箕田氷川八幡神社
この氷川八幡神社の北側には渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったといい、また鴻巣市八幡田は、氷川八幡神社の神田だったという。また境内には、宝暦9年(1759)建立の箕田碑が残されている。明治時代に入り、字龍泉寺の八幡社(浅間社か?)、箕田氷川神社を合併、郷社に列格している。
所在地 埼玉県鴻巣市箕田2041
御祭神 誉田別命
社 挌 旧郷社 旧箕田郷鎮守
例 祭 旧暦8月14日 例大祭
箕田氷川八幡神社は、県道271号線と365線が交差する宮前交差点を北鴻巣駅方面へ進み、すぐ箕田小学校が左手にある。 その先に箕田郵便局があり、その北側に鎮座する。
鴻巣宿の北に位置する箕田郷(旧箕田村周辺、現・鴻巣市箕田地区)は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏の発祥地と伝えられる。箕田の氷川八幡神社は、古くは綱八幡とも称し、羅生門の鬼退治で活躍した「頼光四天王」の1人である渡辺綱を祀るといわれている。
武蔵守となって下向した綱の先々代・源仕(わたなべ-の-つがう)が当地に居を定め、先代・源融( -あづる)の時代になって「箕田源氏」を名乗った。
境内にある「箕田碑」は宝暦9年(1759年)の建立で、箕田源氏の由緒と武蔵武士の本源地であることが記されている。箕田の近隣には清和源氏の祖である源経基の居館跡もある。氷川八幡神社に近接の宝持寺は、渡辺綱が父・源宛と祖父・源仕の追善のために建てた古刹と伝えられる。
鳥居の左隣にある社号標 氷川八幡神社参道正面
鳥居の参道や社号標のとなりにある氷川八幡神社の案内板(写真左)と鴻巣市の歴史の掲示板(同右)
氷川八幡社と箕田源氏
氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、字龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。
八幡社は源仕が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮座したものであり、字八幡田は源仕の孫、渡辺綱が八幡社の為に奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだといわれる。
ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源仕、源宛、渡辺綱三代が、この地を拠点として活発な活動を展開した土地であった。
・ 源仕
源仕は嵯峨天皇の第八皇子 河原左大臣源融(嵯峨天皇の祖)の孫で、寛平3年(891)に生まれ、武勇の誉れが高く、長じて武蔵国箕田庄に居を構え、自らを箕田源氏と称し、土地を開墾し、家の子郎党を養い、知勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平・天慶の乱に功を立てて従五位上武蔵守となった。天慶5年(942)没、享年52歳であった。
・ 源宛
源宛は仕の子で弓馬の道にすぐれ、天慶の乱に際しては仕に従い、西国におもむき武功を立てたが天暦7年(953)21歳の若さで逝った。今昔物語には宛の武勇を物語る平良文との戦いが逸話として残されている。
・ 渡辺綱
渡辺綱は源宛の長子として天暦7年(953)箕田に生まれた。幼少にして両親を失ったが、従母である多田満仲の娘に引き取られ、摂津国渡辺庄で養育されたので渡辺姓を名乗った。綱は幼少より勇名をはせ、長じては源頼光に属して世に頼光四天王の一人と称された。後に丹後守に任ぜられたが、万寿2年(1025)2月15日、73歳にて逝った。八幡社右手奥の宝持寺には綱の位牌が残されている。法名を『美源院殿大総英綱大禅定門』という。また、次のような辞世の句が伝えられている。
世を経ても わけこし草の 中かりあらば あとをたつねよ むさしの のはら
・ 箕田館跡
これら源家三代の住居は氷川八幡社北辺にあったと伝えられ、その地を殿山と称し、付近にはサンシ塚と呼ばれる古墳が存在しているが、館跡の面影をとどめるものはない。
案内板より引用
拝 殿
拝殿の手前、右側には「箕田碑」と呼ばれる箕田源氏の由来を記した碑「箕田碑」がある。裏には安永7(1778)年に刻まれた碑文があり、また碑文には渡辺綱の辞世もあるという。
鴻巣市指定金石文 箕田碑
箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778年)に刻まれた和文草体の碑文である。
初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば
あとをたづねよ むさしのはら
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。
鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。
鴻巣市教育委員会
本 殿
箕田源氏3代が活躍した10世紀から11世紀は日本では平安時代中期頃で、この時期は中央政府においては藤原北家の藤原氏忠平流の子孫のみが摂関に就任するという摂関政治の枠組みが確定し、それから以後藤原道長、頼通の全盛期に至る過度期にあたる。
しかし地方は「平安」という時代には似つかわしくない豪族同士の対立や受領に対する不平が戦いに発展していったいわば内乱状態で、初期の武士が自分たちの地位確立を目指して行った条件闘争が武装蜂起にまで拡大し、武士身分が確立する過程における形成時期にあたっていた。この箕田地域においても事実延喜19年(919)源仕は 武蔵国国守である直向利春(たかむこのとしはる)に反乱をおこし、源苑も当時村岡(熊谷市)に居を構えていた秩父郡の村岡五郎(平良文)との合戦にもなり、双方とも数百人の軍勢で向かい合い、大将どおしの一騎打ちを延々と繰り広げ、とうとう勝負がつかなかったと、今昔物語にも書かれている。
逆に解釈すると、当時の貴族の大多数は中央の政権は藤原氏北家のみで独占したため、地方に行き、国司として派遣されることしか栄達の道はなく、派遣されても自身や一族の蓄財に走ることしか考えない。当時の記録を見てもかなり酷い搾取だったようだ。このような過酷な徴税や私腹を肥やすことで地方の豪族や農民の不満は高まって、ついに各地で反乱の起こる乱れに乱れた時代だったのだろう。
箕田源氏はこのような時期に、自国の領土、そして領民を守るという大義のために戦いを続けた。そして領民はその恩を忘れず、この地に箕田地域の守り神として八幡神社として祀ったのではないだろうか。