古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大間大野神社

 嵯峨源氏渡辺氏は摂津国西成郡渡辺里(大阪市東区渡辺町)より発生した一族であり、武蔵国足立郡箕田郷(鴻巣市)に移住して箕田源氏と称したと云う。嵯峨天皇の皇子である左大臣・源融(みなもと とおる)を遠祖とし、融の孫・源仕(みなもと つこう)の頃に武蔵守となって武蔵国足立郡箕田(現在の埼玉県鴻巣市北部)に赴任した。仕は同地に土着し、地名の箕田(みた)を苗字として武家(軍事貴族)となったという。
 箕田仕の子が箕田宛(みなもと あつる 号箕田源次)で、「今昔物語」で平良文(村岡五郎)との騎乗の弓矢による一騎打ちを行ったという説話で有名な武将だが、無位のまま21歳の若さで没したという。源宛の子・源綱(みなもと つな)は、出生したときは父が他界したために、摂津国川辺郡多田(現在の兵庫県川西市)で清和源氏の祖となった源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の猶子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現在の大阪府大阪市中央区)に居住し、それまでの源姓から渡辺綱と称し、渡辺氏の祖となる。
 渡辺綱の後裔とされる摂津渡辺氏は、摂津国西成郡渡辺津(現在の大阪市中央区)という旧淀川河口辺の港湾地域を本拠地として一族が集住したために、「渡辺党」と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与して瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に、摂津国住吉の浜(住之江の浜、大阪湾)で行われる天皇の清めの儀式(八十島祭)に従事すると共に、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したという。
        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市大間2-11-29
              ・ご祭神 大己貴命
              ・社 格 旧大間村鎮守 旧村社
              ・例 祭 鯉祭 21日 祈念祭 218日 例大祭 918日 
                   新嘗祭 1123日 大祓 12月吉日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0639906,139.4960803,16z?hl=ja&entry=ttu
 大間大野神社は鴻巣市大間地区に鎮座している。途中までの経路は鴻神社を参照。鴻神社からは「こうのとり通り」を高崎線高架橋を通り過ぎてから「大間4丁目」交差点を右折。その後300m程進み、右側にコンビニエンスストアのある信号のある十字路を左折する。
 周囲は住宅とビルの立ち並ぶ道路となり、交通量も多く、対向車両や自転車、徒歩での方々の往来にも気を付けながら200m程進むと「氷川山・大野神社」の看板が進行方向正面右側に見えてきて、そこを右折すると大間大野神社の鳥居、及び参道が見えてくる。
 駐車スペースは参道に沿って左側に数台分確保されており、そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                              大間大野神社 一の鳥居
 鴻巣市大間鎮座の社。今は住宅街の真ん中にひっそりと佇むこじんまりとした神社。元は氷川神社であり明治時代に大間地内の五社を合祀、北長野地内の四社を合祀。大間、中野地区の字を使い、大野神社と定めた。
 驚く程、住宅街にあり、参道の両脇には家やマンションが立ち並んでいて、その中を抜けるように境内が広がり、その先に拝殿、本殿等が鎮座している。
 

   参道右側に提示されている案内板。     住宅街の間をすり抜けるように参道が通る。
 大野神社記
 当社は元来氷川神社で祭神は須佐之男命・大國主命(大巳貴命)の二神でありました。
 第六十一代朱雀天皇(九二三~九五二)の御宇天慶元年正月箕田源氏の祖と傳えられる源の仕が造立した宮であります。
 鎌倉末期に改築されその後文禄年中に北條の家臣道祖士満兼が再建に努力されました。
 当時は梅本坊別当後本習院となり慶安五年(一六五二年)、享保六年(一七二一年)、天保九年(一八三八年)と社殿の改修が行われたと伝えられております。
 明治六年四月村社、明治八年拝殿建立、明治三十七年九月五日境内(現二千五百坪)が社地となりました。
 明治四十年五月八日大間地内の無格社「天満社、浅間社、稲荷社、諏訪社」を合祀、大間の()と中野の()をとって大野神社と社名を定め、明治四十一年四月記念の合祀祭が行われました。
 明治四十四年一月七日神饌幣帛供進社に指定。
 平成五年九月拝殿改築奥宮修繕 完。
 大野神社古記
                                      案内板より引用

