古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上古寺氷川神社

 古寺という地域名は「埼玉の神社」によると嘗て文字通り古い寺があったことから地名となったと伝えられたという。明治十九年の地誌の下調書によると、聖武天皇の天平年間(七二九-四九)に各地に国分寺・国分尼寺が建立されたが、それ以前に当地の中央に既に大講堂という大きな堂宇があり、大宝年中(七〇一-〇四)に大和国葛城の行者、役小角が関東に下向し、その近傍を遊歴したという。
 後に小角が都幾山に移り慈光寺を建立し、その住職であった慈薫和尚がしばらく大講堂の住僧となっていた関係で、慈光寺の所管となる。貞観二年(八六〇)二月に左大臣清原晏世卿為公が勅使として郡司宣下の折、慈光寺の寺領・境界を定めた際に、この地には慈光寺以前に古い寺(大講堂)があったので古寺村と名付けたとされる。そして正慶二年(一三三三)に守邦親王が来寓して、その古い寺が東の王の意から東王寺となった。
 
しかしその後数度の火災により焼失したため、『風土記稿』上古寺の項には「氷川社 村の鎮守なり、村民持」と記され、既に別当寺は無くなっていた。
               
              
・所在地 埼玉県比企郡小川町上古寺566
              ・ご祭神 健速須佐之男命 竒稲田姫命 大那牟遅命(大己貴命)
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 10月第3日曜日  例大祭 

 埼玉県道273号西平小川線沿いにある「埼玉県指定 古寺鍾乳洞入口」の碑を更に1㎞程南下すると、上古寺氷川神社の標柱が見える。やや目立たない所に立っているため、見逃す可能性は多い。その後右折し舗装されていない、また道幅の狭い砂利道を進行する。
        
          「
古寺鍾乳洞入口」の碑のすぐ南側にある二十二夜待供養塔等の石造物

 埼玉県道273号西平小川線沿いにある「埼玉県指定 古寺鍾乳洞入口」の碑がある場所のすぐ南側は、嘗ての下古寺村と上古寺村の境界地であり、二十二夜待供養塔などの石造物も並んでいる。二十二夜待供養塔並びに立っている石碑の中央部には「南無阿弥陀仏」と刻まれていて、その上には阿弥陀如来の梵字「キリーク」と刻印されている。更に左右には「右 おがわ・左 ちちぶ」と刻まれている。嘗てこの地域に小川町方面と分岐して、天満神社から矢岸橋を渡って腰越村に続き、最終的に秩父方向に行く道が存在していたようだ。
            
                 県道沿いにある社の標柱
          
 舗装されていない砂利道を進むとほぼ正面に社の社号標柱が見える場所に到着する(写真左・右)。但し専用の駐車スペースは進行中見当たらず、途中路肩に停めてから徒歩にて目的地まで進む。鎮座地は上古寺の中央に位置していることもあり、古くから地内の人々の心の拠り所となってきたようだ。
 
 進行方向正面に小高くこんもりと茂る杜の入口がすぐに目につく(写真左)。杉・檜・椎の古木に包まれる中、長い参道を歩くと荘厳な雰囲気が漂い、いかにも神域にふさわしい景観を呈している。参道当初は石段があり、緩い上り斜面をスムーズに登る(同右)。
               
 石段が途中で終了し、木製の両部鳥居が見えてくる辺りから参道の様相は一変し、木の根が幾重にも参道を横切るように路面上を覆っていて、この参道は境内まで続く。
 かなり歩きづらいが、
幸いなことにこの木の根は階段代わりになっている。
               
                       参道の様子。最後まで木の根の階段を登る。

 斜面上、またか丘陵地や山の頂上部に鎮座する社は、現在綺麗な石段を積み重ねて参拝出来ているが、一昔前はどの社もこのような所が多かったのではなかろうか。自然と一体感となるこの心持が逆に心地よく、また社への純粋な信仰心へと導いてくれるようだ。
               
