古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大野神社

 国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話に登場する神で、『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊(くにのとこたちのみこと)と表記されている。
『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記されている。一方『日本書紀』では、天地開闢(てんちかいひゃく)のときあらゆる神に先立って現れた第一神で、国土生成の中心的神とされる。但し『記紀』共に、それ以降の具体的な説話はない。
 神名の「国之常立」は、「国」を「国土」、「常」を「永久」と解し、名義は「国土が永久に立ち続けること」とする説や、日本の国土の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説など諸説ある。
 明治時代の神仏分離により、各地の妙見信仰社は祭神を天之御中主神と改めたが、一部には、国之常立神を祭神に改めた社もあった。国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、ときがわ町の大野神社もこの神様をご祭神として祀っている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大野329
             
ご祭神 国常立尊  配祀 大日孁貴命
             
・社 格 旧大野村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭・送神祭 48日 秋季大祭 817
                  ささら獅子舞 8月第3日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9932149,139.209079,17z?hl=ja&entry=ttu
 ときがわ町・大野地域は、嘗ては秩父郡に属し、村域は都幾川の水源地である外秩父山地の山間にあり、山の中腹、或いは渓流等沿いに民家は散在している。
 五明白石神社が鎮座する五明地域から埼玉県道30号飯能寄居線を南下し、「田中」交差点を右折する。同県道172号大野東松山線に合流した後、7㎞程西行する。「ときがわ消防団第3分団第4部」(消防団といっても小さな2階建ての建物だが)を右手に見ながら更に750m程道なりに進行し、緩やかな上り坂が右方向へカーブしたその先に大野神社が見えてくる
        
                                     大野神社正面
         外秩父の山間地の小さな集落の中、高台上に静かに鎮座している。
『日本歴史地名大系 』「大野村」の解説
 椚平(くぬぎだいら)村の北西にある。近世には秩父郡のうちで、村域は都幾川の水源地、外秩父山地の山間に展開する。東は平村、西方は堂平(どうだいら)山(875.8m)や大野峠(標高853m)などを境として、秩父郡芦ヶ久保村(現横瀬町)など。北西は白石村(現東秩父村)。玉川領に属し、小名に久保・向谷戸(むかいがやと)・道上(どうじよう)・竹ヵ谷・入(いり)・並木・八木成(やぎなり)・田ノ久保・片市・原・峰・小林・藤原・七重・鳥沢などがある(風土記稿)。
「風土記稿」「郡村誌」等によれば古く鉢形城(現寄居町)城主の家人大野弾正とその子孫が当地を開き、大野谷村と称したのが村の草創という。弾正は字橋倉に館を構え(橋倉屋敷・橋倉館などという)、天正一八年(一五九〇)には松山城(現吉見町)の落人森田将監が大野氏を継いだという。近世を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿・「風土記稿」など)。田園簿によると田高五石余・畑高一三四石余、紙舟役一七五文が課せられていた。
        
                石段上にある社号標柱と鳥居
 日本武尊がこの地に来て国常立尊を祭り、「身形神社」と称したのに始まると伝えられる。江戸期になって「北滝山妙見宮」と改め、明治初年に「身形神社」に社号をもどしたが、明治四十三年には地名を採って「大野神社」と改めた。本殿に安置される毘沙門天像は、北方の守護神であるため、北極星を祀る妙見信仰により奉安されることになった。
        
             静謐な雰囲気の漂う境内と、神仏習合時代の香りが今なお残る社殿
 秩父地方では、妙見菩薩が「妙見七ツ井戸」を渡り秩父神社の社地に奉斎された後、秩父妙見の分社を郡境の交通の要所7カ所(第1所・小鹿野町藤倉 第2所・皆野町金沢 第3所・長瀞町矢那瀨 第4所・東秩父村安戸 第5所・都幾川村大野〔現 ときがわ町大野〕第6所・名栗村上名栗〔現飯能市上名栗〕 第7所・飯能市北川)に秩父妙見宮〔現 秩父神社〕の守護神として祀ったと伝えられている。この 7 カ所の妙見社は「秩父七妙見」と称され、秩父妙見宮(現 秩父神社)の鬼門にあたる箇所に置かれたといわれる。
『秩父志』にも、「秩父七妙見」の置かれた位置について「郡境ニ祭ル」「郡境七所ニ往古分祀セシナリ」「群境ノ村々七所ニ遷請シ奉ル」と記され、秩父妙見の分社を郡境の交通の要所7ヶ所に攘災の守り神として祀ったことが分かる。多くが現在の秩父地方に含まれない境界辺りに位置しているが、当時は寄居、嵐山、ときがわ町、飯能市も秩父と称していたのであろう。
        
