤吾行田線に合流後道なりに北方向に進行する。熊谷スポーツ文化公園を左側に見ながら2㎞程進み、大塚熊野神社が鎮座している大塚古墳前の丁字路を右折。埼玉県道178号北河原熊谷線に入り1.7㎞程進むと左手に南河原・河原神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する南河原・河原神社
 当社は社記によると、応保元年(1161)平賀冠者義信が武蔵守に任ぜられ、関東へ下向し、河原郷(南河原)に城を築いて居住した折に、先祖以来信仰していた住吉の神を祀るために、入間郡勝呂郷(現坂戸市塚越)の住吉明神の分霊をこの地に勧請し、「勝呂(すぐろ)明神」と称したことに始まるという。
 
 社の正面には白を基調とした石製の一の鳥居(写真左)、すぐ先には朱色の二の鳥居(同右)が参道に沿って設置されている。
        
                    境内の様子
 社記に登場する平賀冠者義信(源義信)は平安時代末期の河内源氏の武将で、父は新羅三郎義光の四男で、平賀氏の祖である源盛義である。
 史実の上では、信濃国佐久郡平賀郷(現在の長野県佐久市)を本拠として、平治元年(1159年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣する。『平治物語』には平賀四郎義宣と記され、三条河原での戦いで奮戦する義宣(義信)を見た義朝が、「あぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」と郎党達に救うように命じている様が描かれている。義朝敗戦の後、その東国への逃避行に付き随った7人の1人となる。
『平治物語』では、尾張国知多郡内海の長田忠致館で義朝の最期を知った直後、逃亡に成功して生き延びる。その後、地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられるが、以後20年余に渡って史料からは姿を消す。
 その後治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵、更に少し遅れて源義仲が信濃で挙兵すると、最終的には義朝の遺児である頼朝の麾下に平賀氏は参じる。寿永2年(1183年)に頼朝が義仲を討つために軍を信濃に出陣し、結果的に義仲の長男・義高と頼朝の長女・大姫の縁組として和解しているが、この頼朝が義仲に対する優位性を確立した重要な争いにおいて、義仲が挙兵した場所であり、信濃における重要拠点といっていい佐久地方がほとんど無抵抗で制圧されていることから、それは佐久を本貫地とする源義信の協力なしになしえたとは考えられない。
 元暦元年(1184年)3月、子・惟義が伊賀国の守護に任じられ、義信自身も同年6月に頼朝の推挙により武蔵守に任官し国務を掌握して、以後長きに渡って善政を敷いて国司の模範とされた。また文治元年(1185年)8月には惟義が相模守となり、鎌倉幕府の基幹国といえる両国の国司を父子で務めることになる。
 源頼朝は義信を大変信頼していたようだ。文治元年(1185年)9月、勝長寿院で行われた源義朝の遺骨埋葬の際には、義信と惟義が源義隆の遺児・頼隆と共に遺骨に近侍することを許されるなど、源氏門葉として御家人筆頭の座を占めている。正治元年(1199年)の頼朝死後も源氏一門の重鎮として重きをなし、義信より上席だったことがあるのは源頼政の子の源頼兼だけで、他の源範頼も足利義兼も、もちろん北条時政も常に義信の下座だった。
 これは義信が源氏一門(門葉)の首座にいたことを示している。
 没年ははっきりしていないが、『吾妻鏡』の承元元年(1207年)220日に「故武蔵守義信入道」とあるので、それ以前であることは確実であるという。
        
                     拝 殿
 勝呂明神社
 村の鎮守なり。慶安二年十月一七日社領四石五斗の御朱印を賜ふ。当社は入間郡勝呂郷塚越村の住吉を当所に勧請せしにより、その地名を取勝呂を以て社号とせる由を傳へり、
 別当本覚院。当山修験榛澤郡黒田村萬光寺の配下。開山は清誉とのみ傳へ、寂年をば失へり。本尊不動、
                       『新編武蔵風土記稿 埼玉郡南河原村』より引用
 当地は利根川が運ぶ肥沃な土壌を背景に古くから開け、私市党河原氏が兄弟で領有し、兄の領地を南河原、弟の方を北河原と呼ぶという。
 当社は社記によると、応保元年(1161)平賀冠者義信が武蔵守に任ぜられ、関東へ下向し、河原郷(南河原)に城廓を築いて居住した折に、先祖以来信仰していた住吉の神を祀るために、入間郡勝呂郷(現坂戸市塚越)の住吉明神の分霊をこの地に勧請し、勝呂明神と称したことに始まるという。
 下って、慶安2年、45斗の朱印を受け、明治2年に社名を河原神社と改めて村社となる。41年には、字屋敷の浅間社・伊奈利社、字新屋敷の八幡社・一目蓮社・三峰社・伊奈利社、字諏訪ノ宮の諏訪社・伊奈利社・塞神社、字町の天神社・伊奈利社・八坂社、三峰社・金山社、字西浦の伊奈利社、字光二ノ町の白山社・八坂社の計17社が合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額           拝殿・向拝、木鼻部の彫刻
        