 木の根で構成されている階段を上っている途中、山頂の境内の若干下部・左側に「氷川神社のエンエンワ 中道廻りの順路」案内板が立っている。
                     
              境内前には一対の石灯篭が立ち、その右側には杉の大木が聳え立つ。
                 その先に境内が広がる。
 
      境内正面から拝殿を撮影。      境内にある『氷川神社のエンエンワ』案内板
  社殿が西を向いている珍しい神社である。 

 上古寺のエンエンワ 大字上古寺 [平成13823 町指定無形文化財]
 氷川神社は、役小角(役行者)が小祠を建立し武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請したことに始まると伝えられている。御神体は木造神像で、製作時期は室町時代末期を下らない。また、境内からは中世の古瓦が出土し境内の姥神社の御神体は鬼瓦であることから、中世には瓦葺の社殿が建立されていたと考えられる。
「オクンチ」といわれる当社の秋祭りでは、「中道廻り」という珍しい行事が行われる。先達が全国60余州の一宮の神々を唱えると氏子が「エンエンワー」と大声で唱和し、供物を空高く投げて宮地に供えながら「中道」と呼ばれる唱道を一周する。八百万神を対象とした特徴的な神事であり、この祭りを「エンワンワ(因縁和)」とも呼んでいる。
 また、この地域を開発したとされる草分けの18戸の氏神を祀ったと考えられる御末社に、アオキの葉に粳米から作った「シトギ」と赤飯、洗米・塩を入れた小皿、茅の箸を台付きの盆にのせ、地区の子どもが献膳する。「シトギ」などのお供えの形態、装束や名称なども古い様式を踏襲しており、地区全体でその伝統を保持し伝承するなど、地域に密着した無形民俗文化財として大変貴重である。
                                      案内板より引用

               
                                 拝 殿

 氷川神社(上古寺五六六)
 因縁和の神事で有名な上古寺の氷川神社は、社記の『因縁和神事覚』によれば、斉明天皇の五年(六五九)九月十九日、役行者部(役小角)が関東に下向して廻遊していた際、この地の村人の敬神宗祖の念厚きに感じ、かつまたその景観をめで、霊感を得て地域中央の宮の森に小耐を建立すると共に、武蔵一宮氷川大神の分霊を勧請して手づから神像を木彫してこれを安置し、当地の繁栄鎮護を祈念したことに始まると伝えられる。この故を以て、氏子の間では毎年九月十九日に例大祭が斎行されてきた。
 社殿に武蔵一宮氷川神社の宮司岩井宅幸筆の「氷川神社別御魂」という扁額が幕末に掲げられたのも、こうした創立の経緯によるもので、役行者が彫ったと伝えられる神像は、氷川神社の神体として今も本殿内に大切に祀るられている。ちなみに、社の近くの金嶽川には屏風ケ岩という滝があり、そこで役行者が斎戒休浴したといわれてきたが、慶応年間(一八六五~六八) の洪水によって大石が崩れ込んで浅瀬になってしまっており、往時の面影はない。
 氷川神社で行われてきた特殊な祈願としては、養蚕倍成祈願と子供の癇封じがある。養蚕倍成祈願は、繭五~七個に糸を通し、拝殿の格子のところにつるすもので、養蚕が盛んに行われていた昭和三十年ごろまでは秋になるとよく上がっていた。癇封じは、竹を切って作った筒を二本つなぎ、これに酒を入れて供え、祈願するもので、昔は時折見かけたが、近年では絶えてしまった。
境内には、役行者が当地に寓居した時の手作りの面を祀る姥神神社、村の悪疫を被う八坂神社、火防の神として祀る天手長男神社、雨乞いや雷除けに御利益のある雷電神社、豊作や子孫繁栄をもたらしてくれる稲荷神杜などが祀られている。この稲荷神社は、白蟻除けの信仰もあり、神前の白狐像一対を借りて帰り、家の大黒様の横に祀っておくと白蟻が家に上がらないとの信仰がある。
 また、本殿の裏側には「御末社」と呼ばれる一八の祠が祀られている。この「御末社」は、氷川神社の創建当時、この地域を開発したとされる草分けの一八戸の氏神を祀ったもので、寺院でいう位牌堂のような印象を受ける。なお、秋の例大祭に行われる因縁和の神事では、全国七十余州の一宮への奉献に先だち、この「御末社」に対して献膳を行うのが習いとなっている。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
  拝殿に掲げてある「氷川大明神」の扁額     拝殿手前で左側にある『代々椎』の切り株

 境内には境内社が鎮座する。
   
 拝殿左側には『稲荷社・天手長男社・姥神社』        『御嶽大神』
 
   『御嶽大神』の奥には『境内三社』         拝殿右奥には『雷電社』
               
                 拝殿右側には社務所があり、その隣に八坂社が鎮座する。
      

参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」等  
                       

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