                     拝 殿
        
            道路沿いに設置されている社の由来の案内板
 大野神社由緒
 所在地 都幾川村大字大野三百二十九番地
 祭 神 国常立尊
 配 祀 大日孁貴命
 当神社は社伝によれば日本武尊が御征討の際この地に国常立尊を祭り、身形神社と称したのが始まりとされています。その後、徳川幕府の時代に北滝山妙見宮と改称され国幣小社秩父神社の姉神として、秩父七妙見のひとつに数えられたといわれています。更に明治四十年(一九〇七)に七重地区の神明社を合祀して同四十三年に社名を「大野神社」と改め現在に至っています。
 特殊神事
 一 送神祭(県指定選択無形民俗文化財)
 送神祭は今から二百六十年前、村中に広まった疫病を追い払うために始まったものと言われています。例祭の四月八日(現在は四月の第二日曜日)には宮司を先頭に青竹と和紙で作った御輿と小旗の行列が笛や太鼓の音と共に地区内を限無く巡って村中の疫病神を村外に送り出してしまうというたいへんめずらしい祭りです。
 二 ささら獅子舞(村指定無形民俗文化財)
 獅子舞は言い伝えによれば、享保年間(一八〇一〜一八〇四)の大旱魃の時雨乞いを祈願したことから始められたと言われています。旧暦の七月十七日(現在は八月第三日曜日)には、花笠四人に「ハイオイ」と呼ばれる先達と獅子三頭が笛の音色に合わせて「白刃」を代表する「七庭の舞」と「願ざさら」等を奉納いたします。
「文化ともしび賞」受賞 昭和六十一年二月十五日
 平成八年八月十八日
 大野神社氏子会
 大野地区文化財保存会
                                      案内板より引用
        
         社殿の左側に祀られている境内社・合祀社、石碑、力石等
合祀社に祀られている社は、山神・天満天神・大山祇・福寿稲荷・稲背脛・山峯等、右側の社は稲荷社。
      石段上には「聖徳皇太子」の石碑が、また右側手前には「力石」がある。
        
                     社殿奥にある記念碑や石碑、その奥には神興庫あり。
                                          記念
                   当社は人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊の創建せら
                   れたもので其の由緒極めて古く社号も妙見宮身形神社と
                   称えた事もあつたが明治四十年大字七重神明社を合祀同
                   四十三年六月大野神社と改称した境内地は元より国有地
                   であつたが昭和二十三年三月二十八日宗教法人令により
                   譲与の申請をしたところ同二十四年四月三十日指令社第
                   一六三六号を以て関東信越財務局長より無償で譲与の許
                   可をされたのであるこの劃期的な事項を永遠に記念する
                   ため碑を建て裏面には当時の神社関係者の氏名を録して
                   世に伝える。
                 大野神社宮司明階戸口保三書
     
     
 ところで「新編武蔵風土記稿」「郡村誌」等によれば古く鉢形城(現寄居町)城主の家人大野弾正とその子孫が当地を開き、大野谷村と称したのが村の草創という。弾正は字橋倉に館を構え、天正一八年(一五九〇)には松山城(現吉見町)の落人森田将監が大野氏を継いだという。
*大野弾正
『新編武蔵風土記稿 大野村』
「城跡 村の西の方高篠山の麓にあり、此所を橋倉と云。一つ離れし小山なり、山上一町四方許の平坦、巽の方を前とし乾を後とし、民坤の方谷川の流れあり、前に至り此二流合して一流となれり、堀の跡などあり、往昔大野弾正と云へるもの居住せり、」
『新編武蔵風土記稿 薄村(現両神村)』
「此の辺にて大野弾正討死すと云伝ふれど詳ならず。此の弾正は鉢形の家臣なれば天正の頃のことなるべし。郡中大野村に住せしとて其跡あり」
 
 入口正面の参道の左隣にも石段があり、その先には忠魂社が祀られている(写真左・右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「デジタル大辞泉」
    「ときがわ町HP」「神社内案内板・境内石碑文」等 

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大附日枝神社

「蟇目の神事」は、各所の神社で行なわれる鏑矢(かぶらや)を射て邪を除く神事であるが、ときがわ町・弓立山にも「蟇目(ヒキメ)」に関しても次のような伝説があるのでご紹介したい。
【弓立山の伝説】
 天慶8年(945
)に武蔵国司・源經基が慈光寺の四囲境界を定めるため、龍神山で蟇目(ひきめ)の秘法をおこなった。經基が四方に放った矢は、北が小川町青山の「矢の口」、東が大字瀬戸の「矢崎」、南が越生の「矢崎山」、そして西が「矢所」に落ち、それ以降、この山は弓立山と呼ばれるようになったという。
 弓立山は海抜426mの独立峰で、ここから西に射はなされた矢は、「ウズウ」と音を立てて地上すれすれに飛び、「振り矢」で向きをかえ、「曲り矢」で方向転換して「矢所」に落ちたという。その後、地面に突き刺さった矢は根が生えて篠やぶとなったとされている。(現在でもこの場所は霊地「矢所」として、篠やぶが大切に保存されている)
「蟇目神事」は弓矢の霊威をもって邪気を払う秘法で、民間に流布されるという。事例はあまりないが、破魔矢をみても弓矢が邪気を払うという事はよく知られている。禁中では「蟇目神事」は古来より様々な応験を顕す秘法として重用され、白川天皇御不例の際に源義家が大庭に立って弓を鳴弦したところ、病がたちまち癒されたという。
 新しい文化や生活が華やかに喧伝される一方で、日本人が古来から培ってきたものも連綿として継承され続けているのである。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大字大附672
            
