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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

箕田氷川神社、宮前宮登神社

 鴻巣市箕田地区は北足立(大宮)台地と呼ばれる舌状台地の北端部に位置していて、標高16m~18mの微高地の台地に立地し、古くから開けた肥沃な土地であったようだ。鴻巣という地名自体、国府の洲の意で、ここに国府か郡衙 が一時的にせよ、かつてあったのではないか、という説がある。確かに、鴻巣は埼玉古墳群にも近く、 郡衙があった可能性は否定できない。確かにこの地域には箕田古墳群があるように古墳の多い地域として有名であり、郡衙がある、なしという議論の余地はあるにしても、ここに一大集落地が存在していたことは確かなようでである。

所在地    埼玉県鴻巣市箕田1260
御祭神    素盞嗚尊
社挌、例祭  箕田村鎮守だったらしい。その他は不明

       
 箕田氷川神社は箕田氷川八幡神社の北西方向約300mに位置し、今は小さな社が古墳上に鎮座している。県道365号鎌塚鴻巣線と武蔵水路が交わる中宿橋を17号方面に向かい、最初にT字路を右折ししばらく進むと左側に箕田氷川神社が見えてくる。ただ社は本当に小さく、鳥居があるためそこが神社であることを認識できる程度で、鳥居がなければ完全に古墳に見える。
 この社は、氷川八幡神社の境内掲示によると、承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだといわれ、江戸時代には箕田村の鎮守社となっていたが、明治時代以降、氷川八幡神社に合併され、宗教法人としては消滅してしまったという。
 
    道路沿いにある箕田氷川神社の鳥居                古墳上にある本殿
 本跡の南側一帯は箕田館の推定地となっており、それに関連して本墳は武蔵守源仕及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、築城年代からするとこの記述を信用することはできず、おそらく後世に両者が結びついて伝承されたものであろう。

氷川社
 村の鎮守なり。社の後に古塚あり。高さ6・7尺幅12・13間。往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり。これ古へ貴人を埋葬せし古墳なるべしといへり。村持。
 末社
 諏訪社。稲荷社                                (新編武蔵風土記稿掲示より引用)

 

 箕田氷川神社が鎮座するこの「箕田」という地名は、東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵国足立郡箕田庄が起源(ルーツ)であるという。また「みた」は東京港区の三田とする説もある。さらに遠いところでは三重県鈴鹿市上箕田町・中箕田・下箕田地域もその候補もあり結論がでていない。埼玉苗字辞典には「ミタ」について以下の記述がある。

三田 ミタ 三は未(み)の佳字にて、未(ひつじ)は渡来人の総称を羊(ひつじ)と云う。田は郡県・村の意味。渡来人羊族の集落を三田、見田、美田、御田、箕田と称す。

 この「羊=ひつじ」の名は物部氏の祖神の名である経津主(ふつぬし)の転という説もあり、渡来人系と一概に決めつけることは危険だ。政略によって物部氏本家は滅び、一部の物部氏は古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。その零落した姿が羊太夫であるとも想像もできるのだが、今のところ詳細は不明だ。


所在地    埼玉県鴻巣市宮前88
御祭神    誉田別命  相殿  聖権現(道主貴神)
社  挌    旧村社
例  祭    不明           
            
 箕田氷川八幡神社から埼玉県道365号鎌塚鴻巣線を東に進み、宮前交差点を右折するとその近郊に宮前宮登神社が鎮座している。この宮登神社は、箕田の八幡神社を分霊し、現在は八幡神社となっているが、江戸時代は聖権現社といった。
 ちなみに新編武蔵風土記稿ではこのような記述をしている。

 聖権現社
 村の鎮守なり。天長年間紀州高野山の僧当所光徳寺を開基せしゆへ、彼聖を崇てかく祀ると云。光徳寺持。末社に弁天庚申の二社あり。
 
            
   鳥居の前にある何となく味のある社号標                参道正面より撮影
 
              拝   殿                            本   殿
                       
                 拝殿から本殿方向を撮影、よく見ると祭神が2柱ある。
               思うに、誉田別命と相殿である聖権現(道主貴神)であろう。
 箕田氷川神社と箕田氷川八幡神社のラインをそのまま南東方向に延長すると宮前宮登神社にぶつかる。偶然なのか宮前宮登神社の参道の先は箕田氷川八幡神社社殿に繋がる。不思議なラインがここにも存在する。

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