                   社殿左側には
建長2年銘の板碑がある。
        
                       「
建長2年銘板碑」の案内板
 河原神社建長2年銘板碑
 板碑は鎌倉~室町時代、追善や逆修供養のために造立された石造物で、石材は荒川上流の長瀞周辺に算出する緑泥片岩。
 この板碑は南河原最古であり、古墳時代の石棺石材の転用を示す初例である。
 上半分が欠損しているが、基部に棺を直角に組むためのホゾが残っている。
(現存高118、上幅57、下幅61cm
                                      案内板より引用

 
  拝殿手前で、参道右側に祀られている境内社。    拝殿手前、左側に鎮座する境内社。
 どちらも詳細は不明。但し「埼玉の神社」に記されている17社のうちのどれかであろう。
        

 南河原地区に伝わる民俗芸能で、「在家の獅子舞」という獅子舞がある。この伝統芸能は平成21730日に行田市指定無形民俗文化財に登録されている。

行田市指定無形民俗文化財「在家の獅子舞」
 所在地   行田市南河原
 形態    三匹獅子舞
 指定年月日 平成21730
 在家の獅子舞は、市内南河原地区に伝わる民俗芸能で、現在は在家ささら保存会が保存・継承し、河原神社の祭礼の際に奉納されています。
 起源については不詳ですが、古くから「住吉よりのしきたりの行列ありて御輿の前で獅子舞をなしつつ村中を巡った。これを御神行と申し豊年萬作を祈願した。この獅子舞の様は恰かも獅子の荒れすさぶが如き感あり、如何なる悪魔も厄神も恐れをなして退散する。」と言い伝えられています。昭和48年には旧南河原村の無形文化財に指定されました。
 獅子は法眼(ほうがん)、雄獅子(おじし)、雌獅子(めじし)からなる三匹獅子舞で、他に面化(めんか)、笛方で構成されており、河原神社では「道節(みちぶせ)」、「岡崎(おかざき)」、「橋掛り(はしがかり)」、「おいとま」の曲目の順で舞います。
 現在は8月中旬の土曜日に実施されています。そのほかにも5月下旬に「厄神除け」として南河原在家地区の全戸を巡行しています。
                                 「行田市公式HP
」より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本大百科全書(ニッポニカ」「改訂新版 世界大百科事典」
    「行田市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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小針日枝神社

 古代蓮の里(こだいはすのさと)は、埼玉県行田市にある公園を兼ねる施設である。ふるさと創生事業の一環とし、行田市の天然記念物であり市の花である「古代蓮(行田蓮)」をシンボルとする公園。古代蓮は、1971年(昭和46)公共施設(小針クリーンセンター)建設工事の際に蓮の種子が掘削地の池で自然発芽し1973年(昭和48)に開花したものである。
 出土した地層の遺物や木片の放射性炭素年代測定から約1,400年から3,000年前のものと推定されたため、「古代蓮」と呼ばれるようになった。古代蓮の里は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。
 この「古代蓮の里」の北側にひっそりと鎮座しているのが小針日枝神社である。筆者も嘗て鴻巣市の事業所で勤務していた関係で、この「古代蓮の里」には何度も利用させて頂いたが、そのすぐ北側にこのような不思議な雰囲気のある社が鎮座しているとは全く知らなかった。まさに『灯台下暗し』とはこのことだろう。
 この社に参拝する際にまず、その失礼をお詫びしてから、神妙な面持ちで境内に入らせて頂いた次第だ。
        
              
・所在地 埼玉県行田市小針1990
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等
 埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を右折し、同県道364号上新郷埼玉線を南下すると、左手前方に「古代蓮の里」が見えてくる。その手前にある押しボタン式信号のある十字路を左折し、200m程進んだ先の十字路を右折すると右手に小針日枝神社が見えてくる。前項で紹介した下須戸八坂神社の南方で、直線距離にして1.5km程の場所に鎮座している。
 社の北側に隣接している「小針自治会集会所」に車を止めてから参拝を行う。
        