・ご祭神 大山咋神
            
・社 格 旧大附村鎮守・旧村社
            
・例祭等 祈年祭 4月 例大祭 1013日に近い日曜日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9936667,139.2601026,16z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸元下地域から西方向、外秩父山地東端の弓立山(ゆみたて山・426.9m)の南面斜面上に位置する大附地域。瀬戸元下雷電神社からは最初南西方向へ鬱蒼とした森に囲まれた山道を道なりに2㎞程進行すると、一面視界が広がり、関東平野が一望できる広々とした空間に到着する。進行方向左手には「いこいの里大附そば道場」の看板があり、その先には「大附公衆トイレ」が設置されており、そこで暫し休憩。右側には東屋のような「大附道の駅」があり、そこに設置されているお洒落な「鐘」を鳴らそうかどうか、考えながら(結局鳴らせませんでした)いよいよ目標の社に向かう。
 そこから北西方向に進む山道を1㎞程進んでいくと、斜面右手に大附日枝神社の鳥居が見えてくる。山中にある静かな社である。
        
                                
大附日枝神社正面
『日本歴史地名大系』 「大附村(おおつきむら)」の解説
 [現在地名]都幾川村大附
 瀬戸村の西に位置する。村域は外秩父山地の東端弓立山(ゆみたて山・426.9m)の南面に展開し、越辺川支流上殿(かみどの)川の水源地帯になっている。南は上谷村(現越生町)。「風土記稿」によると村民六左衛門の先祖左近が天正年中(一五七三―九二)松山城(現吉見町)の落武者として当地に土着、大月氏と号したことが地名由来と伝え、古くは大月とも記したという。また、当地の旧家大附(大月)・山岸・吉野・島田の各家の祖先はいずれも松山城から落武者として当地にきて土着したとの伝えがあり、各家の墓地には永仁三年(一二九五)・正和五年(一三一六)・永正三年(一五〇六)などの年紀がある板碑が十数基現存する。

        
               道路沿いに設置されている案内板
 日枝神社由緒
 御祭神 大山咋命
 御神体 懸仏山王七社の本地仏が梵字で刻まれ、裏面に「奉掛本社山王御本宇大施主孫次郎、
         
永正四年丁卯(一五〇七)十二月十三日」とある。
 創 建 長禄元年(一四五七年)
     古くは山王権現と称し水境の地に鎮座されていたが、火災により焼失、現在地に
     建される。
 御神德 五穀豊穣 無病息災 家安全
 御神事 四月祈年祭 十月例大祭 保存会獅子舞奉納 
 末 社 愛宕神社 迦具土神 火伏の神
     疱瘡神社 少彦名命 医業酒造の神
 御神木
   平成十七年三月吉日建之
                                      案内版より引用
 
     
大附日枝神社正面の石製の鳥居         石段右側には社号標柱が立つ。
       
                      石段を登り終えると境内、正面に拝殿が見える。
       
                     拝 殿
 大字大附の日枝神社で毎年1013日に近い日曜日に奉納される「ささら獅子舞」は、現在町重要無形民俗文化財に指定されている。
 この獅子舞は江戸時代に越生町の麦原から伝わったと言われていて、朝方から夕方まで「四方がかり」「花がかり」「一ツ花」「千鳥ぬけ」「女獅子隠し」の五つの庭(舞)が奉納されるようだ。
 
                 拝殿奥にある精巧な彫刻で拵えている本殿(写真左・右)
        
              本殿の奥に巨木が伐採された跡がある。
 これは大附日枝神社の大欅(目通り幹囲 6.7m、推定樹齢700年、環境庁「日本の巨樹・巨木林 関東版(Ⅱ)」にも掲載された)の跡で、平成31年(2019)に樹形の変化及び樹勢の著しい衰退により氏子により伐採されたという。
 今でも巨木の幹部分には注連飾りが巻かれ、大切に保存されている。当地の方々の御神木に対する崇敬の念を改めて感じた次第だ。
 
 社殿右側に祀られている境内社。詳細は不明。     境内社の正面に置かれている巨石。
                           何か曰く等あるのであろうか。

 都幾川は、比企郡中部を流れる荒川水系の一級河川で、流路延長約30㎞。堂平(どうだいら)山・大野峠・刈場坂(かばさか)峠の稜線を分水界とする外秩父山地の東方を水源地帯とし、都幾川村西平で氷川、玉川村で雀川(玉壺川とも)、嵐山町菅谷で槻川を合せて流れ、東松山台地と岩殿丘陵を南北に分けながら東へ進み、川島町長楽で越辺川に合流する。
 一方、槻川(つきかわ)は、埼玉県西部を流れる延長25㎞の荒川水系の一級河川であり、都幾川最大の支流である。秩父郡東秩父村白石地区の堂平山付近に源を発する。外秩父山地に平行して北流するが、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより、流れを東南東方向から東方向に向きを変える。安戸地区を過ぎると小川町腰越地区へ入り、南から北へヘアピンカーブ状に穿入蛇行しながら小川盆地に達する。
 兜川と合流後、小川盆地を抜けると次第に狭窄な地形となり谷底平野を大きく蛇行する。太平山の麓では再度南へ北へヘアピンカーブを描くように曲流し、長瀞の様な結晶片岩の岩畳を縫って流れる渓谷の様相を見せる。この付近の槻川は嵐山渓谷と呼ばれる景勝地である。渓谷を抜けると東へ直線的に流れ、最終的に嵐山町鎌形で都幾川の左岸に合流する。
 このように、槻川は河床勾配が急な河川で、地形に沿って頻繁に屈曲を繰り返して流れている特徴を持つ。
 合流点までの河川延長は、山地を挟みすぐ南側を流れる水源がほぼ同じな都幾川とは大差はない。また総延長は本河川である都幾川とあまり変わらない。
        