        
                                     二の鳥居
        
 住宅街をすり抜けるように参道が続いたが、二の鳥居を過ぎると社独特の風情ある境内が広がる。
 
     境内前で右手に見える手水舎          境内左側にある神楽殿
        
                                        拝 殿
 境内から拝殿までの間に2段の石段がある。思うに鎮座している場所は大間地域でもやや高台を選んで建立したのであろう。
 
    拝殿上部に掲げてある扁額             拝殿向拝下彫刻  
 題字の周りに飾られたのマークが可らしい。   龍と鳳凰の彫刻が精密で凝っている。
        
                                      案内板
 大野神社 御由緒 鴻巣市大間三一二
 □御由緒(歴史)
『風土記稿』大間村の項に「氷川社 村の鎮守なり、別当を本習院と云(以下略)」と載るように、当社は元来は氷川神社と称していた。それを大野神社と改称したのは、明治四十年七月十八日のことで、同日に大字北中野字津門の村社津門社を合祀したことに伴うものであった。この氷川神社の由緒については、別当本習院の後裔で、神仏分離後は復飾して神職に転じた吉田家が所蔵する社記「大間氷川大明神縁起」に詳しく、その要点をまとめると次のようになる。
 当社は、天慶元年(九三八)に、嵯峨天皇の末流の渡部仕が大己貴命の託宣によってこの地に社を造営したことに始まるもので、長元三年(一〇三〇)には源頼義が平忠常の謀反を鎮めるために戦いを何度も挑んだが勝利を得られなかったため、当社に獅子頭を掛けて願成ることを祈ったという。また、神力によって、天永元年(一一一〇)に沼(現在の逆川)に沈んでいた阿弥陀像を引き揚げ、正嘉年中(一二五七-五九)の干ばつには雨を降らせ、延元二年(一三三七)には疫病を退散させるなど霊験あらたかであったが戦乱によって荒廃した。
 社記の記述はここまでであるが、その後、村の再興と共に神社も再建されたようであり、『明細帳』には天保年中(一八三〇-四四)及び明治十一年に再建され、明治六年に村社になった旨が記されている。更に、平成五年には社殿が老朽化したため、再建が行われた。
 □御祭神と御神徳
・大己貴命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用

 
 社殿左側に鎮座する境内社2社。詳細不明。    境内社内部を撮影。2社の間にある石祠は
                            正一位稲荷と冨士浅間神社。
 
 境内社2社の並びにある石祠群と屋根付き母屋の境内社(写真左)。石祠は左から「不明、八幡宮、八幡宮」と読める。右側に鎮座する母屋付きの境内社(同右)は、扁額らしい額はあるが、薄すぎて解読は不可能。但し本殿奥に鎮座している所から推測すると、旧本殿の可能性も否めない。
       
                 社殿右奥に聳え立つご神木
 大間大野神社は、天慶元年(938)に、嵯峨源氏流の渡部仕が大己貴命の託宣によって当地に氷川社を造営したという。
 時代は平安中期で、武士の勃興期と言われる時代。桓武平氏出身の平将門やその一族である平貞盛、俵藤太と呼ばれた藤原秀郷、清和源氏の祖といわれる源経基といった英雄、豪傑が活躍し、躍動していたこの関東で、同じ空気を吸っていたであろう嵯峨箕田源氏流の源(渡辺)仕という新たな人物がここで登場し、この社の創建に関わっていたとは、何とも神妙な面持ちでの参拝となった。
 と同時に今では埼玉の”嵐神社”としてファンの間では有名となった大野神社。勿論嵐のリーダーの大野智さんの名字が入った神社だから。嵐は2020年末で一旦活動休止となったが、まだまだ聖地として多くのファンが訪れる場所となっているようだ。
 久喜市鷲宮神社が「らき☆すた」の聖地で一躍有名になっているが、この大間大野神社にも同様な現象が今もなお続くのはいかにも日本人らしいといえるだろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」「大野神社公式HP」
    「境内案内板」


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