                  
小針日枝神社正面
『日本歴史地名大系』には「小針村」の解説が載っている。全文紹介する。
 [現在地名]行田市小針
 加須低地西端の洪積層微高地に接する沖積低地にあり、北は若小玉村、東は見沼代用水を隔てて下須戸・藤間の二村。「是より西、忍領」の封標が下総・常陸へ通じる幸手道にあった。
 約一千四〇〇年前の実から発芽した、いわゆる「行田ハス」(豊田清修氏による古代蓮)は当地で発見された。寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末に至る。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高四六九石余。田園簿によると村高は高辻帳に同じで、反別は田方一五町九反余・畑方四七町四反余。享保一三年(一七二八)埼玉沼を干拓した持添新田三三八石余は初め幕府領であったが(郡村誌)、明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領になった(松平藩日記)。

『小針』という地名は「開墾地」を意味するらしい。その昔、
星川と忍川に挟まれた後背湿地に位置する旧小針村は、忍藩諸村(埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村)の悪水溜井となっていて、恒常的な排水不良に悩まされていたという。
        
                    境内の風景
 小針日枝神社は加須低地西端の沖積低地内に位置し、四方を水田に囲まれて鎮座している。嘗て当社境内の南側には小針沼という大きな沼が広がっており、この沼は古くには尾崎沼と称されていた縦約10町(約1090m)・横16町(約1745m)・面積約50町(約49.6ha)の沼地であり、星川と忍川に挟まれた後背湿地として埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村にまたがり所在していた。この当時は忍藩諸村の悪水溜井となっていた。後に小針沼(こばりぬま)と呼ばれていたが1696年(元禄9年)に小針村と埼玉村との間で沼の名称問題が発生し、幕府の裁許によって埼玉沼へと改められたと伝えられている。
 その後1728年(享保13年)になると、幕府の命を受けた井沢弥惣兵衛と埼玉村・小針村・若小玉村・長野村の4村の住民らにより新田開発が行われた。沼の中央に排水路として小針落が開削され、小針落は旧忍川を伏せ越し野通川へと至る流路形態となっている。また、沼の北側には長野落が附廻堀として整備され、当初は見沼代用水へと至る流路となっていたが、後に旧忍川を伏せ越し、野通川へ流入する流路へと付け替えられている。
 しかし水はけがあまり良くなく、たびたび水害が発生していたため、1754年(宝暦4年)に新田の中央部に南北に貫く380間(約691m)の中堤(なかつづみ)と称する堤防が設置され、堤防の東側の下沼(したぬま)は耕地として利用され、西側の上沼(うわぬま)は元の沼地のようになった。堤防の設置により、水害は減少した。その後、沼地に戻されていた上沼において再び開田計画が起り、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、約27haの「昭和田(しょうわでん)」と称される水田となった。
 今日の埼玉沼は古代蓮の里や埼玉県行田浄水場、圃場整備事業のなされた通常の水田などに整備され、かつての沼地の面影はあまり残されていなく、埼玉県行田浄水場と古代蓮の里との間に位置している県道上新郷埼玉線は380間(約691m)の堤防の名残である。現在では名称について再び小針沼とも称されている。
        
  鳥居正面左側には幾多の石碑・石祠があり、右側の石碑の奥には境内社も祀られている。
「明細帳」によると、境内社として八坂神社と前玉神社があったが、現在は本殿に合祀されている。明治五年に村社となり、同四〇年に字星川と字本郷からそれぞれ御嶽神社を合祀したが、これらは前出の蔵王権現社であり、星川の旧社地を「ゾウ様屋敷」と呼ぶのがその名残である。更に同年字大沼(弁天)の厳島社、字沼通の宇賀社を合祀したというので、そのうちの一社であろうが、詳細は不明だ。
 
  石祠・石碑等の並びに鎮座する境内社。   その境内社の右側には庚申搭等も祀られている。
        
                     拝 殿
 行田の神々25 日枝神社(小針)
 古代蓮の里のすぐ北側に鎮座している日枝神社の創建については明らかでなく、『新編武蔵風土記稿』では、村内の鎮守としては蔵王権現二社が載せられています。
 主祭神は、大山咋命で、この神は、最澄の開いた天台宗延暦寺のある比叡山の麓の日吉大社、京都嵐山に近い松尾大社の祭られている神として知られています。
 神々の系譜上この大山咋命は、スサノオノミコトの子の大年(おおとし)神が天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)を娶って生まれた子の一人で、別の名前を山末之大主(やますえのおおぬしのかみ)と称しています。
 大山咋命の神名の意味は、大と山咋に分け、偉大な山の境界の棒の意味で、山頂の境界を示す棒くいを神格化したもの。また、別名の山末之大主は山の頂上の偉大な主人の神の意味であるといわれています。
 小針の当社は縁結びの神として信仰をあつめていますが、神社に伝わる話では、鴻巣市三ツ木の山王社(現在の三ツ木神社)は当社から分社したもので、当社が男の神様、三ツ木の山王社が女の神様であり、女性が良き男性を探す時は当社に、男性が良き女性を探す時は三ツ木の山王社に祈願すると良縁が成就するといわれています。
 また昭和初期まで行われた当社の例大祭の行事である「浮かし灯籠」は、神社の西に広がる上沼、(現在の県営浄水場)に、枠灯籠一千基を浮すもので実に壮観であったといいます。

