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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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埼玉古墳群(5)

丸墓山古墳①
 埼玉古墳群において一際目立ちシンボル的な存在である丸墓山古墳は6世紀前半に造られた日本最大の円墳(主軸長 105m、高さ 18.9m)である。周掘をいれた直径は180mにも及ぶ。墳丘土量および高さにおいて、同じ古墳群に属する武蔵国最大の古墳二子山古墳よりも多いという試算もあり、円墳としては我が国最大の規模を誇っているという利根川の対岸、群馬県太田市にある古墳時代中期から後期(5世紀中頃から末期)、稲荷山古墳にやや先立って造られたと推定される、関東地方最大の前方後円墳である大田天神山古墳(国指定史跡)は、全長約210m、前方部幅約126m、長さ約90m、高さ約12m、後円部直径約120m、高さ約16.8mであり、丸墓山古墳は径に於いて大田天神山古墳の後円部に及ばないが、高さに於いて遙かに凌ぐ。また仮に丸墓山古墳が円墳ではなく、前方後円墳だとしたら、主軸長が200mを超える大古墳となるそうだ。

            

 丸墓山古墳は遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが周掘を検出した際に、葺石に使用された河原石と、復元すると直径が55cmにもなる、大型の円筒埴輪の破片、朝顔形埴輪片、形象埴輪、土師器、須恵器などが出土したそうだ。
 また古墳自体は高さ20m以下の小高い丘だが、斜面の平均斜度は28度。かなりの急傾斜であり登り口からの登頂は結構きつい。遠方からの観察から中段平坦面、上段平坦面の名残りが見てとれ、古代エジプト初期の階段ピラミッドと同じ三段のテラス状の古墳であることは目視による確認でも良くわかる。

丸墓山古墳

形状:円墳 直径:102m 高さ:18.9m
 
丸墓山古墳は、わが国最大の円墳といわれています。墳丘と堀の一部が復元されていますが、元の形をよく残しています。
 遺骸を納めた埋葬施設はわかっていませんが、今までの調査によって、墳丘の表面をおおっていた石(葺石)、円筒埴輪や人物埴輪が発見されています。
 これらの出土品から、丸墓山古墳がつくられたのは、6世紀の前半と考えられます。
 天正18年(1590年)に、石田三成が、この古墳の南北に堤(石田堤)を築き、忍城を水攻めにしました。古墳から南にまっすぐのびている道路は、この堤のなごりです。
                                                                               現地案内板より引用

 さてこの丸墓山古墳について現在まで解明されていないいくつかの謎が存在する。

1 この日本最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜひとつだけ円墳という形で現れたのか、実はだれもわかっていないのである。

2 今までの発掘調査で出土した埴輪の分析や榛名山二ッ岳の火山灰のの堆積状況等において埼玉古墳群の9基の古墳の中では次の順序で作られたと想定できるという。

 稲荷山古墳(5世紀後半) → 二子山古墳(5世紀末) → 
丸墓山古墳(6世紀初頭)→ 愛宕山古墳(6世紀前半) → 瓦塚古墳(6世紀前半~中頃) → 奥の山古墳(6世紀中頃)) → 鉄砲山古墳(6世紀後半) → 将軍山古墳(6世紀後半) → 中の山古墳(7世紀前半)

 しかも二子山古墳とほとんど同時期に丸墓山古墳は築造されているという。これは一体何を意味しているのだろうか。

3 埼玉古墳群の中で、これほどの大きさを誇る丸墓山古墳は実は中心部に位置していない。埼玉古墳最初の稲荷山古墳同様北側に位置していて、中心に位置している二子山古墳を守護しているように見える。稲荷山古墳とともにこの扱われ方は非常に異常だ。 

 以下の点について考えてみたいと思う。


1 何故丸墓山古墳だけ円墳なのか①

この埼玉古墳群は9基の大型古墳が存在しているが、現存する他の古墳がすべて「前方後円墳」であるのに対し、この丸墓山古墳だけ「円墳」なのである。これだけ巨大な古墳を造れたにもかかわらず、なぜ前方後円墳としなかったのかが謎とされている。この謎に対していくつかの説があるのでここに紹介し検証したい。

① 元々は「前方後円墳」として築造されたものだが、何かしらの理由により造ることができなくなりやむを得ず「円墳」にした。
② 丸墓山古墳は稲荷山古墳の後、二子山古墳とほぼ同時期に造られた、と言われている。つまり二子山古墳の埋葬者と親密な関係にある実力者のために造られたもの、という説。(例えば妻、叔父等)
③ 100mを超える前方後円墳の築造推移は稲荷山古墳(5世紀後半)→二子山古墳(5世紀末、6世紀初頭)→鉄砲山古墳(6世紀後半)だが、この二子山古墳と鉄砲山古墳の間にはかなりの時間差がある。 そこで一族の中で宗主権が別系統に一時移った可能性が想定されている。ただしこの族長は前方後円墳を造ることが正式に認められていなかったので円墳にした、という説。この説に従えば鉄砲山古墳の埋葬者の前代に造られた愛宕山古墳(6世紀前半)、瓦塚古墳
(6世紀前半~中頃)、そして 奥の山古墳(6世紀中頃)も別系統に属する、という。

(続く)

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