古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北大桑香取神社

 中川は埼玉県と東京都の東部、関東平野の中部を流れる川。全長 84km。埼玉県羽生市北方の利根川から分流し、南東流して幸手市付近から南流、松伏町で古利根川、吉川市で元荒川と合流する。その後、東京都に入って、新中川放水路を分けてのち、中川放水路となって東京湾に注ぐ。嘗ての利根川の流路で、上流部は島川、中流部は庄内古川、下流部は古利根川の流路にもあたっている。古くから氾濫を繰返し、江戸時代以降たびたび改修されたという。
『日本歴史地名大系  北大桑村の解説』によると、この島川は、現在の中川の最上流部にあたり、明治年間からの改修により、庄内古川とともに下流の古利根川に結び付けられて中川に統合された。江戸時代には羽生領(現加須市・羽生市・騎西町・大利根町辺り)の悪水落を水源とし(風土記稿)、北大桑村道橋(現大利根町)から川口村(現加須市)で浅間川(古利根川)に合し、八甫村(現鷲宮町)、狐塚村(現栗橋町)、高須賀村・権現堂村(現幸手市)で利根川(権現堂川)へ合流する区間を島川(島川堀)とよんだ(寛政一〇年「羽生領用水組合御普請箇所記」見沼土地改良区文書)。
 天正九年〜一五年(一五八一〜八七)頃に比定される六月三日付北条氏照書状写(武州文書)には、北条氏が直接支配する八甫の上流へ上る商船が三〇艘にも及んでいることが記されており、戦国期には島川筋が主要な水運路として利用されていたことがわかる。近世初頭の利根川改修では、文禄三年(一五九四)に会の川が締切られたと伝えられ、浅間川から島川筋は利根川の主流となったとの事だ。
 加須市北大桑地域は、東北自動車道加須ICの東側に位置し、北側に嘗ての島川と呼ばれた中川が北側に流れ、南は葛西用水路を境としてその北岸にある東西に長い地域である。
        
             ・所在地 埼玉県加須市北大桑808 
             ・ご祭神 経津主神
             
・社 格 旧北大桑村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 国道125号線を久喜市旧栗橋町方向に進み、東北自動車道加須ICの先にある「北大桑(西)」交差点を右折する。通称「北大桑観音通り」を道なりに東行すること600m程で「北大桑」交差点に達し、正面左手にコンビニエンスが見え、そのすぐ東側隣に北大桑香取神社の境内及び社殿が見えてくる。
        
          
「北大桑観音通り」沿いに鎮座する北大桑香取神社
『日本歴史地名大系』 「北大桑村」の解説
 杓子木村の南に位置し、南は南大桑村(現加須市)。北を島川が流れ、南の村境を葛西か用水が流れる。また日光道中の迂回路である日光御廻道が通る。中世には大桑として史料に表れ、南北に分村していないことがわかる。天正八年(一五八〇)と推定される三月二一日の足利義氏印判状写(喜連川家文書案)に「大桑郷」がみえ、古河公方足利義氏は北条氏照に対し、同郷など五郷から古河への人足徴発を命じている。同一八年六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)、年欠五月三日の鷲宮神領書上(旧鷲宮神社文書)、現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月の棟札により鷲宮神領であったことがわかり、北条家印判状には「拾貫文 大桑之内」、鷲宮神領書上には「拾貫文 本郷香雲院領大桑郷之内 此物成五貫文」、棟札には「大桑村」と記されている。
        
                  静まり返った境内
 北大桑香取神社の創建年代は不明である。ただ当社で所蔵されている金幣に「元禄十二己卯(1699年)」と記載されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。隣にあった「金剛院」が別当寺であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。なお、明治末期の神社合祀政策について、当社では特に周辺神社の合祀は行われていない。
 また
当社には江戸時代の仏師円空が彫ったという「円空仏」を3体所蔵している。
 
    参道左側に祀られている琴平社      拝殿に通じる石段の手前にある案内板
 有形文化財 絵画   香取神社の絵馬
  指定年月日  昭和六十一年十二月八日指定
  所 在 地  加須市北大桑八〇八番地
  所有者  等   香取神社
    制 作 年   延亨三年(一七四六)
 絵馬は「神仏に祈願または恩返しのしるしとして奉納する絵の額」といわれ、生馬に代えて奉納されたものですが、江戸時代になると単に祈願の目的だけでなく、芸術品としての奉納が盛んになりました。
 この絵馬が描かれた延亨三年(一七四六)は、江戸時代第九代徳川家重のころで、奉納の目的は不明ですが、当時の風俗がよく描かれており、絵師の名も判明しています。
 作者絵情斎は三同曾信などとも呼ばれ、一六八〇年加須市川口に生れ、一七五五年死亡、江戸で制作活動に従事した浮世絵師です。
 江戸時代の風俗を知る貴重な資料として指定しました。
 昭和六十三年三月三十一日 加須市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 香取神社 大利根町北大桑八〇八
『風土記稿』島川の項に、羽生領内の悪水を利根川に流す島川に、逆流を防ぐ門樋がある様子が記してある。これが当地の事であり「古く水溢の患多き所」ともある。同書に「香取社 村の鎮守なり、金剛院持、金剛院 本山修験幸手不動院配下音羽山と云」とある。
 当社の創立は不詳であるが、内陣に安置する金幣(九四センチメートル)に「香取大明神(梵字)奉寄進元禄十二己卯ノ十二月吉日 羽生領大桑村并生出村 阿左間村惣氏子」の銘がある。これは当社が往時この辺一帯の総鎮守であった事を伝えている。このほか円空仏三体を安置する。当社の参道脇に神霊社(かんれいしゃ)と称する小祠がある。これは昔、旅の浪人がこの地に来て村人を助けて種々の事業を進め、一応仕事が済んだ時、村人が鳩首してこの者を長く村内に留めて置けば、いずれこの村を牛耳られることになる。皆で謀って殺そうと折を見ていると、浪人が金剛院への年始の帰りで足元がおぼつかない、これを襲い、武槍で目を突き、近くの池に投げ込んで殺害したが、以来この地は眼病の者が多く、このため小祠を祀りその霊を慰めたものという。 
 当社の祭神は経津主命である。別当金剛院は当社の裏にあったが、明治期に退転したといわれ、現在は建物もない。
 末社に琴平神社があるが由緒不詳である。このほか、境内には村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等一〇社ほどがある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額             本 殿
        
             社殿の左側手前にある石祠等がある。
「埼玉の神社」に記してある「村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等10社」なのであろう。
        
              本殿の右側奥に祀られている浅間社

 当社の氏子は北大桑全域を一応氏子としていが、これは明治五年村社となって以降である。本来の氏子は北大桑・中組である。というのも、当地は各耕地に鎮守があり、それぞれに祭りを行っている。八ッ島は大日社・弁天社を、芝は八幡社、保谷は八幡社、北は山王社、台は権現社、新井が八幡社を祀る。当社は中組が祀っている社である。
 当所は明治期に合祀が行われなかったところである。ゆえに、付近の耕地鎮守を含めて、古くからの祭りの形態を色よく残しているといえる。これにより氏子は元旦祭をお正月様、春秋の祭礼をお日待と呼んでいる。各家ではあんびん餅を作り、赤飯を蒸して祝うが、氏子は祭礼だといって神社に参詣はしない。参詣は竈番が代表して行っている。毎月一日・一五日の早朝も竈番は祭礼と同様に神前に灯明をともし太鼓を打ち参拝を行っている。
             
              境内に一際目立つイチョウの御神木
        
                石段上から正面参道を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等
  

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