 主祭神が大山咋命である小針日枝神社の創始に関わる史料がなく不詳とされ、「新編武蔵風土記稿」にも「蔵王権現社二宇 共に村内の鎮守なり、一つは大福寺持、一は神仙寺持」とあり当社は載せていない。口碑には鴻巣市三ツ木の山王社を当社から分霊したことが伝えられているだけで、おそらく旧くから鎮座していたと考えられているが、それ以外の詳細は分かっていない。
 因みに拝殿の手前右側には、既に何かしらの原因で倒木してしまった巨木が幹部分を屋根で覆い保存されている。「埼玉の神社」に記されている「舟つきの松」であろうか。
        
                     本 殿
            
 本殿の両側には狛犬ならぬ「狛猿」が設置されている。日枝神社の神使は「猿」であるためであろうが、考えてみると鳥居から境内に入り、拝殿に至るまで、狛犬等は存在していなかった。どちらにしてもこのような配置は珍しい。
 
            本殿に描かれている見事な彫刻(写真左・右)
        
        小針日枝神社の南側には「古代蓮の里」公園の豊かな林が一面に広がる。

 行田市小針地域には、古墳時代前期頃から平安時代かけて発展した「ムラ」の遺跡である『小針遺跡』が発掘されている。
 当遺跡は、埼玉古墳群東南2km程離れた旧忍川を望む台地辺にあり、行田市一帯のなかでも拠点的な「ムラ」であると考えられ、「ムラ」が展開する以前の方形周溝墓も5基みつかっている。やや離れた行田市野に展開した築道下(つきみちした)遺跡とともに、埼玉古墳群の造営を支えたムラであると考えられている。古墳群の造営の背景には、こうした大規模な「ムラ」の存在があったという。
 この
小針遺跡から出土したものには平安時代頃の「紡錘車」がある。紡錘車は「ぼうすいしゃ」と読み、糸を紡ぐ道具であり、日本では弥生時代から紡錘車が使われはじめた。紡錘車は、糸紡ぎだけではなく、祈りや呪いをするまつりの場でも使われていたようで、他にも文章や絵などが刻まれた紡錘車などが遺跡から出土することがあるという。

 ところで小針遺跡から出土した平安時代頃の紡錘車は、直径約4.5㎝の円すい台形で、蛇紋岩という石でできていて、側面には「丈部鳥麻呂(はせつかべのとりまろ)」という名前が刻まれていた。「丈部」は、地方から出向き、古代に朝廷の警備などをした部民という。おそらくこの地域で暮らしていた豪族の1人だったのではないだろうかと考えられている。
 さきたま古墳群の埋葬者の特定も今だに解明されていない中、発掘によりこのような人物の固有名詞が突如登場した珍しいケースだ。今まで土器や住居跡の出土・検出によって、そこに確かに人間がいたことは分かっていた。但しあくまで「人々・集団」等であり、名前を持たない人々・集団であった。
 ところが、小針遺跡から丈部鳥麻呂という人名が発掘された。これは歴史学的にも考古学的にも新たな視点を与える史料となる可能性は大きい。

 さて丈部鳥麻呂なる人物はどのような出自、性格で、家族構成は、年齢等はこの発掘のみでは分かる由もないが、この鳥麻呂を始め、人々がこの地でどのような営みをしてきたのだろうかと、筆者の想像力がますます膨らみそうな人物であることは確かなようだ。
 またこの紡錘車に人名を刻んだ人物は(当人か、第三者だったかは分からないが)、どのような願い・思いをかけていたのであろうか。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「行田の神々HP」
    「行田市郷土博物館 案内板」「古代蓮の里HP」「Wikipedia」等
              

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下須戸八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市下須戸2840
             
・ご祭神 素盞嗚尊
             
・社 格 旧下須戸村鎮守 旧村社
             
・例祭等 7月第2土日曜日
 埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を左折し、同県道364号上新郷埼玉線を900m程北上する。その後十字路を左折して500m程道なりに進むと、右側に下須戸八坂神社の鳥居が見えてくる。
        