                   境内からの一風景
 筆者が昔から不思議に思っていた事なのだが、「都幾川」と「槻川」は、水源がほぼ同じ場所でもあり、名称(発音)もよく似ていて、「都幾川」を「つきがわ」とも読めそうでもある。
 都幾川に架かる上唐子・大蔵両村の橋を「月田橋」といい、『新編武蔵風土記稿 比企郡』には「都幾川は郡の中程を流る、【源平盛衰記】に木曽越後へ退きしに、頼朝勝に乗に及ばずとて、武蔵国月田川の端あをとり、野に陣取とあり、今下青鳥村は郡の中央にて、則この川槻川と合せしより、遥に下流の崖にあり、ざれば彼記に月田川と記せしは、此川をさすこと明なり、田の字もし衍字(えんじ・間違った文字)ならんにも、當時下流までつき川と號せしならん、されど今は槻川と合てより、下流はすべて都幾川と號して、槻川とはいはざるなり」とある時期までは、嵐山町大蔵地域で槻川と合流したその下流の下青鳥、及び本宿地域附近の都幾川を月(田)川と称していた。
        
                             正面鳥居の右側にある湧水
 また正安三年宴曲抄に「大蔵に槻河の流もはやく比企野が原」とあり、合流している大蔵村の都幾川を槻川と称している。
 ときがわ町平地域の慈光寺は都幾山(つきざん)と称し、平・雲河原地域は嘗て都幾庄(とき)を唱えていたのだが、その由来は、慈光寺の山頂にある標高540mの都幾山(ときざん)より起ったともいう。
 このようにこのときがわ町周辺地域と「つき」は密接な関係があったと考えられる。
 今回参拝した日枝神社の地域名は「大附」。「大附」と書いて「おおつき」と読む。「つき」を共有しているこの地域は、どのような歴史が繰り広げられていたのであろうか。 
       
                大附地域から見た関東平野


*追伸として
 さいたま市浦和区岸町には「調神社」が鎮座しています。延喜式内社で、旧社格は県社という堂々たる格式であります。祭神は天照大御神・豊宇気姫命・素盞嗚尊の三柱。
 社記(寛文8年(1668年)の『調宮縁起』)によれば、第9代開化天皇の乙酉年3月に奉幣の社として創建されたといわれています。また第10代崇神天皇の時には伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び、伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)すなわち関東一円の初穂米・調の集積所と定めたとしています。
 このように「調(つき)」は、古代の租税の徴収に当たる職名とも想定され、「シラベ・チョウ・ミツギ」ともいい、和銅6年(713年)元明天皇「二字佳字の詔」により、後代に「月・築・槻・附・都幾」等を用いたといいます。この「月・築・槻・附・都幾」等の漢字は「都幾川」「槻川」にも共有されています。偶然の一致でしょうか。
 また別説では、『新撰姓氏録』や国史に見える調連・調首・調吉士・調忌寸一族(調氏)が奉斎したという説もあります。この調氏は渡来系氏族であるが、東国に渡来人の集団居住が多いこととの関連が指摘され、当社の所在地名の「岸」は、「吉士」に由来するものとされています。
 ときがわ町北側には、東松山市唐子地域もあり、渡来系の人々が移住した地とも言われており、ときがわ町にもこのような渡来人を祖とする一族(調族)の移動・移住の可能性もありそうです。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町 HP」「Wikipedia」
    「案内板」等    


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瀬戸元下雷電神社

 都幾川支流である瀬戸川はときがわ町・大附地域の弓立山(標高426m)を源とする延長約2㎞の小河川で、瀬戸・関堀・馬場各地域を流れ、旧都幾川村本郷・田中地域付近で都幾川と合流する。
 恐らく「瀬戸」地域は、この都幾川支流である「瀬戸川」から派生した地名であるか、その逆パターンであろう。この両者はお互い固有名詞である「瀬戸」が共有していて、加えて隣接して存在している為、何かしらの関連性はあることは確かである。
 さて、この「瀬戸」地名由来には、各説があり、ハッキリとしたものはない。筆者も多くの解説書やHP等を確認したが、この地名の多くは海近くか、河川に面した地域由来が多いが、だからといって陸地にも数多くこの地名は存在する。
 結論から言うと、この地名は、海のあるなしに関わらず、狭い出入口をいうような『狭処(セト)』が本来の意味で、「瀬戸」という漢字は後に転じたものであるという。 「瀬田」「瀬戸」という地名は、狭い海峡のみでなく内陸部の山間や丘陵地等の谷地に多く見られるとの事だ。
        