                  下須戸八坂神社正面
 行田市中部東端に位置する下須戸地域は上星川が同市小見地域で見沼代用水と合流し、南東方向に流れるその左岸にある広大で肥沃な田園地域である。
 社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、嘗ては利根川流域に多くあった地名であったという。
 不思議なことに下須戸近郊にはそれに対する「上須戸」は存在しない。ここから10km以上北西方向に離れた旧妻沼町に「上須戸」が存在し、この両村で対をなしているようだ。
『新編武蔵風土記稿』埼玉郡之十九 忍領
「郡中に上須戸と云村なし、ここより北の方三余里を隔てて幡羅郡上須戸村ありて、下須戸村なし、是両郡に跨て上下を唱へしものなるべし」
 言い伝えによれば、約700年前鎌倉幕府の迫害を受けた一人の僧が、牛頭天王の像を奉じて当地に住み着いたという。これが当社の旧別当真言宗天王院医王寺の開基であり、同寺の寺鎮守として牛頭天王像を祀ったことが当社の創始である。
        
                  
下須戸八坂神社境内
        
                     拝 殿
「行田の神々」23 八坂神社(下須戸)
 行田市の東側、国道125号沿いにある太田西小学校の近くに鎮座しています。
 言い伝えによれば、鎌倉幕府から追われた一人の僧が、牛頭天王像を奉じて当地に住み着きました。この僧が当地に真言宗医王寺を開き、この寺の鎮守として、牛頭天王像を祭ったのが始まりであるといわれています。
 古くは牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治時代の神仏分離により、医王寺の管理を離れ、社名も八坂神社に改められ、主祭神も農耕の神様として信仰されているスサノオノミコトが祭られています。
 社殿のかたわらに小さな池がありますが、昔、周辺の村々に疫病が流行したとき、医王寺の僧が村人に疫病感染の原因である生水を飲むことをやめさせ、代わりにこの水を沸騰して飲むことを進めたお陰で、この村は疫病から守られたといいます。
 当社が牛頭天王社として信仰されていた江戸時代において、下須戸村は一時忍領であったこともありますが、長く幕府領でした。
 さらに、下須戸の須は、州で中州の先端を意味するといわれます。行田市の地図を見ると見ると良く分かりますが、南の荒川、北の利根川がかつて低地である行田市内を、乱流した痕跡が良く残されています。下須戸付近も乱流した川の痕跡が明らかに残る所であり、こうした地形から地名が付けられたのかも知れません。 
        
               社殿の左側には小さな池がある。
 上記「行田の神々23 八坂神社」に記されているように、昔近郊一円に疫病が流行り、医王寺の僧は感染の原因となる生水の飲用を村人にやめさせ、代わりにこの池の水を沸かして与えたところ、当地は疫病から守られたと伝わっていて、古くからの信仰の中心といわれていたのであろう。
 今ではその面影はなく、バリケードで張り巡らされているなど、寂しい状況となっているが、嘗てはこの池の水に対する信仰があり、遠くからはるばるこの水を受けに来るものが後を絶たなかったという。
        
                    本 殿  
          
                            拝殿手前左側に祀られている
                           若宮八幡社・辨才天等の石祠、石碑。
 この「辨才天」は下須戸地域の南方にある埼玉地域に鎮守する宇賀神社同様、出自不明の蛇神である「宇賀神」と同神であると考えられる。この宇賀神は、日本で中世以降信仰された神であり、神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられていて、その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと諸説あり一様ではない。
 元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。
 社の鎮座する場所の多くが、河川に隣接する所もあり、水との関連性が強いといわれる蛇神・龍神の化身とされることもある。
        
                    境内の一風景
 埼玉地域の宇賀神社には河川に関連した伝承である「おさき伝説」が今なお語り継がれていて、「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」。また「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」とあり、当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから、農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられている。

 八坂神社は、神道と仏教の融合・神仏習合の典型例といえる神社で、一説では、斉明天皇2年(656)新羅の牛頭山に鎮座していた素盞嗚尊の霊を迎えて創祀されたとされているこの神様は神仏習合の中で祇園精舎の守護神であり、疫病を鎮める仏教の神・牛頭天王と同一視され、明治の神仏分離令まで牛頭天王を称していた。こうした起こりから、八坂神社は厄難退散の性質が色濃く出ている神社でもある。
 この下須戸八坂神社は「素盞嗚尊」を祭神とした社であり、神話において描かれている「素盞嗚尊」のヤマタノオロチの大蛇退治伝説の話は、出雲の斐伊川の治水事業を象徴した話であるという解釈もある。社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、河川に関連した地域名であることから、当時の地元住民の方々が子孫繁栄・五穀豊穣を祈り、「素盞嗚尊」をご祭神とする八坂神社を創建した一方で、弁財天を祀ったと考えることもできよう。



参考資料「
新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田の神々」「忍の行田の昔話」
    Wikipedia」等
 

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若小玉勝呂神社

 若小玉勝呂神社のご祭神は中筒男命(なかつつのおのみこと)で、住吉大神の1柱であり、航海の神で、住吉系の社である。この住吉神社の「住吉」という社名由来は、神功皇后が住吉大神をお祀りされる際、それに相応しい土地を探したが、この地を見つけた時に、「真住吉」との託宣を得られ、この地を住吉と名づけて鎮座したという
現在、この「住吉」は、スミヨシと読むが、古くは「墨江(スミノエ)」と読んでいたり、時には「清江」と表記される事もある。
『古事記』
 其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也、
 スミノエの「エ」とは、今でも関西圏では、良い事を「ええ」(良い)というのと同じで、神さまが「住むのに良い」という意味で、神さまの御心にかなう土地ということで住吉となった。また住吉大神は祓の神様でもあり、昔の住吉の海岸は水が美しかったということもあり、正に「澄み良し」という意味もある。
 勝呂神社が鎮座する若小玉地域は、「埼玉の津」で有名な埼玉古墳群の北方近隣にあり、嘗ては利根川や荒川水系河川等が流れる自然豊かな地域であったのであろうか。
        
              
・所在地 埼玉県行田市若小玉2630
              
・ご祭神 中筒男命 外四柱
              
・社 格 旧若小玉村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭(若小玉の獅子舞) 920日に近い日曜日

 国道17号線を熊谷市街地からJR行田駅方面に進み、「佐谷田」交差点を左折する。途中までの経路は「佐谷田神社」「菅谷八幡神社」を参照。埼玉県道128号熊谷羽生線に合流後、暫く道なりに進み、行田市街地を抜け、武蔵水路を越えた「富士見」交差点から450m程先にある信号を左折する。左折する変則的な十字路の右側にはコンビニエンスがあるため分かりやすい。左折後320m先の十字路を左方向に進むと若小玉勝呂神社の正面に到着する。
 余談となり社とは全く関係のない話となるが、昔は国道125号といえば、上記「佐谷田」交差点から国道17号から分岐し、行田・加須方向に進行する道路と、新たにこの道路の北側を並列して進む「国道125号バイパス」の2本がある、との認識でいたが、調べてみると2018年(平成30年)330日に、熊谷市内の全区間(熊谷市佐谷田地内、行田・熊谷市境 - 終点間)の旧道が指定解除され、埼玉県道128号熊谷羽生線へ降格されたとのことだ。
 勝呂会館が社の北側に隣接しており、そこには駐車スペースも確保されていて、そこに止めてから参拝を開始する。
        
                  
若小玉勝呂神社正面
 
 鳥居の額には「正一位勝呂大明神」と表記      鳥居の右側にある社号標柱
       
                参道の先に見える二の鳥居
 旧若小玉村鎮守・旧村社で、参道周りの社叢林も勢いよく生い茂っており、静かで落ち着いた佇まいの神社。これほどの規模の社であるにも関わらず、残念ながら境内を見回しても案内板等は無く、後日ネット等で調べても勧請年月・縁起・沿革等は全て不明。
          
               二の鳥居の額には「勝呂神社」と表記      
 社には直接関係はないが、『日本歴史地名大系』には 「旧若小玉村」の解説が載っている。
 [現在地名]行田市若小玉・藤原町
 長野村の東、小見村の南に位置し、東は見沼代用水を隔てて下須戸村。八幡山古墳地蔵塚古墳などを含む若小玉古墳群が分布する。「万葉集」巻二〇に収める防人歌の作者埼玉郡防人藤原部等母麿遺跡として県の旧跡に指定されている。「吾妻鏡」嘉禎四年(一二三八)二月二三日条の参内する将軍に供奉した御家人のなかに若児玉小次郎の名があり、また同書建長二年(一二五〇)三月一日条に載る閑院殿造営雑掌のうちには若児玉次郎とあって、これらは当地在住の武士であろうという(風土記稿)。永仁三年(一二九五)九月一三日の関東下知状(別符文書)に若児玉氏元後家妙性尼がみえる。
 