            ・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町瀬戸元下4471
            ・ご祭神 大雷命(推定)
            ・社 格 旧瀬戸村鎮守
            ・例祭等 例祭 10月15日(ささら獅子舞)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9965833,139.2694904,17z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸元下雷電神社が鎮座する瀬戸元下地域は、桃木地域の丁度真南側に位置し、現在は瀬戸元上・元下各地域に分かれているが、嘗ては同じ「瀬戸村」を成していた。
 途中までの経路は桃木八幡神社を参照。埼玉県道30号飯能寄居線合流後、1.6㎞程南下する。その後、同県道172号大野東松山線との交点でもある「田中」交差点を直進し1.2㎞程進むと、信号のある丁字路があり、その先の路地手前付近に「瀬戸雷電神社」の立看板が見えるので、そこを右折する。そこからは道なりに200m程進んだ瀬戸川に架かる橋の手前付近に瀬戸雷電神社の看板が見えてくる。
 河川沿いに路上駐車できるスペースがあり、そこの一角に車を停め、徒歩にて西方向に進む。
        
                      駐車した地点から暫く徒歩にて社に向かう。
 歩道の右側は「瀬戸川」なのだが、ほぼ「沢」と言っても良い小川であるが、水質も良さそうで綺麗である。この河川沿いを暫し進むと、正面に瀬戸雷電神社の石段が見えてくる。因みに歩道左側は鬱蒼とした森が続いていて、もしかしたら一昔前はこの歩道も参道の一部だったのか、とも感じる位風情がある。
 神社紹介のブログではあるが、このような歩道からのスタートも悪くない。 
        
                  瀬戸元下雷電神社正面
 参拝日は4月後半の平日。春時期とはいえ、日中は真夏を思わせるような日差しであり、少し歩くだけでも汗ばむ陽気だが、新緑に覆われている森に入ると至って涼しく清々しい。舗装されていない歩道も一昔前の風情や情緒があり、どことなく懐かしさを感じながら暫し歩いて行くと目の前に瀬戸雷電神社の石段、そしてその奥に鳥居が見えてくる。
 
 石段を登り終えると正面に石製の鳥居が見える(写真左)。鳥居の左側には社務所も設置されている。どうやら鳥居の正中線上からやや左向きにずれて社殿は鎮座しているようだ。
 河川沿いの歩道は周囲木々に覆われ、ほの暗くもあったが、鳥居を越えると状況は一変し、明るい境内が一面に広がる(同右)。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
 瀬戸元下雷電神社の創建時期、由緒等は不明。但しその西側で「雷電山」頂上部に鎮座している雷電神社奥宮は、雷除けの神様が祀られているという。因みに雷電山はときがわ町にある標高418.2mの低山で、埼玉百名山に名を連ねている。
 またこの雷電神社で1013日に近い日曜日に行われている「雷電神社ささら獅子舞」は、古文書から江戸時代の享和元年(1801)には、ささらに関する記録があり200年以上のわたり行われていることが分かっており、舞は「花がかり」「雄獅子かくし」「一ツ花」という。
 この雷電神社ささら獅子舞は町の無形民俗文化財に指定されている。
       
    境内は幾多の木々に覆われているが、その中でも特に立派な大杉の大木(写真左・右)
        
                    境内南側に設置されている「助成施設」という神興庫
         この中にささら獅子舞等が大切に保管されているのであろうか。
        
         社殿より境内を眺める。瀬戸地域を静かに見守る鎮守様。
 ところで『新編武蔵風土記稿 平村(現ときがわ町西平)』に「山王社 村の鎭守なり。當社は帯刀先生義賢討れし後、その臣下の子孫なる田中村の市川氏、馬場村の馬場氏、瀬戸村の荻久保氏、腰越村の加藤氏等の、先祖まつりて鎭守とせりと、(中略)天福元年十一月廿六日始て神事を行ひしより、今も流鏑馬をもて例祭となせりと、社傳にいへり」と記されている。
 この「田中村の市川氏・馬場村の馬場氏・瀬戸村の荻久保氏・腰越村の加藤氏」は、大蔵館の戦に敗れた源義賢の家臣で、各村に土着した一族の末裔といわれている。
 瀬戸村の荻久保氏
『新編武蔵風土記稿 瀬戸村』
「舊家者丈右衛門、荻久保を氏とす、先祖某は帯刀先生義賢の臣下なりと云傳ふ、義賢近鄕大藏に舘を構へしなれば、此邊を領せしと見えて、隣村馬場村の馬場氏、田中村市川氏なども、各其の祖先は倶に義賢に仕へしと云、丈右衛門が先祖某歿して、後村内に葬り、後神に崇めて萩明神と唱ふ、其葬地には塚ありて、今福仙坊と呼ぶ、これは此人晩年薙髪して福仙坊と號せし故なりとぞ」

 
         参拝終了時、瀬戸川の流れが気になり撮影(写真左・右)。

 社は2段の石段上の高台に鎮座しているが、その理由が当初分からなかった。せいぜい斜面上に鎮座しているので、参拝者の方々への利便性から石段を設けた、という単純な考えしか浮かばなかったが、社に沿って流れている瀬戸川を見ると、おぼろげながらその理由がわかってくる。
 瀬戸川は現状川底がハッキリ見える位の清流で、穏やかな姿をしている。尚且つ、洪水対策として護岸用のブロックもしっかりと組まれているようであるが、この川幅に対してブロック壁の高さを鑑みても、一旦大水等が発生すると土砂災害による被害が出そうな地域と変貌しそうな外観であった。
 事実「ときがわ町 土砂災害マップ」を見ても、丁度社の東側及び瀬戸川周辺は「土砂災害特別警戒区域」「土砂災害警戒区域」になっていて、この地域の危険地帯の「へそ」に当たる場所に鎮座しているこの社の存在意義を改めて確認したような思いであった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町HP」等

       

        

 

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桃木八幡神社

 桃木八幡神社周辺は、桃木の名前にちなんで花桃がたくさん植えられていて「花桃の里」と呼ばれていて、三月下旬から四月上旬には社参道で、「花桃まつり」も開催され、多くの人で賑わう。この「花桃の里」には、1本の花桃の木にピンクや赤、白の花を咲かせる「源平花桃」や、濃い桃色の八重咲きの「矢口桃」などが咲き、そしてこの種の「枝垂れ花桃」が道路沿いや庭先に咲く。
 地域住民団体の「花桃の会」のメンバーは、花桃の咲く里づくりによる地域の活性化と、心の触れ合う住みよい地域社会をつくることを目的に、平成八年(1996)から植栽のなどの活動を行ってきたという。
 今回何のレクチャーもなく、4月下旬という中途半端な日に参拝したため、花桃を見ることは出来ず、その点は大変残念。いつの日にか、桜と共に咲き誇る花桃の美しい風景を愛でたいものだ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町桃木399
             
・ご祭神 品陀和気命
             
・社 格 旧妙覚郷八ヶ村総鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0047598,139.2657312,18z?hl=ja&entry=ttu
 五明白石神社から北西方向にある「五明」交差点を左折、埼玉県道30号飯能寄居線合流後、1.6㎞程南下する。その後、同県道172号大野東松山線との交点でもある「田中」交差点を右折し、「ときがわ町立都幾川中学校」を左手に見ながら次の信号の手前にある上り坂の路地を左折し、暫く道なりに進むと、右手に桃木八幡神社の鳥居が見えてくる。
        
                        綺麗に整えられている
桃木八幡神社周辺環境
『日本歴史地名大系 』「桃木村」の解説
 関堀村の西に位置し、南西方に弓立山がそびえる。玉川領に属し、いわゆる妙覚郷八ヵ村の一つ。小名に「根キハ・トチ沢・山口」があった(風土記稿)。田園簿には桃ノ木村とみえ、田高九〇石余・畑高二六石余、ほかに紙舟役五〇三文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高一四二石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本金田領。以降、同領のままで幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。化政期の家数三〇、用水は平村地内で都幾川から取水した(風土記稿)。
 鎮守は八幡社(現八幡神社)。妙覚八幡大菩薩御縁起(西沢家文書)によれば同社は妙覚郷八ヵ村の総鎮守で、延暦二四年(八〇五)の勧請という。
        
                  桃木八幡神社正面
 都幾川を見下ろす丘の上に鎮座する桃木八幡神社は、明治維新まで当社の別当を勤めていた明覚寺(妙覚寺)の開山僧廣山盛阿法印(釈廣の山盛阿)が延暦14年(805)に創建したと伝えられている。建久4年(1193)には源頼朝が社領を寄付し祈願所としたといい、その後明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守として祀られていたという。
        
        参道は100m以上続く中、周辺の環境整備もしっかりとされている。
 桜や花桃の開花の時期は過ぎてしまったが、新緑が若々しく、木々も活力溢れているようだ。
          空気も澄み渡り、春時期ならではの気持ちよい散策。
        
 境内も広々としていて、神仏習合の名残りが今でも残っている独特な造りの社殿と相まって、良い雰囲気を醸し出している。また社殿の奥に聳え立つ巨木等の木々も良い感じである。
        