       
                     拝 殿
行田の神々22 勝呂神社(若小玉)
国道125号線(現埼玉県道128号熊谷羽生線)の行田バイパスが武蔵水路、秩父線を跨ぐ行田大橋の南側に位置しています。
神社の周辺は、現在大字名を若小玉(わかこだま)と呼び、鎌倉時代の『吾妻鑑』には、若児玉小次郎、若児玉次郎の名前が記載されており、このあたりに館をかまえていた武士と思われます。
鞘戸(さやど)耕地に小次郎の館があり、屋敷鎮守の祠が残されていたが、江戸時代にはすでにみな陸田になり、痕跡は残っていない状態であったことが記録に残されています。このように古くは若児玉の字が使われており、さらに『群村誌』によれば若子玉から若小玉へと変わったといいます。
神社の祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)。いつ創建されたかについては明らかでありませんが、江戸時代までは、近くにある真言宗遍性寺が別当を勤めていました。
勝呂神社は、近くでは南河原村にもあります。当社との関係は明らかでありませんが、南河原村の勝呂神社は、生田の森で先陣を取り討ち死にした河原兄弟で知られる河原氏が、もとは入間郡の勝呂村の出身で、移住するにあたり当所の住吉神社を勧請したもので、名前も地名を取り勝呂神社にしたと伝えられています。
若小玉の当社では九月二十日の祭礼にササラ(獅子舞)が奉納されます。古くは雨乞いササラとも呼ばれ、『鐘巻(かねまき)』が代表的な演目として残っています。
        
                拝殿向拝部には精巧な「龍」の彫刻が施されている。

              木鼻部左右の「獅子」(写真左・右)
 
    拝殿正面左側の欄間には「獅子」       拝殿正面右側の欄間には「鳳凰」
 
   拝殿の左側には境内社が祭られている。          本 殿
        
               社殿の右側に並列して祀られている境内社・榛名社。
         規模は小さいながらも、社としても立派な造りである。

 若小玉地区に伝わる民俗芸能である「若小玉の獅子舞」は、現在若小玉獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、悪魔退散、村内安全を祈願して村の総鎮守である勝呂神社の大祭の際に奉納されている。起源については、江戸時代後半の文化11年(1814)に、村内の中里家に集まる若者を中心に始められたと伝えられている。
 獅子は法眼(ほうがん)、中獅子(なかじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に面冠(めんか)、おかめ、火男(ひょっとこ)、笛方、歌方、万燈、花笠などで構成されている。
 曲目は「橋掛り(はしがかり)」、「花掛り(はながかり)」、「鐘巻(かねまき)」の3曲でいずれも神話を題材としている。
        
                                境内に建つ神楽殿
 勝呂神社拝殿前で「橋掛り」を舞った後、村回りを行い、稲荷神社または諏訪神社(1年交替で獅子舞が演じられる)で「橋掛り」、秋葉神社で「花掛り」を奉納し、夜には勝呂神社で「鐘巻」、「花掛り」を奉納します。「鐘巻」は須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する場面の舞で、若小玉を代表する曲目です。舞の最後には、子どもたちが元気に育つようにとの願いを込め、面冠が見物客の中にいる子どもたちを鐘の上に座らせるほほえましい光景も見られる。
 現在は920に近い日曜日に実施されている。

○若小玉の獅子舞
・読み わかこだまのししまい
・区分 市指定民俗文化財
・種別 無形民俗文化財
・形態 三匹獅子舞
・指定年月日 平成21730
・所在地 行田市若小玉  勝呂神社 埼玉県行田市若小玉2630



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「朝日日本歴史人物事典」
    「住吉大社HPWikipedia」「行田の神々」等

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須賀熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市須賀4533
              
・ご祭神 家都御子神 熊野夫須美命 速玉男命
              
・社 格 旧須賀村鎮守社 旧村社
              
・例祭等 例祭日 715

 北河原十二社神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を東へ4km程進むと、進行方向左手に須賀熊野神社の鳥居が見える。地図を確認すると「利根大堰」の東側500m程の場所に位置する。県道沿いでも目立つ社号標柱と、整備された長い参道が北方向に延びて、その先に拝殿が僅かに望める。
 須賀集落は県道沿いに集中しており、少し民家が途切れると美しい田畑と利根川の果てしなく長い堤防が見られる。社は須加の集落の中央に鎮座している。
        
                         県道側から参道正面を撮影
               
                    社号標柱
 
         鳥居の額名は「熊野大権現」               コンクリートで整備された参道が
                                                        一直線に延びている。
        
           鬱蒼とした森が背後に控え、利根川の堤防を背に社殿は鎮座している。

 ○須賀村 
 熊野社 
村の鎮守なり、本地佛弥陀を安ず、
  末社。大黒天、子安権現合社、
 別当利益寺 当山派修験、山城国醍醐三宝院末、加納院と号す。本尊不動を安ず、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用
        