さすが明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守の風格といったところか。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 桃木村』
 八幡社
 妙覺郷八ヶ村の鎮守とす、神體木の立像にて、聖徳太子の御作と云、社傳の書に、當社は延暦二十四年の勧請なり、其後遥に星霜を經て建久四年右大将賴朝社領若干を寄附せしめ祈願所となせりと、其頃は末社九十餘宇ありて、頗る繁榮せしが、天正十八年八月丙丁の災に罹りて、社領ことごとく焼失す、其後寛永二年再び造營せしと云、此書は近き頃記せしものにて信じ難けれど、社地のさまなど古き鎮座なるべく見ゆ、本社の乾の方に僅なる池あり、御手洗とす、此水いかなる旱にも涸ることなしと云、
 別當妙覺寺
 もとは明王院と號せり本山修験、入間郡西戸邑山本坊配下、林水山宮本坊と號す、本尊不動は智證大師の作、長七寸許、開山廣山盛阿法印は、弘仁三年八月十三日寂す、開山より文明頃まで、十三世の僧名を記せしものあれど考證とすべきことなし、此邊の郷名を妙覺と唱ふるは、當寺より起りし由寺僧は云へど、此寺もとは明王院と號せしを、近頃妙覺と改めしことなれば、此寺かへりて郷名の字をとりしこと知べし、境内に陶物の薬師あり、小なる石の龕に安ず其傍に椋の大木あり、地上より二尺許上に、口の徑二寸程なる穴あり、其中に冷水涌出す、眼を患ふる者此水をもて洗ふ時は、必驗ありと云、
 寶物愛染像一軀。春日の作と云、長二寸許、右大将賴朝の寄附せし由、云傳ふれど信じがたし、
 鐘樓 延寶六年鑄造の鐘なり、
 地蔵堂蹟。何の頃廢せしや詳ならず、本尊は長一尺許、行基の作と云、今本堂に置り、
 
    社殿左手に鎮座する境内社・稲荷社    社殿右手奥に鎮座する境内社・大洗磯前神社
       
        境内社・大洗磯前神社手前に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
「埼玉の神社」によると、神仏分離まで別当を務めた明覚寺は、古くは明王院といい、本山派修験の寺であったが、神仏分離後は西沢姓を名乗って復飾した。当主の泰一で二九代を数えるといい、『風土記稿』や『明細帳』に載る由緒は同家所蔵の社記によったものである。また、当社の本殿の軒には卍の紋が入っており、神仏習合当時の名残が見られる。なお、西沢家は代々当社の鍵を預かっており、当主が氏子総代として神社運営のまとめ役になっているなど、今も当社と深いかかわりがあるという。
 この西沢氏は、八幡社別当修験妙覚寺宮本坊文書に「十世貞山智歓法印・北条氏島崎云ふ、改西沢帯刀光輝靭負正、大永元年八月十三日寂・西沢靭負正道房。十一世寿山林盛法印、元亀三年九月三日寂・西沢靭負尉道光。十二世速山長歓法印、寛永六年四月四日寂・西沢右近将監」と記載され、それ以降も29代と続くこの地域の名主的な存在であるのであろう。
        
              境内社・稲荷社・八坂社・山神社合殿
              
        社殿前には神仏習合の名残を象徴する宝篋印塔が立っている。
 宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、中国からの伝来後日本で独自の発展をしてきた塔である。
 宝篋印塔を礼拝供養することによって、亡くなられた方が現世で犯した罪を消し、極楽浄土へ往生できるとされている。また、宝篋印塔は多数の如来が集っているとも考えられており、ご先祖様の供養だけでなく、子孫を守り、一族を繁栄へ導くともいわれている。
 参拝では「宝篋印陀羅尼」を唱え、塔の周りを右繞三匝(うにょうさんそう/仏に対して右回りに3回まわる参拝の作法)することで効力を発揮すると伝えられている。

 この宝篋印塔は寛政九年(一七九七年)神仏習合の時代、当地に造立されたが、明治元年(一八六八年)政府の神仏分離令により解体され、一部は放置、一部は地中に埋められた。
 調査の結果、百四十年の時を経て、平成十九年二月、塔の全部分が発見される。ここに再び地域の繁栄と住民の健康、幸せを祈り、造立当時の姿
「塔 高サ壱丈壱尺、敷石掛ヶ高サ四尺二シテ六尺四方、メ惣高サ壱丈五尺也」
 に復元し供養する。
 平成十九年六月吉日
                             「
宝篋印塔下部供養碑文」より引用

        
                静かに佇む古社の趣のある社
          


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「フォトさいたま」宝篋印塔供養碑文」等
 

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雲河原四幡神社

 ときがわ町には「雲河原」という一風変わった地域名が存在する。「都心に近い本格的な田舎」というときがわ町のキャッチコピーにあって、更にこの地域は外秩父山地外殻部に位置し、町中央部北側にありながら、四方山に囲まれた長閑な山間地でもある。
「雲河原」は「くもがわら」と読む。名称由来は不明であるが、昔は「雲瓦」と称していたという。
 そしてこの地域には、雲河原四幡神社が鎮座している。地域にとっての主要道である埼玉県道273西平小川線が南北に通っていて、小川町・上古寺氷川神社から南下し、その県道から北側小川町との境手前付近で南東方向に進む道を右折して山道を1㎞程進んでいくと、この社にたどり着くことができる
 杉林に囲まれた中にひっそりと佇む社である。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大字雲河原617
            
・ご祭神 不明
            
・社 格 旧雲瓦村鎮守(推定)
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0140945,139.243474,16z?hl=ja&entry=ttu
「雲河原」の名称由来はハッキリとは分からないが、嘗て秩父郡大河原郷(東秩父村)より男衾郡大河原郷勝呂村(小川町)、及び比企郡大河原荘関堀村・田中村・桃木村・平村の四ヶ村(都幾川村)に亘る広範な地域を大河原郷と称していたという。『新編武蔵風土記稿 
秩父郡条』に「椚平村、大野村、安戸村、御堂村は大河原郷に属す、古は大河原村と唱へり」。『同風土記稿 比企郡条』に「大河原郷は雲瓦村の一村に此唱あり、其余数村は皆秩父郡にかかれり、又庄名にも此唱あり」と記載があり、「雲河原(瓦)」が「大河原郷」の名称からの由来ではないかと考えられる。
        
          木製の鳥居、社号標柱はあるが、ここは社にとっては裏参道にあたる。
 当初、この「四幡神社」の「四幡」は、どのように呼んだらよいか分からなかった。一見すると「幡」という漢字が使用されていて、八幡神社系列の社かとも考えたが、「埼玉の神社」によると「シバタ」と読むようだ。また創建時期・由緒も全く不明で、『新編武蔵風土記稿 雲瓦村』にさらりと掲載されているだけである。『雲瓦村条』自体説明もあまりないので全文掲載する。
『新編武蔵風土記稿 雲瓦村』
 雲瓦村は正保及び元祿の改には雲河原と書せり、後何の頃か今の文字に書替しと云、大河原鄕都畿庄玉川領に屬して、江戸より十七里の行程なり、家數四十、東は別所村、南は平村、西は古寺村にて、北は日影村なり、東西十町、南北六町許、御入國の後は御料所にして其後元祿十五年牧野某に賜はり、今子孫大和守知行せり、
 高礼場 村の南にあり、
 小名 上 下
 雷電山 村の南の方、平村の境にあり、
 芝宮明神社 村の鎮守なり、祭神は詳ならず、村持、
 山神社 同持、
『風土記稿』に記載されている「芝宮明神社」がこの社の前身であるとすると、「芝(シバ)」が「四幡(シバタ)」と後世改名したのではなかろうか。
        
                 裏参道から境内に入る。
        
                       拝殿南側には正面にあたる石製の鳥居が立つ。
 表参道正面には石製の鳥居が立ち、その奥には幅の狭い道があるようであるが、人の歩いた形跡もあまりない。地図を確認すると、東南方向にある民家に続いているのだろうと想像はでき、ある程度駆られていて、とりあえず参道らしき体を成しているくらいだが、とても立ち入る程の勇気はない。
        
                             拝殿から正面の鳥居を撮影
   鳥居の先の道が舗装されていない獣道のようにも見え、それ以上の散策は出来なかった。
        
                     拝 殿
            この社の創建、由緒、ご祭神等は調べても不明だった。
        
                       拝殿右側後方に祀られている石祠群及び石碑等
 境内には石祠群が祀られていて、その中央部分には「國造大穴牟遅命」と刻まれている石碑がある。この石碑の前には大黒様の像もあり、その石碑の2つ左側には柄付きの香炉を持った幼少時の聖徳太子像らしい石祠もある
 この「國造大穴牟遅命」は、出雲神話で有名な大国主命の数多い別称の一つであり、『先代旧事本紀』にその名称が出ている。
 大国主命は、素戔嗚尊の子、または6世の孫とされ、出雲大社の祭神。少彦名神(すくなびこなのかみ)と共に、中つ国の経営を行ったが、天照大神の使者が来ると国土を献上して自らは隠退した。医療・まじないの法を定めた神とされる。「因幡の白兎」の話は有名で、中世以来、大黒天と同一視されるようにもなった。別名は大己貴神・八千矛神・葦原色許男命。古事記では大国主神と記されている。
『國學院大學「古典文化学」事業HP』のよると、『日本書紀』では一貫して大己貴神(命・大神)の名で活動しているのに対し、『古事記』では稲羽の素兎や大国主神の国作りなどの神話の展開に伴って、大穴牟遅神・葦原色許男神・宇都志国玉神・八千矛神・大国主神と呼称が変遷している。つまり、大穴牟遅神の神話(稲羽の素兎・根の堅州国訪問)は、王者となるための成長物語とみる説があり、その成長過程の中で、名称の変遷があったのではないかという事だ。
        
                               拝殿左側に祀られている石祠
          石祠の回りの置物から推察するに、稲荷社であろうか。

 この境内に祀られている「國造大穴牟遅命」の石碑を以って、この社のご祭神は「大穴牟遅命(神)」とも考察した。本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま)、また産土神や地主神等の縁故の深い神を祀る摂社とも考えたからだ。しかし、この社に関しての由緒等もないなか、単純に社殿に祀られているご祭神と、境内に祀られている社が、同一系の社であるというのは、絶対的な根拠に乏しい想像の域でしかないからだ。
 何の参考資料もない中で結局一つ解決することも出来ず終了となり、漠然とした不満のみが残ってしまった今回の社散策。ただ「雲河原(瓦)」・「四幡(芝)」というこれらの名称には、何か曰くがありそうである。
        
 裏参道木製の鳥居がある道路を挟んだ反対側には、擁壁上に「青面金剛像」や「馬頭観音像」等の庚申塔、その右並びには林道雲河原線の「開鑿記念碑」がある



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」國學院大學「古典文化学」事業HP」
    「Wikipedia」等


         
          
         

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