                     拝 殿
 熊野神社
 須加の地名は、川州に形成された土地であることに由来する。社伝によれば、建武年中、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したというが、古記録等は天正十八年の火災により焼失している。祭神は家都御子神(けつみこのかみ)・熊野夫須美命(くまのふすみのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)である。また、神仏習合時代の本地仏である阿弥陀如来立像を安置している。(中略)
 明治六年には村社となり、同四二年舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社が合祀された。しかし、大伊奈利社・小伊奈利社を除くすべての社が現在も各耕地にあり、現在も祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                   拝殿部挙鼻の龍
                         龍はかなり動きのある精緻な造りである。 
 
                木鼻部の獅子(写真左・右)

『行田郷土史研究会2012 HP』には「忍の行田の昔ばなし」が紹介され、その中に須加地域の昔話もある。興味深い内容であるので全文紹介する。

 第三十話「須加の熊野神社」
 昔から、利根川べりにある須加に住む人々は、妻沼町の人との縁談は必ず不縁になると信じられておりましたので、近年になってもこの二つの町村との婚姻はなかったということであります。なんでそんなことになったのか、昔むかしのお話を紐解くことにいたしましょう。
 須加には拝殿の拳鼻彫刻龍と、木鼻彫刻による端正なお顔をした狛犬で有名な熊野神社がございます。趣のあるこの熊野神社は、社伝によりますと建武(けんむ)年中といいますから一三三四年ごろ、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したといわれております。御祭神は、家都御子神、熊野夫須美命、速玉男命、でございます。
 この神社には富士塚もあり、浅間大社、三峰神社その他たくさんの末社が祀られております。
 この中に、昔は聖天さまも祀られていたそうであります。
 縁結びの霊験あらたかな聖天さまでございますが、妻沼の聖天さまは、もともとはこの須加の熊野神社の境内を借りて祀られてあったのだそうでございます。
 縁結びのお力は人々の心を大変引き付け、だんだんと熊野神社では聖天さまの方が人気さかんになってしまいました。
「肝心の熊野神社の方がすたれていってしまい、このままでは熊野神社が聖天さまに取られてしまう」ということで、或る日のこと、熊野神社の氏子たちが皆で聖天さまを松葉を焚いていぶり出してしまったということでございます。
 いぶり出されてしまった聖天さまは、妻沼郷大我井の森に移転することになりました。その移転の道中、北河原村まで来たところ、嵐のような大雨に遭ってしまわれました。
 奥墨某という家でなんとか雨宿りをしましたが、雨はなかなか降りやまないので、一夜泊めてもらうことにしました。そこでこの地は「雨の袋」と地名が付き、今では「天の袋」と書きますが現在の小字にもある「天袋(あまぶくろ)」というようになりました。
 翌日この地から旧奈良村へ出て道中の休息をしたところから、ここに「時華」という地名もあるそうです。そしてようやく妻沼の大我井の森にたどり着き、安住の土地である妻沼に落ち着かれたのだということであります。
 聖天さまは須加で松葉いぶしにあってしまわれたのですが、「この世の中に松の木がなかったらこんなひどい目に会わなかったであろう。」と、それからというもの、聖天さまは松の木を非常に嫌ったといいます。一説には、聖天さまは、太田の呑龍さまと戦ったことがあるそうで、その時、金山の松で左の目を突ついて怪我をしたので、松が嫌いになったともいわれておりますが、松嫌いの聖天さまのお話はこれまたいろいろございますので、別のところでお話しいたしましょう。
 縁結びの神様がいなくなってしまった須加の熊野神社ですが、神社の風格や凛とした構えの鳥居など、本当に心が浄められる美しい神社でございます。見事な社殿彫刻をご覧になりたい方はぜひ一度訪れてみてはいかがでしょう。

 妻沼の聖天様だけでなく、日本全国に松が嫌いな神様がおられるそうだ。例えば鴻巣市安養寺八幡神社も同じ説話があり、人々から厚く信仰される神仏でも、不思議と人間くさい一面が伝承・伝説では語られている。慈悲深い神様や仏様とはいえ、争いごと等をすることもあるかと感慨深いエピソードであるが、「神様の松嫌い」この伝承・伝説にはもっと深い何かが隠されているようにも思えて仕方がない。
 

           本 殿            社殿左側には「御嶽社」・「浅間社」

 「御嶽社」・「浅間社」の右隣には倉庫らしき施設あり、神興庫であろうか(写真左)。その並びには石祠群がびっしりと並ぶ(同右)。「埼玉の神社」に記されている「舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社」であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田郷土史研究会 忍の行田の昔ばなし」
    「
Wikipedia」等

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